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2019年
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 前回、松岡正次氏の指摘どおり、『観心本尊抄』に説かれた一念三千に関する一節「天台伝後知之者多々也」は、原文にしたがい「天台伝う後、これを知る者多々なり」と読むべきで、後人の加筆を採用した既刊本の読み「天台伝教已後、これを知る者多々なり」では、後続の文章と整合がとれないことを確認した。
 今回は、「天台伝已〝教歟〟後」と「已」に「教歟」(「已は教の誤記か」の意)を加筆したのは誰なのか? その周辺を探ってみたい。そもそも『本尊抄』は、副状の充所(宛名)「富木殿御返事」によって、下総の檀越、富木常忍へ宛てられたことは明らかで、また副状の文中「此の書は難多く答え少なし、未聞の事なれば人の耳目之れを驚動すべきか、設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べてこれを読むことなかれ」と説かれているように、軽々にこれを手にとって拝すことは許されなかったと思われる。
 しかも富木常忍が置文で定めたとおり、御真蹟は門外不出だったから、これに書き込みをする、また書き込みができる人物は、おのずと限られてこよう。
 そこで御真蹟に加筆をした人物として、第一に浮上するのが、『本尊抄』の対告衆であり、その御真蹟格護を厳命した富木常忍その人である。実際、常忍は『本尊抄』に引かれる経釈について、出典の確認を行った形跡がみられ、これを自らの筆をもって訂正している。
     
   【図1】 【図2】 
【図版は無断転載禁止です】
 【図1】がそれで、常忍は出典を確認するさなか、「天台大師云」と「妙楽云」の引文が転倒していることに気づいた。すなわち御真蹟「天台大師云」の下に小さく〇のような記号(これを圏点とか挿入符という)を入れ、隣に「是我弟子応弘我法妙楽云」と書き込んでいる。同文末の「妙楽云」の三字を常忍自筆と比較してみよう。すなわち常忍図顕御本尊(永仁三年)、同御本尊(永仁五年=ただし、こちらは妙楽が顛倒していて、これも圏点を入れてひっくり返して読むよう指示がある)、「識分法門一念三千即離事」から当該文字を採取したのが【図2】で、字の輪郭からして常忍筆とみてよかろう。
 問題の異筆「教歟」については、残念ながら確認した常忍の筆からは同型を拾うことはできなかった。ただ幸いなことに、下総の法華寺を常忍からついだ日高上人筆『本尊抄』が京都本法寺に伝わっていて、これを確認したところ、日高上人が書写した段階で、「教歟」の加筆は既にあったと思われる。すなわち日高上人代を遡って、御真蹟に「教歟」を書き込みをした人物がいたわけで、その人物とは、もはや検討に及ぶまい。富木常忍をおいて他に該当者を求めることはできないだろう。
   
   【図3】 【図4】 
  【図版は無断転載禁止です】
 日高写本に書写年を示す識語は存在しないが、日高上人は正和3年(1314)に遷化しているので、それ以前、すなわち鎌倉期の写本たることの明らかな什本である。先ほど、常忍が御真蹟における引文の転倒を圏点(挿入符)をもって訂正した箇所のあることを示したが、日高上人もこれを写本に記している【図3翻刻文】。
 問題の「教歟」も日高上人は追記しているが、日高上人は「伝」と「已後」の間に圏点を入れている【図4翻刻文】。つまり日高上人は「日蓮聖人は〝天台伝教已後〟と書かれようとしたのではないか、と判断したのではないか。ともあれ常忍の段階も日高上人の段階も、あくまでも「〝歟〟そうではなかろうか」という注記にとどまっていることに留意したい。
 ところが日高上人の後を継いだ日祐上人の段階になると変わってくる。『本尊抄』の日祐写本は、現在二点確認されていて、その一本、京都本法寺本は、『本法寺文書 二』(同編纂会、1989年)に冒頭部と奥書部分の図版が紹介されている。その奥書に「元徳三年大才辛酉五月二十八日 於中山坊書之了 執筆日祐」とあって、中山で書写されていることが分かる。おそらくは御真蹟をもって書写したのであろう。ただ「教歟」の部分は残念ながら未見、未確認である。
 もう一本の日祐写本は多古正覚寺に所蔵されており「今建武四年歳次丁丑五月二十二日 於武州六浦坊令書写之畢、執筆日祐生年五八才也」の奥書を有する。冒頭から末尾まで丁寧な楷書で書かれている。『本尊抄』の御真蹟には、先述のとおり日蓮聖人や先師による追記、訂正が数多みられるけれども、正覚寺本は、これらの箇所を整理したうえでの清書本と判断される。ただ残念なことに途中欠損があって、他筆によって補われている箇所がある。ともかく問題の箇所を確認してみると、「天台伝教已後」と、ここでは「教」の字が完全に本文に組み込まれ、一つの文章として成立している。日祐上人は、そう判断したのだろう。
 以上、中山における『本尊抄』当該部の書承関係について整理しておくと、

①御真蹟
 
天台伝已後
②常忍段階 「已後」の「已」に「教歟」と書き込む。
  すなわち常忍は「天台伝教」の誤記かと考えた。
 
③日高段階  「教歟」の常忍追記を「伝」と「已」の間に入る注記と判断。
    すなわち日高は「天台伝教已後」ではないか判断。
④日祐段階 先師の注記を整理して「天台伝教已後」と判断。

 このような流れになろう。日祐上人は身延山久遠寺3世日進上人とも深い関わりがあったし、他宗の寺院にも赴くなど交流関係はひろい。当該部に関する現行本の読み、すなわち「天台伝教已後」は日祐写本が転写され展開したもの、とも思われるが、もはやその先の書承関係については、識語等で確認されない限り、想像の域を出ない。
 ともあれ私は、今のところ「教歟」の書き入れは富木常忍によるもので、これが転写されていく過程で、真蹟に数多書き込まれた注記等が整理され、現行本の読みとなったのではないかと考えている。
 松岡正次氏の指摘を追跡調査する中で、いちおう上述のような考えをもつにいたった。諸賢のご高覧とご批正を乞う次第である。なお次回は『本尊抄』の諸写本を披見し、気づいたこと二三を記したい。(坂井)
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 二回にわたって、一念三千の説示に関する『観心本尊抄』の一節、「天台伝後知之者多々也」について、松岡正次氏の指摘どおり、日蓮聖人真蹟の記載をそのまま書き下し「天台伝(つた)う後、これを知る者多々なり」とするのが正読であること、また中山法華寺(法華経寺)における書承の過程で、日祐上人の代に「天台伝教已後これを知る者多々なり」という、現行本の読みとなったのではないか、そしてこれが流布した可能性を仮定してみた。今回は管見に入った、中山門流以外の諸師が書写した『本尊抄』の諸写本と当該部の記事について取りあげる。

①伝日興写本『観心本尊抄』
 周知のとおり、日蓮聖人直弟の中で、もっとも多く日蓮遺文を書写したのは、六老僧の日興上人で、『本尊抄』についても、筆写本が京都要法寺に伝わるという。その原本は未見だが、北山本門寺に、これを忠実に透写(影写)したという冊子が伝わっていて、先年これを拝見する僥倖に恵まれた。
 日興写本『本尊抄』については、早く富谷日震師が大正2年(1913)、『刊本録内御書』・『霊艮閣版日蓮聖人御遺文』(縮刷遺文)と対照して、これを「本尊抄興本対照記」(『大崎学報』28号、1923年)として紹介しているけれども、富谷師は原本の所在について「京都要法寺に所藏せりと傳ふる。日興上人の直筆第一轉古寫本」という、微妙な言い回しをしている。大正2年当時、富谷師は静岡妙音寺の住持で(『明治大正昭和日蓮門下仏家人名辞典』)、あるいは富谷師が披見し紹介したのは要法寺所蔵の原本ではなく、北山本門寺所蔵の透写本ではなかろうか。
 『本尊抄』に関する日興上人のコメントといえば、『富士一跡門徒存知事』(『日興上人全集』307P)に

  一、観心本尊抄
一、取要抄一巻
一、四信五品抄一巻 法門不審条々申付御返事也、仍彼進状奥書之、
已上三巻因幡国富城荘本主今常忍、下総国五郎入道日常賜、正本在彼在所歟、 

とあるのが想起される。他所では、日興所持の本は第一転ないし二転等と示しているけれども、『本尊抄』については、所持していたとも書写したとも語っていない。富谷師が何をもとに要法寺所蔵の『本尊抄』について「日興上人の直筆第一轉古寫本」としたのかは判然としない。
 さて北山本門寺所蔵の透写本だが、表紙には次のような貼紙がある。

  此本抄ハ開山興上人ノ御直筆ニシテ要法寺ニ秘蔵スル処ノモノナリ志師之カ謄本ヲ当山文庫ニ収ント葦名周上人(此上人ハ元京都妙満寺御貫首タリ我興門ノ法義ヲ感シ遂ニ帰シテ要法寺大学頭トナリ尋テ豆山貫首ト成ラル)ニ依頼セラル周上人之ヲ要山主貫師ニ請ヒ得一点一畫ノ背クアランヲ恐レ力ヲ尽シテ「敷」模写(スキウツシ)セラルヽ處ノ寳本也、
※「敷」は見せ消ち。( )内はルビ

 これによれば、日志上人の依頼によって日周上人が、要法寺貫主日貫上人の許可を得て「模写」したもの、と判断されよう。「模写」に「スキウツシ」とルビを振っているように、字形や見せ消ちにいたるまで、本紙に薄様を重ねて忠実に写しとったものと見做される。字形を見るに複数人の筆が混在しているようで、一筆写本ではなく多筆写本と思われる。また本表紙に「本主 日興(花押)」とあるが、字形は日興上人のものではなく、本文、奥書にいたるまで、筆蹟については検討を要する。
 ちなみに奥書は「弘安四年〈太歳辛巳〉三月五日申時許書写了 南無妙法蓮華経」である。『日興上人全集』編纂時は、原本・透写本ともに未見で、富谷師の紹介文にしたがって「申時拝書写了」としたが、透写本による限り「拝」の一字は「許」で、「申時許」すなわち「十六時頃に書写した」の意と判断される。
 くりかえすが、透写本であることを差し引いても、当写本の筆蹟を日興上人と見ることはできず、いまのところ写主については不明と言うほかない。
 では問題の「天台伝已後」の箇所はというと、現行本と同じく「天台伝教已後」になってる。「弘安四年」の奥書をそのまま信用すれば、日蓮聖人の在世中、すでに「天台伝教已後」の読みが流布していた実例となるが、原本を披見するまでは参考にとどめたいと思う。
 ちなみに京都要法寺には、日興上人筆蹟影写本『開目抄要文』(北山本門寺蔵)が伝わっていて、本間俊文「北山本門寺所蔵『開目抄要文』について」(『日蓮教学研究所紀要』44号,2017年)によると、影写本は「欠損部分も筆でなぞって写している」ものの、原本にみられる「他筆による加筆部分等、書写されていない箇所もいくつか確認」されるという。忠実な写しと思われる、伝日興『本尊抄』の透写本だが、やはり原本の実見をまちたい。

②慶長版本『観心本尊抄』(百部刷)
 この版本については、『稲田文庫図書目録』(稲田海素師の収集資料・蔵書目録)9ページ「b和本」に「立正安国論(慶長木活本)」(整理番号808・809)等とならび、「如来滅後五百歳始観心本尊抄 日乾(百部刷)」(整理番号292)と記されていて、近年、木村中一「新発見『慶長本』の書誌学的考察」(『大崎学報』167号,2011年)、同「《史料紹介》御書五大部百部刷本観心本尊抄」(『日蓮教学研究所紀要』39号,2012年)に影印で紹介された。冠賢一「慶長版本『御書五大部』の書誌学的考察」(『日蓮教学研究所紀要』22号,1995年)も、諸本との異同や版本の流布を確認するに有益である。参照されたい。
 さて慶長版本『本尊抄』の奥には「以正中山御正筆第一轉之本謹寫之 寂照院日乾」とあって、これによれば底本は『本尊抄』真蹟の一転本である。問題の箇所は現行本と同じく「天台伝教已後」で、おそらく「御正筆第一轉之本」の段階で、すでに整束された文章となっていたのだろう。「御正筆第一轉之本」が誰の手になるものなのか、まったく想像の域を出ないが、あるいは前回とりあげたように、日祐上人が真蹟に書き込まれた日蓮聖人自身の、あるいは富木常忍の添削等を浄書した写本が、身延(たとえば日祐上人と親交のあった日進上人)に伝わり、これが流布した可能性もあるのではないか。

 
  版本『観心本尊抄』
  【図版は無断転載禁止です】 

 ともかく管見の限りでは、真蹟の原文「天台伝已後」どおりに写した本も、刊本も確認できない。ただ今回、諸本を対照していて改めて感じたことは、日蓮遺文をテキスト化するにあたり、本文が改められものはこれに留まらないのではないか、ということである。真蹟が現存していれば今回のように確認ができる。たとえば『本尊抄』の他の箇所においても、本来「三千」と書くべきところ、日蓮聖人が「三種」と明らかに誤記した箇所は、日高上人も何もことわらず「三千」として写しているし、承知の通り日蓮聖人は、「天竺」を「天笠」に、「幼」を「幻」に、「點」を「黙」とする書き癖があるけれども、いかに原本に忠実といえども、そのとおりに写していたらテキストにならないので、真蹟校合本、第一転の写本、一字一点真蹟の通りに書写したという写本であっても、本文の取捨選択・加除修正は普通に行われているとみなければなるまい(ただし模本ではそのまま写している例がある)。

 以上、『観心本尊抄』の一節「天台伝後知之者多々也」について、松岡正次氏の指摘を再確認し、また追跡調査をおこない、気づいたこと二、三を記した。松岡氏の指摘から、一文一句なりとも軽んじてはならぬという格言を、改めて教えていただいたように思う。氏の学恩に深く謝する次第である。(坂井)
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 智顗は『法華玄義』巻五上において円教の開麁位顕妙位を説いた。これは迹門十妙の位妙で円教位を明かすところにある。日蓮がこれに注目したことは拙稿「日蓮の名字即成仏論の探究」(『興風』28号所収)に記述したし、昨年二月のコラム「日蓮の名字即成仏論の探究(一)」にも記した。ただし訂正すべき点があるので、今回改めて、この開麁位顕妙位について解説したい。

〈法華は按位開・勝進開によって前三教の衆生を円教に入れる〉
 開麁位顕妙位では蔵通別の前三教の麁位を開会して、円教の妙位を顕わすことを説く。ただし、最後に大国小臣・小国大臣の譬喩が説かれたことによって、円教低位の麁位を開会して即妙とする観点の転換が起きている。日蓮が『注法華経』開経(70番)に開麁位顕妙位の長文を記入したのは、これに注目してのことだろう。
 ではもう少し詳しく開麁位顕妙位の大要を述べよう。智顗は、未だ仏教に縁していない凡夫や前三教の二乗・鈍根の菩薩が、開会されて円教に入ることを毒発の譬を用いて詳説し、その際、開会を按位開と勝進開に分けて説明した。按位開の按位とは位に留まる意で、按位開の場合、たとえば前三教の断見思の階位にある者は、同じく円教の断見思の階位である相似即十信に入る。一方、勝進開の勝進とは昇進とも書き、前三教の階位から円教の高い階位に入ることをいう。たとえば前三教の断見思の階位にある者が開会され、修行を進めて円教の分真即初住に入るようなケースを勝進開という。

   
  『注法華経』開経(70番)に記入された『法華玄義』巻五上の開麁位顕妙位の文。   
  【図版は無断転載禁止です】  

〈開会の按位開・勝進開と被接の按位接・勝進接〉
 話はそれるが、この按位開・勝進開に関して言えば、天台学の被接の法門では按位接と勝進接の用語が使われる。この按位・勝進の意味は前記したのと同じである。無論、被接と開会は法義が異なるが、対象者にも違いがあり、被接は通教と別教の利根の菩薩が対象なのに対して、開会は凡夫や前三教の二乗・鈍根の菩薩など、鈍根が対象となる。また被接は法華の説時より前の華厳時、方等時、般若時において起きるが、開会は専ら法華に限る。
 改めて説明すると、被接とは通教や別教の利根の菩薩が、過去以来身につけてきた智慧によって、その教説に含まれている中道の真理を悟ることにより、それまでの修行が、より勝れた別教や円教の修行に引きつがれ、引き入れられることである。被接には別接通・円接通・円接別の三種があり、一般に次のように説明される。通教の不但空の教えを聞いて中道の理を悟る利根の菩薩が、その理を空・仮から独立した但中と理解すれば別教に引きつがれ(別接通)、空・仮に即して円融した不但中と理解すれば円教に引きつがれる(円接通)。また別教の初地以前の利根の菩薩が、中道の理は但中と説く別教を聞いて不但中と理解する時、円教に引きつがれる(円接別)。そして、引きつがれて別教の十廻向、円教の十信の階位にある者はまだ無明を断じていないので似位の被接、按位接といい、別教の初地、円教の初住の階位にある者は無明を断じているので真位の被接、勝進接という。
 このように開会と被接には按位開と按位接、勝進開と勝進接という紛らわしい用語があるので注意しなければならないが、この場を借りて拙稿の細部を訂正すると、拙稿「日蓮の名字即成仏の探究」では『法華玄義』の開麁位顕妙位を説明して、「毒発の譬えで被接を述べている」「被接には按位接勝進接があり」(『興風』28号379頁)と記したがこれは間違いで、ここでは被接ではなく開会を論じているから、この被接を開会に、按位接を按位開に、勝進接を勝進開に訂正したい。拙稿にはこの後にも「被接」が一箇所、「按位接」が三箇所、「勝進接」が二箇所にあるが、これも同様に訂正する。また昨年二月のコラム「日蓮の名字即成仏論の探究(一)」で開麁位顕妙位の大要を説明するに際しても「被接」「按位接」「勝進接」と記したが、これも同様に訂正する。これによって私見の論旨が変わることはないが、己れの不明を恥じるばかりである。

〈初めから法華円教を修行する六即低位が按位開される〉
 話を戻すと、開麁位顕妙位では、前三教の衆生を按位開・勝進開して円教に入れ、円教の一妙を成就したことを次のように記す。
  もし諸の権を決せば、あるいは按位妙、あるいは進入妙なり。麁の待すべきなく、同じく一妙を成ず。その義はすでに顕わる。(『仏教大系』玄義3-538)
 そしてこの直後に大国小臣・小国大臣の譬喩が説かれたのである。
  今さらに譬説せば、譬えば小国の大臣、大国に来朝して本(もと)の位次を失うがごとし。行伍に預かるといえども限外の空官なり。もし大国の小臣は心膂憑寄せば、爵はすなわち未だ高からざれども他に敬貴せらる。
 ここでは、開会されて前三教から円教に入る者を小国の大臣が大国に来朝することに譬え、初めから円教だけを修行する低位の者を大国の小臣に譬えて、前者より後者が勝れるとしている。さらに智顗は、
  諸教の諸位は、麁を決して妙に入るに、入流するを得るといえども、円教の入妙に比せんと欲するに、なおこれ鈍の中より来たる。円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知ればすなわち作仏と喚ぶ。初心すらなお然り。何に況んや後位をや。(『仏教大系』玄義3-539)
と、初めから円教を修行する初心の者は如来秘密の蔵を知るので作仏すると断じた。これは観行即五品弟子位を指すが、『玄義釈籖』巻五上では次のように扶釈された。
  「雖預行伍」等とは、阿羅漢の按位に円に入るがごとき、六根行伍の位次に預かるといえども、本(もと)の円の随喜より来たるに比するに、すなわち限外空位の菩薩となる。故に「空官」という。(中略)円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく。(『仏教大系』玄義3-538)

 
  『注法華経』開経(71番)に記入された『玄義釈籖』巻五上の扶釈の文。中央に「若円大国
凡夫小臣名々字仏」(円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく)の一文が見える。
  【図版は無断転載禁止です】

 湛然はそれを法華円教の随喜の名字即凡夫として、その成仏を見ているのである。このように開麁位顕妙位の説示では、前三教の麁位を開会して妙位を顕わすことから転じて、円教低位の麁位を按位開して即妙とする、観点の転換が起きている。日蓮が注目したのはこの点である。コラム「日蓮の名字即成仏論の探究(一)」に記したように、中山法華経寺に所蔵される『秘書要文』(11丁裏)には開麁位顕妙位の要文が記入してあり、「今は初住妙覚に叶うとも本(もと)より名字という」とのコメントも付加してある。このコメントは上記の湛然の扶釈に対して、日蓮が感慨深く発した言葉ではないかと思う。『秘書要文』のこの部分は富木常忍が書いているが、日蓮から直接教示されたこと、耳で聞いたことを綴ったものと私は推測するのである。   〈菅原〉
 
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 『法華玄義』巻五上に説かれる大国小臣・小国大臣の譬喩と湛然の扶釈をめぐって、日蓮と日本中古天台では着目点が異なっているようである。今回はこの譬喩と湛然の扶釈を丁寧に説明しながら、そのことを少々述べたい。

〈智顗の小国大臣・大国小臣の譬喩と説示〉
 『法華玄義』の大国小臣・小国大臣の譬喩は次のように説かれる。
   
今さらに譬説せば、譬えば小国の大臣、大国に来朝して本(もと)の位次を失うがごとし。行伍に預かるといえども限外の空官なり。もし大国の小臣は心膂憑寄せば、爵はすなわち未だ高からざれども他に敬貴せらる。(『仏教大系』玄義3-538)
 これを菅野博史氏は次のように現代語訳している。
今、あらためて比喩によって説くと、たとえば小国の大臣が大国に来朝して、もともとの位階を失うようなものである。軍隊に参加するけれども、員数外の職掌のない官位である。もし大国の小臣は、身心ともに[大国の王に]頼れば、爵はかえってまだ高くないけれども、他に尊敬される。(東哲叢書『現代語訳法華玄義(上)』542)
 智顗は蔵通別の前三教を修す人を小国の大臣に、円教を修す初心の人を大国の小臣に、前三教の人が開会されて円教に入ることを、小国の大臣が大国に来朝することに譬えていて、小国の大臣は大国に来ると元々の位階を失って、軍隊に参加しても役柄のない空官になるが、大国の小臣は位階は高くないけれども他に尊敬されると述べている。続いて次のようにある。
   
諸教の諸位は、麁を決して妙に入るに、入流するを得るといえども、円教の入妙に比せんと欲するに、なおこれ鈍の中より来たる。円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知ればすなわち作仏と喚ぶ。初心すらなお然り。何に況んや後位をや。
(『仏教大系』玄義3-538)
さまざまな教のさまざまな位は、麁を開会して妙に入る場合、[妙に]流れ入ることができるけれども、円教の妙に入ることと比較しようとすると、やはり鈍のなかから来る。円教の発心は、まだ位に入らないけれども、如来秘密の蔵を知ることができれば、仏となると呼ぶ。初心でさえそうである。まして後の位はなおさらである。(『現代語訳法華玄義(上)』542)
 前三教から円教に入る人は、初めから円教を修行して妙に入る人と比べると、鈍の中から来るので劣り、円教初心の発心はまだ正式な階位に入っていないけれども成仏すると確約しているのである。この円教初心の発心は観行即五品弟子位を指している。

〈湛然の扶釈をめぐる日蓮と中古天台の着目点の相違〉
 これを湛然は『玄義釈籖』巻五上で次のように扶釈した。
   
譬の中に「小国大臣」等と云うは、前の三教を名づけて小国となす。教主己下を皆な名づけて臣となす。臣の中の高位、これを名づけて大となす。両教の羅漢および通の九地、別教の十住を開して円教に入るを名づけて「来朝」となす。並びに羅漢および地住等の次位の名を失うを本位を失うと名づく。(『仏教大系』玄義3-538)
 すなわち『法華玄義』の「小国の大臣、大国に来朝して本(もと)の位次を失うがごとし」の文は、前三教を小国、前三教の高位の人を小国の大臣、蔵教の阿羅漢果・通教の第九の菩薩地・別教の十住の人が開会されて円教に入ることを来朝に譬えていて、円教に入って阿羅漢果・菩薩地・十住の階位を失うことを、本の位次を失うことに譬えているという。この前三教の階位は皆な見思を断ずる位である。続いて、
  「行伍に預かるといえども」等とは、阿羅漢の按位に円に入るがごとき、六根行伍の位次に預かるといえども、本円の随喜より来たるに比するに、すなわち限外空位の菩薩となる。故に「空官」という。これ初入によって此(かく)のごときの説をなす。久しく聞いて、観を転じ、惑を破し、行をなせば、かえって旧位の行伍の限りに同じ。

と扶釈している。すなわち『法華玄義』の「行伍に預かるといえども限外の空官なり」の文は、蔵教の阿羅漢果の人は按位開されて円教の相似即六根清浄位に入るが、円教の随喜より来た人と比べると空位の菩薩であり劣ることを説いているという。次の赤色で示した文は正確な意味を把握しづらいけれども、前三教の人がどのようにして円教の人と同等となるかということを説いていると思われる。中古天台の諸師はこの文に着目して種々詳説する。それについては、いずれ本コラムでも紹介したい。日蓮は『玄義釈籖』のこの辺の一段を『注法華経』開経71番に記入していて、この赤色で示した文もその中にあるが、着目したのはこれではなく、この文に続く次の緑色で示した文である。
  円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく。故に「憑寄」という。「膂」とは脊なり。『説文』にいわく骨なり。ただこれまったく身心をもって仏境に寄託するのみ。よく色心すなわちこれ法性と観ず。故に仏法界に憑寄すと名づくるなり。いまだ品位に入らざれば、他を益すること能(あた)わざるを爵はいまだ高からずと名づく。すなわち九界の敬貴するところとなる。 
 湛然は法華円教の初心凡夫を名字仏と称していて、ここに名字即成仏説を見ることが可能である。しかるに今のところ私は、この文から名字即成仏を説く中古天台の記述に出合っていない。よってあくまでも現時点での指摘であるが、この『玄義釈籖』の文をめぐって日蓮と中古天台に着目点の相違があることを指摘したい。中古天台では前三教の人を開会して法華円教に入れる天台教学を重視して赤色で示した文に着目したのに対して、日蓮は純粋な法華の十界互具・一念三千の妙法によって末法の名字即成仏を説くために、緑色で示した文に着目したのであろう。〈菅原〉
 
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 昨年『興風叢書』〔22〕として『一乗論談抄(一)』が刊行された。『一乗論談抄』は鎌倉時代の重要な法華経注釈書であり、身延山久遠寺の身延文庫に十六冊が所蔵されているが、その第一上・中・下、第二上の四冊がここに解読・翻刻されたのである。この四冊はいずれも法華経の序品釈である。
 池田令道師の解題にしたがって紹介すると、撰者の松林房政海(1231~98-)は日蓮とほぼ同時代を生きた天台僧で、幼少にて檀那流毘沙門堂流の範承を師として出家し、1248年に他界した後は遺言によって恵心流の学匠俊範(-1187~1259-)に弟子入りして、静明・心賀・承瑜・全海などからも多くを学んでいる。とりわけ、俊範-静明-心賀の系譜は恵心流の正統たる椙生流であり、政海は檀那流を下地に、本領を椙生流に置いたのである。解題では本抄と日蓮の『注法華経』との接点も指摘されていて興味深い。今後引き続き刊行予定であり、研究が多角的に進められることが期待される。本コラムではその一端として、第一中の「問う、久遠に下種されて王城で得脱する者はあるべきや」の問答に見える本覚思想について私見を述べたい。

 第一中では冒頭に釈尊の化導を説く『法華文句』巻一上の四節三益の文と、『法華文句記』の扶釈の文を掲げて「問う、久遠に下種されて王城で得脱する者はあるべきや」と問い、「師云」「新仰云」「末師云」の三人の説を記して答えている。『日本大師先徳明匠記』は『政海類聚抄』の読み方として「類聚見様」の一項を設けているが(叢書483頁)、それを参考にすると「師云」は範承、「新仰云」は静明(-1244~86)の口伝となるが「末師」は不明である。まず「末師云」としてこう記される。
  この釈は三世料簡門の心には非ず。本門寿量の無作三身の顕本あらわるる上にて、久遠下種の相を釈すなり。今云う所の久遠とは、五百塵点の事成の昔を指すには非ず。無作三身の顕本の上には、霊山衆会儼然未散と云いて、法々塵々悉く無作三身の霊山浄土なるべし。これを指して久遠と云うならば、我等が一念の当体は久遠なるべし。「釈迦久遠に正覚を成すこと、皆な衆生の一念心の中に在り」矣。横に十方、竪に三世十界三千の万法は悉く無作三身ならば、更に久遠下種と云えるは、五百塵点の事成の昔とは意得るべからざることなり。(叢書155頁。原文の漢文を読み下し、片仮名を平仮名に改めるなどした) 
 『法華文句』が四節三益の第一節の下種を「衆生は久遠より仏の善巧を蒙れり。仏道の因縁を種(う)えしめたり」と説き、『法華文句記』が「本因果に種え」と扶釈したことについて、これは三世の料簡を説いたのではなく、寿量品の無作三身顕本の上から久遠下種の相を説いたのだという。無作三身の顕本によって、現実の法々塵々の法界に霊山浄土が顕在しているのであり、そう観ずる今の我ら一念の当体が久遠なのであって、けっして過去の五百塵点劫を指すのではないという。文証に引くのは安然の『胎蔵金剛菩提心義略問答抄』(菩提心義抄)に引かれる『大日経義釈』の文である。釈尊の久遠以来の化導を中古天台流の無作三身論で再解釈していることが明らかである。
  無作三身の本が顕わるる上は、何物の何処も、久遠に非ざる物あるべからず。よって三世常恒の三身なるが故に、過去遠々・未来永々・現在漫々、何物か久遠に非ざる耶。(中略)顕本の上には法々悉く本覚如来、久遠実成の教主なり。(156頁)
 これも同様に、無作三身が顕本されて現実世界はことごとく本覚如来、久成教主が顕在する世界となっているという。続いて「新仰云」として記される文にこうある。
  三千の事々諸法を対治し止息すれば迹門の行なり。体を改めず本覚の当体ぞと云うは本門なり。これを無作三身と号すなり。「貪体即覚体とは本覚の理に名づくなり」「もし貪即菩提と覚るは始覚に名づくなり」。無作三身は一念三千なり。されば「三千は並びに倶体倶用と成る」と云い、「三身は並びに倶体倶用と成る」とも云えるは同じ事なり。(中略)一念三千倶体倶用の法門に非ずや。「釈迦久遠に正覚を成すこと、皆な衆生の一念心の中に在り」の心なり。(159~160頁)
 迹門は善悪を含む現実の三千諸法を対治し止息する修行を立てるが、本門は現実の三千諸法の体を改めることなく本覚の当体と見るのであり、これを無作三身と称している。文証に引く「貪体即覚体」云云の文は安然の『胎蔵金剛菩提心義略問答抄』(菩提心義抄)の文である。
  大通仏は迹門の教主、迹門の仏は心実相なり。(中略)本迹の仏、本より三世常恒なるべき故に、今日以前に迹仏の下種結縁の義これあるを意得るは、三千塵点の間、久しく生死を流転すとは意得るべからず。三千塵点も一念にあるべきなり。ただ三千の数これを挙げることは、一念の中において三千の諸法これあれば、これに約して三千の数、これを挙げると意得るべきなり。迹門の立行は欲心等の起念の一念を対治し止息して寂せしむ。寂せしむるを実相と云い、三千の事々念々の起こるを諸法と云うなり。これを取り合わせて諸法実相とは云うなり。諸法実相と言わば同じくとも本迹二門の意は異なるべし。本門には十界三千の万法を対治し止息する義これなし。体を改めず本有なり、本覚なりと云うなり。(160~161頁) 
 さらには迹門と本門の諸法実相の違いを説明して、現実の十界三千の万法を対治し止息したりせず、その当体を改めずに本有・本覚と見るのが、本門の諸法実相であるという。以上、総じていえば、釈尊の過去の種熟脱の化導が否定され、無作三身の顕本後は十界三千の現実世界がそのまま本有・本覚の状態になっているとして、煩悩をも肯定しているようである。
 対して日蓮は、釈尊の四節三益の化導を事実として認め、『観心本尊抄』では華厳や真言の諸宗は「三五の遠化を亡失し、化道(導)の始終、跡を削りて見えず」と批判し、『曾谷入道殿許御書』では大日経等の得道について「彼々の経々に種熟脱を説かざれば還りて灰断に同じ。化に始終なきの経なり」と難じた。また『大田殿女房御返事』では「毒と申すは苦集の二諦、生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし」と自省した上で、「この毒を生死即涅槃、煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申しけるなり」と、妙法経力の功徳を力説した。日蓮は過去の仏菩薩の化導を尊重しながら末法適時の仏道修行を確立し、倫理性を保つ信仰に基づいて理想社会の実現を目指したのだと思う。〈菅原〉
 
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 日蓮門下において、重要な御書を「三大部」「五大部」等という慣わしがあるが、これがいつ頃始まり、どの御書をもってそう称するのか、というと明答はあるのだろうか。
 弘経寺日健(~1473~)は『御書抄』巻十に、
  「高祖聖人の御書に三大部・五大部とてこれあり。三大部は開目鈔・撰時鈔・報恩鈔なり。五大部の時は観心本尊鈔と安国論を加えるなり。是れ一義なり。去れ共、安国論は天下への訴状なる故に、是れは公界物なれば除いて、此の守護国家論を加えて五大部とするなり。多義ある中に大概能き義なり。」
と述べて、三大部は「開目抄」「撰時抄」「報恩抄」として、五大部はそれに「観心本尊抄」と「立正安国論」を加えるとする。ただし五大部の「立正安国論」は、門下に示した御書ではなく、「天下への訴状」なので除き、代わりに「守護国家論」を加える場合もあるという。「多義ある」というのだから、他にもいくつか立て方はあったのだろう。日健自身がさらに『御書抄』巻二に、
  「一、三大部・五大部の取り様は各々両種あり。先づ三大部は安国・開目・撰時鈔。あるいは開目・観心・撰時鈔。次に五大部は安国・開目・撰時・観心・報恩鈔。あるいは開目・観心・撰時・安国・守護。」
と述べている。
 三大部は先の説に加えて、「立正安国論」「開目抄」「撰時抄」と「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」との配立を新たに示している。つまり先の説から「報恩抄」を除いて、「立正安国論」もしくは「観心本尊抄」を入れて三大部とするというもの。五大部に関しては先の両説に加えて、「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」「立正安国論」「守護国家論」という説も提出されている。日健の時代には、三大部・五大部といっても、いろいろな組み合わせがあったようである。
 さて上代に溯って、中山本妙寺三世日祐(1298~1374)は、『立正安国論私見聞』の中で次のように述べている。
  「始ツカタハ天台沙門、根本大師ノ門人等書下ヘリ。後々ハ三大部御書・観心本尊抄等ニハ或ハ釈子〈撰時抄〉、或ハ本朝ノ沙門〈観心本尊抄〉、或ハ扶桑沙門〈取要抄〉等書下ヘリ。」(都守基一「中山日祐著『立正安国論私見聞』の一考察」の翻刻を参照)
 これは、宗祖日蓮の名乗りに関わることで、法華弘通の初期には「天台沙門」や「根本大師門人」を名乗られたが、後々の三大部御書や観心本尊抄等では、「釈子」や「本朝沙門」「扶桑沙門」等と、名乗りにもいくつかの変遷があることを明かしたものである。この一段を都守基一氏は、
  「次に「三大部御書観心本尊抄等」の語は、御書についての価値基準を示すものとして重要である。三大部とは後の用例から考えて、御書の中で最も長編である『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』を指すに違いない。これを「三大部」と呼び、『観心本尊抄』を別格とし、『立正安国論』をさらなる別格とする御書の見方が、ここに示されているのである。」
と解説され、さらに後注において、「日祐『本尊聖教録』の写本遺文の部に、「開目抄・報恩抄・撰時抄各々上下」とある。これが当時より「三大部」と称されていたものと思う」と記されている。傾聴すべき見解といえるであろう。
 なお日祐が「開目抄」「報恩抄」「撰時抄」をもって「三大部」御書と称したことは、身延文庫蔵の『祖書見聞 報恩抄・開目抄・撰時抄』という書物からも裏付けられる。本書は写真図版を見てもわかるように、その表紙には「報恩抄・開目抄・撰時抄」の題名とともに「三大部之見聞」と記されている。左右には「身延山住侶」「成就院沙門日学」と見えるが、これは「三大部之見聞」を成就院日学(―1429~59)が書写し、所持したことを示すもので、その撰者は本書の成立が貞和4年(1348)4月4日であることや本書の内容的特徴から本妙寺日祐と推定される。(この件については次回詳しく述べたい)
 
  ○身延文庫蔵『祖書見聞 報恩抄・開目抄・撰時抄』表紙 ○同『祖書見聞』末尾。「于時貞和四年」と
見える
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 本書の構成は、順に「開目抄見聞 上下」、「報恩抄見聞 上下」、「撰時抄見聞 上下」であり、三部合綴して一冊になっている。各抄とも上下2巻本を用いているが、これも『本尊聖教録』の「各々上下」の記述と合致していよう。日祐は中山蔵の写本「開目抄」「報恩抄」「撰時抄」を活用して、それぞれの御書に注釈を施したことと思われる。よって日祐が「開目抄」「報恩抄」「撰時抄」をもって「三大部御書」と称したことはほぼ動かせない。それが先師からの言い伝えか、独自の見解かは判然としないが、いずれにしても、上代の早い時期に「三大部御書」の呼称があったことは了解されよう。
 じつは、「開目抄」「報恩抄」「撰時抄」をもって「三大部御書」とすることは、日興門流の千葉県保田妙本寺蔵の『當家要文集』にも見られることである。その識語には、
  「当家三大部要文集。 延徳二年庚戌五月五日。 雖三大部文字読仕候ト、経釈論章疏ノ文點依易□(忘)、奉書写之私ニ加點者也。 於房州妙本寺写之。悪筆ヲ以急候間、比興々々。 日□(花押)」
と記されており、同書は延徳2年(1490)5月5日に筆者「日□」が房州妙本寺に伝来した「当家三大部要文集」を書写したものである。本書には「開目抄 上下」「報恩抄 上下」「撰時抄 上下」の順に各御書の要文が抄録されている。
 本書は「開目抄」の要文が8割方を占めており、「報恩抄」「撰時抄」の要文はかなり少ないが、興味あることに「開目抄」のそれは、北山本門寺蔵の日興筆『開目抄要文』と要文の抽出や表記の仕方がかなり相似し、分巻の位置なども同じである。おそらく日興本の写本か同系統の要文集が妙本寺に伝わり、それを書写したものなのであろう。
 そこで想像を逞しくすれば、「報恩抄」「撰時抄」の要文も始めから一具のもので、三書ともに日興執筆に関わる要文とは考えられないだろうか。むろん日興の「報恩抄」「撰時抄」の要文は現存しないので、実証的に示すことはできないが、日興撰「当家三大部要文集」の存在に思いをめぐらすのも一興であろう。
 ちなみに『富士一跡門徒存知事』には、十篇の重要御書として「立正安国論」「開目抄」「報恩抄」「撰時抄」「下山御消息」「観心本尊抄」「法華取要抄」「四信五品抄」「本尊問答抄」「唱法華題目抄」等を挙げている。その中で「開目抄一巻」「報恩抄一巻」には「今、開して上下となす」とあり、「撰時抄一巻」には「今、開して上中下となす。……正本は日興に上中二巻これ在り」との注記がある。ただし当然ながら『富士一跡門徒存知事』に、「三大部」「五大部」「十大部」等の呼称があるわけではない。
 今まで述べてきたことにより、日健の時代には「三大部」「五大部」御書の組み合わせは多様であったが、門下上代では御書「三大部」といえば、「開目抄」「報恩抄」「撰時抄」に定まっていたことがほぼ了解されよう。都守氏がいわれるように、この三書は「御書の中で最も長編」であり、法門的にも重書であることは間違いなく、御書「三大部」の呼称に十分相応しよう。
 また「観心本尊抄」は宗祖在世中より深秘の「秘書」として扱われており、「立正安国論」は法門書ではないが国諌状=勘文として宗祖畢生の著作であることは論を俟たない。その点で両書はやはり全御書の中でも別格の存在といえるであろう。よって忽せにできず、すぐにも三大部に仲間入りして、御書「五大部」という表現にもなったであろう。少し後に大部の「守護国家論」が加わって、「三大部」「五大部」のいろいろな組み合わせが用いられるようになった。それは冒頭に示した日健の『御書抄』が詳しく物語るとおりである。 (池田) 
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 前回、日蓮門下上代では、『開目抄』『報恩抄』『撰時抄』をもって「三大部御書」と称していたことを論述した。その際、身延文庫蔵『祖書見聞 報恩抄 開目抄 撰時抄』(以下『三大部見聞』と称する)を中山日祐の撰述として紹介したが、今回はその根拠や理由について申し述べたい。
 抑も、この『三大部見聞』は、身延久遠寺九世成就院日学(―1429~59)の写本が現存するが、その文献的な位置づけは現在までかなり不安定であった。例えば、『日蓮宗事典』では、一方において九世日学の事跡として「『祖書(開目・報恩・撰時の三抄)見聞』一巻」と記し、他方において同五世日台(1321~1366)の項目に「『祖書三大部見聞』一巻あり」と解説する。すなわち二つの記事は矛盾している。
 また『宗学章疏目録』(34頁)や『日蓮宗年表』(69頁)では、ともに日台の撰述として記載がある。しかし、日学および日台を『祖書三大部』の撰者とすることは根拠が乏しく、おそらく成立しないと思われる。順を追って説明しよう。
まず『三大部見聞』は、「開目抄見聞 上下」「報恩抄見聞 上下」「撰時抄見聞 上下」の三部を合綴して一冊とするもので、すべて日学一筆である。
 その中で「報恩抄見聞 下」の末尾には、
  「此三大部之見聞甚秘之中之深秘此内ニ御座也。相構々々不可有他見者也。旹正長貳年〈己酉〉卯月五日 成就院沙門日学」 
との識語があり、また「撰時抄見聞 下」の末尾には、
  「于時貞和四年〈大才戊子〉四月四日訖 成就院之。」 
  「此内可秘条々多深可秘可秘。後見之弟子等披見之毎度題目一返ニテモ又十返廿返可有報恩謝徳者也。成就院日学(花押)」  
との本奥書と識語が見える。
       
  「報恩抄見聞 下」正長の識語     「撰時抄見聞 下」貞和四年の識語(右)、後見への誡め(左)  
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 前者の「報恩抄見聞 下」の識語では、正長2年(1429)4月5日、成就院日学が甚秘の重書たる「三大部之見聞」を執筆したことが了解される。しかし、この段階では「三大部之見聞」が日学の撰述なのか、ただ書写しただけなのか、まだ不明といわざるを得ない。
 次に後者の「撰時抄見聞 下」の奥書をみれば、貞和4年(1348)4月4日の日付が記されているが、時代的にこれを日学の事跡とすることは出来ない。なぜならば、日学は長禄3年(1459)12月7日、75歳の入寂とされており、貞和4年は出生以前のことだからである。つまり「于時貞和四年〈大才戊子〉四月四日訖」の奥書は、「撰時抄見聞 下」及び『三大部見聞』が成立した年次を示すことになろう。
 次下の「成就院日学之(たもつ)」は、本書の日学所有を意味するのみで、さらに次下の識語は、日学が本書全体を甚深の法門とみて後見を誡めたものである。よって日学は『三大部見聞』を書写したのであり、その撰者ではなかったことが推察されよう。
 次に『宗学章疏目録』『日蓮宗年表』における日台撰述は、『三大部見聞』を身延門流の相伝書として、「于時貞和四年大戊才子四月四日訖」の奥書と時代的に合致する、久遠寺の歴代先師=五世日台に当てはめたものと思われる。ただし『三大部見聞』には、日台に関連する記述は一切なく、身延門流の相伝書とみることも根拠がないので、日台撰述はほとんど憶測の域を出ていない。本書を日台に比定するには、内容の検討が是非とも必要なのである。よってそこには、新たな撰者を想定する余地が十分に残っているといえよう。
さて私見の『三大部見聞』日祐撰述には、次のような理由がある。
 第一に、『三大部見聞』は、日祐撰の『立正安国論私見聞』や『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』(本書の日祐撰については近刊の『日蓮仏教研究』第10号所収の拙稿参照)と叙述の形式や方法が非常に近似すること。すなわち『三大部見聞』は、「開目抄」等の教学的な重要遺文を扱っているが、法義に関する項目は少なく、主に遺文の故事・成句を抽出し、経論や多くの外典によって簡明に注釈するスタイルである。これは日祐撰『私見聞』等と特色を同じくする。その注釈の仕方が「一、……」と必ず御書の本文を掲げて始まることも同じである。
 第二に、『三大部見聞』と『立正安国論私見聞』及び『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』との間に、内容上における直接的な関係が窺えること。
 例えば、『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』の「秋元抄」 における三女・三王の注釈にはさほどの記述がなく、「開目抄見聞に之れ有り」との傍注が付されているが、これは『三大部見聞』の「開目抄見聞」に、
  「殷ノ紂王悪王ニテ人ヲ殺スヲ以テ……地体悪王ナリシ上ヘ、妲姫ト云フ后勧メテ此ノ如キ悪事ヲ行ナハシム也。」 
  「夏ノ桀王ハ悪王ニテ庭ニ高楼ヲ造テ、末嬉ト云フ后ト共ニ高楼ニ登テ門外ニ市ヲ立テヽ、面々ノアキナイヲサセテ、叡覧アテ後、虎ヲ放テ皆クラヒ殺セナントセシ人也。」 
等と記述があって、両書の相互関係が確認できる。
 また同じように、『三大部見聞』の「開目抄見聞」には、次のような三つの記述が見られる。
  「一、沛公高羽ノ合戦ノ事 安国論ノ見聞ニ之レ有リ。仍テ之レヲ略ス。」 
  「一、猟師細視徐行ト云事 安国論ノ見聞ニ在リ。」 
   「一、如受法ハラ門等ト云事 安国論見聞ニ在リ。」
これらは、「開目抄見聞」における注釈を撰者が省略して、「安国論ノ見聞」を参照するよう促したものだが、この三つの項目は日祐撰『立正安国論私見聞』にそれぞれ次のような注釈を見る。
 例えば「沛公項羽ノ合戦」については、
  「一、兵乱同秦項之代事 項羽高祖ノ戦ノ事也。然ニ楚ノ項羽ノ勢ハ四十万騎、漢ノ高祖ノ勢ハ二十万騎。……其後合戦ル事七十二度。最後ノ戦ノ時ハ項羽ノ勢五千騎皆走失ヌ。…… 」 
等の一文が「開目抄見聞」のそれに相応すると思われる。「仍テ之レヲ略」したのであろう。
 また「猟師細視徐行ト云事」については、『立正安国論私見聞』の
  「猶如猟師事 釈尊堅誓師子トシテ猟師ニ牙ヲ抜ル事、之レニ合スベシ。」 
に相応する。
 また「如受法ハラ門ト云事」は、
  「如受唖法ハラ門等事 弘五云、言婆羅門受唖法者、彼外道中有計亜法、不共言説以為至道。」
に相応している。ともに項目の出処を端的に説示したもので、ゆえに「開目抄見聞」では「安国論ノ見聞ニ有リ」と記したのであろう。ここに『三大部見聞』と『立正安国論私見聞』との密接な関係が了解される。これらは『三大部見聞』の日祐撰をたしかに裏付けるものとなろう。
 第三に、『三大部見聞』には、『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』と同様に、日祐と親交のあった南家の儒学者・仲範(1290~1370)の説が記されている。それは例えば「開目抄見聞」に、
  「一、公胤ト云シ者魏王ノ肝ヲ取テ我腹ヲサキ肝ヲ入テ死スト云事。 仲範ノ云、是レ覚悟セス候。公演ト云シ者コソ衛ノ懿公ノ臣タリシカ、懿公カ鶴ヲ余リニ好テ後ニハ五位ノ官ヲ成ス。五位ノ裳束ニ五位ノ車ニ載セテアルカス。此ノ如クシテ此臣下等ニハ所領ヲ賜ワス。賞スル事モナシ。サル程ニ他国ヨリ軍サ起レトモ官軍等ハ鶴ニ防カシメ給ヘトテ合戦モセス。仍懿公打殺サレテ死骸ハ引キ散ス。肝ヲ取テ逕ニ捨ツ。其時公演他所ニアリシカ、之レヲ聞テ急キ馳来レトモ懿公ハ打レ畢。力及ハス我腹ヲサキ主ノ懿公ノ肝ヲ取テ入テ死スト。」 
  「一、伊尹ハ尭王ノ師、務成ハ舜王ノ師、太公望ハ文王ノ師、老子ハ孔子ノ師ト云事。 仲範ノ云、伊尹ハ殷ノ湯王ノ師也。尭王ノ師ヲハ尹寿ト申人也。弘五云、牟子ニ曰。尭ハ尹寿ニ事フ。武ハ務成ニ事フ。孔ハ老聃ニ学ヒ旦ハ呂望ヲ師トス。四師ハ聖ト雖トモ之レハ仏ニ比フレハ、ナヲ白鹿ヲ麒麟ニ比スルカコトシ。」 
 等とある。
 前者は、仲範が『開目抄』の「公胤」の表記を「公演」と訂正し、続いて『左氏伝』等にある「懿公好鶴」の故事を述べている。因みに『開目抄』以外の御書では、「こう演」(報恩抄)、「弘演」(一谷入道百姓女房御書)等と記されるが、いずれも当該部分は真蹟がなく写本表記なので、両御書で宗祖がどう表記されたか正確には不明である。
 また後者は、仲範が『弘決』を用いて尭王の師が「伊尹」ではなく、「尹寿」であると指摘している。これは『弘決』が示すように「尹寿」が正しく、後に弘経寺日健の『御書抄』等にも『開目抄』の一文について「伊尹ハ当ニ尹寿ニ改ムベシ」と注記している。
 しかしながらここで注目すべきは、『三大部見聞』の撰者が『開目抄』本文を注釈するに際し、仲範と直接的なやりとりを行っている点である。これらは同じく、日祐撰『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』にも、「仲範云」「仲範物語云」「仲範言ナリ」等と仲範のコメントが付されており、これによって両書の密接な関連や日祐と仲範の親交が了解されるのである。
 なお日祐撰『本尊聖教録』によれば、仲範は康永3年(1344)頃に中山に赴き「法花伝十帖」を借用しているので、両書における仲範のコメントはその時も含めた、日祐・仲範の学問的交流の中から生まれたものと考えられる。
 以上の三点から『三大部見聞』の撰者は本妙寺三世日祐であり、「于時貞和四年〈大才戊子〉四月四日訖」の識語は、その成立と推察されるのである。次回はさらに『三大部見聞』の内容について考察してみたい。(池田)
 
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 前回は、身延文庫蔵『祖書見聞 報恩抄・開目抄・撰時抄』(以下『三大部見聞』と略称)の撰者について考察した。従来『三大部見聞』は、身延久遠寺五世日台もしくは同九世日学の撰述とされてきたが、内実はともに根拠がなく不安定であった。
 私見では『三大部見聞』は、中山本妙寺三世日祐撰『立正安国論私見聞』及び同『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』等とその叙述の形式や方法が頗る近似すること、次でこれら三書には内容上における直接的な相互関係がみられること、また『三大部見聞』と『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』には、日祐と親交のあった南家の儒学者・仲範(1290~1370)の説が頻繁に記されていること等々によって『三大部見聞』の撰者を本妙寺三世日祐に比定した。この件については、前回の御書コラム並びに拙稿「身延文庫蔵『秋元抄・取要抄・末法始行抄・題目抄 私見聞』考」(『日蓮仏教研究』第10号所収)」を参照願いたい。
 これによって門下上代の日祐(1298~1374)に、『立正安国論』『開目抄』『報恩抄』『撰時抄』『法華取要抄』『秋元御書』『四信五品抄』『法華経題目抄』等、日蓮遺文の主要八篇に関する注釈書が存在することになったので、今後の日蓮遺文研究や日蓮教学・日蓮教団史の分野において十分な活用が期待されであろう。
 今回はその中で、『三大部見聞』の日蓮聖人伝にかかわる事柄について述べてみたい。まずはじめに、「報恩抄私見聞」(29丁裏~30丁表)に次のような一段があることに注目したい。
 30

29

    身延文庫蔵・日祐撰『三大部見聞』(日学筆)のうち「報恩抄私見聞」。
29丁裏の後ろから3行目に「一、去文永九年二月ノドシイクサト云事」の項目があり、竜口法難の模様や二月騒動、佐渡配流、赦免後の平左衛門との会談、身延入山に関わる記事などが見られる。
       
 
  【図版は無断転載禁止です】   
 さて「一、文永九年二月ノドシイクサト云事」を以下に翻刻してみよう。読み易さの便宜から漢文部分を読み下しにした。

  是ハ文永八年九月十二日御頸切レントシ給シカ退テ佐土ニ遠流ト云云。エノシマノ光物此時也。其上鎌倉中ニ不思議ノ事共之レ有ル間、御免アラントセシ時、良観ガ云、日蓮聖人御免アラバ忍性世ニスマジト云云。仍遠流云云。此時ノ御定ニ云ク、百日ガ内外ニトドシイクサアルベシト云云。案ノ如ク明ル年文永九年二月十一日合戦アリ。ム子ドモ人々ウセヌト云云。其後四年佐渡ニ御座アテ文永十一年御免云云。仍四月八日平金吾御対面云云。平金吾古ニモ似ズ礼アリケリト云云。ヤウヤウ御物語之レ有リ。其中蒙古ノ来ラン事今年ト云云。少シモ違ハズ襲来畢。此時壱岐対馬ヲバ打取ラレ畢。其後甲州ヘ御入云云。
〈四条左衛門ハ伊豆ヘト云云。富木殿下総国ヘト云云。蘇谷ノ入道ジンボト申テ山家ノ々是ヘ入御候ヘト云云。大田殿ハ越中ノミタ□寺ヘ入御候ヘト云云。宗長ハ池上等云云。イヅレモ御用イ無シテ南部殿ヘトテ御下畢〉。 (29丁裏、30丁表)

 この一段の見出しである「文永九年二月ノドシイクサ」とは、幕府が反乱を計画した主謀者として鎌倉で北条教時らを、京都で北条時輔を誅殺した内乱事件のこと。所謂「二月騒動」のことで、宗祖はそれを「自界叛逆難」として予言した。
 この一段は、文永8年9月12日の竜口法難における頸の座と佐渡配流の記述から始まる。次に江ノ島からの光物や鎌倉に起こった不思議な出来事などにより、頸の座を免れたこと。その際に、良観房が「日蓮が赦されるならば自分はこの世に住まない」といい、それによって佐渡流罪が決まったかのような記述がみえる。宗祖はそこで、これより百日のうちに北条一門に同士討ち(自界叛逆難)があるであろうと予言し、そのとおり文永9年2月11日に後世「二月騒動」といわれる合戦が起こった。その後は足かけ4年ほど佐渡の流謫生活を送られ、文永11年に赦免となり、4月8日には侍所所司・平左衛門と対面される。いつになく平左衛門は宗祖に礼をもって接し、蒙古の襲来がいつあるかを問い、宗祖は年内に必ずあると答えられ、それは少しも違わず符合した。この時に壱岐。対馬は蒙古によって蹂躙された。その後に宗祖は甲斐国に入御したのであった、等々が書き示されている。ただし「其後」というのは、平左衛門との会談が不調に終わった後ということである。
 これらは大体が『種種御振舞御書』の内容を下敷きにしたものだが、門下の日蓮聖人伝としてはひときわ古く、良観房が「日蓮聖人御免アラハ忍性世ニスマジト」言ったことは『種種御振舞御書』にも、後の門下の書き物にも見あたらない。「光物」や「鎌倉中ニ不思議」な事件あったことは、少しずつ書きぶりが違うが、日堯『当家肝要文集』、日実『当家宗旨名目』、日朝『元祖化導記』等にも記述がみえる。
 しかし、この一段でとくに興味深いのは、「其後甲州ヘ御入云云」以下にある日祐の注記と思われる部分である。(図版でいえば、末尾の一段下げた3行書きの部分)
 そこには、宗祖が身延へ入山するにあたって、諸檀越がそれぞれの所領や居住地に宗祖をお招きした様子が書かれている。例えば、四条頼基は伊豆国へ、富木常忍は下総国へ、曾谷入道は同国神保へ、大田乗明は越中国の「ミタ□寺」へ、池上宗長は武蔵国池上へ等と具体的な人名と地名が挙がっている。檀越たちは、宗祖が鎌倉を離れてどこに向かわれるのか、思い思いに願いを込めて招へいしたようだが、それらは用いられることなく、宗祖は波木井実長が領する甲斐国身延を目指されたという。
 宗祖と檀越の臨場感のあるやりとりで、たしかにあっても不思議ない話だが、これらの記述については、『種種御振舞御書』はもとより、他の日蓮遺文にも一切触れられていない。日祐は宗祖の孫弟子クラスであれば、あるいは門流の所伝を書き留めたものであろうか。
 身延入山の経緯については、宗祖滅後の『日進上人仰之趣』にいたって、ようやく次のような一文がある。

  古老僧仰云、旁々存ル旨有テ甲斐国南部ノ六郎ト云シ人ニ但一度見參ニ入タリシカ、此ノ人ハ某ニタノマルベキ人ト見タリ、此ノ人ヲタノミ行ベキ也ト仰セラル時キ、御弟子旦那御諚ハサル事ニテ候ヘドモ南部ノ六郎ハ深キ信者ニテハ候ハズ。又鎌倉ニモ人ニ大ナル者ノト知ラレテ候若御大事ヤハ候ハズラント云云。仰云、某カ見損ジタラハカナキ事、但行候ベキト仰セラレ文永十一年五月十二日ニ鎌倉ヲ御出アテ、六日ニ南部ノ六郎ヘ入御アテ実長ニ御見参アテ、此ノ由ヲ御申アレバ実長一度申タル事ヲスベテヒルカヘサヌ物ニテ候トテ内ヘ入レ参テ、八月彼岸ニ身延澤ニ御房ヲ御ツクリシ也云云。

 これによれば、身延入山に際して、宗祖は南部六郎=波木井実長を信用して入山を決意されたこと、弟子たちは鎌倉にはもっと信心深き人物がいるのだからと引き止めたが、宗祖は見損じたのであればそれまでとして決然と入山されたこと。また身延では、実長が約束したことは必ず守るとの気持で宗祖を迎え入れ、その年の八月彼岸には坊を建立されたこと等が記されている。
 宗祖の身延入山に際して、弟子たちがいろいろ心配し意見を述べたことは分かるが、檀越たちがそれぞれ自らの領地へ宗祖を招いたことなどは記されていない。
 ただし中山日祐は、生涯に幾度も身延登詣を果たし、三位日進とも深い交流があったので、宗祖の身延入山については日進より教わるところがあったかもしれない。
 さらに下って、行学院日朝(1422~1500)の『元祖化導記』には「二十二、身延入御ノ事」という項目があり、
  ……然レバ今ハ山林ニ身ヲ遁レ道ヲ進ント思シニ、人人ノ語ハ様々也シカドモ、方方存スル旨有ルニ依テ当国当山ニ入テ已ニ七年ノ春秋ヲ送ト云云。私云、弘安三年庚辰十月八日ノ御書ト見タリ。抑モ今ノ御文章ニ人人ノ語様々也等者、或ハ籠居ノ在所ヲ伊豆ト望ム人モ有リ、武蔵ト望ム人モ有リ、或ハ下総ナンドト、各々所帯ノ地ニ入御有ルベキ之由様々也シカドモト云フ事也。」 
との記述が見える。これが日朝の見解であることは、日朝の仰せを聞書した日任筆『身延山記』(身延文庫蔵・未刊文書)にも、次のような記述があって了解されよう。

  御書云、弘長ニハ伊豆國文永ニハ佐渡ノ嶋諌暁再三ニ及ビ留難重畳セリ。仏法中怨ノ責身ニハハヤ免ヌラン。然バ今山林ニ遁レ道ヲ進ト思シニ人々ノ言様々ナリシカドモ、方々存スル旨アルニヨテ當國當山ニ入テ已ニ七年ノ春秋送ル云云。師云、此御書ハ頼基ノ賜也。弘安三年庚辰十月八日云云。此御文章繁中ニ人々ノ言様々ナリシカドモ云云。凡籠居ノ思食立之レ有リ。折節諸檀方義區也。各我知行ノ地ヘト請シ申セシ計也。或伊豆国ヘト申人モアリ。或ハ武州、或下総等云云。然ルヲ旁々御存知ノ旨之レ有リトテ當山ニ入玉フト云事也。
 両書ともに、弘安3年10月8日付『四条金吾殿御返事』の「然るに今山林に世を遁れ、道を進んと思しに、人々の語様々なりしかども」の一文を注記して、伊豆・武州・下総へ入御を願い出た檀越がいたことを記している。
 日祐撰『三大部見聞』は身延久遠寺蔵なので、日朝はそれを披見したとも思われるが、それぞれの人名がなく具体性にも欠ける面があるので、身延門流の伝承や他の書物に依った可能性もあろう。
 ともあれ『三大部見聞』「報恩抄私見聞」の当該文は、宗祖の身延入山におけるエピソードとして、貴重な記述であり、今後の「日蓮聖人伝」を構成する一齣ともなろう。
 因みに、当該文に示された「蘇谷ノ入道ジンボ」とは、現在の千葉県船橋市で、応永17年8月の『日経譲状』(中山浄光院文書)にも「神保郷大神保村」の免田が浄光院三世日経より四世日戴に譲られている。おそらくそこは、曽つて「蘇谷ノ入道」所縁の地であったのではなかろうか。また「大田殿ハ越中ノミタ□寺ヘ入御候ヘ」との一文も、『曾谷入道殿許御書』には「大田金吾殿の越中の御所領の内並びに近辺の寺々に数多の聖教あり」と示されているので、その方面への入御を願ったものであろうか。越中には「三田(ミタ)」「三谷(ミタニ)」等の地名もあるが、虫食い箇所もあって断案はなかなか示せない。読者諸賢のご示教を願うものである。 (池田)
 
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 富木常忍は死期の遠からざることを覚った永仁七年(1299)三月四日、『置文』を作成し、後嗣を帥房日高に定めるとともに、若宮法華寺とそこに収められている本尊聖教等の重宝を付属している。そしてそれらの重宝類を門外不出とし、披見の際は法華寺においてすべきことを厳命し、「聖教目録別紙有之」と述べ、その目録によってしっかり管理するよう要請している。
 『常修院本尊聖教事』(以下『日常目録』)はその二日後の三月六日に記された、常忍が宗祖から給わった自筆の本尊や聖教、その他の自身が蒐集した文書・仏像・御影等の重宝類の目録である。
 『日蓮宗宗学全書』(1巻188頁)では常忍の正本とするが、『日蓮宗事典』(206頁)では、宮崎英修氏が実地調査にて、本文は右筆が記し、日付・署名・花押は常忍筆であることを確認したとしている。
 
  『日常目録』末尾部分
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 たしかに常忍筆の『識分法門一念三千即理事』『木絵二像開眼之事』『叡山大師伝』と比較すると、全体的に筆致が異なる印象があるのみならず、右三書の「観」の字がくずし具合の違いがありながら、すべて旁の「見」の下部左側の払いが、偏の下に入るという独特な特徴を有しているのに対し、『日常目録』は偏の形といい、旁の獨得な特徴が全く見られないことから、常忍筆とは認められず、右筆に書かせたとの説は妥当である。
       
  『識分法門一念三千即理事』の「観」 『木絵二像開眼之事』の「観」   『叡山大師伝』の「観」   『日常目録』の「観」  
  【図版は無断転載禁止です】  
 さて本コラムでは、『日常目録』の本文に付されている、常忍が指示して記されたと思われる書き入れについて解説を加えたい。またその他いくつかの解説すべき点を抽出し論じたい。
 なお図版は中山法華経寺版『日蓮聖人御真蹟』を用いた。

一、常忍の指示によると見られる注記について
(一)「種々災難起御勘文」(『災難対治抄』)
 「一、巻物分」すなわち宗祖の真蹟を巻子本仕立てにしたものの中の「一通 種種災難起御勘文」に「但兵部阿闍梨方へ被給」との注記がある。兵部阿闍梨に授与されたようであるが、兵部阿闍梨の行状は不明である。その後常忍が所持することになったところを見ると、後述する「智妙房」のように、常忍有縁の僧であった可能性があろう。
 ところで『定遺』翻刻文(2736頁)ではこれを『定遺』二〇『災難興起由来』に比定しているが、二一『災難対治抄』に訂正されなければならない。
 『災難興起由来』は前欠の真蹟遺文として『日蓮聖人真蹟集成』にも収録されるが、その初見である日祐の『本尊聖教録』(『日祐目録』)では、紙背に記されている『別時意等文 一巻』(『定遺』図八『像法決疑経等要文』)が、本体として「本妙寺分」に記録されている。すなわち『災難興起由来』は同内容の『災難対治抄』の草案であり、『災難対治抄』完成後は反故紙として使用されたのであり、まして本妙寺分として収録されているのであるから、『日常目録』に記録される訳がないのである。

(二)「末代法華経行者位並用心事」(『四信五品抄』)
 次に「御消息分」の「末代法華経行者位並用心事」すなわち『四信五品抄』には、「秘書也」との注記が見られる。『定遺』はこれを「端書」と読んでいるが、明らかに誤読である。
 
  「末代法華経行者位並用心事」の注記。「秘書也」とある
  【図版は無断転載禁止です】
 『四信五品抄』は常忍が『不審状』を宗祖に宛て、身延にて出家し給仕したいと懇望したことに対する返状で、そのことに直接触れられてはいないが、末法の法華経の行者は、僧俗の隔てなく、信の一字にて名字即成仏を遂げることが示される重書で、常忍はこもごも思いを込めて「秘書也」と注記したものと想像される。

(三)「真間釈迦仏御供養事」(『真間釈迦仏御供養逐状』)
 同「御消息分」の『真間釈迦仏御供養逐状』には「弘法寺被納」との注記が見られる。同状では子息日頂に釈迦仏の開眼を指示されているが、開眼された釈迦仏は真間弘法寺に安置され、同状も奉納されたようである。『日祐目録』では写本の部に同状があり、真蹟弘法寺奉納の際に筆写されたものと思われる。

(四)「自佐土御書」
 
  「自佐土御書」の右肩に「案文也」との注記がある
  【図版は無断転載禁止です】 
 本書は、『日祐目録』には記録されていないので、早くから散逸したことがうかがわれる。
 「一通 〈案文也〉自佐土御書」とあり、佐渡から常忍の許にもたらされたものであろうことがわかる。「御書」といわれており、単なる書状ではなく法義書的なものであったと推察される。『定遺』の本目録翻刻文では、これが何の御書か比定はなされていない。
 右のような情報だけでは、比定されないのは無理もないが、今あえて候補をあげれば、真蹟は不現存ながら等覚日全『法華問答正義抄』に引文され(『興風叢書』〔一四〕253頁)、上代にその存在が確認される『佐渡御書』はどうであろうか。『佐渡御書』はその追申に「此文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たう(塔)のつじ(辻)十郎入道殿等、さじき(桟敷)の尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり。」(『定遺』610頁)とあり、富木殿を筆頭としてその他の門下に授与された書状ではあるが、当時(文永九年三月二十日状)の宗祖の思想が簡明に纏められた法義書というべきものであるから、「自佐土御書」といわれるのにふさわしい。
 さらに『佐渡御書』の全文初出である『平賀本』『日朝本』では「佐渡ヨリ御文」との書名で収録されており、書名が相似していることもその根拠の一つとなろう。
 ただしその場合、「案文也」との注記はどのように解釈すべきだろうか。案文にはいわゆる「写し」=忠実に写されたものの意味と、「草案」の両意がある。
 まず「草案」と見た場合である。『佐渡御書』は、追申にて門下に同書の回覧周知を命じ、また種々の資料を要請しているれっきとした書状であり、その点「草案」との注記は相応しくないようにも思われる。しかし少し想像をたくましく推測すれば、常忍の許にもたらされた真蹟は推敲の跡が激しい、草案に近いものであった可能性も考えられよう。『佐渡御書』追申に「佐渡国は紙候はぬ上‥‥」(『定遺』618頁)とあるように、この時期は大著『開目抄』を執筆した直後のこととて紙が不足していたようであり、それ故浄書もままならずそのまま送付し、持たせた者に口頭にて常忍に浄書するよう命じたという想定である。
 常忍に草案を送り浄書を命じた例としては、『安国論御勘由来』がある。同書は幕府要職にあったと思われる法鑒房に宛てられた勘文に近い書状であるが、それにしては宗祖の推敲の跡が著しく、かつ反故紙を使用しており、とても法鑒房に宛てられたそのものとは思われず、草案とみるべきであるが、それを常忍が所持していたのは、宗祖が常忍にそれを浄書させ、法鑒房に提出させた故に、常忍の手元に残ったためと思われるのである。詳細は本コラム平成23年11月の拙稿「『安国論御勘由来』②」を参照されたい。
 さて次に「案文也」を「写し」と解釈した場合であるが、先述のように『佐渡御書』は門下への回覧周知を指示されており、常忍は真蹟を他に廻す前に「写し」を作成し、手元においたということも想定し得よう。その場合『日常目録』の写本の部である「一、御書箱」に収録されていないのが一応不審であるが、単なる写本ではなく、真蹟を模写した「写し」である故に、真蹟に準ずる扱いがなされたと考えれば問題はない。
 いずれにせよこれらはあくまで推測の域を出ず、もし他に該当するような御書の候補があればご教示願いたい。(山上)
 
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二、「なし」「フンシツ」の書き入れについて
(一)『観心論疏要文』
   
  「観心論疏要文」の右肩に「フンシツ」とある
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 『日常目録』「一、巻物分」の「一通 観心論疏要文」の書名右肩に「フンシツ」の注記が見られる(『定遺』2730頁。ただし『定遺』には不記載)。『日祐目録』には記録されているので、それ以降に紛失しこの注記がなされたことがわかる。ただしいつ誰の注記かは不明である。不現存の要文である。

(二)『尼公参詣難有由事』『尼公延命事』
   
  「尼公参詣難有由事」「尼公延命事」、次項「進御衣布御帷子御返事」の「フンシツ」の注記
  【図版は無断転載禁止です】 
 「御消息分」の「一通 尼公参詣難有由事」「一通 尼公延命事」は連続して収録されているが、双方書名の下に「フンシツ」と注記されている(『定遺』不記載)。『日祐目録』には記録されているので、それ以降に流失したことがわかり双方不現存である。

(三)『進御衣布御帷子御返事』
 「御消息分」の「一通 進御衣布御帷子御返事」の肩に「フンシツ」と注記される(『定遺』不記載)。『日祐目録』に記録されていないので、日祐以前に流失していることがわかる。不現存である。

(四)『鼠入鹿事』
 
  「鼠入鹿事」の注記「なし」と「フンシツ」
  【図版は無断転載禁止です】 
 「御消息分」の「一通 鼠入鹿事」の書名右肩に「なし」と注記され、下部に「フンシツ」と注記されている(『定遺』不記載)。『日祐目録』には記録されるから、右注記は双方日祐以後流出し付されたことがわかる。
 なお京都府立本寺に「御文云 ねずみいるかとかや申候大魚‥‥」との記述のある真蹟第一紙、第二紙七行が所蔵され、『定遺』に始めて『鼠入鹿事』として収録されたが、それが法華経寺から流失した「鼠入鹿事」と推定される(鈴木一成氏『日蓮聖人遺文の文献学的研究』364頁)。宗祖による丁付があるので本来は三紙以上の書状であったことがわかる。

(五)『七郎没後進御帷御返事』
 「御消息分」の「一通 七郎没後進御帷御返事」の書名肩に「ナシ」と注記されている。『日祐目録』には記録されているので、それ以降流失し不現存である。

(六)「八通雑々御状」
 「御消息分」の最後に「八通雑々御状 なし」とある。『定遺』はこれを「八通 雑雑御状有之」と読むが、「有之」とは読みがたく、写真③の「なし」と良く似ており、「なし」と注記されていると思われる。
   
  「八通雑々御状」に「なし」と注記されている。写真③の「なし」往見
  【図版は無断転載禁止です】 
 『日祐目録』には「八通雑々御状」が見当たらないが、同じく「御消息分」の最後に「一紙宛御状十三通」とあり、そこに含まれている可能性もあろう。『鼠入鹿事』の場合の「なし」は日祐以後の注記と見られるので、これも日祐以降に付されたものと思われる。

三、御消息分にある常忍筆文書
   
  『識分法門一念三千即理事』常忍筆部分
 
  『木絵二像開眼之事』常忍筆 
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 「御消息分」は基本的に常忍および妻尼に宛てられた、宗祖の書状が収録されているのだが、例外的に前回述べた『安国論御勘由来』と『涅槃経要文』(『迦葉付嘱事』)があり、さらに宗祖筆ではない「種熟脱一念三千即理法門」(『識分法門一念三千即理事』)、「草木成仏事」(『木絵二像開眼之事』)、が含まれている。
 まず「種熟脱一念三千即理法門」に関しては、菅原関道氏は「中山法華経寺蔵『識分法門一念三千即理事』の一考察(上・下)」(『日蓮仏教研究』3・4号)において、前半第三紙までが常忍筆、第四紙から最後第九紙までの筆跡が門下代筆の『富城入道殿御返事』と同筆で、子息日頂筆の可能性ありとし、その成立は内容やその他諸状況から判断し、建治二年三月、常忍が母の遺骨を持参し身延登山した折に、宗祖の要文集を、講義を受けつつ筆写したものと推定している。
 また「草木成仏事」については、池田令道氏の「『木絵二像開眼之事』に関する考察」(『興風』24号)では、常忍筆の『木絵二像開眼之事』には、もとは同寺所蔵の真蹟一紙「木絵二像之御書之切」が貼り付けられて伝来し、本来一体のものであったことを立証したうえで、『識分法門一念三千即理事』同様、『日常目録』の「御消息分」に収録され、宗祖真蹟として扱われていることから、『木絵二像開眼之事』も建治二年三月の身延登山の折、宗祖の指導のもと代筆したものと推定している。
 双方妥当な見解で、宗祖指導のもと作成した思い出深い文書故に、宗祖真蹟に準ずるものとして「御消息分」に収録したのであろう。

四、「釈迦立像並四菩薩 入御厨子」について
 最後に、『日常目録』の冒頭から二番目に「一、釈迦立像並四菩薩 入御厨子」と記録される一尊四士について述べておきたい。
 望月歓厚氏『日蓮教学の研究』(175頁)では、常忍宛『四菩薩造立抄』と『日常目録』の右記載を根拠として、宗祖在世中に一尊四士は造立されたとしており、『日蓮宗事典』等これを踏襲している。
 たしかに『日祐目録』にも法華寺の一尊四士とは別に、本妙寺分の中に「釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養 厨子御入」(『定遺』2734頁)とあり、大田殿が所持したと思われる一尊四士像が記録され、かつ宗祖が開眼供養をした旨の記載があり、その点宗祖在世の造立のようにも思われる。
 しかし日興『富士一跡門徒存知事』には、日頂や日向が日興の主張を取り入れて、一体仏に四菩薩を添えたと述べている(『日興上人全集』312頁以下)。もとより日興の主張は一尊四士造立を奨励するというものではなく、宗祖在世時造立の釈尊一体仏の処置について、それが久成の釈尊であることを示すために、本化四菩薩を脇士として添えるべきとの主張である。
 さて宗祖在世において、釈尊一体仏の造立については『真間釈迦仏供養逐状』『四條金吾釈迦仏供養事』等に見られるが、本化四菩薩を脇士とする一尊四士造立を示す遺文は見当たらない。また、もし宗祖在世に宗祖および門下に一尊四士造立があったとすれば、宗祖を尊崇してやまない日興が、それを「日興が義」というとは到底思われない。やはり宗祖在世には無かったもの思われる。
 では『日祐目録』の「大聖人御供養」はいかに解釈すべきであろうか。ここで注目すべきは常忍所持のものも大田殿所持のものも、釈尊像は立像であることである。今日の一尊四士像においてもそうであるように、そもそも虚空会の儀式を形像化する場合、中尊の釈尊(両尊の場合は多宝如来も)は当然座像である。それは千葉県藻原寺所蔵の日向曼荼羅本尊に、釈迦・多宝には「坐」と記されて坐していることが、また本化四菩薩には「立」と記されて立像であることが示されていることからも(立正安国会編『御門下御本尊集』所収)、そのことは当然の認識であったろう。
 こうした状況を勘合すれば、常忍・大田殿両者が宗祖から開眼していただいたものは、釈尊一体立像仏であった可能性が甚だ高いといえよう。そして宗祖滅後に日興の主張を受け入れ、日頂や日向が一体仏に四菩薩立像を脇士として副え、一尊四士像としたように、常忍・大田殿も四菩薩の立像を造立し副えたものと思われるのである。すなわち「大聖人御供養」とは、釈尊一体仏立像に対する注記と解すべきである。以上については拙稿「『富士一跡門徒存知事』について」(『興風』19号54頁以下)に詳述しているので参照されたい。
 ところで望月歓厚氏が根拠とした『四菩薩造立抄』は、明らかな偽撰遺文である。本コラムの主目的ではないので詳細は控えるが、池田令道氏「天目・日向の方便品読不読論争について」(『興風』一七号一九九頁以下)に詳述されているので参照願いたい。〈山上〉
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 本書は古くは『日祐目録』の写本の部に「瀧泉寺申状 一通」(『昭和定本日蓮聖人遺文』2739頁。以下『定遺』と略称)とあり、古来『滝泉寺申状』と称されてきたが、御書システムでは、本書が滝泉寺大衆である日秀日弁が、滝泉寺院主代行智が幕府に呈した訴状に対して陳弁した陳状であり、かつ案文であることから『滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案』として収録している。以下本書を「陳状案」と略称し論を進めたい。
 「陳状案」の真蹟は現在千葉県中山法華経寺に所蔵されるが、『日常目録』には収録されず、『日祐目録』には写本の部には収録されるが真蹟の部には収録されておらず、目録としては『日俒目録』(天正十九年・1591)に始めて登場する。では法華経寺にはいつ頃、どこからもたらされたのか。先行研究たる寺尾英智氏『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』所収「第一節 中山法華経寺における真蹟遺文の伝来」(115頁・以下「寺尾稿」と略称)、鈴木日有氏『わしのみやま―大本山鷲山寺の歴史』「五、滝泉寺申状の草案について」(68頁以下)などを参考とし、以下にその様相について論じたい。

《鷲山寺から正円山妙興寺、そして正峰山妙興寺へ》
 「陳状案」の正本の存在を示す文献的初見は、千葉県香取郡多古町多古に所在する正峰山妙興寺所蔵の、同寺十一世日護筆かとされる「古記之写」(『日蓮宗宗学全書』22巻151頁。以下『日宗全』と略称)である。

 
  峰妙興寺蔵「古記之写」。『千葉県史料 中世編 諸家文書補遺』より転載
  【図版は無断転載禁止です】 
 同写本には「陳状案」についての資料が、箇条的に三件収録されているが、その最後に収録される同寺二代日忍の記録に次のようにある。
  「御本云、此申状ハ駿河国富士下方滝泉寺ハ日弁重代ノ所領也。法花経ノ故ニ没収せらるるの時給ル。此御案文合シテ十紙ニテ畢ヌ。此内半紙アリ。但シ奥ノ三紙ハ別筆と見ヘタリ。然ニ入筆裏書ハ御自筆也。于時暦応四年辛巳十二月二十日 於下総国千田庄大嶋城為末代記之。日忍(判)」(原漢文。以下漢文体は読み下し文にしている) 
 この日忍が大嶋城正円山妙興寺にて示した「陳状案」についての記述、すなわち「合シテ十紙」「奥ノ三紙ハ別筆」「入筆裏書ハ御自筆」との情報は、現在中山法華経寺に所蔵される「陳状案」正本の内容と全く一致し、同一本であったことがわかる。
 さて右「古記之写」が所蔵される峰妙興寺の由緒来歴については、「当寺由緒」(正峰山妙興寺由緒)に
  「下方ノ平左近将監入道行智公場ニ訴エ終ニ弁師擯逐サル。粤ニ檀越内紀トイフ者有リ、師ヲ助ケ上総国鷲巣ニ到リ一宇ヲ建立シ一乗ノ道場ト為ス、長国山鷲山寺是也。‥‥然後下ノ総州大嶋城ニ到リ一寺ヲ創造、正円山妙興寺ト名ク。当初高祖弘安二年四月授ク所ノ大曼荼羅‥‥伝テ今ニ在リ。後直弟日忍寺ヲ於同国中村ニ移シ山号ヲ改メ正峰山ト名ク‥‥」(『日宗全』22巻147頁) 
とある。
 右文によれば、まず日弁は滝泉寺を擯出された後、「内紀」を開基檀越として上総国鷲巣(千葉県茂原市鷲巣)に鷲山寺を建立して住した。「内紀」とは弘安五年一月十四日状『内記左近入道殿御返事』の対告者内記左近入道と思われる。同状には「御器の事は越後公御房申し候べし。」(『定遺』1903頁)とあって、両者の関係が深いことがわかる。
 その後日弁は下総千田庄大嶋城に正円山妙興寺を建立し、「高祖弘安二年四月所授大曼荼羅」等を持参して弟子の日忍とともに移ったとあるが、同由緒には「師初ハ富士山日興ニ同シ迹門無得道ノ邪義ヲ立ツ。弁師明敏而忽ニ辺見之過ヲ改テ本迹一致ノ主義ニ帰ス」とも述べ、日弁が本迹一致を主張するようになったとしており、日郷門流薩摩日睿『日仙日代問答』(『日宗全』2巻445頁)等、日弁は方便品不読論者として天目と並び称されていることからして、「本迹一致ノ主義ニ帰ス」というのは史実に即しているとはいいがたい。
 むしろその弟子日忍は中山法華経寺日祐に私淑しており、日忍こそが本迹一致を標榜し、鷲山寺を退出して大嶋城に妙興寺を建立し住することになったものと思われる。そしてその時、右日弁授与の本尊などとともに、「陳状案」も持参したのであろう。
 ちなみに大嶋城は「古記之写」の注記に「大嶋城トハ船越ト篠本ノ間に有リ」とあり、多古町多古の南方三㎞ほどの船越と篠本の中間にあったようで、現在の小島あたりと思われる。そしてその後日忍は、妙興寺を「中村」に移し正峰山妙興寺とした。それが現在多古町南中に所在する峰妙興寺である。
 右の状況を纏めれば、「陳状案」はその当事者の一人日弁が所持し、それは日弁が創建した鷲山寺に所蔵されることになり、それが暦応四年(1341)の段階では、千田庄大嶋城の正円山妙興寺に移され、さらに正峰山妙興寺へと移されたのである。

《「陳状案」の筆跡》
 ところで「陳状案」の筆跡につき、『縮刷遺文』続集(205頁)の加藤文雅の注記では前七紙は「聖筆にあらず」とし、後三紙は日秀筆としている。また堀日亨『富士日興上人詳伝』(75頁)では前七紙を宗祖筆、後三紙を日興筆とし、『定遺』『新定』が踏襲する。前七紙が宗祖筆であることは疑を挟む余地はない。後三紙の他筆に関しては、近時菅原関道氏が綿密な筆蹟鑑定により、富木常忍のものであることを立証し、その成立過程について、まず富木常忍が宗祖の意を受けて、事件の当事者である日秀日弁日興等に事情聴取した上で陳状案を作成し身延に届け、宗祖はその前半の法義に関する部分を全面改稿し、後三紙の事件に関する記述はそのまま日常筆を採用して両者を貼り付け、後三紙行間に入筆を指示して鎌倉に送付し、浄書させたというものである(「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察―『滝泉寺申状案』異筆三紙を中心に」『興風』一六号七九頁以下)。詳細は同論文を参照されたい。

《峰妙興寺から中山法宣院日英へ》
 さてその「陳状案」のその後の行方であるが、「古記之写」には次のように記されている。
  「サテ瀧泉寺ノ申状ノ御筆ハ、下総ノ国峰妙興寺ノ四代日法ノ時、中山ヘ借ヲ為サレ、其ノ儘留メ置キ玉フ也」 
 すなわち四代日法(享徳三年・1454寂)の時代に、中山ヘ貸したところ、そのまま留め置かれていまだに返還されていない、というのである。
 では貸した相手は誰であったか。「中山ヘ」とあり一見中山法華経寺に貸したように思える。しかし前出寺尾稿には、このことに関する興味深い資料が紹介されている。中山法宣院日英(応永三十年・1423寂)の応永二十七年の寅菊丸(日親)に宛てられた譲状である。そこには
  「一 御自筆御消息中、滝泉寺申状、多古峯可入申也」(中尾堯編『中山法華経寺史料』220頁) 
とある。この記述は譲状の日付・署名花押の後に記されており、「陳状案」の処置に関する日英の遺言指示と解すべきものであるが、日英は「滝泉寺申状」を「多古峯」に返還すべき事を指示していたのである。

 
  京都本法寺蔵「日英譲状」。『本法寺文書』から転載
  【図版は無断転載禁止です】 
 日英は峰妙興寺の南西十㎞ほどに位置する、埴谷の妙宣寺を開創し住したから、その縁で借り受けることになったのであろう。年代的にも応永三十年(1423)寂の日英と、享徳三年(1454)寂の日法は同時代を生きており、「中山ヘ」としているのは、日英を指していると考えてまず間違いあるまい。
 日法は、当時法華経寺四世日尊とともに、中山門流の発展に寄与し名を馳せていた日英を尊敬し、要請に応じて「陳状案」を貸したのであろう。一方日英はそれを返還する機を逸し、本譲状にてその返還を日親に託したものと思われるのである。
 しかし日親は、応永三十四年(1427)に京都に上り、その後厳格非妥協的な折伏主義により、永享九年(1437)には法華経寺より破門されており、ついに日英の遺言指示を実行することは出来なかった。かくて「陳状案」は法華経寺に伝来することとなったのである。
 以上の経緯を思うと、「陳状案」は日英の遺言どおり、そもそもそれを所持した日弁の系譜を引く峰妙興寺に格護されるべきものであるのかもしれない。しかし前述のように、近時の研究により、「陳状案」作成には富木常忍が深く関わり、後半三紙は常忍の筆跡あることが判明している。そういう意味では法華経寺に所蔵されることはそう不自然なことではなく、その点所持者であった日弁も納得しているのではないかと思う。〈山上〉 
 
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