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2009年

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 川添昭二先生は『立正安国論』研究の一視点に未来記研究をあげられた。(『興風』18号所収「蒙古襲来研究と日蓮遺文」興風談所設立25周年記念特別講演)
 中世の未来記にかんして岩波新書の小峯和明著『中世日本の予言書─〈未来記〉を読む』は読みやすく、付録の主要参考文献は参考になる。近年宗祖の未来記についても色々な本が出ているが、なかには『安国論』の予知能力を高揚したり、逆に二難を予言する経文を現状に当てはめたに過ぎず誰でもできたと下したり、多少偏った見解が見られる。そこで本コラムでは改めて宗祖の未来記を小考してみたい。
 御書システムで「未来」と「記」を絞込み、さらに信憑性の高い遺文を絞込むと、該当する17件が検出される。以下、その文意を示して遺文を紹介しよう。(17件の遺文はシステムナンバーで示すが、その部分だけでは文意が分かりにくいので前後の遺文も一緒に紹介する)
  • ①末代に法然らの如き法華不信、権実雑乱の輩が現れると説く『仁王経』『止観弘決』は未来記である。
  源空並びに所化の衆、深く三毒の酒に酔ひて大通結縁の本心を失ふ。法華・涅槃に於て不信の思ひを作し一闡提と作り、…(略)…法華・涅槃の如意珠を捨て、如来の聖教を褊するは権実二教を弁へざるが故なり。…(略)…故に妙楽歎きて云く「像末は情澆く信心寡薄にして円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑ぐに至る。徒らに生じ徒らに死す。一に何ぞ痛ましきかな」已上。此の釈は偏に妙楽大師権者たるの間、遠く日本国の当代を鑑みて記し置く所の未来記なり。《守護国家論№11439》
  仏自ら此の事を記して云く、仁王経に云く「大王我が滅度の後未来世の中の四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ住持して三宝を護らん者転(うたた)更に三宝を滅破せんこと師子の身中の虫の自ら師子を食らふが如くならん。外道に非ざるなり。…(略)…」。亦次下に云く「大王、未来世の中の諸の小国の王・四部の弟子自ら此の罪を作るは破国の因縁なり。乃至諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、乃至、其の時に当たりて正法将に滅せんとして久しからず」已上。余選択集を見るに敢へて此の文の未来記に違はず。《守護国家論№11512》 
  • ②末法に良観房の如き一闡提が現れると説く『涅槃経』は未来記である。
  涅槃経に云く「我涅槃の後、無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養せん。乃至、袈裟を服すと雖も、猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺ふが如し。外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云云。此の経文に世尊未来を記し置き給ふなり。抑 釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり。一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て、未来悪世を鑑み給ひて記し置き給へる記文に云く「我涅槃の後、無量百歳」云云。仏滅後二千年已後と見えぬ。…(略)…相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば、誰を指し出だして経文をたすけ奉るべき。《下山御消息№23944~5》 
  • ③仏滅後に弘法・慈覚・智証らの如き悪僧が現れると説く『涅槃経』は未来記である。
  涅槃経に仏、未来を記して云く「爾の時に諸の賊、醍醐を以ての故に之れに加ふるに水を以てす。水を以てすること多きが故に乳・酪・醍醐一切倶に失す」等云云。…(略)…当世日本国の真言等の七宗並びに浄土・禅宗等の諸学者等、弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に法華第二・第三等の私の水を入れたるを知らず。仏説の如くならばいかでか一切倶失の大科を脱れん。…(略)…大覚世尊是れを集めて涅槃経に記して云く「我が滅後に於て○正法将に滅尽せんと欲す。爾の時に多く悪を行ずる比丘有らん。乃至、牧牛女の如く乳を売るに多利を貪らんと欲するを為の故に、二分の水を加ふ。乃至、此の乳水多し。○爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時に当に諸の悪比丘有りて、是の経を抄略し、分かちて多分と作し、能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も、如来深密の要義を滅除せん。乃至、前を抄して後に著け、後を抄りて前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし、是の如き諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」等云云。《諫暁八幡抄№29056》
  • ④二乗作仏は釈尊の未来記である。
  又舎利弗等に記して云く「汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎ、乃至、当に作仏することを得べし、号を華光如来と曰はん」云云。又々摩訶迦葉に記して云く「未来世に於て乃至最後の身に於て仏と成為ことを得ん名を光明如来と曰はん」云云。《法蓮抄№20317~8》
  • ⑤釈尊の未来記である勧持品は宗祖の身読で真の未来記となった。
  而るに法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は、日蓮だにも此の国に生まれずば、ほとをど世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。経に云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん」等云云。今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加へらるる者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ。《開目抄№16195》
  妙法華経に云く「於仏滅度後 恐怖悪世中」。…(略)…此れは教主釈尊・多宝仏、…(略)…末法の始めに、法華経の怨敵三類あるべしと、八十万億那由他の諸菩薩の定め給ひし、虚妄となるべしや。…(略)…此れは似るべくもなき、釈迦・多宝・十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり。当世日本国に、三類の法華経の敵人なかるべしや。《開目抄№16527。他に諸宗違目事№17014があるが省略する》
  • ⑥釈尊の未来記である〈末法日本国に出現する法華経の行者〉は勧持品を身読した宗祖の他にいない。
  疑って云く、何を以て之れを知る、汝を末法の初めの法華経の行者なりと為すことを。答へて云く、法華経に云く「況や滅度の後をや」。又云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん」。又云く「数数擯出せられん」。…(略)…此の明鏡に付きて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣四衆の面目に引き向かへたるに、予よりの外には一人も之れ無し。時を論すれば末法の初め一定なり。然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん。…(略)…然りと雖も日本国中に、日蓮を除き去りては誰人を取り出だして法華経の行者と為さん。汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす。豈に大悪人に非ずや。疑って云く、如来の未来記汝に相当たるとして、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之れ有るか 如何。…(略)…《顕仏未来記№18133》
  • ⑦正嘉以来の天変地夭は「仏の如き聖人」出現と大法興隆の大瑞である。
  問うて曰く、仏記既に此の如し。汝が未来記 如何。答へて曰く、仏記に順じて之れを勘ふるに、既に後五百歳の始めに相当たれり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり。其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか。…(略)…而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで、或は大地震、或は大天変、宛かも仏陀の生滅の時の如し。当に知るべし、仏の如き聖人生まれたまはんか、滅したまはんか。…(略)…当に知るべし、通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし。惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり。《顕仏未来記№18145》 
  • ⑧天変地夭は釈迦・多宝・十方諸仏が予言した地涌菩薩出現の先兆である。
  此の菩薩仏勅を蒙りて近く大地の下に在り。正像に未だ出現せず、末法にも又出で来たりたまはずば大妄語の大士なり。三仏の未来記も亦泡沫に同じ。此れを以て之れを惟ふに、正像に無き大地震・大彗星等出来す。此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず、偏に四大菩薩を出現せしむべき先兆なるか。《観心本尊抄№17912》
  • ⑨釈尊が起こした天変地夭や隣国の責めによって国主・悪僧らは改悛し、智人である日蓮聖人(法華経の行者=上行菩薩)の法華が流布する。これは釈尊の未来記であり天台・妙楽・伝教の未来記でもある。
  法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。…(略)…法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」。又云く「或は阿蘭若に有り」等云云。又云く「悪鬼其の身に入る」等云云。文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。国主等其のいさめを用ゐずば、隣国にをほせつけて、彼々の国々の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば、彼のにくみつる一の小僧を信じて、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆頭を地につけ掌を合はせて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。…(略)…問うて曰く、経文は分明に候。天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや。…(略)…《撰時抄№20931》 
  • ⑩釈尊在世の人々が釈尊の予言が的中して初めて二乗作仏等の仏説を信じたように、『安国論』の二難予言が的中したからには日蓮を信ずべきである。
  此等の経文は仏未来世の事を記したまふ。上に挙ぐる所の苦得外道等の三事、符合せずんば誰か仏語を信ぜん。設ひ多宝仏証明を加へ、分身の諸仏長舌を梵天に付け給ふとも信用し難きか。今亦以て是の如し。設ひ日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも、勘ふる所当たらずんば誰か之れを信ぜん。去ぬる文永五年に蒙古国の牒状我が朝に渡来する所、賢人有らば之れを怪しむべし。設ひ其れを信ぜずとも去ぬる文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言、次の年二月十一日に符合せしむ。情有らん者は之れを信ずべし。何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪ひ取る。設ひ木石たりと雖も、設ひ禽獣たりと雖も感ずべく驚くべし。《顕立正意抄№19208》
  • ⑪二難を的中させた『安国論』は釈尊の未来記に同じである。
  此の条は日弁等の本師、日蓮聖人去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し、一切経を勘へて云く、当時日本国の為体(ていたらく)、権小に執著し実経を失没せるの故に、当に前代未有の二難起こるべし。所謂 自界叛逆難・他国侵逼難なり。仍って治国の故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す〈立正安国論と号す〉。勘へ申す所皆以て符合す。既に金口の未来記に同じ。宛も声と響きとの如し。《滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案№27469。他に種々御振舞御書№20471があるが省略する》
   
  後五百歳に勧持品を身読する宗祖がいなければ三仏の未来記は大妄語になると記す『諸宗違目事』
   【図版は無断転載禁止です】
 単純に絞込んだものなので未来記の全容ではないが概観は知られよう。この内④以外を類別すれば次のようになろう。
  ①②③⑤‥ 仏滅後の三類強敵や悪僧の出現は経釈に予見されていた。
  ⑤⑥‥‥‥  釈尊の未来記は宗祖の身読で真の未来記となった。
  ⑦⑧⑨ ‥‥  釈尊が起こした天変地夭や隣国の責めは「智人」「地涌菩薩」「仏の如き聖人」(法華経の行者=上行菩薩)出現の大瑞であり、釈尊は末法の法華流布を予言した。
  ⑩⑪‥‥‥ 『安国論』は未萌を的中させた未来記である。
 一見して、⑩⑪のような『安国論』の自負の前提に、⑤⑥のような勧持品の身読が重要な位置を占めていることが分かろう。この勧持品を、災害や戦乱のない平穏な社会と人々の幸せのために身読した重みを、見失ったり軽く見るところに、『安国論』の未来記への偏った評価が生ずるのではなかろうか。
 高木豊先生は、『安国論』が書かれた後に念仏者らとの対決が始まったのではなく、対決が続いているなかで『安国論』が書かれたと指摘された(『増補改訂日蓮―その行動と思想』所収「『立正安国論』再読」)。この指摘は、三類強敵の念仏者らに対して、勧持品身読と不軽菩薩の行を貫く決意を示した『唱法華題目抄』が、『安国論』の前に書かれていることからも肯定されようが、勧持品身読と『安国論』の自負の因果関係を知る上でも見逃せないだろう。
 すでに古典的入門書とも位置づけられる『日蓮―その行動と思想』が予言者としての日蓮像よりも重視した勧持品身読の重みを、改めて噛み締めたい。(菅原)
 
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 今回は北山本門寺所蔵の三位日順筆『三三蔵祈雨事』(以下、日順本と略称する)を紹介しよう。
 『三三蔵祈雨事』の真蹟は大部分が富士大石寺に現存するが、第1紙と末尾の第16紙が欠けている。第1紙は川崎匡真寺の所蔵だが、冒頭の数行のみであり、その1紙も二三の理由により真蹟ではなく臨写本と思われる。それらの欠落部分を補うためにも日順本は貴重である。
 それではまず左側の写真図版を見ていただきたい。
       
  同じく奥書部分。宛先の「西山殿御返事」や
「執筆 日順法師」と記した自署が見える。 
日順本『三三蔵祈雨事』(北山本門寺蔵)の冒頭部分
    【図版は無断転載禁止です】
 日順本の奥書には、
  「本云、正和四年正月七日書写畢。三度拝了。于時、文保元年四月一日、以秋山上野殿御本書写之畢。執筆日順法師」
と記されている。ここにいう「上野殿」とは富士郡上方上野郷の南条時光のことではない。現在の山梨県中巨摩郡櫛形町上野を領した秋山信綱を「秋山上野殿」と称したのである。奥書によれば、日順師は文保元年(1317)4月に秋山信綱の「御本」を書写している。さらに本奥書によれば、その「御本」とは前々年の正和4年(1315)正月に書写されたもので信綱の自筆本と推定されよう。正和・文保の頃といえば日興上人の在世中であり、来歴などの明確な識語がある点でも日順本の文献的な価値は高い。
 次に右側の写真図版―日順本の冒頭部分を見てみよう。初行に「三々蔵祈雨事」とあるが、この御書は宛先を「西山殿御返事」と明記する消息なので真蹟には無かったはずである。むろん先の臨写本にもタイトルは見えない。
 次に本文の特徴をいえば、その表記が漢字とカタカナであること。宗祖の真蹟にカタカナ表記は殆んどないので書写の際に改められたものである。真蹟の平仮名が漢字になり、さらに漢文化された箇所も多くある。また図版2行目の「江土毛(えども)」、5行目の「介礼者(ければ)」等のように、助詞には万葉仮名が使われている。続けて拾えば、「天古曽(てこそ)」「世志加者(せしかば)」「礼太利(れたり)」「加利奴(かりぬ)」等と枚挙にいとまがない。
 万葉仮名の表記は御書の書写として相当に珍しく、興味深いものがある。直ちに思い出すのは、京都本圀寺蔵の日興筆『善無畏抄』であろう。日興上人は同抄の書写にあたり、「世之加者(せしかば)」「介流(ける)」「津流(つる)」「仁古曽(にこそ)」等と万葉仮名を多用している。(継命新聞・第615号所収『烏鷺烏鷺雑記』№35を参照)
 そこで推測するに日順本は信綱本の転写であるし、信綱本も何らかの写本を書写したことは疑いないであろう。信綱が宗祖の真蹟を元にして、カタカナへの書き換えや万葉仮名の使用を実行したとは到底思われない。信綱が書写したのは日興上人の写本である可能性が高いのではないか。初行の「三々蔵祈雨事」の御書名もおそらく日興上人の命名なのであろう。
 それにしても日興上人はなぜ特異とも思われる万葉仮名を表記に用いたのだろうか。思い当たる節が一つある。
 読み下しの文章に一字一音式の万葉仮名を用いるのは宣命体を想起させよう。もともと宣命は天皇の詔を読み上げるために白文を国文体に工夫したものである。あるいは日興上人も宗祖の御文をことさらに尊崇し、天皇の詔のように読み上げることを意識したのではなかろうか。
      *      *      *
 それと『三三蔵祈雨事』の写本について、最近もう一つ興味深いことが発見された。身延文庫蔵の日朝本録内を閲覧したところ、『三三蔵祈雨事』の送り仮名に日順本と同じく万葉仮名が用いられていたのである。特徴ある万葉仮名の表記を含め、日順本の内容がそのまま書写されている。つまり日朝本が日順本を底本にして、『三三蔵祈雨事』を書写したことは殆んど動かしがたい。あるいは日順本の元と思われる日興本を書写した可能性もある。
 いずれにせよ、行学院日朝の時代には御書の書写を通して身延門流と富士門流との間に何らかの交流があったことは間違いない。このことは今後の研究対象として興味ある視点ではなかろうか。 (池田)
 
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 今回は『昭和定本日蓮聖人遺文』番号292『阿仏房御返事』について取り上げたい。本状についてはかねてより大阪広宣寺簗瀬明道師より、系年と対告者について一考の余地があるのではないか、と問題提起されていた。
 本状の系年と対告者の現状認識(御書システム資料欄)は、まず対告者については、確認できる最古写本である『本満寺録外御書』には「阿仏房御書」とあるので、阿仏房とされている。次に系年であるが、本状には「六月三日」とのみあって年号の記載がない。しかるに文中宗祖の重い病についての記述があり、これが手がかりとなる。すなわち宗祖は弘安元年と弘安4年に病に苦しんでおられ、一方対告者の阿仏房は弘安2年3月21日に死去しているから、必然的に本状は阿仏房の生前である、弘安元年の書状とされているのである。
   
   『本満寺録外御書』第9所収。『阿仏房御書』
    【図版は無断転載禁止です】
 それに対する簗瀬師の問題提起は、まず第一に系年の問題として、
①本状の、
  「既受生齢及六旬。老又無疑。只所残病死二句而已。然而自正月至今月六月一日 連連此病無息。死事無疑者歟。」=「既に生を受けて齢六旬に及ぶ。老又疑ひ無し。只残る所は病死の二句なるのみ。然るに正月より今月六月一日に至り、連々此の病息むこと無し。死ぬる事疑ひ無き者か。」(システム№25808) 
との記述と、弘安4年5月26日状『八幡宮造営事』の、
   「今年は正月より其の気分出来して、既に一期をわりになりぬべし。其の上、齢既に六十にみちぬ。たとひ十に一つ今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき。」(№29396)
との記述が、正月から病が発症している点、齢60に及んでいる点、さらに死期を覚悟している点において、ぴたりと符合すること。しかも両状は「五月二十六日」と「六月三日」と執筆時期も非常に近い。
②弘安元年の病については、『中務左衛門尉殿御返事』(№25966)『兵衛志殿御返事』(№26754)ともに、
  「去年(建治三年)の十二月三十日」 
といわれて、「正月より」との記述と齟齬があること。ことに宗祖が大晦日の「十二月三十日」と、二度にわたり病の起こりを明記しているのは、この時の突然の苦しい状況を回顧されてのことで、「正月より」というアバウトな表現とは明らかに異なることに留意すべきである。
③本状に、
  「今月六月一日に至り、連々此の病息むこと無し」 
と記されているが、これを弘安元年に系けると、さきの6月26日状の『中務左衛門尉殿御返事』にある、
   「今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す」
の記述としっくりいかないこと。同じ月に出された書状で、一方では「三日・四日」は病状がひどかったと記されているのに、本状ではそのひどい「三日」に筆をとられて、「六月一日」を病状の一区切りにされているからである。
 以上三つの理由から、本状は内容的には弘安4年に系けられるべきではないかというものである。
 次に対告者の問題である。右のごとく簗瀬師は内容から本状弘安4年説を提起されたが、それでは本状が阿仏房に宛てられていることと抵触してしまう。すなわち阿仏房は弘安2年3月21日に死去しているので、弘安4年に阿仏房に宛てられるはずがないからである。しかしこの点について簗瀬師は、御書システム資料欄の「書名備考」に「『境妙庵目録』は「千日尼抄」」と記してあることに注目され、はたして『本満寺録外御書』に示されている阿仏房宛てとの情報は、確乎不動のものなのか、と問題提起されたのである。これが千日尼に宛てられているなら、全く問題はなくなるからである。
 さて昨年夏身延文庫に所蔵される『日朝本録内御書』『日朝本録外御書』を調査させていただく機会を得た。その際に『日朝本』にこの件に関する何か情報は得られないかと当たってみて驚いた。『日朝本』では本状の宛所には「六月三日  在御判」とのみあって、宛名が記されていないのである。『日朝本』は文明11年(1479)を前後して編集されており、『本満寺録外御書』は文禄4年(1595)に編集されているから、およそ120年ほど『日朝本』は古く、当然のことながら『日朝本』の情報が尊重されなければならない。本状はおそらくその間に何ものかによって阿仏房宛にされたことになろう。
 しかも『日朝本』には本状の奥に、
  「本に云わく、千葉に於て御直本を以って之れを写すと云々」(原漢文) 
と、本写本の元本には、本状を千葉(恐らく中山法華経寺であろう)において、宗祖の直筆から書写したとの注記があったことが記述されているのである。
 さらに本状の一つ前に収録されている、これまた宛所に「在御判」とのみあって、日付宛名が記されていない書状(内容から番号390『日厳尼御前御返事』と判明)があり、この奥には、
   「本に云く、御筆(宗祖真筆)を以って之れを写し奉る。富木殿への御書と申し伝えたりと云々」
とあり、さらにその前には『富木殿御返事』(番号75)があり、その奥にも、
  「本に云く、中山御正筆之れ有る也と云々」
とあって、その注記の仕方から、少なくとも日朝編集時点では、これら三書は富木氏関係の書と見られていた可能性がうかがえるのである。
 そう思い至って改めて見ると、本状が漢文体であることが注目されるのである。宗祖の書状は、富木殿・曽谷殿・大田殿・大学殿等の識字能力の高い方以外には、殆んどの場合が仮名交じり体であり、ことに阿仏房・千日尼を始め、佐渡関係の方々への書状で漢文体のものは皆無である。
 そうなると漢文体である本状は、先の『日朝本』の本状周辺の情報をも勘合すると、富木氏宛の可能性が極めて高いと思われるのである。勿論そのように確定するためには、更なる精査が必要ではあるが、少なくとも阿仏房宛ではないことは確定されたといってよいであろう。
 こうなると本状を弘安4年とするに躊躇する要素は、完璧に払拭されたことになる。かくして簗瀬師の「『阿仏房御返事』は弘安4年の書状であり、かつ対告者は阿仏房ではないのではないか」との推測は、『日朝本』の存在により、みごと対告者の壁を乗り越え、的中することとなったのである。
 なお、先に示した『日朝本』の富木氏および中山関係三書の内、『日厳尼御前御返事』(弘安3年11月25日状)については、池田令道師が継命新聞『烏鷺烏鷺雑記』(2008年12月1日号)において、文中対告者が病を得ていることが見えることなどから、「日厳尼」=「富木尼」の可能性を提示している。(山上)

※コラム「『阿仏房御返事』について」の付記
 本コラムを発表した後3月25日に、愛媛大学教授若江賢三氏の論攷「日蓮における晩年の病について――所謂「阿仏房御書」の系年をめぐって――」((『印度学佛教学研究』第56巻第2号、平成20年3月)を拝見する機会を得た。そこには『阿仏房御書』について、病の状況から系年を弘安4年6月3日状とすべきこと、したがって宛先も阿仏房ではなく「伝阿仏房御書」として扱うべきことが論じられている。ここに本件に関する先行論文があったこと、また本コラムは結果として『日朝本』により、若江氏の説を補完するものとなっていることを、ここに付記しておきたい。
 
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 1988年、平雅行氏が発表した「安居院聖覚と嘉禄の法難」(『中世寺院史の研究上』所収)は、それまでの聖覚像を180度くつがえしたショッキングな論文だった。
 聖覚は法然を「釈尊之使者」「善導之再誕」「我大師聖人」と讃え、法然と親鸞の思想を架橋する存在と周知されていた。
 ところが、おそらくは日蓮聖人が収集したであろう、嘉禄法難関係の史料の中に、その聖覚が、専修念仏の弾圧を要求していたという記事がある。当該史料は『金綱集』浄土宗見聞下に収められ、『大日本史料』にも掲載されていることから、歴史家の間でも既知のものだった。ただ、それまでの聖覚に対するイメージもあって、史料の信憑性は「あり得べからざること」(松本彦次郞『日本文化史論』1942年)とされ、平氏本人も、当初は「(日蓮門下が)法然憎さのあまり記事をねつ造したのだろう」(『親鸞とその時代』2001年)と考えていた。
 しかし、平氏が厳密に文献批判を行ったところ、聖覚らが専修念仏の鎮圧を要求し、『選択集』の板木処分をおしすすめたことは疑う余地がなく、それまでの聖覚像は大きな見直しがはかられることになった。浄土真宗サイドは勿論のこと、日本仏教学界にとってもショッキングな出来事だった。
 それは高木豊氏の「従来の聖覚に対する見方を覆したすぐれた論稿」(『日蓮攷』初出1987年)との見方や、家永三郎氏の「独創的新説として目を惹いた」(『日本史研究』378号、1994年)との書評にあらわれている。真宗においても、この平説に対して平松令三氏らが批判的な座談会を開いたが、「歴史事実として認めるべきだと論断したことについては、異論はない」(『高田学報』80輯、1991年)といい、「浄土宗史や真宗史の研究者達たちがグウの音も出せない強力で見事な論証」(平松氏『親鸞の生涯と思想』2005年)としている。
 ただ、聖覚の『唯信鈔』に対する平氏の見解については、その後、『唯信鈔』を親鸞作とする松本史朗氏説(『法然親鸞思想論』2001年)が提示されるなど、議論は決っしていない。また歯切れは悪いけれども、聖覚が『選択集』の板木処分を推進したことについて、『選択集』は秘書であるから、聖覚はこれが流布することを懸念したのだという平松氏の見解が提示されている(前掲『親鸞の生涯と思想』)。
   
  日蓮筆『浄土九品事』
   【図版は無断転載禁止です】
 では、日蓮聖人はこの嘉禄法難における聖覚の動向を、どのように観ていたのだろうか?
『立正安国論』には、法然の墓所が破却され、『選択集』の板木が焼却されたことは記されているが、残念ながら聖覚の行動については、特に論究されていない。ただ『浄土九品事』には、法然浄土教を破折した「八人碩徳」が列挙されていて、聖人はその一人に「聖覚」の名を挙げている。従来、この点は注目されておらず、平氏も言及していないが、やはり平氏が文献的信憑性を論証した『金綱集』所収の嘉禄法難関係史料は、すでに聖人によって収集披見されていたのであって、これを三位公日進らがあらためて編纂し『金綱集』浄土宗見聞に収録したのだろう。
 平氏が「彼の史料収集がなければ弾圧研究が成り立たないほど、日蓮の史料収集は大きな意味をもっている」(前掲『親鸞とその時代』)というように、聖人の史料収集・博捜には、あらためて驚かされる。(坂井) 
 
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 日蓮遺文には要文集というジャンルがある。日蓮自身のコメントがほとんどない要文集の研究は難しいが、日蓮教学研究の更なる前進のためには必要不可欠なものといえよう。
 御書システム番号3-4の『三種教相』は、真蹟・写本は現存しないけれども、権実・本迹・種脱に関する文を文永六年頃に抄録したとされる重要な要文集である。今回はその中で論じられている「大綱」「網目」について小考してみたい。
      *         *         *
 『三種教相』中の日蓮のコメントと思われる「随自意、約部大綱」「随他意、約教網目」は、爾前円と法華円の勝劣をいう約部判を随自意・大綱とし、その同一をいう約教判を随他意・網目としたものであろう。本書は『一代聖教大意』『唱法華題目抄』等で説かれた二つの円の勝劣を、重ねて大綱として重視したのである。
 これは『金綱集』にも受け継がれたようで、「約教は一往、約部は再往と見えたり。その上、約教は網目、約部は大綱と釈す」とある。なお、この「網目」は『日蓮宗宗学全書』には「細目」とあるが、身延文庫架蔵の日善本によって改めた。(日蓮は約教判における二つの円の勝劣も述べているが今回はそれについては触れない)
 さらに『三種教相』は次の『玄義』『釈籖』も引文している。
  「玄の十に云く、凡そ此の諸経は皆是れ他意に逗会して、他をして益を得さしむ。仏意は意趣何れにか之(い)くといふを談ぜず。今経は爾らず。すべて是れ法門の網目、大小の観法、十力無畏、種々の規矩、皆論ぜざる所なり。前の経に已に説くを為(もっ)ての故なり。但如来布教の元始、中間の取与、漸頓時に適ひ、大事の因縁、究竟の終訖を論ず。設教の綱格、大化の筌蹄なり。」
「籤の十に云く、諸部の中に権あり実有りと雖も、而して並びに権実本迹、物に被るの意を明かさず。故に大綱に非ず。故に法華を説くには唯大綱を存して網目を事とせず。」 
 この両文は一代五時、ならびに久遠已来の種熟脱の化導を説く法華経を大綱とし、それを説かない爾前経を網目としたものであろう。両文が『三種教相』の「師弟の遠近不遠近の相」に引文されていることから考えても、日蓮は久遠已来の下種結縁を法華の大綱として重視していたと理解してよいだろう。
 しかしながら、『三種教相』は真蹟・写本が現存していないので、日蓮が両文に注目していた、確かな裏付けが必要である。そこで調べてみると、『玄義』の文は文永六年の作とされる『天台肝要文集(上)』に抄録されている。しかもわざわざ日蓮は、文頭の「諸経」に「華・阿・方・般若・無量義経・涅槃也」と注記する念の入れようである。
 また両文は『注法華経』にも抄録されているので、日蓮が注目していた事実は動かしがたい。その上、『注法華経』の両文の前後に抄録されている種熟脱関連の文は、日蓮が久遠已来の下種結縁を法華の大綱として重視していたことを証明していよう。
   
  『注法華経』化城喩品に種熟脱に関する文と
一緒に抄録される『玄義』と『釈籖』の文     
   【図版は無断転載禁止です】
 その両文の後に『三種教相』は次の『玄義』も引文しているが、これも『注法華経』に抄録されている。丸カッコ内は『三種教相』になく『注法華経』にある文である。
  「(之を定めるに子父を以てし、之に付するに家業を以てし、之を払うに権実を以てし、之を顕すに実本を以てす。)当に知るべし、此の経は唯如来設教の大綱を論じて網目を委細にせず。」 
 この文も一代五時、ならびに久遠已来の種熟脱の化導を明すことを「法華経の大綱、今家の撮要」(釈籖)としていると考えられる。
 このように「大綱」「網目」をキーワードに要文集を調べてみると、早期の『一代聖教大意』『守護国家論』『唱法華題目抄』等で着目されていた爾前円と法華円の勝劣、久遠已来の種熟脱の化導に関する要文が、引き続き地道に蒐集・研究されていたことが分かるのである。
 その久遠已来の釈尊の下種結縁を重視にしたからこそ、『観心本尊抄』所述の上行自覚、上行による妙法下種に辿り着けたことは今さら言うまでもないだろう。
 後年、『五人所破抄』が「凡そ円頓の学者は広く大綱を存じて網目を事とせず」として、上行所伝の漫荼羅本尊を正意としたのも、以上のような日蓮の教学的営為の到達点を日興門流が継承したものに他ならない。今後も日蓮教学の土台である、『注法華経』を含めた要文集の研究を一歩づつ進めて行きたい。(菅原) 
 
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 今回は中山門流・日高師の『立正安国論』書写について紹介したい。
 日高師は大田乗明の子息といわれ、宗祖在世からの弟子であり帥公(そつこう)と称された。建治2年(1276)の『弁殿御消息』に、
  「ちくご房・三位・そつ等をば、いとまあらばいそぎ来べし、大事の法門申べしとかたらせ給へ」
と記されていて、日朗師や三位房とともに、宗祖より「大事の法門」を教わるべく身延山に呼ばれており、日高師は当時すでに有力な弟子の一人であった。また『富士一跡門徒存知事』によれば、日高師は六老僧・日昭師が直接の師匠であり、富士門流でいえば日興上人と日目師との関係を思わせる。教学的な実力や門流での位置、活躍した年代等、日高師と日目師は類似するところが多い。
 宗祖滅後、日高師は中山本妙寺の住持となり、富木氏にも見込まれて若宮法華寺をも兼務した。
 日高師の御書写本としては、『立正安国論』(中山法華経寺蔵)、『観心本尊抄』(京都本法寺蔵)等が現存する。ここでは『安国論』の写本を少し取り上げてみたい。
     
  日高筆『立正安国論』(中山法華経寺蔵)  
   【図版は無断転載禁止です】  
 写真図版を見ても分かるように、一字一字キチッとした骨格の文字が整然と並んでおり、重書を写す際の気構えが感じられる。また初行に、「立正安国論 天台沙門 日蓮勘之」とあるので、日高師が書写した底本は中山法華経寺に現存する真蹟『安国論』(以下、中山本と称する)ではないことが分かる。中山本には「天台沙門 日蓮勘之」の8文字がないからである。
 正安4年(1302)3月付の日高師の申状には「別進 壱巻 立正安国論」とあり、本文にも、
  「一巻の書を造り立正安国論と曰ふ。委旨此れに見えたり。去ぬる文応元年上覧に備ふと雖も……」 
と記されているので、日高師も「天台沙門」の署名がある文応本の系統を書写し、諌暁に赴いたものであろう。日高師が『安国論』を書写したのも、申状を作成した正安4年頃であろうか。
 ところで真蹟の中山本が法華経寺の所蔵となったのも、日高師の代である。
 『沙弥道正授与状』によれば、初め中山本は文永6年(1269)12月に執筆され、宗祖より直接に矢木式部大夫胤家が授与された。その後、弘安3年(1280)に沙弥道正が相承を受け、それをさらに嘉元4年(1306)正月、日高師が譲り受けた。「其の志し切なるに依り日高帥御房に授け奉る所也」と記されているように、現存の中山本は日高師の懇望によりもたらされたものである。
 中山本で一つ興味深いことは、宗祖滅後それほど時を隔てず、紙背に『本朝文粋』第十三巻の全文が書き込まれたことである。
 多くの場合、紙背文書は表の文書を反故紙として書かれるので、昭和56年に裏打ちが剥がされて、『本朝文粋』が発見された時、大変な話題となった。『立正安国論』が上代において早くも反故扱いとなり、他の文書を書写するための料紙として提供されたというのだから、衝撃的な発見といっても過言ではない。
 しかし近時この見解には異論が出されている。『本朝文粋』は『立正安国論』と何らかの関連があって、紙背に書写されたのではないか。そう推測される幾つかの有力な根拠も示されている。この件についてはまた次回に。(池田) 
 
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 前回、中山本『立正安国論』の紙背に『本朝文粋』が筆写されていたことを紹介した。今回はその続きです。
 中山本の裏打ちが剥がされて、紙背文書が発見されたのは今から30年程前のこと。その時には既に『本朝文粋』は刷り消されていて全面に墨痕を残すのみであったが、わずかな文字跡を辿って、それが同書の巻13であることが確認された。
 また奥書の判読により、紙背の『本朝文粋』は「弘安9年10月9日校了」された原本を永仁年間(1293~99)に書写したものと推定された。永仁年間といえば、宗祖滅後まだ十数年しか経過していない。紙背文書は、表の文書を反故紙として書かれるケースが多いので、中山本『立正安国論』は宗祖の滅後間もなしに、一旦は反故扱いになったと結論された。
 『本朝文粋』巻13の内容が、祭文や願文・修善文など仏事に関する名文を収集している点も、『立正安国論』を反故紙とした一つの状況証拠とされた。つまり大聖人への信仰から退転した中山本の所持者が、諸々の仏事作善を意図して、同書巻13を書写させたと理解されたのである。
   
  身延久遠寺蔵『本朝文粋』。身延本は全十四巻のうち巻一を欠くが、これほどの
揃いは他に無く貴重である。北条時頼所持本の系統。建治2年(1276)の書写。
   【図版は無断転載禁止です】
 一方、真蹟の中山本は、初め文永6年(1269)12月に宗祖から矢木式部大夫胤家に授与、その後、弘安3年(1280)に沙弥道正へ相承され、さらに嘉元4年(1306)に中山3世日高師が譲り受けた、という流伝経路をもっている。となれば年代的に、沙弥道正が法華信仰から退転し、『立正安国論』を反故扱いにして『本朝文粋』を書写させたことになる。
 これらの見解に対し、坂井法曄師は論文「南北朝期における中山門流の一齣」(『興風』第20号所収)にて、宗祖が諸国の仏像造立に関する情報を収集した事実と『本朝文粋』巻13の仏像造立の願文とは何らかの関連があるとし、さらに中山門流上代の本行院日堯が『當家肝要文集』にて、『本朝文粋』巻13を引用していること等を勘合し、「『本朝文粋』を書写した人物は不明だが、中山門流の僧侶であることは間違いなかろう」と記している。つまり紙背の『本朝文粋』は真蹟・中山本との内容的関連のもとに書写されたのであり、『立正安国論』が反故紙にされたわけではないと示された。
 次いで都守基一氏も坂井論文を是として、
   「私見では、必ずしも仏像造立の問題に限らず、四六駢儷体の美文で綴られた仏典という共通性を認めての書写のように思えます。書写の時期は余程早く、本書を感得した日高自身の手によるのかも知れません。……身延文庫に最明寺入道ゆかりの『本朝文粋』が伝わっていることも、もっと留意されなければいけません」(『日蓮仏教研究』第3号234頁・学室だより)
と述べている。誠に的確にして示唆深い視点である。
 然して再考すれば、真蹟・中山本が反故になったという見解には、たしかに腑に落ちない点もある。沙弥道正に退転した事実が認められないことである。道正は日高師に、
  「其の志し切なるに依り日高帥御房に授け奉る所也」 
と書き付けて、中山本を譲り与えているが、そこには退転の様子が少しも窺われない。また『授与状』の冒頭に、
   「日蓮聖人御自筆書 立正安国論」
とあるのも、中山本に対する尊崇が示されていて、反故にした形跡など確認されない。
 これはもしや、思い込みがなせる業だったか。それでは一体『本朝文粋』は、誰がどうして筆写したものか。さらに興味は尽きない。(次回へ続く。池田)
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 前回、中山本『立正安国論』の紙背にある『本朝文粋』について解説した。その際、通常紙背といえば表を反故として成立するが、『本朝文粋』と『安国論』の関係は必ずしもそれに当たらないと申し述べた。さてそれでは、誰がどんな目的で『本朝文粋』を筆写したのか、今回はその点について思いを巡らしたい。
             *               *               *       
 『本朝文粋』とは、平安時代の漢学者・藤原明衡(989~1066)が、当時の諸分野における優れた文章を編纂したものである。全14巻・39部門に分類され、その収録内容は詩文・賦・詔・勅書・表・序・祭文・願文など多岐にわたっている。
 四六駢儷体といわれる美文調で綴られた『本朝文粋』の諸文は、当時の人々が文章を成すにあたって大変貴重な例文集となっていた。とりわけ中山本『立正安国論』紙背に書かれた巻13は、「願文部」として仏像造立に関わる願文や回向文・修善文などが収録されており、僧侶にとって有益かつ重要な一書であった。
 身延久遠寺にも、宗祖在世中に書写された『本朝文粋』が現存する。それは巻1を欠くが、巻2~巻14までの揃いで、当時の墨訓や朱点が示された貴重本である(重要文化財)。またそれらの中でも、巻13の料紙は他巻が楮紙であるのに比して、上等な鳥の子紙が用いられるなど、特別扱いになっている。それゆえ身延本は、巻13が初め必要とされ、後に予定を変更して他巻の書写にも及んだのであろうと推測されている。
 さらに興味深いのは巻13に記された次の奥書である。
  「建治二年閏三月十六日、於二階堂杉谷令書写畢。本云、最明寺禅門之御時、仰故教隆真人被加点」 
 建治2年という書写年もさることながら、その底本が最明寺禅門=北条時頼の所持本であったこと、また鎌倉時代きっての漢学者・清原教隆の音訓や返り点が記されていること等、これらは身延本の価値を高めると同時に、宗祖と『本朝文粋』との関連を考える上で極めて示唆的である。
 宗祖は『立正安国論』の文体に四六駢儷体を用いられたように、幕府への呈上に際して文言の修辞や用法にも細心の注意を払ったに相違ない。『立正安国論』に限らず、宗祖は対外的な文書を作成する際に文体や様式を非常に大切にされた。そんな状況を思えば、宗祖が日頃から『本朝文粋』を座右に置いたとて少しも不思議はないだろう。
 また宗祖滅後に直弟子たちが、申状等の上申書を作成するのに『本朝文粋』を参看したことも充分に考えられる。中山本『安国論』の紙背に写された『本朝文粋』は、そうしたシチュエーションを持っていたのではなかろうか。
 さてそこで図版の紙背『本朝文粋』を熟覧していただきたい。
 
  『立正安国論』(中山法華経寺蔵)の紙背『本朝文粋』巻13
(写真図版は『立正大学大学院紀要』第2号(1986刊・67頁)より転載)
   【図版は無断転載禁止です】
 後人によって文字が消されていて大変見づらいが、眼を凝らせば丁寧な楷書体が浮かび上がってくる。何とその一字々々の骨格は、前々回の御書コラムに掲載した日高本『立正安国論』の文字と大変近似する。よくよく調べてみれば、「在」「雖」「欲」「勝」「之」「仁」「唐」「枝」などの文字が日高筆とほぼ一致を見たのである。
 中山門流の上代で、真蹟の『立正安国論』の紙背に『本朝文粋』を写せそうな人は、確かにそうそう見当たらない。また『立正安国論』の伝来を考えても、日高師こそは筆者として最適任者なのであろう。
 改めて「日高自身の手によるか」と推測された都守基一氏の炯眼に驚かされるとともに、さらに紙背の『本朝文粋』全体と日高本『立正安国論』との対照作業を通して、より精緻な文字鑑定を思うばかりである。(池田) 
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 去る6月22日、かねてからの念願であった、北海道天塩郡幌延町に所在する長應寺(法華宗日陣門流)に、資料調査に行くことができた。同寺の重宝については、平成12年北海道網走郡美幌町本妙寺岡元錬城師により調査が行われ、同寺寺報に紹介された。しかし写真が小さくやや不鮮明で、細かなところが今一つ不明な点もあり、是非とも実地調査の必要を感じていたのである。今回はその調査において拝見した、2つの宗祖御真蹟資料について報告する。
  1、番号339『曽谷殿御返事』(焼米抄)3行断片。系年は弘安2年8月17日。
 タテ30・7㎝×ヨコ13・5㎝
 「米はす しとをほし/ し候へとん寿命をつ/く物にて候。命を

     
   ②
   ③
 
 
   ⑤
   ⑥
  長應寺蔵『曽谷殿御返事』 ①「すくなし」『南条兵衛七郎殿御書』(『真蹟集成』4-285)
②「なし」『撰時抄』(『真蹟集成』1-175)
③「なし」『宝軽法重事』(『真蹟集成』9-61)
④「すこし」『大田殿女房御返事』『真蹟集成』(3-159)
⑤「すし」『撰時抄』(『真蹟集成』1-119)
⑥「候」『土木殿御返事』(『真蹟集成』2-186) 
            
 【図版は無断転載禁止です】             
 上の写真は、『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下『定本』と略称)の番号339『曽谷殿御返事』冒頭の、
  「焼米二俵給はり畢んぬ。」
に続く3行断片である。『定本』では、
  「米は少(すこし)と思食シ候へども」
としている。これは最古写本である『日朝本』に、
  「米ハ少ト思食候ヘトモ人ノ寿命ヲ継ク物ニテ候。命ヲハ」
と記されているのを、『定本』が「すこし」とフリガナをふったもののようである。
 しかるに上掲の断片では、ここは漢字でなく平仮名で表記され、「す」と「し」の字が確認される。ではその間にある僅かな墨痕は、『定本』のごとく「こ」の字が宛てられるべきであろうか。今削損部分をよく見ると、僅かに残る墨痕やその間隔から、一字ではなく二文字ではないかと思われる。また「し」の上の墨痕は「こ」「」よりも「な」の方がよいように思われ、これは「米はすくなしと‥‥‥」と記されているものと思われる。
 2行目の欠損部分は「め」であることは、前後の文字と、『日朝本』の「思食」との表記からして間違いない。
 
 『白米一俵御書』(『真蹟集成』9-142)
 【図版は無断転載禁止です】 
 また3行目の「候」は削損部分があって筆の運びが不明朗であり、一文字としてはやや間隔が開きすぎの感もあるが、番号126『土木殿御返事』(『日蓮聖人真蹟集成』(以下『真蹟集成』と略称)2-186)の「へからす候」の「候」がほぼ同型である(上掲写真⑥)。
 さて、全体的な感想であるが、字体としては宗祖の特徴が良くでており、宗祖の筆として間違いないと思われる。ただし常の筆致に較べ、ややたどたどしさ、勢いのなさを感じはする。しかし本状と同年の弘安2年に系けられる『白米一俵御書』と較べると、そうした感じが共通しているように思われ、特に「米」「ん」の字などはよく似ている。
 しかしその可能性は甚だ低いとは思うけれども、臨模たることを全否定することはできない。だが、たとえそうであったとしても、この字体からして真蹟を忠実に書き写したことは疑いないであろう。
 本状はこれまで『法華問答正義抄』が引文している他は『日朝本』が初出であったが(目録としては『日祐目録』にあり)、本断片により今後は真蹟断存御書とされるべきである。

    2、『天台法華宗伝法偈』要文二行断簡 タテ20・0㎝×ヨコ6・5㎝
  「難問数関於微覈/蜜軽誕而自矜」

       
  長應寺蔵『天台法華宗伝法偈』断片 断簡276『天台法華宗伝法偈』断片
『真蹟集成』(5-188)
   【図版は無断転載禁止です】
 次に上掲の二行断簡は、『天台法華宗伝法偈』(『伝教大師全集』5-10)の要文である。『天台法華宗伝法偈』本文と対照すると、本断簡の1行目末の「覈」の字と2行目冒頭の「蜜」の字の間に「莫非深隠」の4文字があり、したがって本断簡の上部か下部4字分が欠損していることがわかる。
 なお、『真蹟集成』には『天台法華宗伝法偈』の断片が
  1. 断簡353(2)(『真蹟集成』5-219)「霊鷲山同聴法華経宿縁」京都一道院蔵。(1)「所追尋今復来到矣」(『伝全』5-9)山梨県妙了寺蔵。なお『真蹟集成』は(1)(2)の順で掲載しているが、(2)(1)の順で文章が繋がっている。
  2. 断簡276(『真蹟集成』5-188)「答曰軽敵而失勢未可欺耳也(『伝全』5-11)《中略》 大師講仁王天子親臨聴僧正慧師僧都慧曠師京師諸大徳皆設巨大難大師接問対盛啓深法門執爐賀曰」(『伝全』5-12)石川県能登妙成寺蔵。
  3. 断簡416(『真蹟集成』5-254)「與行満大師共下佛隴荘聞所未聞法」(『伝全』5-28)新潟県本成寺蔵。
以上4箇所3点掲載されている。
 これらの断簡(断片)の字体および全体的雰囲気はよく似ており、一連のものとしてよいであろう。
 そして本断簡も、上掲の2.断簡276の写真の冒頭と比較すると、一見して似ていることが了解されるであろう。特に「軽」「而」の字がよく似ている。
 これら『天台法華宗伝法偈』の断簡は、その中盤部分からごく末文にまで及んいるが、2.断簡の1行目と2行目の間には、かなりの文章が略されており、かつ写真での判断ではあるが貼合ではなさそうであるから、重要部分を略写した可能性が高い。
 以上が今回の調査にて拝見した宗祖真蹟断片2点の報告である。最後に調査を快くご許可下さった長應寺住職藤岡妙英師はじめ、同寺総代の方々に感謝の意を表するとともに、こうした資料の存在をお教えいただいた岡元錬城師にも、謹んで御礼を申しあげる次第である。(山上)
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 1996年に刊行した『日興上人全集』に「曾禰殿(実名未詳)」ならびに、その関係者に宛てられた書状18編が収録されている。その全文は『史料システム』によっても確認することができ、大黒喜道編著『日興門流上代事典』(興風談所、2000年)を増訂した同システムの「上代事典」では、個々の書状についての解題を加え、研究の便宜をはかっている。
 建治元年(1275)、京都六条八幡宮の再建費用を割り当てた『六条八幡宮造営注文』に「五貫文」を請け負った甲斐国の御家人として「曾禰入道跡」(『図録・日蓮聖人の世界』同実行委員会、2001年。15頁参照)が見えるから、曾禰氏は御家人と認識されていたことが確認され、日蓮聖人図顕本尊の日興添書や『弟子分本尊目録』の記載によって、一族には日蓮聖人に帰依していた者がいたこと、さらに『沙弥大行(南条時光)置文』(『鎌倉遺文』25767)には、大行の代官として「そねのすけ」が記されており、曾禰氏は南条氏とも関係の深い一族だったことが窺える。南条氏と同様、日興の教化によるところが大と思われる。
 ところで、日興が「曾禰殿」ならびに同関係者に宛てた書状は、その殆んどが安房妙本寺に伝わっている。おそらく南条時光の嫡子:時綱が、後に安房妙本寺を開いた日郷に「大石寺東坊地」を寄進していることから、時綱→日郷と経由して、安房妙本寺にもたらされたのだろう。ちなみに日興が「曾禰殿」らへ宛てた書状は、すべて無年号文書であり、当コラムでは、その系年(執筆年次)について若干の考察をしたいと思う。
 まず二・三の補足をしておく。一つは『日興上人全集』正編66号、史料システム№60990に収める文保元年8月6日付「曾禰殿御返事」についてである。本状については『日興上人全集』の頭注が注意を促しているように、書式・筆勢ともに日興筆とは異なる。その後、大石寺文書「日仙書状」の筆勢、ならびに花押の残画が合致することが分かり、千葉県史編さん中世史部会安房妙本寺分科会(1999年)において、佐藤博信専門員・寺尾英智調査執筆員(いずれも当時)の賛同を得て、本書状は「日仙書状」として『千葉県の歴史・資料編中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)所収「安房妙本寺文書」446号に収録した。「史料システム」にも「日仙書状」として収録している。全文は次のとおり(/は原本の改行箇所、以下同)。
  故母尼御前の/御ために/用途二□□/畏給候て/御経日蓮聖人/見参ニ申/入まいらせ候ぬ、/はや十三年ニ/ならせ給候な□(る)/心をいたし候て/御経よみ/まいらせ候へく候、/恐々謹言、
                               □□(花押)
 文保元年八月六日
曾禰殿御返事 
 もう一つは、感應寺(和歌山市)に未刊の日興書状があって、この書状は「曾禰殿」宛の無年号文書であることが分かった。同寺に日興書状が存在することは、すでに稲田海素『日蓮聖人御遺文対照記』(平楽寺村上書店、1907年)、『日蓮宗寺院大鑑』(池上本門寺、1981年)に記載されていたが、その原文は次のように判読される(■は墨抹文字)。
    ひえとり■■/さうせち/能米三升/進候、
故尼御前の/六七日の御ために/芋・はしかみ/青葉・大根/
給候て、法花/聖人の御けさんニ/入参候了、/冨士郡乃/
(数行欠落ヵ)
聖人御知見/候へく候、恐恐謹言、
  九月十六日             白蓮(花押)
曾禰殿御返事 
「冨士郡乃」の下は欠落によって不明。ただし8月27日付(無年号文書)日興書状「曾禰殿御返事」に、供養の品について「富士郡の珍物に候上者難申盡候」とあれば、おそらく類文が続いていたと考えられる。
 新出、9月16日付書状は、冒頭の記載どおり「尼御前の六七日の御ため」に関する返状だが、安房妙本寺には、これに連関すると思われる次の文書を蔵する。
  故尼御前/二七日の御/ために米/二升・ゆふかほ/
三・はしかみ・牛房/一束給候了、/聖人の御見参ニ/入らすへく候、/
恐恐謹言、
 八月十七日             白蓮(花押)
曾禰殿御返事 
 本状はおそらく「故尼御前の六七日の御ため」にはじまる9月16日付書状に先だつもので、かつ日付も近いことから同年の書状と考えられる。また日仙筆と判明した文保元年8月6日付書状も「曾禰殿」宛の「故母尼御前の御ため」のものであり、さらに「はや十三年ニならせ給候」の記載から逆算して、曾禰殿の母尼御前が嘉元2年(1304)8月ころに逝去したことが分かる。
 この「故母尼御前」と、8月17日付書状の「故尼御前」が同一人である可能性については、すでに『日興上人全集』の頭注に記しており、その場合、当然ながら無年号文書、8月17日付書状の系年は、嘉元2年ということになる。新出の9月16日付書状も同年としてよいだろう。
 さらに内容だけでなく、日興(白蓮)の自署・花押も次のとおり類似するのである。
               
  六七日忌書状(新加)
9月16日付
  二七日忌
8月17日付
  8月2日付     嘉元2年10月13日付
書写本尊自署・花押
 
【図版は無断転載禁止です】
 8月2日付の書状も「曾禰殿」あてで、「尼御前」に関する記載はないが、筆勢や日興の自署・花押が類似し、同年とまでは言えなくても、嘉元2年前後に比定できると思う。参考に嘉元2年10月13日付の日興書写本尊の自署・花押を掲げておいた。日蓮聖人の本尊と書状の自署・花押に相違が見られるのと同様、日興の場合も本尊と書状とでは異なるが、横長の花押の特徴は看取される。
 よって『日興上人全集』の推定したとおり、8月17日付書状の系年は嘉元2年であり、新出、9月16日付書状も同年としてよいだろう。ちなみに日興は本尊に「白蓮」の署名をすることはない。
 なお翌、嘉元3年(1305)であることが判明している日興書状が2通あり、その自署・花押を掲げて比較してみよう。
       
  無年号
閏12月14日付(模写)
  (嘉元3)10月2日付 
  【図版は無断転載禁止です】   
 両書状ともに日興による年次の書き入れはないけれども、閏月の記載、ならびに到来筆によって、それぞれ嘉元3年の書状であることが分かる。先に嘉元2年に比定した「曾禰殿御返事」と自署・花押共に類似しており、嘉元2・3年頃の日興の自署・花押の特徴として、この形体をとどめておく必要があろう。
   
  【参考】無年号9月12日付 
  【図版は無断転載禁止です】 
 【参考】として掲げた無年号文書も曾禰殿宛てだが、自署の「蓮」や花押の形が嘉元期のものとは何れも異なり、時期的に隔たりのあることが窺える。花押の形体は『日興上人御本尊集』で分類した「3形(変形)」で、終筆に棒状の線を加えるのは、正和年間の本尊にまま見られるから、おそらく正和年間のものではないかと思う。熟考を重ねたい。
 『日興上人全集』『日興上人御本尊集』を上梓してから10年以上が経った。その後、調査研究もかなり進み、御本尊の目録や、異筆であることが判明した御書写本、さらに新出文書も加わり、増補改訂すべき事項が蓄積されてきた。いずれ何らかの形で情報を提示したいと考えている。(坂井)
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 紙が貴重な時代に、反故紙の再利用はあたり前だった。日蓮聖人も例外でなく、富木常忍などから反故紙を含めた紙をたくさん提供されていたようである。表の日蓮遺文が護持されてきたことで、今に伝えられた裏の文書は、いわば二次的な価値という評価だった。しかし、一度、表舞台から裏にまわったそれが、今や、当時のさまざまな情報を語ってくれる貴重な史料として、にわかに注目をあつめている。
 京都妙顕寺に所蔵されている『三八教』もその1つで、裏の「三種教相」と2本の「一代五時図」が注目される。表裏の状態をくわしく調査した寺尾英智氏はこれを、弟子が聖人の真蹟を写したものだろう、と推測している。それを聖人が『三八教』の料紙の一部に用いたというわけだ。このように、真蹟の裏に存在して、直弟写本と考えられる貴重な文書、それが「三種教相」と2本の「一代五時図」なのである。透過光による「一代五時図」の写真図版2枚と、裏文書を活字で紹介している氏の論文は、研究に便利である。(寺尾英智氏「京都妙顕寺所蔵の日蓮真蹟―『強仁状御返事』『三八教』『八宗違目鈔』について―」)
   
  紙裏の墨痕が表から透けて見える『三八教』
  【図版は無断転載禁止です】
         *             *             *
 今回取り上げる「一代五時図」の2本は、何らかの理由で未完の状態になっている。1本目は第3・方等部の内容を示す前で終わり、2本目は第4・般若部の途中で終っている。しかしながら、2本目が「方等部経―大日経・蘇悉地経・金剛頂経―真言宗」と記して、方等部に真言三部経を入れていることは、「一代五時図」や『三八教』の成立を考える上で見逃せない。というのも、聖人ははじめ、天台宗義にのっとって、真言経典は第5・法華涅槃部に属すると考えていて、それは文永3年の『念仏破関連御書』が「後八年の大法、法華・涅槃・大日経等」と記すように、少なくともその年まで続いていた。それが一転、方等部に変わったのは、著作年を整理した確実な遺文によれば、『小乗小仏要文』の「方等―大日経―真言宗」の文が初見である。本書は文永6年の作とみられるので、文永3年から6年の間に、真言経典の格下げが断行されたことになる。
 これによって、2本目の「一代五時図」を聖人が記したのは、文永3年以降であることは確実で、『小乗小仏要文』と同じ文永6年か、文永5年ではないかと思われる。『小乗小仏要文』が本門と迹門・爾前経の勝劣を示す経釈を多数抄録して、内容が遥かに充実していることを考えれば、「一代五時図」の方が成立が早いようにも思われ、あるいは蒙古牒状が到来した文永5年正月から、あまり隔たらない頃の作である可能性もあるかもしれない。
 この「一代五時図」を文永5・6年とする推測は、『対照録』が『三八教』を文永6年の作と推定していることと矛盾しない妥当な線であろうし、同時に『三八教』を正嘉元年とする説を否定する結果となっていよう。正嘉元年は西暦1257年で、文永6年は1269年なので12年の差がある。なお、この「一代五時図」とは別の、文応元年の作とされる番号3-9『一代五時図』も、真言三部経を方等部に入れている。文応元年は西暦1260年で、大日経を法華涅槃部に入れる文永3年、西暦1266年の『念仏破関連御書』と齟齬をきたすことになり問題があるが、この『一代五時図』は筆跡の書きぶりから判断すると、『対照録』が推定するように、文永8年とした方が妥当だろう。
 さて、文永6年の『小乗小仏要文』と、文永5・6年かと思われる「一代五時図」が、真言経典を方等部へ格下げしたことで、聖人は真言破の決定的な教判を得たといってよい。なぜなら、あきらかな真言破の初見は、文応元年の『唱法華題目抄』が記す、「大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経なり。故に四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑み候へ」であろうが、当時の聖人はまだ大日経を法華涅槃部に入れていた。つまり、この文は法華涅槃部の中で、法華経・涅槃経・大日経の勝劣・取捨を論じているのである。もちろん、その段階において、すでに已今当の諸経を捨てた法華経一経の信仰を要請している点で、非常に重要であると私は拝している。しかしながら、五時判の上からはっきり「真言経典は方等部である」と勝劣を決する次の段階に進んだことによって、文永6年の『法門可被申様之事』に「天台の一念三千を盗み取りて真言の教相と定めて理の本とし」と記すように、一念三千を説かない真言経典が法華経の一念三千を盗み取ったという、強い破折に転ずることができたのである。
 かかる真言破が打ち出された要因が、文永5・6年に到来した蒙古牒状にあることは、つとに指摘されてきたところである。この牒状に幕府も朝廷も驚き困惑したが、聖人は『立正安国論』の他国侵逼難が適中するきざしととらえて、かねてから懸案だった、真言経典の格下げを断行し、批判を強めたと考えられる。
 ちなみに、真言経典が五時判のいずれに属するかは、かつて叡山で大きな問題となっていた。それは空海が真言宗を第1、華厳宗を第2、天台宗を第3としたことに対抗するためだったようだ。疑問を中国唐の人師に問い、広修・維鷁から「方等部の属」という解答をえたが、円珍らがそれを否定したので定着せず、「法華涅槃部の属」という宗穎の解答が、円仁を通して永く叡山教学の基盤となったといわれている。その辺の事情に精通していた聖人は、第4・般若部を飛びこえて、第3・方等部へと一大転換されたのだろう。(菅原)               
 
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 今回は御書の護持と伝承について中山日常(富木常忍)師の『常修院本尊聖教録』(以下『日常目録』と略称する)について述べてみたい。
 中山門流は御書の護持伝承に並々ならぬ力を尽くしている。日常師は永仁7年3月4日の『置文』にて、
  「一、聖人の御書並びに六十巻以下の聖教等、寺中を出だすべからざる事」 
との一条を設け、門下を次のように教導した。
   「右、聖教を惜しむ事は法慳むに似たりと雖も、借失するに至っては尚彼より甚だし。仍て何なる大事有りと雖も、当寺の困外に出す事、一向に之を停止す。但し至要の時は道場に於て之を披見する事は制の限りに非ず。聖教目録別紙これ有り」
大切な御書を厳護し、未来に永続ならしめんとする日常師の思いが伝わってくる。
 御書を人に見せない、貸さないというのは、物惜しみと言われるかも知れないが、紛失してしまったら、すべてが無に帰してしまう。だからどんな大事な案件でも、御書を寺中から一歩も持ち出させない。ただし道念をもち、真摯に修学の為に必要とあらば、道場に詣でて閲覧することはその限りではない。
 さすが宗祖より『観心本尊抄』や『法華取要抄』等の重要御書を授与された日常師の言葉である。御書を門外不出とする厳しい対処と同時に、修学の大切さを思い、門下に閲覧の道を開いている。
 ここに「聖教目録別紙」と言われたのが『置文』の二日後に書かれた、先の『日常目録』である。日常師はこの目録に、宗祖より頂戴した御書―著述・消息・要文など―全部で68通を書き留められた。写真図版はその「御消息分」の箇所であり、日常師とその縁故に宛てられた消息47通が収められている。
   
  日常筆『常修院本尊聖教録』(中山法華経寺蔵)。日常師により付された御書名が並ぶ。
  【図版は無断転載禁止です】
 当然のことながら、消息には一般的に「○○殿」「○○殿御返事」等と、宛先が書かれるだけでタイトルは付されない。しかしそれでは数が増えるに随って全体の整理がつかなくなる。日常師は文筆官僚だったので、その点は日頃から要領を得ている。宗祖の消息を拝読すると、すぐさま端裏に消息が届いた年月日とその内容を短く事書にした。
 図版の記述を見ていただきたい。「転重軽受事」「治病大小権実違目」「尼公讃嘆御状」等と並んでいるが、これらは宗祖の置題ではなく、日常師が付したもの。「転重軽受事」は現行の御書集では『転重軽受法門』、「治病大小権実違目」は同名となっており、御書名に関して『日常目録』の影響が少なくない。
 因みに「尼公讃嘆御状」は、
  「尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しをのみつるがごとし」 
との一文がある『富木尼御前御書』に比定されている。尼御前は日常師の後妻で日頂・日澄両師の母親である。年来、病みがちであったが、その堅い法華信仰は宗祖が称讃されるほどであった。
 ところで尼御前に関し、『日常目録』の中に「二通 尼公所労祈于天由」との記載が見える。これは宗祖が尼御前の病気平癒を日天に祈った消息のことである。2通のうち1通は『富城入道殿御返事』に比定されるが、もう1通は現在不明とされている。
 次回はそれに当たる御書が果たして現存するか否かを考えてみたい。宛先や系年など、いろいろ分からないことに挑戦するのも、御書研究の一つの楽しみである。(池田)
 
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