12 11 10 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
 
過去のコラム:平成15年 平成16年 平成17年 平成18年 平成19年  平成20年 平成21年 平成22年 平成23年 平成24年 平成25年 平成26年 平成27年 平成28年 平成29年 平成30年 令和元年 令和2年 令和3年 令和4年 令和5年 令和6年
2024年
 「過去のコラム」は、PDFファイルです  
 
 このページの先頭に戻る
 
 昨年末に刊行した『興風』35号に、私は「深見要言ノート(下)」と題して、深見が刊行した日蓮遺文に関する小論を寄せた。深見が日諦(?~1781。水戸三昧堂檀林42世。円行院・貞順・健立)の遺業をついで、日蓮遺文の真蹟対照と出版を行ったことは、「御書開板乃興起」(深見記)によって周知のことである。
 かかる機縁からしても、深見が日蓮遺文の編集に際し、日諦撰『祖書目次』(日蓮遺文の編年目録)に準拠したであろうことは容易に予想された。そこで私は早速、深見刊行の『録内御書目録』(以下『深見目録』)と『祖書目次』(『昭和定本日蓮聖人遺文』〔以下『定遺』〕第3巻所収)の執筆年次の照校を行ったが、予想に反し、両者の相違は二・三にとどまらなかった。深見は日諦の遺業をつぎながらも、日蓮遺文の執筆年については、独自の見解を盛り込み、編集を行ったのだろう、と当初は思った。『定遺』によれば『祖書目次』は、慧光日聰の写本もあるらしく、しかも『定遺』翻刻文と異同がある。そしてその異同箇所は、なぜか『深見目録』と一致するところが多かった。しかし日聰写本の披見はかないそうになく、また小論の主旨は深見刊行日蓮遺文にあったため、これを今後の課題としつつ論を進めていた。
 そんな中、興風談所架蔵の日諦『祖書目次』(刊本)を披いてみたところ、刊本『祖書目次』の年次は『深見目録』と完全なまでに一致した(一箇所相違は認められたが、これは『深見目録』の編集ミス=拙稿参照)。やはり深見は日諦説に準拠していたのである。
 ということは、『定遺』所収本は刊本『祖書目次』とは異なるわけで、あらためて『定遺』所収『祖書目次』をみると「祖書目次」に「弘化改刻」が冠されている。「後学英園再訂」ともあった。後学英園とは諸檀林の化主となった英園院日英(一七九三~一八五六)のことで、日英は日諦の推定した年次を、みずからの見解で相当に改めたのである。日英は『祖書目次』のタイトル、日諦と同学の玄得日耆の序、日諦の名を残してはいるが、その内容は、もはや日諦の目録ではなく「日英目録」と言うべきもので、『定遺』には日諦目録そのものを収録していただけると有り難かった。

 
  1 日諦祖書目次
   【図版は無断転載禁止です】

 
   2 弘化改刻祖書目次(日英目録)
   【図版は無断転載禁止です】
   1で日諦が文永元年と推定した「法華真言勝劣」「木絵二像開眼事」を、日英は2で同年から除いている。

 その後、木村中一「編年体御書目録『祖書目次』の遺文配列について」(『身延山大学仏教学部紀要』12号,2011年)によって、『祖書目次』は、日英「弘化改刻」の他、常忍寺本のあることを知ったが、ともかく『定遺』所収の「祖書目次」は日諦の撰とは大いに異なるので、私と同じようなビギナーには注意を要する。
 現在、日諦『祖書目次』(刊本)は入手困難だが、山上弘道氏の近著『日蓮遺文解題集成』(興風談所,2023年)に全文翻刻されているので参看されたい。
 なお日英は『祖書目次』だけでなく、日諦・日耆『本化高祖年譜』『同攷異』についても大鉈を振るっていて、次回も拙稿の訂正を交えながら注意を促したい。
(坂井法曄)
このページの先頭に戻る
このページの先頭に戻る 
  前回、『昭和定本日蓮聖人遺文』3巻2814P所収の「祖書目次」は、英園日英が日諦の推定年次を独自の見解で相当に改めたもので、「祖書目次(日諦)」(『定本』両柱)と記されてはいるが、同目録は、もはや日諦ではなく「日英目録」というべきものであり、注意を要することを記した。
 また日英は「祖書目次」にとどまらず、日諦・日耆の編んだ日蓮年表・日蓮伝『本化高祖年譜』『同攷異』についても、私見によって内容を大幅に加除修正しており、これまた扱いは注意を要するのである。
 『高祖年譜』『同攷異』は「祖伝中の白眉と称せられ、六牙院日潮の『本化別頭仏祖統紀』、境持院日通の『祖書証義論』と共に、本宗の三大史書と称せられる」(『日蓮宗事典』日諦項)こともあって利用者も多い。そして、ほとんどの利用者は、近世の和装本ではなく、『日蓮上人伝記集』(本満寺版日蓮宗全書)所収本によっていると思われる。
 しかるに『日蓮上人伝記集』の目次は、
  本化高祖年譜  一巻 健立 玄得 安永八年述 弘化四年再版
高祖年譜攷異  三巻 健立 玄得 安永八年述 弘化四年再版
と記し、『日蓮宗事典』は『日蓮上人伝記集』(日蓮宗全書)を解説して、
   『本化高祖年譜』一巻、建(ママ)立日諦・玄得日耆著。安永八年(一七七九)成立、弘化四年(一八四七)再刊本を翻刻。
という。そんなこともあって、私を含めほとんどの初学は、『日蓮上人伝記集』所収本を日諦・日耆撰『本化本化高祖年譜』・『本化高祖年譜攷異』と認識し扱ってきたことと思う。以下はそんな私の誤認による失敗談である。

*   *   *   *   *   *   *

 先年、六老僧の一人、日興の一代を通覧していたときのこと。多くの日興伝は、日興が修学時に歌道を極め、また日興が辞世の句を詠んだといっているが、そのひとつ『甲斐国志』にも「年譜攷異云」として次のような記事がある。

 
  【図版は無断転載禁止です】

  指葬地植桜樹詠和歌二首明年罹疾二月七日寂寿八十八(【図①】)
 『本化高祖年譜攷異』(以下『年譜攷異』)は『日蓮上人伝記集』所収本によって、チェック済みだったが、日興が「指葬地植桜樹」(日興みずから墓所を定めて桜を植樹したの意)は、おぼえがなく、あらためて『日蓮上人伝記集』所収本の『年譜攷異』をひらいてみたけれども、やはり『年譜攷異』に「指葬地植桜樹」の記事はない(【図②】)
底本となった近世版本にも、やはり「指葬地植桜樹」は見られなかった(【図③】)
 これを確認した上で、私は「日興の生涯と思想(七)―日興と和歌に関するノート―」(『興風』32号,2020年)に、上掲『甲斐国志』の記事について、『高祖年譜攷異』に同文は見られず、この記事は重須本門寺の伝承によったのではないか(取意)、と記した。
 日興の墓所に関する唯一の専論、佐藤博信「北山本門寺の近世的展開とその特徴」(『中世東国日蓮宗寺院の地域的展開』勉誠出版,2022年)に指摘されているとおり、日興の墓所は、直弟日満によって、当初は廟内に石経が納められたことなどが記されていて、その後、徐々に整備・拡大され、近世に入って墓塔が造立され現在にいたる。
 この間、広蔵院日辰が永禄1~2年(1558~9)、重須の日興廟所に参詣した際に描いた図中、桜樹がみえる。よって少なくともこれ以前、日興廟所に桜が植樹されていたことは間違いなく、そんなことから私は、上掲『甲斐国志』の記事について、重須の伝承に依ったのではないかと、考えたのである。
 その後、私は縁あって深見要言の著作を読み進めていたのだが、深見の編んだ日蓮伝『本化高祖紀年録』巻二に、
  葬の地をさして桜の樹を植和哥二首を詠ず翌年疾ひに罹て二月七日安詳として寂す世寿 八十八(【図④】)
の文を見いだし愕然とした。これは前掲『甲斐国志』が「年譜攷異云」として引く「指葬地植桜樹詠和歌二首明年罹疾二月七日寂寿八十八」そのものではないか。つまり、『甲斐国志』は出典を誤り、文体を統一するため漢文に改めてはいるが、『本化高祖紀年録』から同文を採ったのであって、前掲拙稿で記したような、重須の伝承ではなかった、と判断した。
 ところが話はここで終わらない。その後、私は深見の刊行した日蓮遺文(いわゆる要言版)全65巻について調べを進めたが、前回のコラムで記したとおり、日諦「祖書目次」を日英が「弘化改刻祖書目次」によって大幅に改めていることを知り、ハッとした。もしや『年譜攷異』(天明元版)の「弘化改刻」も、日英が大幅に加除修正をしたものではないか? そこで『年譜攷異』(天明元版)と〝弘化改刻〟を見比べたところ、案の定、日英は大鉈を振るっており、日興による桜植樹の記事も、日英によって削除されていたことがわかった。『年譜攷異』には『甲斐国志』が引くように、確かに日興が「指葬地、植桜樹」えたことが記されていたのである(【図⑤】)。そして、日諦の著作をベースに日蓮遺文・日蓮伝研究を進めた深見要言が、『本化高祖紀年録』に、当文を書き下して引用していたことも明らかとなった。
 こうして私は、かなりの遠回りをし、また恥の上塗りを重ねたわけだが、ともかく「弘化改刻」は日英の私見によって、原形が損なわれている。近年の研究論著にも『日蓮上人伝記集』所収の弘化改刻『年譜攷異』、すなわち日英版を典拠とした記事が散見されるけれども、私と同じ初学者には、充分に注意されたい。
 とはいえ、原形である近世の版本『年譜攷異』(天明元版)は入手困難なため、今のところ「国書データベース」等によって所蔵機関を確認し、閲覧するしかない。その際はくれぐれも「弘化改刻」ではなく「天明元版」を披見されたい。(坂井法曄)
 
このページの先頭に戻る