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2024年
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 昨年末に刊行した『興風』35号に、私は「深見要言ノート(下)」と題して、深見が刊行した日蓮遺文に関する小論を寄せた。深見が日諦(?~1781。水戸三昧堂檀林42世。円行院・貞順・健立)の遺業をついで、日蓮遺文の真蹟対照と出版を行ったことは、「御書開板乃興起」(深見記)によって周知のことである。
 かかる機縁からしても、深見が日蓮遺文の編集に際し、日諦撰『祖書目次』(日蓮遺文の編年目録)に準拠したであろうことは容易に予想された。そこで私は早速、深見刊行の『録内御書目録』(以下『深見目録』)と『祖書目次』(『昭和定本日蓮聖人遺文』〔以下『定遺』〕第3巻所収)の執筆年次の照校を行ったが、予想に反し、両者の相違は二・三にとどまらなかった。深見は日諦の遺業をつぎながらも、日蓮遺文の執筆年については、独自の見解を盛り込み、編集を行ったのだろう、と当初は思った。『定遺』によれば『祖書目次』は、慧光日聰の写本もあるらしく、しかも『定遺』翻刻文と異同がある。そしてその異同箇所は、なぜか『深見目録』と一致するところが多かった。しかし日聰写本の披見はかないそうになく、また小論の主旨は深見刊行日蓮遺文にあったため、これを今後の課題としつつ論を進めていた。
 そんな中、興風談所架蔵の日諦『祖書目次』(刊本)を披いてみたところ、刊本『祖書目次』の年次は『深見目録』と完全なまでに一致した(一箇所相違は認められたが、これは『深見目録』の編集ミス=拙稿参照)。やはり深見は日諦説に準拠していたのである。
 ということは、『定遺』所収本は刊本『祖書目次』とは異なるわけで、あらためて『定遺』所収『祖書目次』をみると「祖書目次」に「弘化改刻」が冠されている。「後学英園再訂」ともあった。後学英園とは諸檀林の化主となった英園院日英(一七九三~一八五六)のことで、日英は日諦の推定した年次を、みずからの見解で相当に改めたのである。日英は『祖書目次』のタイトル、日諦と同学の玄得日耆の序、日諦の名を残してはいるが、その内容は、もはや日諦の目録ではなく「日英目録」と言うべきもので、『定遺』には日諦目録そのものを収録していただけると有り難かった。

 
  1 日諦祖書目次
   【図版は無断転載禁止です】

 
   2 弘化改刻祖書目次(日英目録)
   【図版は無断転載禁止です】
   1で日諦が文永元年と推定した「法華真言勝劣」「木絵二像開眼事」を、日英は2で同年から除いている。

 その後、木村中一「編年体御書目録『祖書目次』の遺文配列について」(『身延山大学仏教学部紀要』12号,2011年)によって、『祖書目次』は、日英「弘化改刻」の他、常忍寺本のあることを知ったが、ともかく『定遺』所収の「祖書目次」は日諦の撰とは大いに異なるので、私と同じようなビギナーには注意を要する。
 現在、日諦『祖書目次』(刊本)は入手困難だが、山上弘道氏の近著『日蓮遺文解題集成』(興風談所,2023年)に全文翻刻されているので参看されたい。
 なお日英は『祖書目次』だけでなく、日諦・日耆『本化高祖年譜』『同攷異』についても大鉈を振るっていて、次回も拙稿の訂正を交えながら注意を促したい。
(坂井法曄)
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  前回、『昭和定本日蓮聖人遺文』3巻2814P所収の「祖書目次」は、英園日英が日諦の推定年次を独自の見解で相当に改めたもので、「祖書目次(日諦)」(『定本』両柱)と記されてはいるが、同目録は、もはや日諦ではなく「日英目録」というべきものであり、注意を要することを記した。
 また日英は「祖書目次」にとどまらず、日諦・日耆の編んだ日蓮年表・日蓮伝『本化高祖年譜』『同攷異』についても、私見によって内容を大幅に加除修正しており、これまた扱いは注意を要するのである。
 『高祖年譜』『同攷異』は「祖伝中の白眉と称せられ、六牙院日潮の『本化別頭仏祖統紀』、境持院日通の『祖書証義論』と共に、本宗の三大史書と称せられる」(『日蓮宗事典』日諦項)こともあって利用者も多い。そして、ほとんどの利用者は、近世の和装本ではなく、『日蓮上人伝記集』(本満寺版日蓮宗全書)所収本によっていると思われる。
 しかるに『日蓮上人伝記集』の目次は、
  本化高祖年譜  一巻 健立 玄得 安永八年述 弘化四年再版
高祖年譜攷異  三巻 健立 玄得 安永八年述 弘化四年再版
と記し、『日蓮宗事典』は『日蓮上人伝記集』(日蓮宗全書)を解説して、
   『本化高祖年譜』一巻、建(ママ)立日諦・玄得日耆著。安永八年(一七七九)成立、弘化四年(一八四七)再刊本を翻刻。
という。そんなこともあって、私を含めほとんどの初学は、『日蓮上人伝記集』所収本を日諦・日耆撰『本化本化高祖年譜』・『本化高祖年譜攷異』と認識し扱ってきたことと思う。以下はそんな私の誤認による失敗談である。

*   *   *   *   *   *   *

 先年、六老僧の一人、日興の一代を通覧していたときのこと。多くの日興伝は、日興が修学時に歌道を極め、また日興が辞世の句を詠んだといっているが、そのひとつ『甲斐国志』にも「年譜攷異云」として次のような記事がある。

 
  【図版は無断転載禁止です】

  指葬地植桜樹詠和歌二首明年罹疾二月七日寂寿八十八(【図①】)
 『本化高祖年譜攷異』(以下『年譜攷異』)は『日蓮上人伝記集』所収本によって、チェック済みだったが、日興が「指葬地植桜樹」(日興みずから墓所を定めて桜を植樹したの意)は、おぼえがなく、あらためて『日蓮上人伝記集』所収本の『年譜攷異』をひらいてみたけれども、やはり『年譜攷異』に「指葬地植桜樹」の記事はない(【図②】)
底本となった近世版本にも、やはり「指葬地植桜樹」は見られなかった(【図③】)
 これを確認した上で、私は「日興の生涯と思想(七)―日興と和歌に関するノート―」(『興風』32号,2020年)に、上掲『甲斐国志』の記事について、『高祖年譜攷異』に同文は見られず、この記事は重須本門寺の伝承によったのではないか(取意)、と記した。
 日興の墓所に関する唯一の専論、佐藤博信「北山本門寺の近世的展開とその特徴」(『中世東国日蓮宗寺院の地域的展開』勉誠出版,2022年)に指摘されているとおり、日興の墓所は、直弟日満によって、当初は廟内に石経が納められたことなどが記されていて、その後、徐々に整備・拡大され、近世に入って墓塔が造立され現在にいたる。
 この間、広蔵院日辰が永禄1~2年(1558~9)、重須の日興廟所に参詣した際に描いた図中、桜樹がみえる。よって少なくともこれ以前、日興廟所に桜が植樹されていたことは間違いなく、そんなことから私は、上掲『甲斐国志』の記事について、重須の伝承に依ったのではないかと、考えたのである。
 その後、私は縁あって深見要言の著作を読み進めていたのだが、深見の編んだ日蓮伝『本化高祖紀年録』巻二に、
  葬の地をさして桜の樹を植和哥二首を詠ず翌年疾ひに罹て二月七日安詳として寂す世寿 八十八(【図④】)
の文を見いだし愕然とした。これは前掲『甲斐国志』が「年譜攷異云」として引く「指葬地植桜樹詠和歌二首明年罹疾二月七日寂寿八十八」そのものではないか。つまり、『甲斐国志』は出典を誤り、文体を統一するため漢文に改めてはいるが、『本化高祖紀年録』から同文を採ったのであって、前掲拙稿で記したような、重須の伝承ではなかった、と判断した。
 ところが話はここで終わらない。その後、私は深見の刊行した日蓮遺文(いわゆる要言版)全65巻について調べを進めたが、前回のコラムで記したとおり、日諦「祖書目次」を日英が「弘化改刻祖書目次」によって大幅に改めていることを知り、ハッとした。もしや『年譜攷異』(天明元版)の「弘化改刻」も、日英が大幅に加除修正をしたものではないか? そこで『年譜攷異』(天明元版)と〝弘化改刻〟を見比べたところ、案の定、日英は大鉈を振るっており、日興による桜植樹の記事も、日英によって削除されていたことがわかった。『年譜攷異』には『甲斐国志』が引くように、確かに日興が「指葬地、植桜樹」えたことが記されていたのである(【図⑤】)。そして、日諦の著作をベースに日蓮遺文・日蓮伝研究を進めた深見要言が、『本化高祖紀年録』に、当文を書き下して引用していたことも明らかとなった。
 こうして私は、かなりの遠回りをし、また恥の上塗りを重ねたわけだが、ともかく「弘化改刻」は日英の私見によって、原形が損なわれている。近年の研究論著にも『日蓮上人伝記集』所収の弘化改刻『年譜攷異』、すなわち日英版を典拠とした記事が散見されるけれども、私と同じ初学者には、充分に注意されたい。
 とはいえ、原形である近世の版本『年譜攷異』(天明元版)は入手困難なため、今のところ「国書データベース」等によって所蔵機関を確認し、閲覧するしかない。その際はくれぐれも「弘化改刻」ではなく「天明元版」を披見されたい。(坂井法曄)
 
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 大石寺17世日精(1600~1683)の著述に、開山日興をはじめとする富士門流歴代の伝記を著した『富士門家中見聞』(以下『家中抄』と略称)がある。『家中抄』は上中下の三巻からなり、そこには日精自身の注記が随所に施されている。それらの内容から、日精が自ら各地に足を運び取材した形跡が窺える。
 この『家中抄』三巻は、『富士宗学要集』第五巻(宗史部)に翻刻文が収録され、『研究教学書』(富士学林教科書)第六巻に『富士宗学要集』を編集した大石寺59世堀日亨(1867~1957)の写本が掲載されている。
 なお、日亨写本には上中下巻に加えて中巻の草稿本を収録している。また、両書の頭注には日亨の注記が示されており、『研究教学書』の頭注(朱字)をより詳しくした頭注が『富士宗学要集』に付されている。
 そこで今回は、『家中抄』に記された宗祖遺文に関する日精の注記および日亨の注記を並記し、令和5年12月に興風談所より出版された『日蓮遺文解題集成』(山上弘道著)に示される日蓮遺文の最新の研究成果と比較検討してみたい。
 この『解題集』は、「第Ⅰ類 真蹟遺文」(398編)、「第Ⅱ類 真偽未決遺文」(30編)、「第Ⅲ類 偽撰遺文」(145編)で構成され解説がなされている。また、付録として「遺文目録」(28点)、「書状花押集」(116点)、「偽撰遺文に頻出する用語」(11点)を収録している。 

一、『実相寺衆徒愁状』(『富要』5巻147頁・『教学書』6巻3頁・『解題集』88頁)
 『家中抄』上巻「日興伝」に、「具に実相寺縁起一巻、日興自筆之に在り往見」とある。この中に『実相寺縁起』の書名が見えるが、これについて日亨は「縁起ニアラズ大衆ノ愁状ナリ今北山本門寺ニアリ」と注記している。
 日精の注記によれば、その時に本状は大石寺にあったことを窺わせる。現在は、日亨の注記の通り北山本門寺に格護されている。そして日亨は、『富士日興上人詳伝』において本状を日興の撰述とし、これを受けて『日興上人全集』(平成8年 興風談所発行)も本状の翻刻および写真(北山本門寺蔵)を日興撰述として掲載している。
 しかし、このように日興撰述とされてきた『実相寺衆徒愁状』を、『解題集』は日蓮遺文としている。その理由として、菅原関道「北山本門寺文書『実相寺衆徒愁状写』考」(『興風』18号)、石附敏幸「日蓮と中世寺院社会―『実相寺衆徒愁状』の考察を中心に」(『興風』27号)の研究成果を踏まえ、とくに石附論文は「日蓮の指導を受けつつ述作されたものではなく、日蓮が日興や実相寺住僧から入手した情報をもとに述作したものではないかと推測している」、また「本訴状を日蓮遺文とすべきことを提唱している」としており、それを「妥当な見解なので、ここに日蓮遺文として収録する」としている。
 このように、『実相寺衆徒愁状』を日蓮遺文として収録するのは『解題集』が初めてであり、画期的な成果である。

二、『聖人御難事』(『富要』5巻152頁・『教学書』6巻17頁・『解題集』644頁)
 『家中抄』上巻「日興伝」に、「聖人御難抄と号するなり今重須に在り」とあり、これに対して日亨は「御難抄ハ中山ニアリ重須ニ在リトハ何人モ云ハズ全ク本師ノ誤ナリ」と注記している。日精は本抄を北山本門寺所蔵とし、日亨はこれを「本師ノ誤」と指摘し、中山法華経寺の所蔵と訂正している。
 『解題集』には、「真蹟十二紙完、千葉県中山法華経寺蔵。『日祐目録』の「本妙寺分」にその名が見られ、大田殿が所蔵したことがわかる。」とあり、古くから中山法華経寺に格護されてきたことが示されている。
 したがって、北山本門寺所蔵とするのは日精の勘違いであって、実際は日亨の「重須ニ在リトハ何人モ云ハズ」の通りであり、その伝存状況は『解題集』によって更に補填されている。

三、『法華証明抄』(『富要』5巻154頁・『教学書』6巻24頁・『解題集』764頁)
 『家中抄』上巻の「日興伝」に、「同五年二月日興に御書一通下さる大聖の御筆なり死活抄と号す今西山に在るなり」とあり、これに対する日亨の注記はみられない。
 『解題集』では、「真蹟全九紙存。ただし第二紙前半六行の内の、二行目下半分と三行目を除く四行半が欠していると思われる」とし、「現存真蹟の所蔵は、第一紙 大阪府一乗寺蔵、第二紙後半六行 京都府妙蓮寺蔵、第三紙から第九紙 静岡県西山本門寺蔵」と現存状況を示し、さらに『真蹟集成』未収録の「第二紙二行目下半分(文字数により推定)「一佛なれハ末代の」岡山県高松妙教寺蔵」、および「第二紙三行目 一行断片「凡夫ハ疑やせんずらむ」千葉県市川市栗原久明蔵」の写真を掲載している。
 ところで日精の注記に「死活抄」とあるが、この別称は『日睿本』(千葉県保田妙本寺蔵)に見られる。しかしながら、本抄が西山本門寺に完存していたかどうかは示されていない。いつの時代に分散したのか知る由もないが、『解題集』には本抄の最新の現存状況がわかりやすく紹介されている。

四、『十宗事』(『富要』5巻212頁・『教学書』6巻189頁・『解題集』300頁)
 『家中抄』中巻の「日道伝」に、「又大聖人並に日興、日目次第相伝の十宗判名を日道に付属し給ふ」とし、『十宗事』の全文を挙げて「已上大聖御自筆今大石寺に在り」としている。これについて、『富士宗学要集』に日亨の注記はみられない。
 そこで『解題集』を確認すると、「真蹟一紙断簡、静岡県大石寺曾存。稲田海素『日蓮聖人御遺文対照記』(一一七~八頁)の大石寺真蹟拝照の項に「又十宗列名の断編……已上の御真蹟等を拝照せし時」とあり、その全文が翻刻されている」とある。
 続いて、「また『日蓮大聖人御書全集』(大石寺編)『定遺』『新定』にも真蹟存として収録されるが、大石寺の真蹟が収録される『真蹟集成』(第九巻)には未収録であり、大石寺刊行の『平成新編日蓮大聖人御書』『平成校定日蓮大聖人御書』は曾存としており、不現存のようである」と示されている。
 このように、『十宗事』は現在は大石寺に不現存のようだが、その行方が判然としない。そこで、『解題集』に提示されている稲田海素の『日蓮聖人御遺文対照記』の記事を再確認すると、稲田は明治36年(1903)1月に大石寺において『十宗事』を拝照したとある。その時の状況を「已上の御真蹟等を拝照せし時、監督の旁ら終始熱心に拝照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職、堀慈琳師にして、当山滞在中は勿論、其已後も御遺文拝照に就ては余に一臂の力を貸されたり」と記している。慈琳とは日亨の道号である。したがって、このとき稲田と日亨が『十宗事』を実見しているので、明治36年の時点で『十宗事』は大石寺に現存していたことが確認される。
 それではなぜ曾存となったのか。その答えは『研究教学書』に記された日亨の注記の中にあった。そこには「不見宝蔵風聞正師嘉蓮華寺再建下与其寺宝云云」と朱字で記されている。一見、何を示しているのか分かりずらいが、「宝蔵に見えず、正師より風聞す、蓮華寺の再建を嘉して其の寺宝として与え下す云云」と読める。これを訳せば「大石寺の宝蔵にあった『十宗事』が見当たらない。そこで正師に聞いたところ、蓮華寺再建の際に寺宝として与えたとのこと」という意味になろう。

 
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 「蓮華寺」といえば、大阪の仏生山蓮華寺が思い当たる。そこで蓮華寺の寺史を調べると、明治44年(1911)に火災で焼失し、大正2年(1913)に復興している。その時の大石寺の貫首は57世日正であり、日亨の注記にみえる「正師」と一致する。この日正が、蓮華寺が再建された大正2年に、それを祝して『十宗事』を蓮華寺に送ったようである。しかし、それは秘密裡に行われたようで、宝物に精通していた日亨が「宝蔵に見えず、日正師より風聞す」と記したのはそのためであろう。
 このように、『十宗事』は大正2年に大石寺から蓮華寺に移されたことが窺える。ところが、昭和20年(1945)6月1日に蓮華寺は戦災により再び焼失している。その時に『十宗事』も烏有に帰したと思われる。
 日亨が『家中抄』中巻を翻刻したのは「昭和十年三月三十日」で、この時は『十宗事』は蓮華寺に現存していたので、その経緯を「不見宝蔵、風聞正師、嘉蓮華寺再建下与其寺宝云云」と注記した。
 ところが『富士宗学要集』を編集する際には、『十宗事』は焼失しており、その経緯や実態をよく知る日亨はそのことを敢えて記さなかった、というのが現状であろう。

 以上、『家中抄』より4編の宗祖遺文に関する記事を取り上げたが、このような先徳の記録は、宗祖遺文がどのような経緯を辿って伝えられてきたのかを知るうえで大事な情報となる。そして、それらの情報と最新の研究成果(『解題集』)を比較検討することにより、そこから新たな知見が生まれることを、このたびは実感した。(渡邉)
 
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  『家中抄』上巻・中巻および草稿本中巻(『富士宗学要集』・『研究教学書』所収)に、宗祖本尊(八幅)に関する記述が確認される。そこで今回は、『家中抄』にみえる日蓮本尊に関する日精(大石寺17世)の注記ならびに日亨(同59世)の注記を並記し、その内容を『統合システム』内の「本尊資料」を参考にしながら確認していきたい。

一、文永11年12月日「万年救護御本尊」 (『富要』5巻154頁・『教学書』6巻23頁・『本尊集』№16)
 『家中抄』上巻の日興伝に、「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此ノ年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云フは是レなり、日興より又日目に付属して今房州に在り、此西山に移り、うる故今は西山に在るなり」とある。
 この日精の注記について、日亨は「万年救護ノ本尊ハ文永十一年ナリ本師誤マル」「西山ニ在リシハ寸時ナリ直ニ房州ニ返ル」と注記している。
 現在、千葉県保田妙本寺に格護される通称「万年救護御本尊」は、『日蓮聖人真蹟集成』十巻に収録されており、「文永十一年太才甲戌十二月日 / 甲斐国波木井郷於 / 山中図之」の脇書が確認される。
 日精は、当本尊は「此ノ年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ」とし、弘安二年に万年救護の本尊が図顕されたとは述べていない。ところが、日亨は「文永十一年ナリ本師誤マル」と注記している。また、当本尊が「今は西山に在るなり」とする日精の注記について、日亨は「寸時ナリ直ニ房州ニ返ル」と記している。日亨はその理由を明確にしていないが、その事実を認めている。
 いずれにせよ、保田妙本寺の重宝である「万年救護御本尊」が、日精(1600~1683)の時代に何らかの理由で西山本門寺に移されたことが『家中抄』の内容より窺える。

二、文永5年10月13日「飛曼荼羅」伝日蓮 (『富要』5巻154頁・『教学書』6巻23頁・『奥法宝』№1)
 『家中抄』上巻の日興伝に、「日興書写の本尊に大聖人御判を加へ給へるあり、奥州仙台仏眼寺霊宝其証なり」とある。これに対する日亨のコメントは『宗学要集』にはない。ただし、『研究教学書』には「蓮興両筆本尊、現在東都等也」とあるが、その真偽は問われていない。また、当本尊は『統合システム』の「本尊資料」に含まれていない。
 そこで、当本尊を収録する『奥法宝』(奥四ヶ寺御本尊集)を確認すると、そこには「日蓮大聖人御判日興上人御筆本尊 文永五年十月十三日 授与之 仙台仏眼寺奉蔵」と紹介されている。これは日精の注記とほぼ一致している。
 さらに当本尊に関して日亨は、「文永五年十月十三日、(弘安式にして日興上人の筆に大聖人が華押を為されたるもの、曾つて寛永十三年染師町に仏眼寺が在りし時、近火に罹り此本尊自ら飛び去りて類焼を免れたるを以て「飛び曼荼羅」と称し伊達家の貴重する所と云云)、仙台仏眼寺」(『宗学要集』8巻207頁)と、その由来を記している。
 はたして、日興書写の本尊に日蓮が加判したものかどうか、このことを検証するにあたり、当本尊と筆致が酷似している宮城県上行寺蔵の日興本尊と比較してみたい。

 
  【図版は無断転載禁止です】

 左写真が、通称「飛び曼荼羅」であり、右写真が上行寺所蔵の日興本尊である。双方を比較するとほぼ同時期に書写された日興本尊に見えるが、系年には「文永五年(1268)」と「正応五年(1292)」の隔たりがある。
 それはさておき、『統合システム』の「本尊資料」によれば、現存する日蓮本尊の初見は「文永八年十月九日」の系年が記された京都立本寺所蔵の本尊である。しかも、相貌は首題と日蓮(花押)の他は不動・愛染(梵字)のみである。このように簡略な本尊は文永10年頃まで続く。
 にもかかわらず、「飛び曼荼羅」は文永五年としながらその相貌は弘安期のものであり、しかもそこに示された花押は日蓮のものとして認められない。
 推測するに、もともと「正応五年十月十三日」付の日興本尊が二幅あり、そのうちの上行寺蔵の日興本尊をもとにしていえば、首題下の「聖人〈御判〉」の日興筆を削って日蓮の花押を模し、その左の「日興(花押)」を削り、さらに脇書の「正應」の部分を削って「文永」として「飛び曼荼羅」を仕立てたのではないだろうか。その所業は、『家中抄』の内容から少なくとも日精の時代まで遡ることが確認される。
 したがって当本尊は、日興本尊として『日興上人御本尊集』(興風談所出版)に収録されるべき本尊にもかかわらず、後人の改竄によって範疇から漏れてしまったということになる。

三、弘安3年5月8日「日華授与本尊」 (『富要』5巻192頁・『教学書』6巻131頁・『本尊集』№92)
 『家中抄』中巻の「日華伝」に、「日華授与の本尊、今京都本能寺に在り」とある。これに関する日亨注記はない。
 当本尊(京都本能寺所蔵)は、『日蓮聖人真蹟集成』十巻に収録されており、「弘安三年太才庚辰五月八日 / 沙門日華授与之」の脇書、および「甲斐国蓮華寺住僧寂日房者 / 依為日興第一弟子所申与之如件 / 大本門寺重宝也」の日興加筆が確認される。

四、弘安3年5月9日「日禅授与本尊」 (『富要』5巻197頁・『教学書』6巻144頁)
 『家中抄』中巻の「日禅伝」に「日興高祖の本尊を申し請ひ日禅に授与す。此本尊今重須に在り、伯耆曼荼羅と号する是なり」とある。これに対する日亨の注記はない。
 当本尊は公開されておらず、『宗学要集』8巻178頁によれば、「弘安三年太才庚辰五月九日 / 比丘日禅授与之」の脇書があり、「少輔公日禅者日興第一弟子也 仍所申与如件 奉懸本門寺可為万年重宝者也」の日興加筆があるとのこと。また、『宗学要集』には「東京 法道院」蔵と記されている。日精の注記によれば、当時は北山本門寺に所蔵されていたが、日亨は当本尊を東京法道院にて実見している。現在は大石寺に所蔵されている。

五、文永10年頃「法寂坊授与本尊」 (『富要』5巻215頁・『教学書』6巻193頁・『本尊集』№4)
 『家中抄』中巻の「日道伝」に「日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし。共に富士久遠寺に在り」とある。これに対する日亨の注記はない。
 小泉久遠寺所蔵の「日円ノ本尊」は、『日蓮聖人真蹟集成』十巻に収録されており、脇書の「甲斐国波木井法寂房 / 授与之」は日興筆とある。首題の左右に釈迦・多宝、および不動・愛染のみの本尊で、いわゆる佐渡百幅本尊と称されるものである。
 また、「日番ノ本尊」も同寺に所蔵とあるが未詳である。授与書がないのになぜ「日番ノ本尊」と称するのか不明だが、「日番ノ本尊」も佐渡百幅本尊の一つではないかと思われる。

六、弘安3年9月3日「俗日目授与本尊」 (『教学書』6巻351頁・『本尊集』№98)
 『家中抄』の草稿本中巻に、「大聖図大漫荼羅授与日目、此本尊日興加筆、是日目高名為残後代也。此同本尊于今在京妙蓮寺アリ」とある。日亨の注記はない。
 当本尊は、『日蓮聖人真蹟集成』十巻に収録されており、「弘安三年太才庚辰九月三日 / 俗日目授与之」の授与書と「富士上方上野弥三郎重満与之 / 日興 / 正和元年出家三郎左近入道也」の日興の加筆が確認される。
 日精は、はじめは当本尊は大石寺三祖の日目に授与と記したが、「俗日目」とあることから取り消し線を引いたようである。
 『統合システム』内の[史料システム]の[上代事典]に、「永仁六年の日興記録『弟子分本尊目録』(『日興上人全集』128)に「一、富士上野の弥三郎重光は日興の弟子なり。仍てこれを申し与う。上野殿の家人」とあり、弘安三年九月三日の京都・妙蓮寺蔵の宗祖本尊脇書(同141)「俗日目授与之」内日興加筆には「富士上方上野の弥三郎重満にこれを与う。日興。正和元年出家、三郎左近入道なり」と見え、同本尊の授与が知られる。上野・南条家の家人で、正和元年(1312)に出家入道して三郎左近入道と改称したことが分かるが、右の宗祖脇書からは俗「日目」と称された可能性も考えられる」とある。

七、弘安3年3月日「沙門妙寂授与本尊」 (『教学書』6巻510頁)
 『家中抄』草稿本中巻に、「沙門妙寂授与、弘安三年大才庚辰三月吉日、小本尊也」とある。当本尊の所在は不明で、同じ系年(弘安三年三月日)で一紙の本尊に、「日□授与本尊」(静岡県玉沢妙法華寺蔵、本尊集78)・「沙弥妙識授与本尊」(静岡県鷲津本興寺蔵、本尊集79)・「日安女授与本尊」千葉県随喜文庫蔵、本尊集80)がある。

八、弘安3年6月日「日十授与本尊」 (『教学書』6巻510頁・『本尊集』№95)
 『家中抄』草稿本中巻に、「俗藤原国貞、法名日十授与之、弘安三年大才庚辰六月日」とある。当本尊(京都本法寺蔵)は、『日蓮聖人真蹟集成』十巻に収録されており、「弘安三年太才庚辰六月日 / 俗藤原国貞 / 法名日十授与之」の脇書が確認される。
 日精は引き続き「大聖御筆、寛文十(1670)庚戌十月廿六日ニ拝見、大石寺日精」と記しており、京都本法寺にて当本尊を実見したようである。

 以上、『家中抄』より八幅の宗祖本尊に関する記事を取り上げたが、前回と同様、先徳の記録によってどのような経緯を辿って宗祖の真筆が今に伝えられてきたのかを知り得ることができた。日精が活躍したのは西暦1600年代、今から約400年前の聖教類の情報を、日精は多く書き残している。(渡邉)
 
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 昨年六月のコラム「『観心本尊抄』の止観弘決「当知身土一念三千」の引文」は、説明不足なところがあるので再説したい。

一、『止観弘決』の引文の結前生後について
 私見によれば、『止観弘決』巻五之三の、
  まさに知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称いて一身一念は法界に遍し。
の引文には、次のような結前生後の役割がある。
 観心段では末法我らの四聖界具足、とくに仏界具足の難題解決のため、
  釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう。
と、受持譲与を決断し、仏界を含む四聖界を具足するとした。そして、
  まさに知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称いて一身一念は法界に遍し。
の文を受持成道に転用して一念三千の成就を示し、観心段の結論とした。これが結前の役割である。この後、本尊段に入って、
  今、本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化もって同体なり。これすなわち己心の三千具足、三種の世間なり。
と、在世本門の釈尊の己心に、久遠以来化導してきた所化と同体となっている常住の浄土(本因果国)が顕現したことを示した。釈尊も一念三千を修して成道した故に、『止観弘決』の引文を契機として、この四十五字段が書かれたのであり、ここに生後の役割がある。

二、十乗観法・一念三千は初心行者の規範となり初住に到達させる
 これまでに指摘した研究者はいないようであるが、この辺の記述は『摩訶止観』と『止観弘決』の所説を基盤にしているだろう。『摩訶止観』巻五上に、十乗観法の序文といえるような次の文章がある。
  この十重の観法は横竪に収束し微妙精巧なり。初めはすなわち境の真偽を簡び、中ごろはすなわち正と助を相い添え、後ちはすなわち安忍して著なし。意は円かに、法は巧みに該括周備す。初心に規矩(きく)し、行者を将送して彼の薩雲に到らしむ。
《現代語訳》この十種の観法は、横にも縦にもまとまっていて、微妙かつ精巧である。初め(第一の観不思議境)は対象界の真偽を選別し、中間(第二の起慈悲心から第八の知次位)は正行と助行が互いに付け加え合い、後ち(第九の能安忍と第十の無法愛)は安らかに忍耐し愛着がない。思いは円か、法は巧みで、全体にわたってまとまり、くまなく具わっており、初心者にとって規範となり、修行者を送って彼の一切智に到らせる。
 十乗観法は初心の修行者の規範となり、薩雲に到達させる。薩雲は一切智と訳され、『止観弘決』巻五之二では「初住」と扶釈される。十境十乗の観法、切り詰めれば、一念三千の観法が、天台宗の初心以来の修行であることは疑いない。そのため『止観弘決』の、
  まさに知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称いて一身一念は法界に遍し。
の文意は、十乗観法、一念三千の観法を修して成道した行者の一身一念であり、宗祖は受持成道による一念三千成就の意に転用したと考えられる。

三、十乗観法・一念三千は釈尊も修した法華経の観法
 『摩訶止観』巻五上の文は次のように続いている。
  けだし如来の積劫の勤求するところ、道場の妙悟するところによる。身子の三たび請うところ、法譬の三たび説くところ、正しくここに在るか。
《現代語訳》大まかに考えてみると、十種の観法は如来が長い時間をかけて、力を尽くして求めたもの、道場で深く体得したものに由来している。舎利弗が三たび懇請したもの、法と譬と因縁によって三たび説いたものは、まさにこの十種の観法にある。
 天台智顗自ら、十乗観法をこのように称歎し、妙楽湛然も『止観弘決』巻五之二に、こう扶釈している。
  「けだし如来」より下は称歎なり。十法はすでにこれ法華の所乗なり。この故に還りて法華の文を用いて歎ず。もし迹の説に約せば、すなわち大通智勝仏の時を指して以て積劫となし、寂滅道場を以て妙悟となす。もし本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫となし、本の成仏の時を以て妙悟となす。迹本の二門は、ただこれこの十法を求悟するなり。
《現代語訳》「けだし如来」以下は称歎である。十種の観法は法華経の仏乗であり、そのため法華経の所説をもって称歎したのである。もし迹門に約すならば、大通智勝仏の時を積劫とし、菩提樹下の成道の時を妙悟とする。本門に約すならば、我本行菩薩道の時を積劫とし、実本の成道の時を妙悟とする。釈尊は迹本二門において、この十種の観法を求めて悟ったのである。
 智顗や湛然は、釈尊も十乗観法を修して成仏したとして、十乗観法を法華経の観法であると強調した。そうであれば、釈尊も「身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称いて一身一念は法界に遍し」の修因得果に漏れないことになる。それ故、宗祖は当文の引用を契機として、
  今、本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化もって同体なり。これすなわち己心の三千具足、三種の世間なり。
の四十五字段を記したと考えられる。『八宗違目抄』に『摩訶止観』巻五上と『止観弘決』巻五之二の文が引かれているから、私見の妥当性は高いのではないだろうか。

四、『止観弘決』の文を釈尊に引き付けて用いることも可能
 『止観弘決』巻五之三の文意は、一念三千を修す行者のことであり、山川智應氏も昭和十四年の『観心本尊抄講話』に、「身土は一念三千なり」は衆生の身土、「成道の時」も衆生の成道と認めている。ただし、昭和九年の『観心本尊抄四十五字法体段正義』では、専ら釈尊の成道の意としていたから、山川氏はこれを改めたといえよう。とはいえ、相変わらず『観心本尊抄講話』に、
  本仏釈尊の「当知身土一念三千、故成道時称此本理、一身一念遍於法界」(後略)。
教主釈尊の成道の身土は如何と考へると、「故成道時、称此本理、一身一念、遍於法界」とあるから(後略)。
本仏御みづからの「故成道時、称此本理、一身一念、遍於法界」の、果上事具の一念三千を(後略)。
と、釈尊の成道にも用いているため、戸惑う読者もいるかもしれない。しかし『摩訶止観』巻五上、『止観弘決』巻五之二の所説を念頭に置いていれば、なんら戸惑う必要はない。
 行学院日朝が『止観弘決』巻五之三の文について、
  師の云く、もし文の本意に約すれば行者の点なるべし。もし教門に約する時は教主の点なるべし。当流の正しき相承には、行者の外に教主を存ぜず。教主すなわち円頓行者なり。(中略)口伝に云く、もし行者に約せば(中略)行者の因位に三千の妙観、果位の智慧を修習して、遍せざることなし。もし教主に約せば、寂滅道場の釈迦如来、華台華葉の一身一念は法界に周遍し、(後略)。
と記すのも、『摩訶止観』巻五上、『止観弘決』巻五之二の所説を踏まえているだろう。
 詰まるところ、『止観弘決』巻五之三の文は、行者の身土と一念三千成道を述べたものであるが、釈尊もその修行者とみれば、釈尊の身土と成道を論ずる際に用いることも可能ということである。(菅原)
 
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  『観心本尊抄』四十五字段はこのようである。
  今、本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化もって同体なり。これすなわち己心の三千具足、三種の世間なり。
 先月のコラムに、「在世本門の釈尊の己心に、久遠以来化導してきた所化と同体となっている常住の浄土(本因果国)が顕現した」と記したが、詳しく意訳すればこうなる。
  今、本門が説かれて、娑婆世界は久遠本時の常住の浄土(本国土妙)となり、過去不滅・未来不生の釈尊(本果妙)と、久遠以来化導してきた九界の所化(本因妙)は同体となっている。これが釈尊の己心に具現した三千世界であり、国土・衆生・五陰の三種世間である。
 この「所化」「己心」の解釈について説明したい。

一、「己心」は本門を説く在世釈尊の己心
 『開目抄』に、
  ただ天台の一念三千こそ、仏になるべき道とみゆれ。この一念三千も我ら一分の恵解もなし。しかれども一代経々の中には、この経ばかり一念三千の玉をいだけり。(中略)この経は愚人も仏因を種ゆべし。「不求解脱、解脱自至」等云云。我れ並びに我が弟子は、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。
とあるように、一念三千を少しも恵解できない我らは、妙法受持により仏種を植えて自然に仏界に至る。これは『観心本尊抄』観心段の結論に似ている。
 観心段では、妙法受持により我らが劣心に釈尊の因行果徳が自然に譲与され、仏界を含む四聖界を具足するとした。「我らが己心の声聞界」「我らが己心の釈尊」「我らが己心の菩薩等」「我らが己心の菩薩」の文がそれである(縁覚界は省略されている)。そして『止観弘決』巻五之三の、
  まさに知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称いて一身一念は法界に遍し。
の文を、我らの受持成道に転用して結論とした。
 さて問題は、はたして四十五字段の「己心」は「我らが己心」と同じなのかということであり、私見によれば、次の理由から異なると考えられる。第一に、「我らが己心」は観心段の文であり、四十五字段の「己心」は本尊段の文である。すなわち、観心段は『止観弘決』巻五之三の引文で終了しているから、「我らが己心」と四十五字段の「己心」は同じものではない。
 第二に、四十五字段は在世本門の話をしており、主格は「仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず」の文の「仏」にあるから、在世本門の釈尊の己心と考えられる。すなわち、本門を説く釈尊の己心に、久遠本時の本因本果本国土の三千世界、三種世間が顕現したのである。

二、「所化」は釈尊が久遠以来化導してきた在世の衆生
 「所化」は釈尊が久遠以来化導してきた在世の九界衆生であり、末法の受持者は入らないと考えられる。理由は、在世の所化と末法の我らには、次のような違いがあるからである。
 『観心本尊抄』から二か月後、文永十年閏五月の『顕仏未来記』に「日蓮は名字の凡夫」とあり、翌年二月五日の天変(明星の異変)の直後に佐渡で起筆された『以一察万抄』に、
  末代悪人の日蓮等の者のために寿量品の広開近顕遠を演説するこれなり。
とあって、自己および我らを名字即の凡夫、末代の悪人と規定している。本書は『法華取要抄』の草案である。
 対して、在世の所化について『以一察万抄』は、
  始めて涌出品の略開近顕遠を聞いて仏果に入るこれなり。いわゆる、弥勒・文殊・観音等・舎利弗・目連等・梵天・帝釈・日月等、乃至二界八番衆これなり。
と、涌出品の略開近顕遠を聞いて仏果に入ったという。『法華取要抄』ではこう浄書している。
  法華経の本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・龍王等は、位は妙覚に隣り、また妙覚の位に入るなり。もし、しかれば、今我ら天に向いてこれを見れば、生身の妙覚の仏が本位に居して衆生を利益するこれなり。
 在世の所化は等覚、あるいは妙覚に入った。それゆえ今、天を仰げば、日月衆星は妙覚の本位にあって我らを利益しているという。彼らはすでに等覚妙覚を得ていて、名字即の凡夫、末代の悪人とは大いに径庭がある。
 さらに『以一察万抄』では、在世の所化を次のように讃える。
  日蓮のいわく、もし在世を本とすれば、舎利弗は現在をもってこれを論ずれば智恵第一の声聞なり。過去をもってこれを論ずれば金龍陀仏なり。未来をもってこれを論ずれば華光如来なり。霊山会上をもってこれを論ずれば、三惑を既尽して初住の真因に登る。また一切声聞に随ってこれを讃歎していわく、「内に菩薩の行を秘し、外にこれ声聞なりと現ず」等云云。文殊・弥勒等は過去の古仏なり。梵天・帝釈等は不思議解脱の菩薩なり。天人・龍神等、在世においては一人も愚者なし。
 舎利弗は現在は智恵第一の声聞であるが、過去には金龍陀仏、未来には華光如来となり、霊山では三惑を滅尽して初住に登っている。文殊菩薩や弥勒菩薩は過去の古仏であり、梵天帝釈は不思議解脱の菩薩、天人龍神等も同様で、在世に愚者は一人もいないという。『法華取要抄』ではこうなっている。
  日蓮のいわく、舎利弗・目等は現在をもってこれを論ずれば、智恵第一・神通第一の大聖なり。過去をもってこれを論ずれば金龍陀仏・青龍陀仏なり。未来をもってこれを論ずれば華光如来なり。霊山をもってこれを論ずれば三惑頓尽の大菩薩なり。本をもってこれを論ずれば「内秘外現」の古菩薩なり。文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古仏、現在の応生なり。梵・帝・日・月・四天等は初成已前の大聖なり。その上、前四味・四教、一言にこれを覚りぬ。仏の在世には一人においても無智の者これなし。
 内容は変わらないが、舎利弗に目連を加え、さらに『以一察万抄』の「在世においては一人も愚者なし」の文を、「仏の在世には一人においても無智の者これなし」に改めて、在世の所化を「前四味・四教、一言にこれを覚りぬ」有智者と称讃している。こうした記述にしたがえば、在世所化と末法の受持者を同等に扱うことはできない。それゆえ、「所化」に末法の受持者は入らないと考えるのである。
 また『以一察万抄』『法華取要抄』では、広開近顕遠で詮顕され、本門八品で付属される妙法は末法のための秘法であり、略開近顕遠で得脱した在世所化のためではないという。本門には在世の賢者・有智者を得脱させる場面と、末法下種の妙法を付属する場面の両方が説かれているが、四十五字段は前者であり、下種益を蒙る末法衆生は「所化」に入らないと考えられる。
 前回と今回のコラムに関する詳細は、『興風』三十五号の拙稿「『観心本尊抄』四十五字段の考察」を参照してほしい。(菅原)
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 以前、『日蓮仏教研究』第十一号に拙稿「身延文庫蔵 円鏡撰『捨邪帰正勧発抄』に関する考察」を掲載させていただいた。今回はその内容を略述してみたい。
令和元年六月、身延山久遠寺の身延文庫にて『捨邪帰正勧発抄』(以下『勧発抄』)を閲覧し、その後に少しずつ解読を進めた。
 『勧発抄』には円鏡の正本は伝来しないが、承揚本と某筆写本の二本が現存する。承揚本には行学院日朝筆にて「文明第八丙申八月 日。筆者承揚房。以日進聖人御本奉写之」とあり、日朝の指示で承揚房が久遠寺三世日進の「御本」を書写したことが示されている。
 また日進と交流の深かった中山日祐の『本尊聖教録』「十三 御書」には、「良実難状」「十難記録」「手島難状」「強仁状」「破他義抄」「自宮凹難状」など、日蓮及び門下檀越に対する他宗他門からの難状とともに、「捨邪帰正勧発抄 一巻」が収録されている。つまり『勧発抄』は、上代の日蓮門下にとって破折・反論すべき内容の書物なのであった。

 
  【図版は無断転載禁止です】

 その内容はといえば、『勧発抄』には出だしから「日蓮」や「日蓮状」の文字が頻出し、激しい日蓮批判が展開されていた。日蓮門下に「捨邪帰正」を勧めるとか、日蓮を「エソカチシマ(蝦夷の千島)」に流せとか、私は円鏡がどこの誰とも分からないままに『勧発抄』を読み進めていった。
 そのうち「日蓮状」が『曽谷二郎入道殿御報』であることが分かったが、それはそれで驚きであった。どんな状況で円鏡は『曽谷二郎入道殿御報』を入手したのであろうか。日蓮門下や檀越との激しい論争が頭に浮かぶ。調べが進むと、円鏡はどうやら金沢称名寺に縁する東密僧らしいことも分かった。背後には、真言師の仲間や諸行往生派の念仏僧も控えているようである。
 そんな円鏡が、弘安の役における蒙古軍の壊滅を契機に、日蓮と門下檀越に対し、ここぞと気炎をあげたのが『勧発抄』であった。その成立は日蓮晩年の弘安四年後半から同五年にかけてと推察される。弘安の役で蒙古軍が撤退したことを契機に、日蓮および門下檀越に対し教義的批判を展開したもので、日蓮遺文にいう所謂「真言師蜂起」の一例ともいえる。
 日蓮はその生涯において、法華弘通に専心し「真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊」等と諸宗を厳しく批判した。当然ながら諸宗諸師との間には軋轢が起こり、日蓮に対する非難も時々に熾烈をきわめた。
 一例を挙げれば、『寺泊御書』には次のようにある。

  或人日蓮を難じて云く「機を知らずして麁義を立て難に値ふ」と。或人云く「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違す」と。或人云く「我も此の義を存すれども言はず」と云云。或人云く「唯教門計りなり。理具は我之れを存す」と。(原漢文)

 これらは主に日蓮の激しい法華弘通に対する非難であるが、竜口法難から佐渡流罪に際してのことであれば、日蓮の窮地に諸宗の人師・論師がここぞと計りに気炎を上げたことが窺えよう。逆にいえば、それだけ日蓮の存在が大きく、その法華弘通を等閑に付せない状況にあったことを示している。
またこれらの言説の他に、日蓮を批判した文献としては文永八年の『行敏訴状』や同十一年の『強仁状』がある。
 『行敏訴状』の本主は良観房忍性であり、行敏は雑掌として日蓮に四点の難詰を用意し、問答対決を申し込んでいる。それに対し日蓮は、

  条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるるの趣に随ひて、是非を糾明せらるべく候か。此の如く仰せを蒙り候条、尤も庶幾する所に候。恐々謹言。(原漢文)

 と行敏宛に申し送り、評者のいない私的な問答ではなく、是非が明らかとなる公場対決を望まれた。また行敏の疑難に対しては、『行敏訴状御会通』を述作して、訴状を引用しつつ具体的な反論を行っている。しかしながら行敏はじめ、その批判勢力との公場対決は実現していない。
 次で『強仁状』は、甲斐国在住の強仁が日蓮の教義を批判し、問答対決を求めた書状である。強仁は密教と浄土を兼修する台密僧で、「当に知るべし、阿弥陀如来と妙法蓮華経とは全体同一にして更に異物にあらず」、「大日経とは即ち法華経なり」等と主張して、法華最勝を立義とする日蓮に応答を迫っている。
 それに対し日蓮は『強仁状御返事』にて、自界叛逆難・他国侵逼難の大災が起こるのは、弘法・慈覚の両大師が法華経と大日経の勝劣に迷惑し、それに誑惑された国主が法華経を用いないからだと反論し、その上で

  一期の大慢を以て永劫の迷因を殖うること勿れ。速々天奏を経て疾く疾く対面を遂げて邪見を翻し給へ。書は言を尽くさず、言は心を尽くさず、悉々公場を期す。(原漢文)

等と公場対決を求められた。
 強仁の背景には相呼応する密教勢力があったらしく、日蓮は清澄寺の大衆に、「伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏を借用候へ。是の如きは真言師蜂起の故に之れを申す」等と指示し、法論への準備を怠らなかったが、この際も公場対決は実現しなかった。
 その後、弘安元年三月の『諸人御返事』にも、

  日蓮一生の間の祈請並びに所願、忽ちに成就せしむるか。将又、五五百歳の仏記、宛かも符契の如し。所詮、真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ、是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那と為らん。(原漢文)

 等とあり、諸宗諸師との間に法論の気運が高まったようである。
 しかし、この時も公場対決は行われず、かえって翌月には日蓮を流罪に処すとの噂が流れたようである。『檀越某御返事』には「日蓮流罪して先々にわざわいども重て候に……、今度ぞ三度になり候」との文言が見える。
かくして日蓮は諸宗諸師の教義的な批判に対し、一貫して公場対決を望んでいた。それは私的な問答や論争が「定めて喧嘩出来の基」となるからで、無用下劣な争いを避けるためにも、「世出世の邪正を決断せんこと必ず公場なり」と心中に決めていたからであろう。
 これを思うに、日蓮を批判する諸宗諸師が「蜂の如く起り、雲の如く集る」状況でありながら、日蓮が再三求めた公場対決が実現しなかったのは何故であろうか。幕府の政治的な判断や諸宗諸師の思惑など、様々な背景もあろうが、一つの要因として法華最勝の立義に一定の道理があり、日蓮が法門に確たる自信を持っていたことが公場対決の回避に繋がったのではなかろうか。
 しかし一方において、日蓮義に対する激しい批判は日蓮の晩年まで行われており、『勧発抄』はその典型ともいえよう。それも『行敏訴状』や『強仁状』は訴状・消息の形式で、日蓮に対し直接的に問答対決を求めているが、『勧発抄』は述作の形をとり、直接的には日蓮ではなく門下檀越を対象としている。日蓮義を一方的に批判し、門下檀越に「捨邪帰正」を勧め、問答対決などは求めていない。その点で『行敏訴状』『強仁状』とは主旨や目的を異にしている。ともあれ『勧発抄』のような日蓮批判の書物が日蓮の在世中に存在したことは殆ど知られていない。
 以下、『勧発抄』の内容については次回につづく。また『勧発抄』の翻刻並びに内容詳細は、『日蓮仏教研究』第11号(令和2年3月・常円寺日蓮仏教研究所)を参照願いたい。(池田)
 
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 今回は、円鏡撰『捨邪帰正勧発抄』(以下『勧発抄』と略す)が述作された背景や動機について述べてみたい。
 まず『勧発抄』の冒頭付近には次のような二つの文がある。

 

 

 前者の一文には、日蓮は邪僧であり、幾人かの弟子を従えている。また日蓮が檀越に送った書状を読むと、真言や念仏の宗旨を謗り、日本・中国の高名な祖師を破折している等とある。円鏡のいう「彼状」とは、弘安四年閏七月一日付『曽谷二郎入道殿御報』(以下『御報』と略す)のことで、『勧発抄』に五点の引文がある。円鏡が『御報』を曽谷二郎入道から直接披見したかどうかは不明だが、状況とすれば、『御報』をめぐって門下檀越と接し、何らかの論争が行われたことは事実となろう。
 続いて後者の一文には、日蓮には帰依した四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の弟子檀越がいて、みな面々に日蓮を仏世尊のように尊崇すること。日蓮の教化によって門人たちも三大師(弘法・慈覚・智証)を破折し、その三門流を非難するので、重罪によって阿鼻地獄に堕すること。『勧発抄』は邪執を改めない日蓮に対してではなく、弟子たちを「捨邪帰正」させるために述作したこと等が語られている。
 ここに書名「捨邪帰正」の由来があるので、これをもって『勧発抄』述作の動機といえるであろう。円鏡は日蓮の門弟を「数輩ノ弟子」「数輩ノ四部ノ弟子」とするが、それが相当の勢力であったことは、『勧発抄』全体の過剰ともいえる反論や口吻によく示されていよう。
 また門弟たちが「面々ニ日蓮ヲ信仰シテ大聖世尊ノ念ヲナス」という指摘は、おそらく円鏡が日蓮の門下檀越を目の当たりにした感想なのであろう。日蓮は佐渡流罪以降、本化・上行菩薩の自覚を深め、とりわけ身延期に入ると『法華取要抄』『曽谷入道殿許御書』『撰時抄』等を述作し、その気魄を披瀝している。『頼基陳状』における、

  日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候……。(『定遺』1352頁)

との一文は、日蓮とその門弟の共通した思いでもあった。そうであれば円鏡の先の指摘は、日蓮在世中における祖師信仰の一面を外部から示したものともいえようか。
次に「彼ノ所化ニシタガフ門人等ノ共ニ三大師ヲ破シ、同ク三流法ヲアザムク」との記述も、当時の日蓮と門弟の状況を示すものとして大変興味深い。日蓮のみならず、日蓮の教えを受持した門弟たちも弘法・慈覚・智証の三大師を破折し、三門流を批判する。その門弟たちには、学識に秀でた檀越=在家信徒も含まれていた。
 日蓮は身延に在山するので、専ら各地では門弟たちが主体となって諸宗諸師と対峙し激しい問答を行った。その際に教えが説かれた日蓮の述作や消息は、必要欠くべからざるもので、時には論争相手に直接それを示すこともあったと思われる。おそらく円鏡が『御報』を披見したのもそんな折であろう。円鏡にとっての対手は、身延の日蓮ではなく、目の前にいる弟子檀越たちであった。それゆえ前述の他にも『勧発抄』には、

 

等と弟子檀越を相手にした文言が並ぶのである。むろん弟子檀越にとって日蓮は精神的支柱であり、それを突き崩すべく円鏡の日蓮批判も、所説の正否はともあれ、激しく攻撃的な言辞を列ねている。
 また円鏡は『勧発抄』を「彼(日蓮)ニ対シテ云ニハアラズ」と述べたとおり、直接の問答対決や教義の破折を重視するのではなく、日蓮の罪科を問うことや国外への追放を願っている。それが『勧発抄』述作の背景で、もう一つの動機であることは次の一文が示していよう。

 

 
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 これによれば、円鏡は日蓮の言動について、諸宗の本寺本山が衆議もせず沈黙し、公家武家が罪科に処す等の強権発動しないことを憤っている。また円鏡は、日蓮を伊豆・佐渡という日本の辺土ではなく、蝦夷・千島や硫黄島など本朝を離れた「他境」に流罪せよ、と主張する。何故ならば、日蓮は両度の流罪も、配所にあって多くの檀越を創出し、ますます「悪義」を弘め、結局は「邪義流布」の基となるからだという。もっとも円鏡のいう「悪義」「邪義流布」は、日蓮からすれば「正義」「法華流布」となるのであろう。
 たしかに日蓮は、伊豆・佐渡の配所でも法華弘通に挺身し、とりわけ佐渡では阿仏房・千日尼をはじめ、国府入道・中興入道・一谷入道など帰依者が続出している。円鏡は一面において、日蓮と檀越の動向をかなり知っていたともいえよう。それ故に円鏡は、日蓮のカリスマ性や教化力を多少とも認めざるを得なかったようである。国外に追放しなければ、その影響力は排除できないと円鏡が思った所以である。
なお前回にも述べたとおり、『檀越某御返事』によれば、日蓮には三度目の流罪が噂されていた。それが日蓮遺文のみではなく、『勧発抄』のような外部からの事例が示されたことは重要であろう。単なる噂や憶測ではなく、建治・弘安期の日蓮には流罪の危険性が無かったとはいえない。
 日蓮とその門弟は、それほど諸宗諸師と苛烈な問答対決に及んでおり、その軋轢が昂じれば日蓮の流罪を権力に訴え出るケースがあっても不思議ではない。そんな緊迫した状況は日蓮の最晩年まで続いたのである。
 円鏡撰『捨邪帰正勧発抄』の翻刻及び内容については、『日蓮仏教研究』第十一号所収の拙稿「身延文庫蔵 円鏡撰『捨邪帰正勧発抄』に関する考察」を参照願いたい。(池田)
 
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  天台の論義書の中で「雑々」と冠される書名を「昭和現存天台書籍綜合目録」(以下「渋谷目録」)で確認すると、宗要・義科・問要と分類される論義書の項目の中でも問要にほぼ集録されている。宗要では九十の算題が六部(仏部・菩薩部・二乗部・教相部・五時部・雜部)に分けて整理されているのに対し、問要はそれぞれの門流や人物によって任意に類聚されたもののようである。「雑々」と題されているは、その他諸々という意味合いであろうか。このことについて野本覚成氏は、同じ問要の「雑々」の括りである「天台直雑」の解題(「正続天台宗全書目録解題」42頁)に、
  「本書は問要であるから義科・宗要のような論目順序がない。関係論目は一応整理され纏められているようだが、なお順序は一見雑然としている。」
として、論義書を分類する中で問要の論目のランダムな特色を述べている。
 ところで渋谷目録の中、問要に分類されている書目で著名なものを挙げると以下のものが見受けられる。
  ①『雑々私用抄』との内題をもつ直海撰とされる「天台直雑」(「天台宗全書」第3・17・25巻 に集録)。
②『雑々口伝 恵光院』・『雑々抄』との内題のある「恵光房雑々」(「続天台宗全書 口決2」に集 録)。
③『雑々口決集』・『雑々私見聞抄』との内題のある「毘沙門堂」。
④「常伝雑々抄」の項目に括られていて、他に『雑々聴書』・『雑々見聞抄』・『雑々口決』・『雑々私見聞』等の内題がある、いわゆる『雑々抄』。
①は政海─一海─直兼─直海と継承される松林房の流れを汲む門流のもの。②は澄豪・永弁等の流れを汲む恵光房流に相伝されてきたもの。③は経海を擁する毘沙門堂流に伝わってきたもの。④は心賀─心聡─心栄と継承され、伊賀国往生院を本拠とする、いわゆる伊賀流(野本覚成『伊賀流(恵心流)天台学の系譜』「天台学報32号」参照)に伝来してきたものと言える。④の『雑々抄』については叡山文庫真如蔵・妙法院蔵・西教寺正教蔵・日光天海蔵・大谷大学蔵等と各所に所蔵されており、「雑々」の中でも広く流布していることが知れる。ことに大谷大学所蔵の写本二十九冊の『雑々抄』については、窪田哲正氏が「『雑々抄』における円密勝劣論」(「塩入良道先生追悼論文集『天台思想と東アジア文化の研究』」所収)との論考でその書誌を報告しているので参考にされたい。
 上記④の『雑々抄』の制作の経緯について「本朝台祖撰述目録」(仏全2巻243頁)には、

 

と記載されていて、すなわち「雑々抄三十巻は、山門秘書記によれば、伊賀国往生院の学頭代官であった三川僧都良意が心賀の口決を記したものである」というものである。つまりこの『雑々抄』は心賀の口決を伝えてきているものであるということである。
 さてこの目録の記述の元になっている『山門秘書記』の全文が翻刻された論考を幸いにも見つけることができた。小峯和明氏の「早稲田図書館教林文庫本翻刻(四) ─山王関係資料二種─」(「国文学研究資料館調査研究報告 第10号」)である。以下に当論考に翻刻されている『山門秘書記』の該当の文章を引用する(ただし小峯氏の翻刻文と原典と対照し多少の訂正を加えた)。

 

とあって、『山門秘書記』に書かれている『雑々抄』制作の経緯については、ほぼ『本朝台祖撰述目録』の記述の通りであるが「三十巻」との巻数の確認はできない。けれど次丁には『雑々聞書』についての記述があって、そこには「三十帖」との巻数が確認できる。以下に該当箇所を引用すると、

 

との書かれている。現代語訳すると、

  「私に云う、明徳二年辛未九月四日に雑々抄披覧の所望のため金鑽心源法印の隠居所のしおの谷の釈迦堂及び阿弥陀堂に参じた。そして即刻その許しを得た。この抄は三川僧都良意が正親町殿(心賀)に三十余年も随身し、その結果得た大事の口決である。それを三帖に記録し、さらに正親町殿(心賀)自らが添削されたものである。この抄を豪海法印が心源・宥海・心範・心運の四人を遣わし、伊賀の往生院にて、二条室町心栄房がお座しし時、随分の報謝を捧げ勤行祈念し夢想のお告げがあって書写せしめ、さらには心栄の御筆で三十帖すべてに奥書し判形をした。そうして所望するところを達することができた。随分の報謝によって許されたものである。また自ら(豪海)房を出て筆者七人を伴って二十五日で書写し七日で対校を終えた。そして明徳三年正月八日写本を自ら持参して帰った。たいそうな功績を果たしたものである。」

とその経緯を記している。この中で『雑々聞書』の項の「三十帖」の記述が、現存の諸所蔵の『雑々抄』の三十巻という巻数とほぼ一致するものの、ただ良意が大事の口決を記録した「三帖」と『雑々聞書』の「三十帖」の関係や違いについては『山門秘書記』の記述では明確とは言いにくい。今後の調査の課題である。

 
  身延文庫蔵 日朝本『雑々抄第一』冒頭部分
【図版は無断転載禁止です】

 「興風叢書」では数回にわたり身延文庫蔵の上記④の『雑々抄』を翻刻掲載していく予定であるが、身延文庫蔵の『雑々抄』については渋谷目録には記載されてはいない。そこで「身延文庫典籍目録」によって『雑々抄』を探すと「当山部11日朝本」、「当山部12日意本」、「他山部24日習本」、「諸宗部台宗」に散在していることが確認できる。それぞれの『雑々抄』を調査しながら、基本的に日朝本を底本にして、日意本・日習本・台宗本で補足しつつの翻刻掲載予定である。
 また天台宗典編纂所では「文句伊賀抄」を次回の刊行予定としている。『山門秘書記』の記述によれば、「三大部伊賀抄」と『雑々抄』の関係はかなり密接のようで、双方が刊行されれば書かれている内容についてお互いに補完できるものと期待される。
(成田)
 
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  先月のコラムで『雑々抄』制作の経緯について、小峯和明氏の「早稲田図書館教林文庫本翻刻(四) ─山王関係資料二種─」(「国文学研究資料館調査研究報告 第10号」)論文中の『山門秘書記』の翻刻文を紹介した。再度該書の文章を見ると、
 
と記されている。つまり、
  「三川僧都良威は伊賀の往生院の学頭代官で、かの門流では代々学頭が措かれている。良威は心賀法印に多年随身していた弟子である。心賀の口決を以てこの書を書し、それを心賀に見せては添削をした。」
として、『雑々抄』が、口伝法門の中心的存在である心賀に多年随身して相伝法門を見聞きしたことを良威がまとめた書であることがわかる。心賀の相伝法門の見聞書には、尊海・壱海(または全海)の見聞した『一流相伝法門見聞』(『二帖抄』)、壱海がまとめた『相伝法門抄』(『八帖抄』)があり、それと良威がまとめたこの『雑々抄』も加えられる。他にも心賀の相伝法門を多く収集した府中等海の『宗大事口伝抄』(『等海口伝抄』)もある。
 ところで次回の興風叢書には、身延文庫蔵の『雑々抄』第一・第十・第十三・第十四(2024年12月刊行予定)を翻刻する予定である。その中、『雑々抄』第一に記載されている内容から興味を惹かれる事柄を紹介しておきたい。

 まず、『雑々抄』第一の「仰云」は心賀の言葉であろう。第一巻中に「静仰云」(「三十七 証道八相事」【83丁裏】)との表現があり、これは静明の仰せを示していて、心賀の「仰云」と区別していると思われる。この「仰云」が第一巻中に約150箇所以上と頻出する。上記『山門秘書記』の「心賀の口決をもってこの書を記した」との記述に該当するものである。

 また、『雑々抄』の第一には、ところどころの項目下に弘安四年から弘安八年までの間の具体的な見聞の日付が細注されている箇所がある。この弘安年間には粟田口静明も松林房政海もまだ存命で活躍している時でもある。そして具体的な見聞の年号日時が記されているので史実性も増していると言える。その項目を拾って提示してみたい。

  この項目の最初に、
 
  とある。いわゆる、「一自受用如来智恵為有為常住将無為常住歟」が業義の三身義で、「二唯常説妙法華経事」が副義の即身成仏義となる。文章中の「精云(おしらべ)」の中で「祖師範源ヨリ已来」【7丁表】と述べていることから題者である静明の言葉であると理解できる。
因みに『天台座主記』(290頁)では公豪の寂年は「弘安四年十月二十三日」としている。

  ここでは心賀が静明に対して不審の条々問うていること。その問答のやりとりを見ると、師弟関係でありながら心賀の止観行者としての自信が静明のそれを上回って、師弟が逆転しているような感さえある。

  文章の意味は取りにくいが、ともあれ政海と良威が同座しているほどの間柄であることが理解できる。

  ここでの承有という人物については今のところ明らかではない。

  松林房については政海もしくは一海かと思われるが、③の「五百塵点事」の項目で「政海」と実名で記していることから、ここでの松林房の房号は壱海を指しているかもしれない。


  ここでも同座したであろう松林房と良威(伊賀流)との間に浅からぬ関係がうかがい知れる。


 
以上のことから心賀を恵心流の嫡流の師として、松林房と伊賀往生院の一流とがお互いに通用していたのではないか。それが後に松林房の義として「三大部伊賀抄」の中にも反映されるようになるのであろう。ともあれ『雑々抄』を詳細に解読していくことが、心賀の相伝法門が如何にして関東へ派生していったのかを解明していく一助になるものと思われる。                         (成 田)
 
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