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2023年
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 法華経の読誦や聞法による功徳譚は、本邦においても代表的な『法華験記』をはじめとして、様々に語られてきた。南条時光宛の日蓮書状にみえる、大橋太郎の物語もその一類と位置づけられ、日蓮がこうした譚を説話として用いたり、あまねく功徳を唱題に集約し説示していたことは周知のとおりである。
 いったい今日にいたるまで、どれほどの人びとが法華経の題目を唱えてきたのかは、知るよしもないが、先年、ひょんなことから嵯峨家(旧公爵家)と愛新覚羅家(大清帝国・満州国皇族)の婚姻により、唱題行が大陸へ渡ったという物語のあったことを知った。
 これまで近現代に法華信仰をたもった人びとについては、山上ゝ泉氏らによって綴られてきたけれども、表題の件について触れた論著を私は知らない。またこのコラムに相応しい内容かどうかも分からないが、これも題目信仰の一齣であることは確かなので、忘れぬうちに、書きとめておくこととする。

 宣統帝こと愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ1906~1967)は、中国王朝(清朝)最後の皇帝として、また日帝の建国した満州国の皇帝として著名である。1987年度、アカデミー賞9部門を独占した映画『ラストエンペラー』(むろん創作もあるが)によって、その波乱にとんだ生涯は、多くの人々の知るところとなった。
 溥儀には年子の弟がいた。愛新覚羅溥傑(あいしんかくら・ふけつ1907~1994)である。溥傑は日本の皇族とつながりのある公爵嵯峨家の長女、嵯峨浩(さが・ひろ1914~1987)と政略結婚をした。この浩こそが唱題を勧進した人と推断される。

 
  清朝皇統・嵯峨家略系図
   【図版は無断転載禁止です】

 溥傑の実兄である溥儀は、清王朝滅亡後、満州国の皇帝となったが、溥儀には子がなかったため、日帝の関東軍は皇弟の溥傑に男子が生まれた場合、これを次期皇帝とする「帝位継承法」を立法させた。のちに浩はこういっている。
  「弟の妃に日本人を貰うことになった皇帝にしてみれば、心中穏やかであるはずはありません。私たちの間に男児が生まれれば、帝位はやがて日本人の血を引く甥にいくことになります。皇帝が私を関東軍の手先と警戒したのは当然すぎることだったかもしれません」(中公文庫版『流転の王妃の昭和史』78頁) 
 しかし溥傑と浩は、二人の女子(慧生=えいせい・嫮生=こせい)をもうけたものの、男子は生まれなかった。しかも日本国の敗戦により満州国も崩壊。溥傑は皇帝の溥儀とともに日本への亡命を試みるも、ソ連軍に捕縛され、やがて身柄は中国の「撫順戦犯管理所」へと移送された。浩と娘達は何とか日本へたどり着いたが、収監された溥傑と妻子は16年もの間、離ればなれになってしまう。悲劇はなおも一家をおそい、1957年、溥傑と浩の長女、慧生が、男子同級生とともに伊豆の天城山中で遺体となり発見された。事件は「天城山心中」として知られ、映画まで作られたが真相は明らかではない。
 暗い監房の中で妻子との再会だけを支えに生きていた溥傑は、どん底に突き落とされた。
  「こんなことがあっていいのか? 浩さん、これは本当なのですか? 私は、こうして書いているいまでさえ、わが娘がこの世にいないことをどうしても信じられない。それにしても、なぜだろうか? 清朝の血を享けた娘が薄幸であることは宿命とでもいうのか? 私の将来のすべてを慧生と嫮生に託してきた。苦しみに耐えてこられたのも、二人の娘と浩さんがいて、いつかは一緒に暮らせるという夢があればこそだった。・・・なんということだ。遠く離れていて、親として何もしてやれなかったことが、これほど恨めしいことはない。もしだれかに罪あるとすれば、この私、父である私にだ・・・ 」【溥傑書簡(浩宛)1958・1】

 そして溥傑が題目を唱えていたことは、そんな話の場面に記されている。すなわち次女の嫮生は次のように語る。
  「母の実家の嵯峨家は神道の家柄ですが、京都嵯峨野にある天台宗の二尊院にも墓地があります。何代か前に日蓮宗に帰依した祖先がいて、『南無妙法蓮華経』とお題目を唱えるようにもなっていました。父は、嵯峨家の影響を受けたのか、結婚後、日蓮宗のお題目を唱えることがあったそうです。戦犯管理所に収容されている間も、『南無妙法蓮華経』を唱えて家族や両国民の幸福を願い、亡くなった方々を弔っていました。それなのに、姉が死んでからというもの、「神も仏もない」と悲嘆し、お題目を唱えるのを止めてしまったそうです。それほど姉の死は、父にとって衝撃でした」(福永嫮生『流転の王妃 愛の書簡 愛新覚羅溥傑・浩』160頁)
 同じ部屋に収監されていた溥儀も、溥傑の唱える題目を耳にしたことだろう。慧生の非業の死によって、溥傑は一時、信仰から離れてしまったようだが、妻の浩に先立たれた晩年、溥傑は「妻の分骨と写真、及び亡くなった長女慧生の分骨と写真は、いつも私の寝室の中で私と相伴って居るので、毎朝の焼香と仏号を唱えることは、既に私の毎日の必修課になって居る」(「妻を語る」1992・2)といっており、再び信仰を取り戻したようである。
 また嫮生によれば、嵯峨家の「何代か前に日蓮宗に帰依した祖先」がいたそうだが、前掲略系図の中に、該当しそうな人物がいる。維新後に「嵯峨」の姓を名乗った正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる1821~1909)である。実愛は天皇に近侍し、その命を公卿に伝えたり、あるいは天皇への取り次ぎをする「議奏」をつとめた人である。
 文久3年(1863)、大石寺僧の日胤が宗義天奏を行っているが、これを孝明天皇に取り次いだのも実愛だった。日胤は当時を回顧し「文久三年の天変地夭により天奏を行ったところ、議奏の正親町三条殿(実愛)は、当宗の法義に深く感悦し、必ずお上(孝明天皇)へ上奏すると仰られ、褒美に和歌懐紙を授けられた」(取意)と語っている(当該資料は能勢順道編『諸記録』第2部169頁に掲載)。
 いまだ実愛と法華信仰については明らかではないけれども、実愛が日蓮宗に対し、ある程度の理解を示していたことは窺えよう。溥傑の妻となり、溥傑に唱題を勧めたであろう浩は、実愛のひ孫にあたる。浩の書簡や著作を読んでいると、彼女が唱題を精神的支柱としていたことが窺える。例えば空襲時「私は観念して慧生と嫮生を抱きしめ、その場に座り込み、お題目を唱えました」(『流転の王妃の昭和史』108頁)といい、また溥儀の没後、溥儀の幽霊がでるとの噂があったらしく、浩の書簡には「私の方には一度も(幽霊が)出ていらっしゃいませんが、赤鼻の方(夫人)には、度々出ていらっしゃるので、こわくてこわくてと。近所の人も二三人が見たとかで、まだうかばれなくていらっしゃるのかしら。当方では、毎日御題目をあげているので、そんなはずも無いのですが・・・」【浩書簡(溥傑宛)1967】と書かれている。
 溥傑と浩・嫮生の往復書簡によると、一家は身延山久遠寺や池上本門寺と深い縁があったらしいが、切がよいので今回はここまで。           (坂井法曄)
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