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2021年
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 これまでにも何度か述べてきたことだが、『昭和定本日蓮聖人遺文(定本遺文)』345号、通称「瀧泉寺申状」は、内容その他から、表題に掲げたとおり「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」(以下「当文書」)を書名とするのが適当と思われる。当文書は『霊艮閣版 日蓮聖人御遺文(縮刷遺文)』続集200P(「中山所蔵新加」)に「瀧泉寺之申状」として初めて翻刻・収録され、その後「瀧泉寺申状」の書名が定着した。
 おそらく、この書名は、日祐『両寺〈法花・本妙〉本尊聖教録』(日祐目録)「十三 御書」の「瀧泉寺申状一通」からいただいたもので、『定本遺文』3巻に収める「日祐目録」にも、「瀧泉寺申状一通」に定本番号「三四五」(瀧泉寺申状)が充てられている。
 今となっては「日祐目録」にみえる「瀧泉寺申状」の内容を確認することはできないけれども、「瀧泉寺(寺号)+申状」をもって記していることから、この申状はおそらく、寺号を名乗れる者(院主・寺主等)の申状を指していると思われる。そこで当文書をひらいてみると、取意ではあるが「訴状云」として、院主代行智の訴状(申状)が引かれているから、陳状を起草した日蓮等が、これを披見していたことは明らかであり、その写が法華寺に伝わっていたのだろう。それが「日祐目録」にみえる「瀧泉寺申状一通」と思われる。写主はおそらく、同じく陳状の起草にたずさわった富木常忍ではかったか。
 「瀧泉寺申状」は日祐目録の「御書」部に入れられているで、その点、注意しなければならないが、「瀧泉寺申状」は同部末に、近時、池田令道師によって翻刻・紹介された、東密僧円鏡の「捨邪帰正勧発抄」や「良実難状」「強仁状」など、日蓮に向けられた難状とともに列挙されているから、さして問題にならず、むしろ「瀧泉寺申状」は日蓮等に向けられた難状の一つとして、括られていた可能性を指摘できるのではないか。
 ふたたび書名にもどると、「訴人(原告)が朝廷・幕府・本所などの裁判所に提出する申状をとくに訴状といい、これに対して被告(中世これを論人といった)が提出する弁駁の申状をとくに陳状といい、訴状・陳状を併せて訴陳状といった」(佐藤進一『古文書学入門』)が、「瀧泉寺申状」では訴陳状の何れを指しているのか不明で、しかも中山法華経寺に現存する当文書には、日蓮が「大体この状の様にあるべきか」と添書し、推敲のあとも随所にみられる。中には訴人が弥四郎男の斬首について、日秀等の所行に仕立てていることも加筆するよう、日蓮が指示を与えた箇所もある。よって実際に提出された陳状には、当然のこと、日蓮の指示をふまえた加筆もあったと思われるが、当文書にそれはみられず、提出した陳状の案文(写)でもない。また当文書には富木常忍の筆も混在していることから、草案たることがあきらかである。
 さらに当文書は「瀧泉寺」名をもってしたものではなく、提出者は、瀧泉寺〝大衆〟の日秀・日弁等であることが明記されているので、「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」が適当と考える。なお「瀧泉寺申状」の書名が不適当であることは、すでに高木豊氏や川添昭二氏も指摘している。

 中山法華経寺に現存する当文書をみると、日蓮が推敲のあとをいくつものこしているように、日蓮は陳状の内容に相当なこだわりをもっていたと思われる。そのこだわりの一つが書式で、具体的には平出(へいしゅつ)と擡頭(たいとう)の使用をあげることができる。平出とは「天皇、皇室等に関する文字が出るとき、これに敬意を表するための措置で、公式令の規定に由来」し、「天子、天皇、皇帝、陛下、太上天皇、天皇諡(オクリナ)、皇后などの文字は平出にすること」が定められている(佐藤進一上掲書)。
 すなわち平出とは、天皇等の名が現れた際に改行して、その名が上段にくるよう配慮する書式だが、日蓮の場合は、独自の仏法・王法観をもって、この平出を転用している。日蓮が当文書で平出を用いた名をみると「法華経(妙法蓮華経)・涅槃経・大日本国・大覚世尊(如来=釈迦)・天台大師・伝教大師・源右将軍(源頼朝)・平右虎牙(北条義時)・日蓮聖人(聖人・法主上人)」で、引文の場合はこの限りではないが、日蓮があたかも天子・天皇を敬って用いるごとくに、これらに平出を用いていることは、まことに興味深い。特に【図1】の一行目一番下の「聖人」は改行して上位にもっていくよう、日蓮みずから訂正している。
 
  【図1】「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」
  【図版は無断転載禁止です】 
 この平出よりも、さらに敬意表記を高めた書式に擡頭(たいとう)がある。擡頭とは「当該語を改行したうえで、さらに各行の高さよりも一ないし二字分ほど突出させて記す用法」である(笠谷和比古「擡頭」『日本史大事典』)。当文書を見ると、日蓮は「法華経」に擡頭を用いているかに見えるが、そのことは、日蓮と共に陳状の草稿にたずさわった富木常忍の起草部分をみれば、より明確に看取され【図2】、日蓮らが何よりも法華経に重きを置いていたことがわかる。仏法と王法は古代より両輪のごとき関係にあったが、日蓮は仏法をより重くみていたのである。
 
  【図2】「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」
  【図版は無断転載禁止です】 
 なお擡頭は、本邦においては規定がなく、中国における上奏文等にならったものといわれ、その用例も少ないらしい(瀬野精一郎「擡頭」『国史大辞典』)。そんな中で当文書に擡頭が見えることも興味深いが、近時、至元三年(一二六六)年八月、日本国王へあてた「蒙古国牒状」の日蓮写本断片が見つかった(都守基一「日蓮聖人真蹟断片に関する覚書(二)」『日蓮仏教研究』9号)。この「蒙古国牒状」には、まさしく擡頭が用いられていて、「上天」「大蒙古国皇帝」「祖宗(ジンギスカン)」には擡頭を用いているが、「日本国王」はワンランク下の平出としている【図3】。
 
  【図3】『図録日蓮聖人の世界』より転載
  【図版は無断転載禁止です】 
   相手の名(この場合「日本国王」)を一段下げて記すという書式は、言葉で語らずとも、その相手を見下していることは一目瞭然である。
 ちなみに、この牒状(蒙古国書)を受け取った日本は、武家の意向により「牒状の体、無礼なるによりて返牒に及ばぬよし、牒使に仰せ含て返却」(『五代帝王物語』)している。
  このように平出や擡頭は、言葉とはまた違ったかたちで、受け手に伝わるものがある。当文書における用例も同様で、擡頭を用いた法華経に対して、浄土経典や真言経典には何も用いておらず、その勝劣を日蓮は、ビジュアル効果も併用して示そうとした、とも考えられよう。
 また日蓮は、釈迦をはじめ、智顗・最澄の先師、そして日蓮に平出を用いている。それは日蓮自身、当文書で「法主聖人(日蓮)時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君の為、民の為、神の為、仏の為、災難を対治」する者と言っているように、その自覚と自負を、内外にも示す意図があったと考えられる。基本的には国難を退治する者は、叡山を除いては日蓮一人である、という『安国論御勘由来』以来の姿勢と変わらないが、その意識は、いっそう強まっていったといえよう。
 次回は当文書における平出の使用から、日蓮の国王観について再確認をしてみたいと思う。(坂井法曄)
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 先月のコラムにおいて「瀧泉寺大衆日秀日弁等陳状草案」(通称:瀧泉寺申状)にみえる平出・擡頭の使用には、日蓮の法華経至上主義が反映されていることを確認した。すなわち当文書の書式から、日蓮の、王法よりも仏法を重視するという姿勢が、あらためて確認されるわけだが、こうした転用は、日蓮の国王観についてもいえることで、当文書の書式からも明確に看取される。

 その前に、日蓮の国王観にかかわる最近の研究として、佐藤弘夫氏が発表された「『立正安国論』の近代:二つの「立正安国」の論理とそのゆくえ」(花野充道博士古稀記念論文集『仏教思想の展開』山喜房仏書林,2020年10月刊行)についてふれておきたい。佐藤氏は同稿で次のように論じている。

  日蓮が時頼に『立正安国論』を提出したことをもって、日蓮は時頼を日本の頂点に立つ存在=国王と考えていたとする指摘がある。しかし、日蓮は終生変わることなく、同時代の日本の支配秩序の最高位にある人物=「国王」を天皇と考えていた。その一方で、日蓮は「国王」のもとで実質的な権力を握る人物(治天)をしばしば「国主」と記した。日蓮は承久の乱を契機として、この「国主」の地位が天皇の父である院から北条得宗へと移行したとみていた。鎌倉幕府への『立正安国論』提出は、こうした認識を前提としたものだった。日蓮は時頼を、天皇に代わる「国王」とみなして「安国論』を上呈したのではない。日蓮にとって時頼は、あくまで実質的な権力保持者=「国主」だったのである。 

 これまでにも佐藤氏は、同趣旨の論を繰り返している。こうした佐藤説に対し、私は先に「日蓮遺文に見える国主と国王―佐藤弘夫説への異議」(阿部猛編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年)、「『立正安国論』奏進と日蓮の国王観再論」(『日蓮仏教研究』10号、2019年)等において、異見を述べた。すなわち佐藤氏の使用する日蓮遺文は文献批判が不充分であること、日蓮の用いる国王と国主の語意に相違はないこと、日蓮は北条時頼を日本国王と認めて『立正安国論』を献上したこと、等を指摘した。
 佐藤氏はこの度の玉稿に補注をもうけ、私の小論を挙げた上で、「自説を訂正する必要はない」「ぜひ二つの論文を読み比べていただきたい」といわれている。
 たぶん、わざわざ論文にあたって、読み比べる人はいないだろうから、ここに要点をあげて諸賢のご判断を仰ぎたいと思う。

1)日蓮の用いる国王と国主は同じであること
 まず佐藤氏は次のように主張する(『歴史読本』48-6号、2003年ほか。※典拠は前掲拙稿に掲出)。

日蓮は国家支配の頂点にある「国王」と、その下で政治の実権を握る「国主」を、明確に区別している。上皇を「国主」とよぶことはあっても「国王」とすることは決してなかった。 
日蓮は終生変わることなく、同時代の日本の支配秩序の最高位にある人物=「国王」を天皇と考えていた。その一方で、日蓮は「国王」のもとで実質的な権力を握る人物(治天)をしばしば「国主」と記した。  

 この佐藤説について、私見を交えずに日蓮自身の言葉をもって示すと、日蓮自筆(真蹟)が現存する『安国論御勘由来草案』に、

  代々の国主、叡山に違背すべからざるの由、誓言を捧げ奉る。故に白河院は非をもって理に処し、清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威をもって即位す(原漢文)

とある。ここでは延暦寺に誓言を捧げた後白河天皇・清和天皇等の代々の天皇を「国主」と明記している。同じく日蓮の自筆が伝わる『治病大小権実違目』に、

  人王第三十代并一・二の三代の国主并臣下等、疱瘡と疫病に御崩去等なり、

と記している。人王第三十代とは敏達天皇、三十一代は用明天皇、三十二代は崇峻天皇のことで、日蓮は、この三代の天皇を「国主」と明記している。すなわち日蓮が、天皇を「国主」といっていることは事実であって動かせない。
 いっぽう天皇を「国王」と書いた例もある。日蓮の自筆が伝わる『白米一俵御書』に、

天智天皇と申せし国王

とみえる。私はここに、日蓮自身の言葉をもって、日蓮が天皇を「国主」と呼んでいる例と、「国王」と呼んでいる例とを示した。このように日蓮は、天皇を「国主」とも「国王」とも記している。これは日蓮自身がいっていることだから、いくら佐藤氏が「自説を訂正する必要はない」と自説に固執しても、氏の説が事実誤認であることは疑う余地がない。
 日蓮は上掲のとおり、白河天皇・清和天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇を「国主」と明記しているが、もし日蓮が「国主は国王の下で政治の実権を握る人物(治天)」(佐藤説)と見ていたとしたら、これらの天皇は国主(治天)と記されているので、その上に国王(天皇)がいたことになるけれども、いったいこれらの天皇(国主)の上にたつ天皇(国王)とは誰なのか、説明がつかない。これは佐藤氏自身の説(日蓮は終生変わることなく、同時代の日本の支配秩序の最高位にある人物=「国王」を天皇と考えていた)とも矛盾しよう。
 日蓮は上掲の通り「国王」「国主」の区別はしていないし、よって「国王=天皇」「治天=国主」という主張などするはずがない。私は前稿で、日蓮遺文のどこに、そのようなことが書いてあるのか、その典拠を求めたが、佐藤氏はこのことについても答えていない。
 佐藤氏はまた、

  日蓮は承久の乱を「国王」レベルでの政権交代の事件とはみていなかった。「国王」である天皇のもとで、「国主」=治天の地位が後鳥羽院から北条義時へと移行した事件と捉えていたのである。 

として、日蓮は得宗(とくそう=北条氏の当主・嫡家のこと)を、天皇(国王)の下で政治の実権を握る者(国主)とみており、その「国主」の地位が得宗に移行したのが「承久の乱」だというが、佐藤氏のいう支配秩序の最高位=天皇(国王)、その下で実権を握る者=治天(国主)という主張が成り立たない明証を、私見を交えずに、やはり日蓮自筆文書によって示す。すなわち前回から取りあげている「瀧泉寺大衆日秀日弁等陳状草案」(日蓮起草部分【図1】)に次のようにみえる。

 
  「瀧泉寺大衆日秀日弁等陳状草案」(日蓮起草部分【図1】)
  【図版は無断転載禁止です】 

 図版の上段は日蓮の自筆、下段はその翻刻文である。ゴシック体で示した「源右将軍」とは源頼朝、「平右虎牙」とは北条義時のことで、日蓮はこの両者に、前回取りあげた平出を用いている。ところが同じくゴシック体で示したように、日蓮が随所で頼朝・義時と相対的にあげる、安徳天皇と後鳥羽上皇には、擡頭も平出も用いておらず、さらに平出よりも低いが、もう一つの敬意表記「闕字」(けつじ=敬う文字の上を一字あげる)さえも用いていない。日蓮が安徳天皇・後鳥羽上皇を、頼朝・義時よりも下に見ていたことは一目瞭然である。他に【図1】掲出部に、天台座主の明雲の名がみえるも、やはり擡頭・平出・闕字いずれも用いておらず、日蓮の中では、天皇も上皇も天台座主も、敬意表記の対象とはなっていないのである。
 ちなみに日蓮は頼朝と義時を百王(日本国における人皇百代)の一人としている(『諫暁八幡抄』等)が、元暦二年の壇ノ浦合戦で安徳天皇は入水、承久の乱で後鳥羽上皇は配流されている。日蓮がこの両合戦で、日本国の「国王」が、それぞれ源頼朝・北条義時に替わったとみていたことは間違いない。
 でなければ【図1】のように、天皇を格下げして、一般人と異ならぬ表記をし、武士の下におくことなど考えられない。佐藤氏は「支配秩序の最高位=天皇(国王)、その下で実権を握る者=治天(国主)」で、義時は天皇(支配秩序の最高位)の下で実権を握る国主(治天)だと主張されるが、佐藤説のとおりであれば、【図1】の書式から、日蓮は国王(支配秩序の最高位)よりも国主(その下で実権を握る者)を上に見ていたことになろうし、まったく説明がつかない。
 ちなみに【図1】に「去ぬる元暦・承久の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校、長吏等の諸の真言師を請ひ向け、内裏の紫宸殿にして故源右将軍並びに故平右虎牙を呪咀し奉る」とみえる。「元暦・承久の両帝」は後続の文章からして、安徳天皇と後鳥羽上皇とを指していることは明白。そして天皇・上皇をならべて「両帝(りょうみかど)」といっており、やはり天皇と上皇の区別はない。『神国王御書』(日蓮自筆あり)の「仏の加護と申し、神の守護と申し、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられ」云々の文も同様で、天皇も上皇も、おしなべて「王」といっている。

2)日蓮は北条時頼を国王とみとめて『立正安国論』を献上

 佐藤氏はさらに、

 
日蓮は時頼を、天皇に代わる「国王」とみなして「安国論』を上呈したのではない。日蓮にとって時頼は、あくまで実質的な権力保持者=「国主」だった。 

といっている。しかし日蓮は「瀧泉寺大衆日秀日弁等陳状草案」において、北条時頼への『立正安国論』献上につき「上表一巻〈立正安国論〉」と記している。「上表(じょうひょう)」とは国王に文書を奉ることで、また日蓮は『立正安国論』献上について「奏進」の語を用いている。「奏進」の語意も「天子に献上」「天皇に言上」することだが、日蓮が独自の国王観に基づいて、平出や用語を転用していることは、これらの自筆文書によって明らかである。
 以上の通り、日蓮が得宗(北条氏の当主)を日本国王とみていたことは、書式(平出の使用)からも、用語(上表・奏進等)からも、文章上(百王に関する説示等)からも認められることで、やはり日蓮に関することは、私見をまじえずに日蓮自身の言葉によって、実証的に論じることが肝要と私は思う。なお佐藤氏は私の見解に対して、昨年末に発表した玉稿で、

  日蓮が北条得宗を「国王」「国主」とみていたとすれば、「去正嘉文永の大地震・大天変は、(中略)人王九十代、二千余年が間、日本国にいまだなき天変地夭なり」(『瑞相御書』)、「人王始て神武より当今まで九十代」(『国府尼御前御書』)というように、歴史の記述に当たって、晩年まで一貫して天皇の代を基準としていたことを、坂井氏はどのように解釈されるのであろうか。

と反問している。これまた私見ではなく日蓮の言葉をもって示せば、日蓮は『諫暁八幡抄』(日蓮自筆あり)に「王と申すは不妄語の人、右大将家・権の大夫殿は不妄語の人、正直の頂、八幡大菩薩の栖む百王の内なり」といっている。先の「陳状草案」同様、「右大将家」は源頼朝、「権の大夫殿」は北条義時をさすが、日蓮はここで頼朝・義時を百王(人皇百代)としており、日蓮は人皇(人王)を天皇に限って見てはいない。
 そして【図1】のように、言葉だけではなく書式の上からも、この両者や時頼(上表一巻〈立正安国論〉)を日本国の王として扱っていることを、改めて提示するものである。

 ちなみに日蓮の対峙した北条時頼や時宗の公職=執権(しっけん)とは、鎌倉幕府将軍(鎌倉殿=征夷大将軍)の代官であり(「沙汰未練書」)、その征夷大将軍は天皇が任じている。すなわち主従関係は、天皇→将軍→執権となるし、むろん日蓮もそのことは知っていた。日蓮遺文にもしばしばみえる関東(鎌倉幕府)の「御教書(みぎょうしょ)」は、すべて将軍の命(鎌倉殿の仰せ)を受けた両執権(執権・連署)の発給する文書だが、日蓮がこれをもって、時頼や時宗を、将軍より下の存在と見ていたとはとても思えない。その将軍を任じる天皇についても同断で、日蓮は当代の天皇も将軍も、名目的な存在と認識していただろうし、御教書等にみえる「鎌倉殿の仰せ」についても形式的なものと捉えていただろう。

 なお今回は細かく触れなかったが、擡頭や平出に関しては、佐藤博信『中世東国の権力と構造』(校倉書房,2013年11月刊行)に、比較的詳しく論じられていて、「瀧泉寺大衆日秀日弁等陳状草案」にみえる擡頭についても少しく言及し、これに倣ったと思われる門下の文書もあげている。参照されたい。

 ともあれ今回は、当文書の書式(平出・擡頭)を、概観により摘記したにすぎない。後日あらためて細見し、論じたいと思う。(坂井法曄)

【付記】
 先月のコラムで、

 
「瀧泉寺申状」は日祐目録の「御書」部に入れられているで、その点、注意しなければならないが、「瀧泉寺申状」は同部末に、近時、池田令道師によって翻刻・紹介された、東密僧円鏡の「捨邪帰正勧発抄」や「良実難状」「強仁状」など、日蓮に向けられた難状とともに列挙されているから、さして問題にならず、むしろ「瀧泉寺申状」は日蓮等に向けられた難状の一つとして、括られていた可能性を指摘できるのではないか。

と記したが、「瀧泉寺申状」の書名は「日祐目録」14丁裏下段の最後に、「捨邪帰正勧発抄」以下は15丁表に列挙されている。
 14丁裏・15丁表は見開きになるが、「一括り」とは言えないので、「あくまでも可能性」であることを強調しておきたい(遁辞多謝)。
 
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 『法華肝要略注秀句集』(以下『略注秀句』と略称)は、『伝教大師全集』第五巻に所収されるが、これまでの研究により伝教仮託の偽撰であると推定されている。
 『略注秀句』は上中下の三巻、内容的には法華最勝の義が繰り返し述べられている。また、随所に日蓮遺文と類似した語句が確認される。加えて、『略注秀句』は天台関係の典籍類に殆んど引用が見られないため、天台宗徒による偽作か、日蓮宗徒によるものか、との両説があり明答が出ていない。そこで今回は『略注秀句』の内容を考察し、あらためてその成立と出処を検討していきたい。

 一、諸氏の見解
 はじめに、これまでの『略注秀句』に関する諸氏の見解を挙げてみたい。

◎多田孝文『日本仏教典籍大辞典』
  おそらくは秀句十勝抄等の日蓮教学の影響を受け、かつ山家の「法華秀句」よりさらに強く法華最勝を主張しようとした学徒の偽作であろう

◎田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』433~436頁
  日蓮的色彩を、おもわせるものである。《中略》日蓮以後において、日蓮教学を摂取しつつ、天台本覚法門を構成したものが、「修禅寺決」であり、その「修禅寺決」を摂取しつつ日蓮教学を構成したものが、「十八円満鈔」であり、さらに、その「十八円満鈔」をうけて「法華肝要略注秀句集」が偽作されたものではなかろうかということである。この書が、約部奪釈的に法華独一乗・釈尊本仏を強調し、とくに天真独朗の法門を否定して、末法唯唱題をすすめるあたりは、それこそ日蓮宗徒そのものによって偽作されたとみえなくもないので真迢は「是恐クハ日蓮末弟ノ中ニ此偽書ヲ作リテ…」と評している。 

◎大久保良順「修禅寺決を中心とする二三の問題」(『天台学報』九号6~7頁)
  一考を要するものは法華肝要略注秀句集である。これも亦山家大師の名を冠せられて伝えられたものであるが、《中略》専ら日蓮の主張を代弁するやうにうかがわれる。○正しく法然ら浄土信仰に対して日蓮の唱題にくみするものと云わなければならない。 

◎同「天台口伝法門と浄土教」(『印度学仏教学研究』第十六巻 第一号 通巻31)112頁
  「法華肝要略注秀句集」に至っては、その易信易解の不成仏の説が、明らかに日蓮の「唱法華題目抄」や「観心本尊抄」に基いていることを知るのである。 

◎田村完誓『恵心流三重七箇口伝法門の形成に関する試論』
  中古の偽作であることはいうまでもなかろうが果して日蓮以後にまで、時代が下がるかどうか疑問である。《中略》日蓮宗徒の偽作と推論されるのであろうが、果してこれらの思想が日蓮に先行するものでないという見識が妥当かどうか甚だ疑わしい。

◎浅井円道『上古日本天台本門思想史』63頁
  大小権実の「弁正像末取捨」、爾前円迹門円本門円の相対、「如是我聞上妙法」、「主師親三徳」、末法地涌、「丸薬妙法蓮華経五字」、「迹門之四依・本門之四依」、「摂受折伏」、「法華首題機等」は正しく日蓮義と共通するが、「法華本教広説、真言末教略説」「与論レ之顕密一致」等の論は日蓮義ではない。故に比叡山末学が日蓮義に準拠して謀作した偽書である。 

 多田氏は、日蓮教学の影響を受けた学徒の偽作と推測している。田村芳朗氏は『修禅寺決』→『十八円満抄』→『略注秀句』という制作過程を提示し、真迢の『破邪顕正記』の一文を紹介しながら日蓮門下の偽作であることを示唆している。大久保氏は、伝教仮託でありながら、その内容は日蓮の主張を代弁するものとし、日蓮遺文の『唱法華題目抄』および『観心本尊抄』に影響を受けているとしている。田村完誓氏は、成立時期を日蓮以後とすることに疑義を呈し、日蓮宗徒の偽作との推論に対し、日蓮以前の成立も視野に入れている。浅井氏は、本文中の用語を分析し具体的に日蓮義と共通することを述べつつ、中には日蓮義ではないものも含まれることから比叡山末学による偽書としている。
 総括的に、『略注秀句』は伝教仮託であるとの見解は各氏同じであるが、その出処は果たして天台系か、日蓮系か、各氏ともに明確な結論は出されていないようである。

 二、『法華本門宗要抄』との関連
 まずは成立時期を検討するうえで、『略注秀句』と日蓮偽撰遺文の『法華本門宗要抄』との密接な関係に着目したい。
 『法華本門宗要抄』(妙覚寺本)には、「傳教大師ノ註秀句中ニ云」「傳教大師大唐傳ニ云ク」「傳教大師此ノ文ヲ釈シテ云ク」「註秀句中云」「傳教大師註秀句上云」として、『略注秀句』が重要書として度々引用されている。
       
  『法華本門宗要抄』上巻 (右頁 6行目から)
「傳教大師註秀句上云、已今當ノ経法華ニ類泯セハ謗法ノ罪ニ依テ必ス地獄ニ墮云云」と、『法華肝要略注秀句集』の上巻部分を引用している。
  『法華本門宗要抄』上巻 (左頁 2行目から)
「加之……傳教大師ノ註秀句・安然和尚ノ要決法華記ノ中及ヒ廣釈略記等ノ之中……」とし、『法華肝要略注秀句集』が重要書であることを示している。
 
 
  【図版は無断転載禁止です】   
 他に、円明院日澄の『嘉会宗義抄』に引用がみられるが、現時点で『法華本門宗要抄』の引用が初見である。『法華本門宗要抄』は延文五年(1360)以前の成立が確認され、これにより『略注秀句』もまた宗祖滅後70年以前に成立していたことが実証される。
 さらに注目すべきは、『法華本門宗要抄』に引用される安然仮託の『要決法華知謗法論』および『助顕法華略記集』にも『略注秀句』の引用が見られることである。この安然仮託の両書も『法華本門宗要抄』の中で重要書として扱われている。
 『要決法華知謗法論』および『助顕法華略記集』は、法華最勝の義を述べて諸宗批判を展開し、とくに真言批判に力が入れられている。全体的に日蓮遺文との類似が多く、日蓮が著作や消息において多用した用語が随所にみられる。引用文献や文体までが日蓮遺文とよく相似するなど、安然撰とは到底認められない。また偽経や見慣れない経典を用いて独特な論理を展開している。
 さらに、安然仮託書の引用は、天台系の典籍には確認されず、『法華本門宗要抄』をはじめ日蓮門下のいくつかの典籍―例えば日隆『法華本門弘経抄』、日澄『法華啓運抄』、日通『三類符合集』―に確認するのみである。加えて『金綱集』や『法華問答正義抄』等に通じる内容も確認される。
 このように、『法華本門宗要抄』に引用のある安然仮託書は、その内容を検討すれば日蓮門下の述作たることが浮き彫りとなってくる。(『興風』19号 拙稿「『要決法華知謗法論』に関する覚書」、『興風』32号 拙稿「安然仮託『助顕法華略記集』に関する覚書」参照)。
 したがって、『略注秀句』もまたその内容をみれば、安然仮託書の内容と密接に関連しており、ここに一応の結論をいえば、日蓮滅後その門下により、『法華本門宗要抄』の文証とするため伝教に仮託して作成されたものと推察する。
 次回は、具体的に日蓮遺文との類似点を挙げ、『略注秀句』が『要決法華知謗法論』『助顕法華略記集』など一連の仮託書とともに日蓮門下により作成されたことを解説してみたい。
(渡邉)
 
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 三、本書と日蓮遺文との類似点
 『略注秀句』と日蓮遺文との関連について、上巻より順をおってその例証をあげてみたい。 ①「大唐伝」の引用
 はじめに『略注秀句』上巻に引用される「大唐伝」を挙げてみたい。
  「大唐伝ニ云ク、道邃和上、無量義経ノ文ヲ案シテ云ク、転四諦法輪トハ者、成・倶・律宗ノ所依ノ経ナリ也。方等十二部経トハ者、法相・禅門・真言宗ノ所依ノ経ナリ也。摩訶般若トハ者、三論宗ノ所依ノ経ナリ也。華厳海空トハ者、華厳宗ノ所依ノ経ナリ也。倶ニ歴劫修行ヲ説キテ、未タ大直道ヲ説カス。〈已上大唐伝文〉」(『伝教大師全集』巻五 179頁) 
 はじめに「大唐伝云」とあり、伝教の師である道邃の言葉として、法華経以外の諸経には未だ大直道は説かれていないとある。この『大唐伝』については、全体的な内容は不明であり、伝教の『法華秀句』に次の引用がみられる。
  「大唐ノ伝ニ云ク、方等十二部経トハ者、法相宗所依ノ経ナリ也。摩訶般若トハ者、三論宗所依ノ経ナリ也。華厳海空トハ者、即チ華厳宗所依ノ経ナリ也。倶ニ歴劫ノ行ヲ説キテ、未タ大直道ヲ知ラス。」(『伝教大師全集』巻四 241頁) 
 この一文のみが「大唐伝」として『法華秀句』に引かれ、それ以外の内容は伝えられていない。そこで双方に引かれる「大唐伝」の内容を比較すると、『法華秀句』では「法相宗」「三論宗」「華厳宗」を挙げているが、『略注秀句』では三宗の他に「成実宗」「倶舎宗」「律宗」「禅宗」「真言宗」を加えて八宗批判を展開している。たぶん、『略注秀句』の作者が『法華秀句』の「大唐伝」をアレンジしたのであろう。
 他に「大唐伝」を引用する文献を確認すると、『法華秀句』の「大唐伝」を引用するものとして、天台系文書では蓮剛撰『定宗論』、日蓮系では偽撰遺文の『一代五時継図(3-29)』と『釈迦一代五時継図』、および安然仮託『要決法華知謗法論』に確認される。また、『略注秀句』の「大唐伝」を引用するものとして、偽撰遺文『法華本門宗要抄』が挙げられる。
 そこで、『略注秀句』と関連する『要決法華知謗法論』と『法華本門宗要抄』に引用される「大唐伝」を挙げてみたい。
『要決法華知謗法論』の「大唐伝」
  「伝教大師大唐伝云、方等十二部経者、法相宗所依経也、摩訶般若者、三論宗所依経也、華厳海空者、華厳宗所依経也、倶説歴劫修行未知菩提大直道等。
『法華本門宗要抄』の「大唐伝」
  「伝教大師大唐伝云、道邃和尚、案無量義経云、文云転四諦法輪者成・倶・律宗所依経也。方等十二部経者法相・禅門・真言宗所依経也。摩訶般若者三論宗所依経也。華厳海空者花厳宗所依経也。倶説歴劫修行未弘大直道。〈已上大唐伝文〉」 
 両書とも「伝教大師大唐伝云」とし、『法華本門宗要抄』の「大唐伝」は、『略注秀句』と同文の「大唐伝」を引用している。三書の強い関連が再確認され、『略注秀句』もまた日蓮門下によって作成されたことを窺わせる。

 ②丸薬タル妙法蓮華経ノ五字
 『略注秀句』中巻に次ぎの一文がある。
  「正像末本ト自リ機ニ課スル法体然ナリト雖、末法極下薄地ノ凡夫ノ為ニハ天真独朗ノ法体モ無益ナリ也。上根上智ノ人ハ最モ応ニ修行シテ益ヲ得シムベシ。下根下智ノ為ニハ仏一代聖教ヲ統ル丸薬タル妙法蓮華経ノ五字ヲ以テ、末法後ノ五百歳広宣流布ノ十界ノ衆生ノ為ニ之ヲ留メ置ク也。」(『伝教大師全集』巻五 309頁)  
 ここには、末法の凡夫には天真独朗の法体は無益なので、妙法蓮華経の五字を留めおくとある。これも日蓮偽撰遺文『十八円満抄』の「所詮、末法に入りては天真独朗の法門無益なり。助行には用ゐるべきなり。正行には唯南無妙法蓮華経なり。」(『定遺』第三巻 2143頁)と類似している。
 次に「丸薬たる妙法蓮華経の五字」の表現について、これもやはり日蓮遺文の中に類似する内容が確認される。偽撰遺文『聖愚問答抄』に次の一文がある。
  「されば如来一代の教法を擣和合して妙法一粒の良薬に丸せり」(『定遺』389頁) 
 『聖愚問答抄』の「妙法一粒の良薬に丸せり」の表現は、「丸薬たる妙法蓮華経の五字」と似通っている。このように、『略注秀句』の内容には偽撰遺文との関連が確認される。

 ③謝表
 謝表とは一般に天子の恩徳に感謝するための上奏文であり、この場合は伝教が講者を務めた法会を讃嘆した桓武天皇に南都の諸宗諸師が奉呈したもの。宗祖はこれを『撰時抄』等で南都の諸師が実質的に天台宗に帰依した「帰伏の状」とされている。『叡山大師伝』には次のように『謝表』本文を収録する。
  「沙門善議等言。今月二十九日。治部大輔正五位上和気朝臣入鹿奉宣。口勅。聞法華新玄講説於山寺。随喜於一乗。釈侶祇奉。慈誥。喜懼交懐。凡在緇徒。不勝慶戴。善議等聞如来西現。随衆生之機而演教。聖法東漸。依縁感之時而流化。是以始演華厳之説。頓度薩之衆。次開阿含之教。漸済声聞之徒復啓般若之理。以示人法空。後弘法華之妙。分別実之趣。遂総三乗之輩。共載一円之車。若乃漢明之年。教被震旦。磯島之代訓及本朝也聖徳皇子者。霊山之聴衆。衡岳之後身。請経西鄰。弘道東域。智者禅師者。亦共侍霊山降迹台岳。同悟法華三昧。以演諸仏之妙旨者也。竊見天台玄疏者。総括釈迦一代之教。顕其趣。無所不通。独逾諸宗。殊示一道。其中所説。甚深妙理。七箇大寺。六宗学生。所。未聞。曾所未見。三論法相。久年之諍。渙焉冰釈。照然既明。猶披雲霧。而見三光矣自聖徳弘化以降。于今二百余年之間。所講経論。其数多矣。彼此争理。其疑未解。而此妙円宗。猶未闡揚蓋以此間群生。未応円味歟。伏惟聖朝久受如来之付。深結純円之機。妙義理。始乃興顕。六宗学衆。初悟至極。可謂此界含霊。而今而後。悉載妙円之船。早済於彼岸。譬猶如来成道。四十年之後。乃説法華。悉令三乗之侶。共駕一実之車也。善等幸逢休運。乃閲奇詞自非深期。何詫聖世哉。不任慶躍之至。敢奉表陳謝以聞軽犯威厳伏増戦慄謹言」(『伝教大師全集』巻五 附録9頁) 
 南都六宗の碩学が伝教に帰伏する様子は、真撰遺文の『安国論御勘由来』『撰時抄』『報恩抄』『下山御消息』『諌暁八幡抄』『和漢王代記』、偽撰遺文の『一代五時継図(3-29)』に見える。この中の『撰時抄』と『一代五時継図(3-29)』に謝表の引用が確認される。『撰時抄』は「竊見天台玄疏者」から「共駕一実之車」まで、『一代五時継図(3-29)』は「漢明之年」から「敢奉表陳謝以聞」までを引用している。
 『略注秀句』は下巻に次のように謝表を引用している。
   「竊見天台玄疏者。惣括釈迦一代教。悉顕其趣。無所不通。独逾諸宗。殊示一道。其中所説。甚深妙理。七箇大寺。六宗学匠。昔未聞未曾見所。三論法相。久年之諍。緩焉冰解。照然既明。猶被雲霧。而見日光矣。自聖徳弘化以降。于今二百余年之間。所講経論。其数多。彼此争理。其疑未解。而最妙円宗。猶未闡揚蓋以此間群生。未応円味歟。伏惟聖朝久受如来之付属。深結純円之機。一妙義理。始乃興顕。幸而今奉値和尚。六宗学者。初悟至極。可謂此界含霊。而今而後。悉載妙円之船。早得済於彼岸。譬如如来成道四十年後。終説法華。悉令三乗之侶。共駕一実之車」
 『略注秀句』の謝表は、『撰時抄』と同じ範囲を引用しているが、独自に「幸而今奉値和尚」の一文を挿入している。また、『要決法華知謗法論』の謝表にも「幸而今奉値和尚」の一文が確認される。これは『略注秀句』と『要決法華知謗法論』が密接に関連し、その作者も同じか同グループで作成された可能性を示すものであろう。

 《おわりに》
 以上、『略注秀句』と日蓮遺文との類似点を幾つか挙げたが、他にも日蓮遺文との関連は多くみられる。いずれにせよ、伝教仮託『略注秀句』が日蓮門下により作成されたことは、ほとんど動かせないであろう。
 そして『略注秀句』は、『要決法華知謗法論』(安然仮託)に引用され、またこの二書は『助顕法華略記集』(安然仮託)に引用される。さらにこれらの三書は『法華本門宗要抄』の中で重要な文証として扱われている。つまり種々勘案すれば、四書は同一の作者もしくは同グループによって、『略注秀句』→『要決法華知謗法論』→『助顕法華略記集』→『法華本門宗要抄』の順に作成された状況が垣間見えるのである。
 これだけ勢力的に偽撰遺文が作成される背景には何があったのか。宗祖滅後の日蓮門下の状況を知るうえで、『略注秀句』などの仮託書は少なからず重要な鍵となるであろう。今後に文献史料の解読と考察を重ねて後稿を期したい。(渡邉)
 
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 天台大師は『法華文句』巻一上の序品釈で四節三益を説き、巻七下の化城喩品釈で大通結縁の三種を説いたが、今回は四節三益の第四節と大通結縁の第三類の下種について考え、合わせて身延期の末法下種論が天台教学の範囲を越え出ていることを確認したい。

(1)四節三益の第四節の下種
『法華文句』では四節三益の第三節と第四節をこう説明している。
  また次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す。今の開示悟入する者これなり。また次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す。未来に得度する者これなり。 
 赤色で示した第四節の「今世を種と為し」は釈尊在世の法華会座における下種と考えられる。その根拠は二つある。第一に天台大師が釈尊在世を今世と記す例は枚挙に暇がないこと。例えば『法華玄義』巻七上の本因妙釈に、
  今世已前、本来已後の中間行行は悉くこれ方便なり。(癡空の『講義』に「来は恐らく成の誤りならん」とある) 
『法華文句』巻四上の方便品釈に、
  一に久しく小を習い、今世に道熟し、小教を聞いて果を証す。論の如くんば、これは決定の声聞なり。
『法華文句』巻十上の分別功徳品釈に、
  元(もと)本より迹を垂れ、処処に開引し、中間に相い値いて数数成熟し、今世に五味もて節節に調伏し、収羅結撮して法華に帰会す。
とある。第二の根拠は第三節と第四節を『法華文句記』が、
  次に中間に種え、昔教に熟し、今日に脱す。次に復次の下は今日に種え、未来に熟し、未来に脱す。 
と扶釈すること。『法華文句』が第三節を「王城を脱と為す」としたのを、ここでは「今日に脱󠄀す」と記している。この王城・今日は釈尊在世の法華会座を指すから、桃色で示した第四節の「今日に種え」は釈尊在世の法華会座の下種であり、妙楽大師は赤色で示した『法華文句』の「今世を種と為し」をそう解釈しているのである。
 
  『注法華経』第八巻妙荘厳王本事品の裏に記された四節三益。傍線部が第四節の「今世為種」(今世を種と為し)の文。
  【図版は無断転載禁止です】 

(2)大通結縁の第三類の下種
 大通結縁の人はその後の中間に再び釈尊と逢値するが、逢値の仕方で三種に分類できるとして『法華文句』に、
  第二に中間に常に相い逢値するを明かす。逢値に三種あり。もし相い逢遇して常に大乗を受ければ、この輩は中間に皆な已に成就して今に至らず。もし相い逢遇して、その大を退するに遇い、仍(よ)りて接するに小を以てせば、この輩は中間に猶故(なお)未だ尽きず、今また大乗の教を聞くことを得たり。三にはただ小に遇うことを論じて大に遇うことを論ぜざれば、則ち中間に未だ度せず、今にまた尽きず、まさに始めて大を受け、乃至滅後に得道する者これなり。
とある。三種の内、第三類の下種は赤色で示した「始めて大を受け」た時である。しかしそれが何時なのか、『法華文句記』に扶釈がないので分かりづらいが、一応全文を私訳してみよう。私に補った文は〔 〕で括った。
  第二に中間において常に〔釈尊と〕逢値することを明かすと、逢値に三種類ある。〔第一類は大通結縁の後も退転せず、〕中間に再び〔釈尊と〕逢値して常に法華経を信受して解脱し、〔釈尊在世の〕今日に至らない。〔第二類は大通結縁後の〕中間で退大取小したため解脱できず、今日〔まで声聞に留まって〕再び法華会座で聞法した。第三類は〔初発心の時から〕小乗教に値遇することを求めて法華経を受け入れなかったので、その後の中間においても解脱できず、〔釈尊在世の〕今日でもまだ解脱できないが、まさに〔今日の法華会座で〕初めて法華経を信受したので〔釈尊〕滅後に解脱する。
 桃色で示したように、私は釈尊在世の今日の法華会座で「始めて大を受け」たと考えるから、第三類は、初発心の時から小乗教を信受して法華経を信受せず→中間に解脱できず→釈尊在世の今日でもまだ解脱できないが法華会座で初めて法華経を信受する→釈尊滅後に解脱する人であると思う。ところが下記のように浅井圓道氏の解釈は異なっている。
 
  『注法華経』第三巻化城喩品に記された大通結縁の三種。傍線部が第三類の「始受大」(始めて大を受け)の文。
  【図版は無断転載禁止です】 

(3)浅井圓道氏の解釈
 浅井圓道氏は論考「種・熟・脱の法門」(平成9年『天台大師研究』所収、後に平成11年の浅井圓道選集第二巻『日蓮聖人と天台宗』所収)にて、第三類が「始めて大を受け」たのは滅後末法であるとして、次の『開目抄』の文章を根拠に挙げた。
  ここに日蓮案じて云く、世すでに末代に入りて二百余年、辺土に生をうく。その上、下賤、その上、貧道の身なり。輪回六趣の間には人天の大王と生まれて、万民をなびかす事、大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず。大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり、一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入りぬべかりし時も、強盛の悪縁におとされて仏にもならず。しらず、大通結縁の第三類の在世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来たれるか。 
 浅井氏はこの「しらず、大通結縁の第三類の在世をもれたるか」の文によって、宗祖が「第三類は在世においても法華聞法に至らず、滅後末法に始めて法華に入信する人々であると判断していたことがわかる」とした。しかしこの文はそうした意味ではなく、宗祖は「自分はもしかすると、大通結縁を受けながらも受け入れなかった第三類であって、本来なら第三類の一人として在世の釈尊から下種されるはずであったのに、それに漏れてしまったのか」と自省しているのである。つまり第三類を上述のように、〈初発心の時から小乗教を信受して法華経を信受せず→中間で解脱できず→釈尊在世の今日でもまだ解脱できないが法華会座で初めて法華経を信受する→釈尊滅後に解脱する〉と理解しているのであるから、第三類は釈尊在世の法華会座で下種されたと考えるのが至当である。
 さらに浅井氏は四節三益の第四節の下種についても、「四節目の今世為種はいつの今世なのか妙楽も「今日種」というのみで、意味が取りにくいが、大通十六沙弥の三類の中の第三類のところに照らせば滅後の今世である」と判じた。第三類の下種を滅後末法とする自説に基づいて、天台大師が第四節の下種を「今世を種と為し」、妙楽大師が「今日に種え」としたのを滅後における下種と判断したのであるが、上述のごとく、これは釈尊在世の法華会座における下種である。

(4)天台教学の三益の範囲は久遠から像法まで
 ここまでに触れなかった第一節と第二節を含めて整理すると四節三益は、
  〔第一節〕久遠に下種→中間に調熟→在世に解脱
〔第二節〕久遠に下種→過去に調熟→近世に解脱
〔第三節〕大通に下種→四味で調熟→在世に解脱
〔第四節〕在世に下種→次世に調熟→後世に解脱 
であり、第四節の「後世に解脱」は日蓮教学に照らせば像法までに解脱すると考えられるため、四節三益は久遠釈尊の下種から像法の解脱までを範囲としている。また大通結縁の三種は、
  〔第一類〕大通に下種→退転せずして中間に再び法華経を信受して解脱
〔第二類〕大通に下種→中間に退転したため解脱できず→在世で再び法華経を聞法
〔第三類〕在世に下種→滅後に解脱 
であり、第三類の「滅後に解脱」も像法までに解脱すると考えられるため、大通下種から像法の解脱までが範囲で、四節三益の範囲を越え出るものではない。また本コラムでは触れていないが、『法華玄義』巻一上の三種教相の化導始終不始終相は、大通に下種→中間に調熟→在世に解脱する三益であり、これも四節三益の範囲内である。このように、たとえ『法華文句』の四節三益のところに、「その間節節に三世九世を作し、種と為し、熟と為し、脱と為す」とあるとしても、日蓮教学に照らす限り、天台教学の三益論は釈尊の久遠下種から像法の解脱までが範囲であり、末法の下種を語っていない。ところが、浅井説では天台教学の三益論が末法の下種および解脱に及んでいることになり首肯できないのである。

(5)滅後末法における宗祖の不軽の行と上行自覚
 上記のように宗祖は『開目抄』で、自分はもしかすると、大通結縁を受けながらも受け入れなかった第三類の衆生であって、本来なら在世の釈尊から下種されるはずだったのにそれに漏れてしまったのであろうか、それとも五百億塵点劫の釈尊の下種を退転して今に流転してきたのであろうかと自省していて、自分を久遠下種・大通結縁の逆縁の者と考えていた。
 ところが『小乗大乗分別抄』には「今は又末法に入りて二百余歳、過去現在に法華経の種を殖えたりし人々もやうやくつきはてぬ」、『曾谷入道殿許御書』には「今は既に末法に入りて在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ」とあり、末法では久遠・大通・在世の釈尊下種を受けた人が尽き果てたと決するに至る。その末法衆生の一人である宗祖は『南部六郎三郎殿御返事』に、
  釈尊、我が因位の所行を引き載せて末法の始めを勧め励ましたまふ。不軽菩薩、既に法華経の為に杖木を蒙りて、忽ちに妙覚の極位に登らせたまひぬ。日蓮此の経の故に現身に刀杖を被り二度遠流に当たる。当来の妙果之れを疑ふべしや。
と、不軽菩薩の妙法受持と下種行を行じた自分の未来成仏を確信している。そして上行再誕の自覚を抱いて『曾谷入道殿許御書』に、
   此の四大菩薩は(中略)但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮 仏専ら末世の時に限りて此等の大士に付属せし故なり。
此等の大菩薩末法の衆生を利益したまふこと、猶魚の水に練れ、鳥の天に自在なるが如し。濁悪の衆生、此の大士に遇ひて仏種を殖うること、例せば水精の月に向かひて水を生じ、孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し。
と記した。すなわち釈尊の植えた妙種の効力が失われた悪世末法は、地涌菩薩が新たな妙種を植える時代であるとされたのであり、しかもその妙種は名字即のままで成仏を叶える末法適時の法体を有している。このような身延期の末法下種論は、天台教学の三益の範囲を越え出て独自性を持つことになった。
 では、宗祖の上行自覚が表出する初見は何時か。それは文永十一年十二月に身延山で図顕された通称万年救護本尊の次の讃文である。
  大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三箇国之間未有此大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父以仏智隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世始弘宣之
《書き下し文》
  大覚世尊の御入滅の後、二千二百二十余年が経歴す。爾りと雖も月・漢・日の三箇国の間に未だこの大本尊有(ましま)さず。或いは知ってこれを弘めず。或いはこれを知らず。我が慈父は仏智を以󠄀ってこれを隠し留め、末代のためにこれを残したもう。後五百歳の時、上行菩薩が世に出現して始めてこれを弘宣す。
 妙法曼荼羅本尊は宗祖によって初めて図顕され、しかも上行菩薩が末法に出現して初めて弘宣する本尊であるというのだから、この時点で上行自覚を抱いていたことに疑いを挟む余地はない。この本尊を授与された日興上人はその自覚を知っていたが、この時日興門流以外のどれほどの人が知っていたかは不明である。この本尊は日興→日目→日郷と相伝されて、現在千葉県安房の保田妙本寺に格護されている。
 釈尊は涌出品で他方菩薩の滅後弘通の申し出を止め、神力品で迹化菩薩を差し置いて上行等の地涌菩薩の申し出を受諾した後、
  日月の光明が、よく諸の幽冥を除くがごとく、この人は世間に行じて、よく衆生の闇を滅し、無量の菩薩をして、畢竟して一乗に住せしめん。
と述べている。言うまでもなく「この人」は上行等の地涌菩薩であり、これは滅後悪世に法華経を唱導することを志願した地涌菩薩への餞(はなむけ)の言葉である。宗祖は分別功徳品の「悪世末法の時」の経文に照らして地涌菩薩の唱導を末法の今と捉え、上行自覚を抱きつつ不軽の行を貫いた。よって、この下種は〈滅後末法における、滅後末法の宗祖による、滅後末法の衆生のための下種〉であると結論づけられる。宗祖と艱難辛苦を共にした日興上人以来、我が門流ではこのように宗祖を末法下種の教主と拝して信奉するのである。
 浅井先生には法華玄義講義で種々教えていただいたが、その報恩のため今回あえて私見を提示した次第である。〈菅原〉
 
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 地涌菩薩は末法の逆謗に一大秘法を下種するが、どうして三悪道の大苦を忍ぶことができるのか。『曾谷入道殿許御書』に理由が三つ記してある。
  一住於娑婆世界多塵劫。二随於釈尊自久遠已来初発心弟子。三娑婆世界衆生最初下種菩薩也。
《書き下し文》
  一には娑婆世界に住すること多塵劫なり。二には釈尊に随ひて久遠より已来初発心の弟子なり。三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。 
 今回考えるのは「娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」の意味であり、現在二様に解釈されている。
  ⓐ地涌菩薩は娑婆世界の衆生の中では最初に下種を受けた菩薩である。
ⓑ地涌菩薩は娑婆世界の衆生に最初に下種を施した菩薩である。
 龍吟社の『日蓮聖人御遺文講義』第七巻二六一頁や春秋社の『日蓮聖人全集』第三巻二五六頁ではⓐ説を取り、平楽寺書店が刊行してピタカが覆刻した『日蓮聖人遺文全集講義』第十四巻一三二頁ではⓑ説を取る。はたして宗祖の真意はどちらであろうか。諸文献の記述から答えを導き出したい。

 
  『曾谷入道殿許御書』に記された三つの理由。
傍線部が「娑婆世界衆生最初下種菩薩也」の文。
  【図版は無断転載禁止です】 

(1)『注法華経』に記入された四節三益の久遠下種と「本因の遠種」の文
『注法華経』には久遠下種に関する文が多く記入してあるので、主なものを見てみよう。先ず『法華文句』巻一上の四節三益・第一節と第二節の文である。
  衆生は久遠に仏の善巧をもて仏道の因縁を種(う)えしむるを蒙り、中間に相い値󠄀いて、更に異なる方便を以て第一義を助顕してこれを成熟し、今日花を雨(ふ)らし地を動ぜしめ、如来の滅度を以てこれを滅度す。また次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等これなり。
 赤色で示した第一節では釈尊が久遠に娑婆世界の衆生に下種し、桃色で示した第二節では釈尊が久遠に地涌菩薩に下種したとされる。これを『法華文句記』巻一上ではこう扶釈する。
  初めの一節は本の因果に種え、果後にまさに熟し、王城にすなわち脱󠄀す。次に復次の下は本の因果に種え、果後の近くに熟し、まさに過去に脱するは地涌の者を指す。 
 第一節第二節ともに「本の因果に種え」として、釈尊が久遠の本因と本果に娑婆世界の衆生、並びに地涌菩薩に下種したとされる。この『法華文句』の文は『注法華経』序品、化城喩品、妙荘厳王本事品の三箇所、『法華文句記』の文は『注法華経』化城喩品と妙荘厳王本事品の二箇所に記入してある。さらにこの『法華文句記』の直前にはこうある。
  別教は具すと雖も、教は終にこれ権なり。況んやまた能く本因の遠種あらんや。(中略)初めの第一節は、脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ
 緑色で示した「本因の遠種」は釈尊が久遠本因時に植えた仏種のことであり、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」は『法華文句』第一節が説示する、久遠に下種されて→在世に解脱するという時間軸を逆にして、解脱の根源たる久遠下種を重視したものである。「本因の遠種」の文は『注法華経』化城喩品、涌出品、寿量品、妙荘厳王本事品の四箇所、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」の文は『注法華経』序品、化城喩品、妙荘厳王本事品の三箇所に記してある。
 注目すべきは『注法華経』涌出品と寿量品に記入された「本因の遠種」の文であり、その意図を私はこう考える。先ず涌出品の裏に記された「本因の遠種」の文の表には次の経文がある。
  その時に世尊は重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説きて言わく、(略)我れは伽耶城の菩提樹下において坐して、最正覚を成ずることを得て、無上の法輪を転じ、爾して乃ち之れを教化して、初めて道心を発こさしむ。今皆な不退に住せり。悉く当に成仏することを得べし。我れ今、実語を説く。汝等は一心に信ぜよ。我れは久遠より来、是れ等の衆を教化せり、と。
 この「爾して乃ち之れを教化して、初めて道心を発こさしむ」は、釈尊が地涌菩薩を教化して初めて道心を発こさせたことを説き、「我れは久遠より来、是れ等の衆を教化せり」は、その教化が久遠以来であることを説く。こうして釈尊が久遠以来、地涌菩薩を教化してきたことが説き明かされるが、宗祖はこの経説と「本因の遠種」に密接な関係を認めて、釈尊が久遠本因時に下種して以来、地涌菩薩を教化してきたと考えているようである。そうであれば、『法華文句記』第二節の「本の因果に種え、果後の近くに熟し、まさに過去に脱するは地涌の者を指す」の説示を受容していると見て良いであろう。地涌菩薩は釈尊から下種されたのであり、釈尊の教化は常に下種に始まり、熟脱で終わるのである。
 寿量品の裏に記された「本因の遠種」の文の表には「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず」という釈尊の本因妙を表す経文があるから、宗祖は本行菩薩道の本因時に釈尊が下種したと考えているようであり、本因時に下種されたのは『法華文句記』第一節の「本の因果に種え、果後にまさに熟し、王城にすなわち脱󠄀す」る人と第二節の地涌菩薩なので、この第一節第二節の説示を肯定的に受容していると見て良いであろう。

 
  『注法華経』寿量品の裏に記入された「本因遠種」の文(傍線部) 
  【図版は無断転載禁止です】 

(2)『法華取要抄』と草案『以一察万抄』の記述
 次に『法華取要抄』とその草案『以一察万抄』を見ると、『法華取要抄』には、
  此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。(中略)有縁の仏と結縁の衆生とは、譬へば天月の清水に浮かぶが如し。 
と、娑婆世界の衆生が久遠に釈尊と結縁したことを述べていて、『以一察万抄』の当該箇所には、
  教主釈尊は五百塵点劫已来、妙覚果満の仏。此の土の一切衆生の本師なり。結縁衆なり。その上、成仏往生の法は必ず最初の下種を以て最後の得脱と為すと習うなり。
とあり、久遠の釈尊は娑婆世界の衆生に最初に下種結縁した本師であるという宗祖の認識が窺える。

(3)『曾谷入道殿許御書』の基本認識
 次に『曾谷入道殿許御書』における基本認識を確認したい。本書が「夫れ以みれば重病を療治するには良薬を構索し、逆謗を救助するには要法には如かず」の文で始まるのは、末法の逆謗に上行付属の要法五字を下種すべきことを説くためである。その弘通は悪口罵詈されても打ち叩かれても法華経を説けという不軽品の方規が採用されるが、譬喩品では無智の人に法華経を説いてはいけない、法師品では秘蔵の法華経を妄りに説いてはいけないと誡めているので、この矛盾を宗祖は『法華文句』巻十上の次の文によって解消する。
  本已に善あるには釈迦小を以てこれを将護し、本未だ善あらざるには不軽大を以てこれを強毒す。 
 本未有善の末法では不軽菩薩のように直ちに妙法を下種すべきであるが、本已有善の釈尊在世では爾前経を説いて機根を調熟するから、譬喩品法師品のそれはこの時に取るべき方規と会通して、当文をこう解説するのである。
  釈の心は寂滅・鹿野・大宝・白鷺等の前四味の小大・権実の諸経・四教八教の所被の機縁、彼等が過去を尋ね見れば、久遠大通の時に於て純円の種を下せしも、諸衆一乗経を謗ぜしかば三五の塵点を経歴す。然りと雖も下せし所の下種純熟の故に、時至りて自ら繋珠を顕す。 
 釈尊在世の爾前経会座にいるのは、久遠や大通の時に釈尊から下種された本已有善の人であり、謗法のため五百億塵点劫・三千塵点劫を流転したが、植えられた種子は次第に熟して法華経会座で繋珠を顕し得脱するのであると。では法華経説法を待たずに、爾前経会座で成仏した人はどう考えれば良いのか。
  答へて曰く、彼等の衆は時を以て之れを論ずれば其の経の得道に似たれども、実を以て之れを勘ふるに三五下種の輩なり。 
 爾前経会座で成仏した人も、結局は久遠や大通の時に植えられた妙種が爾前経を助縁に花開いたに過ぎないとして、文証に次の四文を引く。
  答へて曰く、法華経第五の巻涌出品に云く「是の諸の衆生は世々より已来、常に我が化を成就せり。乃至、此の諸の衆生は始め我が身を見、我が所説を聞いて、即ち皆信受して如来の恵に入りにき」等云云。天台釈して云く「衆生は久遠に」等云云。妙楽大師の云く「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」。又云く「故に知んぬ。今日の逗会は昔の成熟するの機に赴く」等云云。
 これは①釈尊在世の人は遙かな過去世より釈尊の教化を受けてきたから、今世に如来の恵に入ることができると説く涌出品の経文。この経文は『法華文句』巻九上にて「即ち華厳を禀けて如来恵に入る」と釈されている。②釈尊在世の人は久遠に釈尊から下種されたことを説く『法華文句』の「衆生は久遠に仏の善巧をもて仏道の因縁を種えしむるを蒙り」の文。③釈尊在世に解脱する人の根源は久遠下種に遡ることを説く『法華文句記』の「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」の文。④釈尊在世の説法は過去世に植えられた仏種が成熟した人のためであることを説く『玄義釈籖』の「故に知んぬ。今日の逗会は昔の成熟するの機に赴く」の文の四つである。
 ここに宗祖の基本認識が窺える。②の『法華文句』は上述(1)の赤色で示した第一節の下種の文であり、③の『法華文句記』も緑色で示した第一節に関する文であるから、第一節の説示を肯定的に受容しているのは明白で、釈尊の教化は久遠下種、あるいは久遠本因本果の下種の時から始まっていると認識しているのである。

(4)「日興上人御遺告」の記述
 次に「日興上人御遺告」の記述である。この御遺告は日興上人が逝去前年の元徳四年(1332)正月十二日に門下に遺誡し、それを弟子の日道が記録したもので、日道の自筆本は現存しないが日時撰の『御伝土代』に収載されており、内容は十分信頼が置ける。日道(1283~1341)は大石寺四世、日時(~1406)は同六世である。「日興上人御遺告」にこうある。
  日蓮聖人云、本地ハ寂光地涌大士上行菩薩、六万恒河沙上首。久遠実成釈尊之最初結縁令初発道心之第一御弟子也。 
《読み下し文》
  日蓮聖人の云わく、本地は寂光の地涌大士の上行菩薩にして、六万恒河沙の上首なり。久遠実成の釈尊の最初に結縁して、初めて道心を発さしむ第一の御弟子なり。 
 宗祖は自分の本地を地涌菩薩の上首上行菩薩であるとし、上行は久遠の釈尊が最初に下種結縁して初めて道心を発こさせた第一の弟子であると述べていたというのである。これは(1)に記した涌出品の経文や『法華文句』第二節「久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等これなり」の文、その『法華文句記』の扶釈「本の因果に種え、果後の近くに熟し、まさに過去に脱するは地涌の者を指す」の文に照らして、至極当然であり得心がいく。宗祖が第二節の説示を肯定的に受容していたことが、これによっても分かる。
 以上の考察によって、『曾谷入道殿許御書』の「娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」の文が、ⓐ地涌菩薩は娑婆世界の衆生の中では最初に下種を受けた菩薩である、という意味であるのは明白で、逆に言えば、『注法華経』記入の諸文や確かな宗祖遺文による限り、ⓑ地涌菩薩は娑婆世界の衆生に最初に下種を施した菩薩である、という意味に受け取るべき根拠は一切見出せない。
 このように正しく理解することにより、初めて「日興上人御遺告」の「久遠実成の釈尊の最初に結縁して、初めて道心を発さしむ第一の御弟子なり」の文が、本コラムの冒頭に示した三つの理由の内、
  二には釈尊に随ひて久遠より已来初発心の弟子なり。三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。 
の二つを一文に言い表していることが一目瞭然となるのである。

(5)終わりに
 釈尊は久遠あるいは久遠本因本果に娑婆世界の地涌菩薩等の一切衆生に下種し、順縁はその後に解脱して、逆縁は五百億塵点劫を流転するも釈尊在世の法華会座及び像法までに解脱を得た。その間、種熟脱の化導が重層的に繰り返される。そして仏滅後の悪世末法の弘通は、釈尊の委嘱を受けた上行等の地涌菩薩が行うことが法華経に約束されている。それを承けて、末法の本未有善の一人である宗祖は心奥に上行再誕を自覚しつつ、不軽菩薩の妙法受持と下種行を実践したのであり、下種の法体は天台宗のような初住や妙覚を目指すものではなく、信と唱題の名字即で成仏を叶える当位即妙・不改本位の法体を有している。宗祖及び日興門流ではこうした末法適時の仏法を立てるのである。
 これに関して付言すれば『法華取要抄』後半には、
  諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり。諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり。
日蓮は広略を捨てて肝要を好む、所謂 上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。
仏既に宝塔に入りて二仏座を並べ、分身来集し、地涌を召し出だし、肝要を取りて末代に当たりて五字を授与せんこと当世異義有るべからず。
是の如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之れを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。
とあり、滅後末法における地涌菩薩の下種益を述べている。これは本書前半にて、娑婆世界の衆生にとって有縁の仏は大日如来や阿弥陀仏、小乗の釈尊、華厳経の釈尊、法華迹門の釈尊ではなく本門久成の釈尊であり、久遠以来釈尊の下種の妙法によって成仏してきたことを確認した上で、この後半では本未有善の滅後末法は地涌菩薩が新たに下種する妙種が効力を発揮する時代であるという、時節の転換を語っていると考えられる。そのため上記の『以一察万抄』に、
  教主釈尊は五百塵点劫已来、妙覚果満の仏。此の土の一切衆生の本師なり。結縁衆なり。その上、成仏往生の法は必ず最初の下種を以て最後の得脱と為すと習うなり。
と、釈尊による一仏始終の種脱益を記していても、それは久遠から像法までに限っての話であって、釈尊の種脱益が末法に及ぶことを述べている訳ではない。よって『曾谷入道殿許御書』にも、
  今は既に末法に入りて在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり。
天台云わく「猶百川の海に潮すべきが如し。縁に牽かれて応生するも亦復是の如し」云云。恵日大聖尊、仏眼を以て兼ねて之れを鑑みたまふ。故に諸の大聖を捨棄し、此の四聖を召し出だして、要法を伝へ、末法の弘通を定むるなり。
而るに予、地涌の一分に非ざれども、兼ねて此の事を知る。故に地涌の大士に前立て粗五字を示す。
とあり、釈尊が下種した妙種の効力が失われる滅後末法は、宗祖が下種する妙種によって成仏することを述べているのである。〈菅原〉
 
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 以前この御書コラムにて、「注法華経を研鑚した僧侶たち」と題して、『注法華経』と日進『金綱集』、日全『法華問答正義抄』の内容的関連について述べたことがある。
 『注法華経』「普賢品」(第8巻裏面)の「若如来滅後。後五百歳。若有人。見受持読誦。法華経者。応作是念」という経文の真裏に引用された、『文句』『文句記』『仁王経』「道液疏」『文句輔正記』『守護国界章』『百光房慶暹律師懺法式』「善見律(論)」等々の経論釈が日進『三国仏法盛衰之事』(『日蓮宗宗学全書』1巻325頁)にも「後五百歳事」としてほぼゝゝ引用され、日全『法華問答正義抄』には法華経が後五百歳中に広宣流布する文証として「仁王経の説並びに道液疏・善見律・中論・宝法師釈・妙勝定経・天台妙楽の御釈・大集経・法華経・伝教及び恵心・百光坊慶暹律師の懺法式等、分明なり」等と述べている。『注法華経』の内容が両師の論述に反映していることは明かであろう。『注法華経』の引用には、現在では不明な典籍や逸文と思われる経論釈があることも少なからず興味を引こう。
 今回は、これらの引文が政海撰『一乗論談抄』の内容とも関わることを報告したい。
 撰者・松林房政海(1231~98―)、宗祖とほぼ同時代を生きた天台僧で、檀那流と恵心流の両流を兼学し、自らは政海―一海―承海―充海―円海―救海と系譜を引く土御門門跡流を形成した。また『一乗論談抄』は『法華十軸抄』『法華文句伊賀抄』等と並び称される、鎌倉時代の法華経注釈書であり、当時の天台教学の内実や傾向を考察する上で重要な文献である。
 その『一乗論談抄』「序品釈」には、末法に教行証(教法と修行と証果)の三つが具わるか否かとの論議があり、『注法華経』の諸文とも関わりの深い一文が示されている。当該箇所の翻刻(一二点、送り仮名等を省略)と写真図版を掲げてみよう。

①  「問、於末法中有行証者可云耶。両方。若無行証者、疏云、後五百歳遠沾妙道。記云、末法之初冥利不無。且拠大教可流行時。故云五百。」 
「……仁王経中八十年〈天台疏云、正法始衰〉、八百年〈像法澆偽〉、八千年中〈末法将尽〉無仏無法無僧〇此時経三宝付属。道液疏云、八十年者、五部諍論初興時、滅正法之萌也。八百年者、空有諍興滅像法之萌也。八千年者、末法之興也。……」 
「善見論云、初一千年諸弟子勤行精進得阿羅漢果。第二千年得第三果。第三千年得第二果。第四千年得於初果。従此已後是乗末法。此説……」
④  「難云、輔下文、十六羅漢伝持正法至于未来人寿六万歳時正法又興。増至七万歳正法永滅。故……」 
 
  【図版は無断転載禁止です】 
 ①は「於二末法中一有二行証者一可レ云耶」との問いに対し、『文句』『文句記』を引用し文証とする。その流れで②は『仁王経』「道液疏」からの引用。次いで③は「善見論」、④は『文句輔正記』の一文など、多くの経論釈が引用されている。これらの内、『文句』の「後五百歳遠沾妙道」や『文句記』の「末法之初冥利不無」の文は宗祖遺文の諸処に引用があり、『観心本尊抄』『撰時抄』等では両文をセットで用いられている。宗祖は法華経を弘通するために、「末法」という時節に多大な関心を持たれていたが、『一乗論談抄』でも相当な注意が払われているようである。
 もっともここで興味を惹くのは、先ほど述べた『注法華経』「普賢品釈」の引文との共通性である。以下に『注法華経』当該部分の翻刻と図版を掲げてみよう。

「文句一云、後五百歳遠沾妙道。記云、且拠大教可流行時。記云、然後(五)五百且従一往。〔○〕故云五百。」
②  「仁王経云、八十年〈天台疏云、正法始衰〉。八百年〈像法澆偽〉。八千年〔中〕〈末法将尽〉。無仏無法無僧〔○〕時。此経三法(宝)付属、諸国王四部弟子。受持読誦〔説〕法(解)義。修七賢行十善行化一切衆生。」
「道液疏云、八十年者。五部諍論初興時、滅正法之萌〔時〕。八百年者、空有諍興〔時〕滅像法之萌時(也)。八千年者、末法之興也。」 
④  「輔下文云、十六羅漢伝持正法至于未来、人寿六万歳時。正法無息。増至七万歳正法永滅。……」 
「私云、善見律(論)云、初一千歳(年)得〔阿〕羅漢果。第二千年得第三果。第三千年得第二果。第四千年得〔於〕初果。従此已後是我末世。」
 
  【図版は無断転載禁止です】 
 これら『注法華経』の引文群たる、「文句一云」「記云」「記云」「仁王経云」「道液疏云」「輔正文云」「善見律(論)云」は、上記に示した『一乗論談抄』の引文と、文章の具略はあるものの見事に一致している。
 それのみならず、②「仁王経」引文は、本来の『仁王般若波羅蜜護国経』では、
  八十年八百年八千年中。無仏無法無僧。無信男無信女時。此経三宝付属諸国王四部弟子受持読誦解義為三界衆生。開空恵道。修七賢行十善行。化一切衆生。 
とあるのを、『一乗論談抄』『注法華経』ともに、「八十年八百年八千年」の経文に、それぞれ同じく「天台疏云、正法始衰」「像法澆偽」「末法将尽」の注記を付している。写真図版を見ればわかるように、割書の仕方まで同じなのである。さらに『仁王経』の「無信男無信女」の経文を同じように中略している。
 また「道液疏」(『仁王般若経疏』。該書は『智証大師請来目録』に記入がある)は不現伝の書物で、都率覚超の『仁王護国鈔・巻下』(『大日本仏教全書』6巻189頁)に当該部分だけが「液云」として引用される特殊な一文であるが、両書はほぼ同文を引用している。
 次いで『一乗論談抄』の「輔下文」(道暹『法華文句輔正記』)の引用は「取意」とあるが、たしかに『輔正記』に当たると、「伝持正法至于未来」(『続蔵経』45巻38頁)の部分はまったく表記が異なっている。しかし当該部分の『注法華経』と『一乗論談抄』の表記は殆んど同じである。
 また「善見論」「善見律(論)」も証真『文句私記』(『大日本仏教全書』21巻394頁)や『仁王般若波羅蜜多経疏』(『大正蔵』33巻520頁)と関わって、少しく特殊な一文だが、『一乗論談抄』と『注法華経』には同内容の引文がある。
 このように両書の引文は互いに密接な関連を有している。ただし政海が『注法華経』を、宗祖が『一乗論談抄』を披見する可能性は殆んど考えられないし、さりとて引文における中略の仕方や原典にない文言の付加、さらには「取意」の文章が同内容であることを思えば、両者が経論釈を個々に引文し、編集したとも考えづらい。
 これは当時において、末法に教行証が具わるか否かの論義が盛んに行われるなど、そうした共通認識のもとで同種の要文集が様々なかたちで作成されていたのであろう。そうでなければ、『仁王経』における割書の注記や『輔正記』の「取意」の文章が同内容になるなどあり得ないことであろう。おそらく宗祖と政海は、別々に同種の要文集を披見し活用したことが推察されるのである。
 今回の『注法華経』と『一乗論談抄』の内容的な関連は、末法意識や末法超克に関する宗祖と政海の教学的な接点を垣間見たようで興味深い感がする。(池田)
 
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1、『食物三徳御書』の書誌
 『食物三徳御書』は全貌がわからない断簡書状で、その真蹟第一紙後半四行・第二紙・第三紙・第四紙前半五行が静岡県大石寺に所蔵される。
 『日蓮聖人御遺文』(以下『縮刷遺文』)の「続集」にはじめて収録されるが、第一紙後半四行は入れておらず、『昭和定本 日蓮聖人遺文』(以下『定遺』)も当初はそれを「断簡二八三」として別掲していたが、平成一二年版では、『昭和新定 日蓮大聖人御書』(以下『新定』)『日蓮聖人真蹟集成』(以下『真蹟集成』)に従って、四紙一括して『食物三徳御書』としている。なお、『新定』脚注には第一紙後半四行は京都府住本寺蔵としており、稲田海素が大石寺調査をした折には、住本寺蔵だった故に『縮刷遺文』(続集)には未収録だったことがわかる。『真蹟集成』解説では四紙すべて大石寺蔵としおり、その後大石寺に所蔵されることになったと思われるが、『平成校訂 日蓮大聖人御書』(1686頁)脚注では住本寺蔵としている。要確認である。
 寸法は『真蹟集成』(第九巻)解説によれば、タテ30・2㎝、ヨコは四断簡合わせて116・1㎝である。タテは通常の料紙が31㎝から33㎝前後が多く、それに比してやや短いが、写真を見るに上下の余白がほとんどなく、表装時に切断されたためと思われる。ヨコは各紙の寸法は記されていないが、通常は43㎝から45㎝前後が多いので、それから換算予測をするに、ほぼ通常の料紙が使用されているものと思われる。
 第二紙・第三紙は完存ながら右肩に丁付がされていない。かつ第一紙終行の「人」「食」の文字が第二紙に渡っているようで(写真①②参照)、継紙に書かれたものと思われ、四紙以上でありながら丁付がないのはそのためと思われる。
 丁付がないので、最初の四行断簡を今は暫定的に「第一紙後半四行」としたが、必ずしも第一紙と特定することはできない。

2、読みについて
   
  ②第二紙冒頭三行   ①第一紙後半四行
 
   ③『大田殿許御書』「大宗」、『真蹟集成』2巻281頁
   【図版は無断転載禁止です】 
 『定遺』は①第一紙冒頭一行目を読まず、二行目から「たからとす。魚は水をおやとし、‥‥」とし(1607頁)、『新定』はかろうじて見える文字左半分の墨痕から「たからとす。山の中には塩をたからとす。魚は水をおやとし、」棒線部分のように判読している(1941頁)。ただし写真を見る限りそこまでは判読できず、「たから」、「山の中に」の左部がかろうじて判読される。『平成校訂 日蓮大聖人御書』は「たから。山の中たからとす。魚は水をおやとし、」としている。『新定』は後に示す『上野殿御返事』の、本状との類文を参考としたものと思われる。今は『新定』の読みを可としておきたい。
 また次下②第二紙一行目の『定遺』が「かるがゆへに大國之王は民ををやとし」とするのを、『新定』は「大荘嚴王は」とし、『平成校訂日蓮大聖人御書』は「大王は」としている。写真を見るに『定遺』『新定』の読みは不可である。残る墨痕からは「大宗之王は」と読むのが良いように思われる。参考として③『大田殿許御書』の「大宗」を掲げておく。
 なおこれらの類文として、弘安二年正月三日状真蹟断存『定遺番号』三二五『上野殿御返事』に「夫れ海邊には木を財とし、山中には塩を財とす。旱魃には水をたからとし、闇中には燈を財とす。女人はをとこを財とし、をとこは女人をいのちとす。王は民ををやとし、民は食を天とす。」(1621頁)との文が見られる。

3、内容と対告者について
 さて本状の内容であるが、食には、第一に命をつぎ、第二に色を増し、第三に力を添えるという三徳があるとし、さらに人に物を施すことはその人のためのみならず、自身のたすけとなることが示されている。ただし悪人に施せば、悪人の力を増長させるのであるから、施者はかえって力を失う報いを受けることになるとする。
 ついで経典の文字は釈尊の生気そのものであると述べるが、その後は欠していて詳細は分からない。
 対告者は宛所を欠しており、また文中それを特定する記述は見られず不明であるが、大石寺に伝来する書状の多くは駿河地方の檀越宛、ことに南条家・河合(西山)家・高橋家関係が多いので、本状もそのいずれかに宛てられたものであろう。
 中でも塩の供養が見られるのは、『定遺番号』二一五『南条殿御返事』(1170頁)、三〇六『上野殿御返事』(1571頁)、四一一『南条殿御返事』(『定遺』は「南条兵衛七郎殿御返事」1883頁)、四二六『春初御消息』(1908頁)と、南条時光宛が殆んどであり、その点を考慮すると本状は、南条時光宛である可能性が極めて高いといえよう。
 なお食物三徳につき「食には三の徳あり。一には命(いのち)をつぎ、二にはいろ(色)をまし、三には力をそう」と述べているが、類文として『本満寺録外』が初出ながら建治二年閏三月五日状、二一四『妙密上人御消息』に「人に食を施すに三の功徳あり。一には命をつぎ、二には色をまし、三には力を授く。」(1162頁)とあり、建治二年初め頃に系けられる三二三『衣食御書』に「それ、じき(食)はいろ(色)をまし、ちから(力)をつけ、いのち(命)」をぶ。」(1619頁)とあり、ほぼ同内容である。

4、系年について
 本断簡は後欠で年次の記載は見られない。『定遺』『新定』は弘安元年とするが、山中喜八『日蓮大聖人御真蹟目録』(844頁)は建治二年とする。岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』(3巻745頁)では、『衣食御書』との共通性から山中説を支持する。
 文中系年を特定する記述は特にないが、強いていえば右に述べ、岡元氏も指摘するように、建治二年に系けられる『妙密上人御消息』『衣食御書』にほぼ同文が見られることが注目される。もちろんそのことは決定的な系年特定の根拠とはいえないが、山中喜八氏の筆跡鑑定をも考慮し、今は建治二年と推定しておく。
 その場合、建治二年閏三月二十四日状『定番』二一五『南条殿御返事』にて、「しお(塩)一だ(駄)」(1170頁)と大量な塩が送られており、一定の間隔を考慮すれば、同年の末頃とするのが妥当と思われる。(山上)
 
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 『白米和布御書』は『毒鼓』(4巻3号・昭和6年5月1日)巻頭にはじめて写真が掲載され、『日蓮聖人真蹟集成』(以下『真蹟集成』)には未収録のご真蹟書状である。遺文集としては『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(浅井要麟編集)に『白米御書』の名で始めて収録され、『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下『定遺』)には『白米和布御書』の名で収録されている。
 以下に本状の読みについての所見を少々、また対告者と伝来、そして系年について述べたい。

《読みについて》
 
  写真①『白米和布御書』。『毒鼓』(4巻3号)から転載
     
    写真④  写真③     写真②  
    【図版は無断転載禁止です】  
 本状は寸法は不明ながら、その形状から通常の料紙を半分に折って記す折紙書状と思われ、その内容は白米五升・和布(わかめ)一連の供養に対する礼と、阿育大王が過去得勝童子たりし時、沙の餅を仏に供養した功徳によって一閻浮提の王となった故事を示し、今施主は『法華経』に白米を供養して成仏したと述べる、ごく簡単なものである。
 さて写真①の二行目の赤線部分、『定遺』は「一連給了」(「一連給ひ了ぬ」1132頁)と読んでいるが、これは写真②『檀越某御返事』冒頭と同形で、同文を『定遺』(1493頁)、『日蓮大聖人御真蹟対照録』(上巻409頁・以下『対照録』)ともに「御文(ふみ)うけ給候了」(御文(ふみ)うけ給はり候了んぬ)と読み、「候」の字が入っており、ここは「一連給候了」(一連給わり候了んぬ)と「候」を入れて読むべきである。
 次に末文の赤線部分を、『定遺』は初版では「何故飢を申べき。」(何故に飢えを申すべき)と読んでいたが、改訂版にて「何況飢世也」(何に況や飢えたる世を也)と改めている。ちなみに初出の『毒鼓』は「何に況んや飢たる世をや」、『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(『白米御書』2412頁)は「何(いか)に況(いはん)や飢(うゑ)をや」と読んでいる。
 今写真を見るに、「飢」の次の文字は「世」ではなく「を」であり、次行冒頭の文字は「也」ではなく「や」と記されていると思われる。すなわち「何況飢をや」(何に況んや飢えたるをや)と読むべきである。
 ちなみに本状は一見漢文体のように見え、その点この読みは不都合に思えるが、三行目に「阿育大王ハ」と仮名が見られるので問題はない。
 参考として写真③『転重軽受法門』(『真蹟集成』2巻103頁10行目)の「何況一部をや」を示した。「や」の字は多少異なっているが、写真④の『一谷入道女房御書』(『真蹟集成』4巻147頁終行)「行すへきにや」の「や」が似ているように思われる。

《対告者と伝来》
 対告者については、岡元錬城氏『日蓮聖人遺文研究』(2巻481頁以下)では、本状が「御返事」とのみある一紙の書状であり、また漢文体であることなどから(ただし上述のように完全な漢文体でない)、対告者を富木殿と推定している。確かに本状は日蓮には少ない折紙書状で、佐渡以前の鎌倉期では富木殿(土木殿)宛が、文永6年6月7日状『定遺番号』76『富木殿御消息』、文永8年の佐渡流罪以前に系けられる『御衣布給候御返事』などがあり、ことに『御衣布給候御返事』は本状と同じく宛所が「乃時 御返事」と共通しており、その可能性は高いように思われる。
 ただし『常修院本尊聖教録』(以下『日常目録』)に記録されていないことが一応不審であるが、岡元論文では同じく富木殿宛折紙書状で上掲の『富木殿御消息』『御衣布給候御返事』も『日常目録』にその名が見られず、これらは『日常目録』「御消息分」の最末に「八通 雜雜御状」とある、小編の「雜雜御状」八通の中の一通であろうと推測している。
 また岡元論文では本状の伝来について、浅井要麟氏が「日蓮聖人遺文全集解題」(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻361頁以下)にて、本状の所蔵者広島県浅野侯爵家が、加賀前家の縁戚であるとしていることを受けて、加賀藩三代藩主前田利常が中山法華経寺所蔵真蹟補修に顕著な業績を残していることから、その功により法華経寺より前田家に本状が寄進され、それが浅野家へ伝来したものと推測している。妥当な見解と思われる。
 本状を含む右富木殿宛『富木殿御消息』『御衣布給候御返事』は、いずれも法華経寺から流出して他所に伝来しており、それはこれらが「八通 雜雜御状」として、個別の名称をもって記録されていなかったために、授与されるなど流出し易かったためと思われる。

《系年》
 『毒鼓』(四巻三号)本状解説では、花押がバン字型であることと、署名と花押の結合状態が重なっていないこと(落款法=『日蓮聖人研究』2巻245頁)、および文中「飢えたる世をや」(『毒鼓』の読み)とあるのは、文永11年5月17日状『定遺番号』144『富木殿御書』の「けかち申ばかりなし」の文と共通すること、同じく文中得勝童子の故事を引かれるのが、文永11年11月11日状『定遺番号』153『上野殿御返事』と共通することなどから、「文永末か建治の始め」と推定している。署名・花押の落款法については必ずしも妥当な見解ではないが、その他の推定は見るべきものがある。
 『昭和新修日蓮聖人遺文全集』は系年を記さず、『定遺』は建治元年に系け、『日蓮聖人遺文辞典』(歴史篇)は文永七年説を示すが根拠は示されていない。鈴木一成氏『日蓮聖人遺文の文献学的研究』(356頁)は花押がバン字型で空点が鍵手の初期を表していることから、建治元年と推定する。
 前掲岡元論文では、本状が『御衣並単衣御書』と同筆致であり、かつ『御衣並単衣御書』は『対照録』が「文永七年九月廿八日・或謂文永六年」(上巻298頁)としていることから、文永6・7年と推定している。
 今上記各説を念頭に系年を推定するに、まず写真①の花押の形態が、バン字型花押であり、かつ空点がカギ手である。バン字型花押の空点は、その初期段階では点あるいは棒状であり、文永10年4月26日『観心本尊抄副状』(『真蹟集成』4巻35頁)あたりから不完全ながらカギ手になり、完全なカギ手は同年7月6日『定遺番号』126『富木殿御返事』からであるから、本状はそれ以降ということになる。なおこの件に関しては、山上弘道「宗祖書状花押の研究」(『興風』29号203頁以下)を参照されたい。
 したがって花押の空点がカギ手の本状と、点である『御衣並単衣御書』が同筆致であり、文永6・7年と推定する岡元説は、否定されなければならない。
 さてそこで注目したいのが、本状が折紙書状であり、かつ富木殿宛であるということである。日蓮の場合折紙書状は例外なく、ごく近場に出される傾向があり、そうとすれば佐渡期のものではないことになる。
 かつ身延入山以降もその条件は満たされないから、消去法的にそれは、佐渡から鎌倉へ帰還した文永11年3月26日から、同年5月12日鎌倉を出発して身延へ向かうまでの在鎌倉の時期ということになろう。
 また内容的にも『毒鼓』が指摘するように、文永11年の『富木殿御書』『上野殿御返事』と符合しており、およそその条件を満たしている。
 すなわち本状は、鎌倉に帰還した日蓮のもとに、いち早く白米や和布を持って馳せ参じた富木常忍に対する礼状でなのである。よって本状系年は、文永11年4月頃と推測しておきたい。〈山上〉
 
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 身延文庫蔵の『一乗論談抄』(以下『論談抄』)の翻刻が、いよいよ次号『興風叢書〔25〕一乗論談抄 四』で完了することとなる。『論談抄』の撰者政海は、『興風叢書〔22〕』の解題でも触れられているが、師の範承を18歳の時に亡くし、以後は範承の遺言によって大和庄俊範を師として学文することになる。しかし政海が俊範を師とした期間もそう長くはなく、俊範の寂後は俊範より一流相伝の法門を継承した静明を拠り所としたようである。そのことは残存の『論談抄』の中に、静明の言葉を「新仰云」として約300箇所にわたり引用し、参考にしていることからも伺い知れる。欠本分を想定すれば、「新仰云」はかなり厖大な数になるであろう。
 ちなみに静明の出自や事蹟については、高橋秀栄氏の「惠心流の天台学僧静明」(『仏法の文化史』吉川弘文館)に詳しいので参照されたい。
 今回紹介したいのは、『論談抄』第一上の「序品」入文における最初の問答に関する記述、とりわけ政海が「私云」としてコメントした部分である。
 抑も『論談抄』第一上は、妙法蓮華経の「経題」に関する論談を建治2年2月26日に終え、翌々日の28日より、「序品」の入文論談を開始している。この日の最初の問いは、妙楽『文句記』の「本地惣別超過諸説。迹中三一功高一期」の一文における解釈を問うもので、問文の傍注には「又問、本迹二門有浅深耶」とあれば、その論点は本迹二門の勝劣にあることを示している。
 この『文句記』の文について、末師道暹の『文句輔正記』の解釈は「一即超於前十四品。二即超於一代諸教」と示して、本門寿量の意が前迹門十四品に超過することを一往の答えとしている。もっとも、「超於前十四品」といえば、当然ながら「本迹に勝劣があるか」との論難が引き起こされる。本迹勝劣の有無は、一流相伝の法門の七箇のひとつ「蓮華因果」の中の「本迹同異」と関わることなので、まずは最初に習い理解しておくべきことなのだろう。
 その論難の答えに、「仰云」として次のような俊範の見解を載せている。

  仰云、本迹同異一流習也。本迹同体辺有レ之。本迹雖レ殊不思議一ト釈心也。然而トモ又異ナル辺有レ之。迹門ニハ不レ開二教主一。迹門明二理常住一不レ談二事常住一ヲ。迹門不変真如、本門随縁真如也。迹門会已無二更不一レ会本門遠已無二更不一レ遠。本地無作顕本独本門寿量心也。サレハ迹門随他意、本門随自意ト釈スルハ此意也。仍以二異辺一ヲ一即超於前十四品ト釈也。

つまり要約すれば、「本迹の同異は一流の大事な習いである。迹門は開会・本門は長遠、迹門は随他意・本門は随自意という相違はあっても勝劣はない。『文句輔正記』の文は本迹の異なる辺を述べているに過ぎない」との意である。それに続けて、政海が「私云」として補足のコメントを述べるが、それがなかなか興味深い内容を持っている。すなわち、

  私云、此論義、建治元年相模禅門十三年八講、宰相已講心賀、寺房淵疑レ之。其時問題ニハ本迹二門有二浅深一耶。寺房淵一向不レ答レ之。其時八講衆ハ山門三人寺七人。山三人者、法印御房・信超法印・心賀律師也。相州ヲ為レ始諸大名等、仏法ハ尚在二山門一ニ。為二山門一為二其身一殊勝事ト世間口遊。

等と述べている。大略を口語訳してみよう。

  「この論義は、建治元年(1275)の北条時頼の十三回忌の際に、山門の宰相已講心賀と寺門の房淵との間で交わされた、本迹二門に浅深があるか否かとの問題で、寺門の房淵はそれに対して答えることができなかった。その時の八講衆は延暦寺山門から三人、寺門からは七人が招請されていた。山門の三人とは、法印御房(静明)と信超法印と心賀律師であった。(房淵に対して心賀の応答は満足のいくものであったのだろう)。執権を始め鎌倉の諸大名から、天台の仏法は山門方に健在であるという有難い評価を得た。これは山門のためにも心賀自身のためにも、大変名誉なことだと、世間ではすこぶる評判が良かったようである。」

 心賀は、俊範・静明を後継して、一流相伝法門を伝授されており、その静明とともに鎌倉へ下向し、法華八講に列席が叶ったことは名誉なことであったろう。その砌に、答者として見事な力を発揮したとなれば尚更であろう。
 『論談抄』第一上の論談は、静明が鎌倉へ下向した翌年の建治2年(1276)2月のことなので、時頼十三回忌の法華八講における出来事は、政海が静明から直に聴聞したものであろう。
 静明の鎌倉下向については、平雅行氏の「鎌倉山門派の成立と展開」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』40)に山門僧の鎌倉下向に関する委細な研究があり、その中でも『三井続燈記』の「幸尊伝」に、建治元年の時頼十三回忌の法華八講において静明との間で非情成仏義の問答があった事をすでに指摘している。該当の「幸尊伝」(『仏全』111巻121頁下)を見ると、

  建治乙亥。當平時頼之一十三回忌。有八講。初座講者。山靜明也。尊擧非情成佛義。問難詰徴之後。明杜口。或曰。尊問疾之文殊大士乎。 

と記されている。読み下せば、「建治乙亥(元年)の年、平時頼の十三回忌に当たり八講あり。初座の講者は山の静明なり。尊は非情成仏義を挙げ、問難詰徴の後、明口を杜ず。或が曰く、尊は問疾の文殊大士かな」となるだろうか。
『三井続燈記』「幸尊伝」では、静明と幸尊の間に非情成仏について問答があったと記されているが、今回の『論談抄』の記述は、その延長線上における心賀と房淵との問答となるのであろう。
 つまり諸事勘案すれば、北条時頼の十三回忌の法華八講は、出仕者について山門からは静明・心賀・信超の三人、寺門からは房淵・幸尊等七人であったこと、その際、静明と幸尊の間では非情成仏について、また心賀と房淵の間では本迹浅深について問答があったことが事実として浮かび上がろう。
 とりわけ、一流相伝法門の後継者である心賀が鎌倉下向に静明に同行していることは興味深いことである。なお、『血脈相承私見聞』の「一心三観者不起念位等書血脈事」(『續天台宗全書 口決1』477・487・499頁)の項目にて、静明が鎌倉下向の折に千如房に与え、それを尊海が書き取ったとされる自筆の血脈書は、この時に書かれたものと推察されようか。(成田)
     
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