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2017年
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 【「観普賢経」巻末表面の注記について】

 まずは、下の二枚ある写真の内、左の写真を見ていただきたい。

   
  「観普賢経」巻末の表面に見える注記(左)と「曾谷入道殿許
御書」の文(右)。共に「有縁於東北」の文字が書かれている。 
  
  【図版は無断転載禁止です】    

 これは「法華経」の結経である「観普賢経」の巻末表面にある注記であるが、おおむね表面の注記は経文の間に書き入れられているために、おしなべてその文字が極めて小さい中で、この巻末の書き込みは比較的大きな字で、しかもかなり丁寧に書かれている。
 これは一見して、他には見られない大聖人の特別な気持ちが感じられるが、この一段の文を訓み下すと次のようになる。
  「肇公(じょうこう)の翻経(ほんきょう)の記に云く、むかし天竺国に在りし時、あまねく五竺に遊びて大乗を尋討(じんとう)し、大師の須利耶蘇摩(すりやそま)に従いて理味(りみ)を禀(さんほん)するに、慇懃(いんぎん)に梵本(ぼんぽん)を付属して言く、仏日は西に入り、遺耀(いよう)はまさに東北に及ばんとす。この典は東北に縁(えにし)あり。汝、慎みて伝弘せよ。むかし、婆薮槃豆論師(ばすばんずろんし)は優婆提舎(うばだいしゃ)を製作す。是れ其の正本なり。その句偈(くげ)を取捨することなかれ。その真文(しんもん)を取捨することなかれ」 
 ここには、主に「法華経」を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)の言葉が紹介されており、およその意味を取ると次のとおりである。
  「私・鳩摩羅什が師匠の須梨耶蘇摩から法華経の梵本を付属された時に、次のように言われた。『仏は西のインドで入滅されたが、その教えはいま東北に及ぼうとしている。この経典は東北に縁が深いので、そなたは大切にこの法華経を伝えて弘めよ』と」
 この須梨耶蘇摩が羅什に「法華経」を付属した際のエピソードについては、いくつかの御書で触れられているが、特に文永十二年(一二七五)三月の「曾谷入道殿許(がり)御書」には、上の「翻経の記」を引いた後に、
  「予、此の記の文を拝見して両眼は滝の如く、一身は悦びをあまねくす。この経典は東北に縁あり云云。西天の月支国(がっしこく)は未申(ひつじさる)の方、東方の日本国は丑寅(うしとら)の方なり。天竺において東北に縁ありとは、あに日本国にあらずや」
とあるが、上掲の右側の写真はその当該部分の写真である。
 大聖人はここで、須梨耶蘇摩が羅什に「この法華経は東北に縁が深い」と宣べた『東北』とは、日本国であると確信し、「予、此の記の文を拝見して両眼は滝の如く、一身は悦びをあまねくす」と、その喜びにわが身が打ちふるえる様を述べられている。
 周知のとおり、大聖人の教えの中心には、釈尊より付属を受けた上行菩薩の自覚をもって、末法の日本国の衆生に妙法蓮華経を下種して救済して行こうという大聖人の英断があるが、今の「翻経の記」の一文はそんな大聖人の背中を強く後押しする証文であると言える。
 それゆえ、上の「観普賢経」巻末表面の注記も、おそらく同様な感激を示されているものと思われ、その意味では、これはまさしく「注法華経」全体の掉尾を飾るにふさわしい注記であると言えよう。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 【当連載のまとめ】

 さて、これまで当欄では今回を含めて十二回にわたり、大聖人の「注法華経」について、あれこれ述べさせていただいた。その前回までの大概を要約すれば、およそ次の通りである。
 『①無量義経・「一字不説」の注記について』では、同注記が爾前経の未顕真実を示すために書き込まれていることに触れ、『②第一巻・序品経文「妙法蓮華経」への注記について』では、同注記により「注法華経」が佐渡流罪期に成立している可能性を述べ、また同注記群が「具足」義に焦点を当てられた意味を考えてみた。
 『③第一巻・方便品「大綱と網目」の注記と「欲聞具足道」』では、「注法華経」における重複注記に注目して、その中の一つで、「法華経」の独勝を意味する上注記に対する大聖人の関心が非常に高いことを指摘し、『④第二巻・譬喩品経文「乃至不受余経一偈」真裏の注記について』では、同注記が弘安二年に惹起した熱原法難と非常に強いつながりを持っていることを論じた。
 『⑤第三巻・化城喩品「化導の始終・種熟脱」関係の注記』では、同注記に基づいて、大聖人の成仏論の重要な基盤である種熟脱の三益論を取り上げ、『⑥第三巻・化城喩品「法華の弄引(ろういん)」関係の注記』では、大聖人がこの「法華の弄引」に関する注記を自在に料理して、複数回書き込まれていることを述べてみた。
 『⑦第五巻 勧持・安楽行品の注記と「開目抄」』では、数多い注記の中に見られる注記群に注目し、その複数が「開目抄」に見られることから、「注法華経」の成立が佐渡期である可能性が強いことを論じ、『⑧第五巻・涌出品と第六巻・寿量品の「本因の遠種」の注記』では、同注記と文永十二年の「曾谷入道殿許御書」との関係を指摘し、同時にそこに大聖人が独特な解釈をほどこされている可能性について述べてみた。
 『⑨第六巻・寿量品「迹本理勝劣事」の注記について』では、如来寿量品の自我偈冒頭部分の右肩に書き入れられた『迹本理勝劣の事』という大聖人のお言葉に言及し、本迹論においてその書き込みが持っている重要性を論じてみた。
 『⑩第七巻・不軽品経文「其罪畢已」と注記について』では、大聖人にとっての「其罪畢已」の四文字の意義の大きさと、それに基づく転重軽受と逆縁の法門および霊山往詣に触れ、『⑪観普賢経・大聖人の花押に関する注記について』では、大聖人が弘安元年以降に使用された「」字花押の意味を、「注法華経」の裏面に書き入れられた一つの注記から推測した。
 そして、この度の最終回⑫では、上のように「観普賢経」の巻末表面に見える注記に対する大聖人の思いに言及してみたが、最後にこれまで私が「注法華経」全体を概観し、その中で感じたことがいくつかあるので、それを覚えとして箇条書きして置きたいと思う。
 
上の寿量品に書き入れられた『迹本理勝劣の事』に代表されるように、御書にはついぞ説かれていない事柄で、「注法華経」に書き込まれていることが、思いの外に多いこと。ただし、『本迹』に関する注記が思いの外に少ないことは、注意すべきことである。 
表面の注記が「法華経」の経文へと向けられている事が多いのに対して、裏面の注記は経文の制約からかなり自由な形で書き込まれているように思われること。
その反面、表面の注記と裏面の注記とが連係して書き込まれていることが多いこと。中にはかなり複雑な連係もあること。
数は少ないものの、ある重要な経文の真裏に書き込まれている注記に関しては、宗祖がかなり大きな思い入れをもって書かれているように感じられること。 
智証大師円珍の「授決集」や宝地房証真の「三大部私記」などを、かなり参考にして、自由に使い込まれていること。 
日向師あるいは日進師の記録とされる要文集の「金綱集」との関連がかなり密接であること。 

 以上で十二回に亘りました連載を終了します。長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。(大黒)
 
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 昨年五月の本コラムにおいて、「『阿仏房尼御前御返事』の真偽について」との題名の元、同状の疑義濃厚たることを論じたが、その根拠の一つとして同状に見られる「相構へ相構へ」という用語が、真撰遺文には見られず偽撰遺文に頻出することをあげた。
 今回はその他の偽撰遺文に頻出する特徴的用語を紹介したい。なお引文は御書システム本文によったが、文末の出典頁は『昭和定本 日蓮聖人遺文』(『定遺』)である。

一、「無作三身」
 まずは「無作」と「三身」を含む「無作三身」「無作の三身」等の用語が使用される遺文について。
 「無作」と「三身」を含む「無作三身」「無作の三身」等の用語が使用される遺文を、「(一)釈尊および仏に対して使用されるもの」「(二)宗祖自身および弟子檀越、また凡夫一般、草木等に対して使用されるもの」「(三)釈尊(仏)と凡夫一般双方に使用されているもの」に分類すれば、以下の如くである。

(一)釈尊および仏に対して使用されるもの
①『三大秘法稟承事』
  「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是れなり。」(1864頁) 
寿量品の本尊とは本有無作三身の教主釈尊である。
②『万法一如抄』
  「(『法華肝要略注秀句集』を引文し)文の心は華厳・阿含・方等・般若の法・報・応の三身如来は未だ無常をまぬかれざる仏なり。法華実教の三身こそ、三身即一の無作の如来にてあれ。」(2195頁) 
法華経の三身こそ三身即一の無作の如来
   
法華経の教主自受用報身は三身相即・無作三身故に、現前の応身仏像も法華経の教主であれば三身相即の無作三身如来である。

(二)宗祖自身および弟子檀越、また凡夫一般、草木等に対して使用されるもの
①『義淨房御書』
  「無作の三身の仏果を成就せん事は、恐らくは天台・伝教にも越え、竜樹迦葉にも勝れたり。」(731頁)
自身無作三身の仏果を成就すると
②『当体義抄』
  「能居所居、身土色心、倶体倶用、無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。」(760頁) 
無作三身の当体蓮華仏は日蓮及び弟子檀那等である。
③『教行証御書』
  「就中 五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人々は思し召し候。我等が如き凡夫、無始已来生死の苦底に沈淪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を、無作本覚の三身と成し、実に一念三千の極理を説くなんど浅深を立つべし。」(1485頁) 
寿量品は我等凡夫を無作本覚の三身となす。
④『妙一女御返事』
  「又法華経の即身成仏に二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり。今本門の即身成仏は当位即妙、本有不改と断ずるなれば、肉身を其のまま本有無作の三身如来と云へる是れなり。」(1798頁) 
本門の事の即身成仏とは、当位即妙・本有不改の肉身がそのまま本有無作の三身如来ということである。
⑤『放光授職潅頂下』
  「付属の三摩諸菩薩頂とは、仏は一摩の時南無妙法蓮華経と唱へたまふ、是れは中道法身の摩頂なり。二摩の時南無妙法蓮華経と唱へたまふ、是れは空体報身の摩頂なり。三摩の時南無妙法蓮華経と唱へたまふ、是れは仮体応身の摩頂なり。仍って本有無作の三身なりと授職したまふ故に三摩諸菩薩頂と云ふなり。此の意を得れば、十界並びに情非情、無作の三身と授職せられ奉ること、真実尊貴甚深なり、高貴なり、尤も尊貴なり。」(2100頁)
三摩付嘱は十界並びに情非情が本有無作三身であると授職しているとする。
⑥『成仏法華肝心口伝身造抄』
  「本門の大智門の時は、無作三身の理に帰して本有の十界を顕はす時、我が身は法華経二十八品にて有りけりと悟るなり。是れ無作三身を以て意得べきなり。」(2105頁) 
本門において無作三身の理にて本有の十界が顕れる時、我が身法華経と悟る。
⑦『無作三身口伝抄』
  「本地無作の如来本覚の体とは無作の応身なり。無作の応身とは我等凡夫なり。故に解釈には「凡夫亦得三身之本」と釈し給へり。抑 凡夫の一身無作の三身なる事を能く能く意得れば、万法に於て三身の謂れを知らしめて、一塵一質に於て意得らるるなり。」(2111頁) 
本地無作の如来・本覚の体は無作の応身であり、無作の応身とは我等凡夫である。また文句記によれば凡夫は三身の本であるから、我等凡夫の一身が無作三身であると心得るべし。
⑧『御講聞書』
  「所詮 末法当今の為の寿量品なれば法華経の行者の上の事なり。此の智恵とは南無妙法蓮華経なり。聡達とは本有無作の三身なりと云ふ事なり。元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり。」(2579頁)
   「所詮 寿量開顕の眼顕はれては、此の見仏は無作の三身なり。」(2580頁)
末法の法華経の行者は本有無作三身である
⑨『御義口伝』(以下の他に多数あるが略す)
  「此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付属是れなり。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是れなり。」(2662頁) 
  「然れば無作の三身の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等なり。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。」(2664頁) 
末法の法華経の行者たる日蓮および弟子檀那は、本地無作の三身当体蓮華仏である。
⑩『御本尊七箇之相承』
  「此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり。出世の応仏は垂迹施権の権仏なり。秘すべし秘すべし。」(『昭和新定日蓮大聖人御書』2720頁) 
我等は無作の三身である。

(三)釈尊(仏)と凡夫一般双方に使用されているもの
①『授職潅頂口伝抄』
  「夫れ二十八品は両箇大事の得益なり。所謂一心三観無作三身なり。而るに此の品より以前の十四品は、一心三観を以て始覚の三身を成ず。此の品より以下の十四品は、彼の成ずる所の三身三観を本覚無作と明かす故に、法華一部の大綱にして衆生をして成仏せしむ。……右此の品の肝要は釈尊の無作三身を明かして弟子の三身を増進せしめんと欲す。……此の三身は無始本覚の三身なりと雖も、且く五百塵点劫の成仏を立つ。三身即三世常住なり。今弟子の始覚の三身も亦我が如く顕はして、三世常住の無作を成ずべきなり。次に此の品の観心とは、妙法一心の如来寿量品なるが故に、我等凡夫の一念なり。一念は即ち如来久遠の本寿本地無作の三身、本極法身の本因本果の如来なり。……又釈尊と我等とは本地一体不二の身なり。」(801頁) 
寿量品の観心にては、無作三身の釈尊と我等凡夫は一体不二である。

 以上十三編が、筆者の言葉として「無作」と「三身」を含む「無作三身」「無作の三身」等の用語が使用される遺文であるが、そのすべてが偽撰遺文であることが注目されよう。
 なお右のように筆者の言葉として使用されるのではなく、引用文の中に見られる遺文が以下のごとくあるので、参考として掲げておく。
①『諸宗問答抄』(日代写本・33頁)『守護国界章』の引文
②『三世諸仏総勘文教相廃立』(1688頁)『守護国界章』の引文
③『真言宗私見聞』(2077頁)『守護国界章』の引文
④『十八円満抄』(2138・40頁)『修禅寺決』の引文
⑤『万法一如抄』(2199頁)『守護国界章』の引文
⑥『今此三界合文』(2292頁)『懐中決』の引文
※『諸宗問答抄』が真撰遺文である他は、偽撰遺文である。

二、「本覚」
 「本覚」の語が使用される遺文について、「(一)迹門を始覚とし本門を本覚とするもの」「(二)我が身本覚の如来ととするもの」「(三)下種即本覚とするもの」「(四)右以外の用例」に分類すれば、以下の如くである。

(一)迹門を始覚とし本門を本覚とするもの
①『十法界事』
  「迹門には但是れ始覚の十界互具を説いて未だ必ずしも本覚本有の十界互具を明かさず。故に所化の大衆・能化の円仏皆是れ悉く始覚なり。若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや。当に知るべし、四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり。是の故に無始の本仏を知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。」(142頁) 
  「若し本門顕はれ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に、天月・水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕はるるなり。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言ひ、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果と為す。修一円因感一円果とは是れなり。」(144頁)
迹門は始覚の十界互具、一切衆生の始覚の円因を説き、本門は本覚本有の十界互具、無始の本仏、一切衆生の本覚の円果を説く。迹門の円因は本門の円果となる。
②『御義口伝』(左の他に九例あるが略す)
  「入仏知見の入の字、迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云ふなり。本門の意は理即本覚と入るなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る程の者は宝塔に入るなり云云」(2616頁)
迹門は実相の理の内に帰入、本門は理即本覚と入り、日蓮等の類いは南無妙法蓮華経と唱えて宝塔に入る。迹門・本門・観心
  「今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時無明の酒醒めたり。【又云く、酒に重々之れ有り。権教は酒、法華経は醒めたり。本迹相対する時、迹門は酒なり、始覚の故なり。本門は醒めたり、本覚の故なり。又本迹二門は酒なり。南無妙法蓮華経は醒めたり。酒と醒むると相離れざるなり。酒は無明なり、醒むるは法性なり。法は酒なり、妙は醒めたり。妙法と唱ふれば無明法性体一なり。」(2639頁)
迹門は酒、本門は醒める。本迹は酒、南無妙法蓮華経は醒める。酒醒一体と。
③『法華本門宗血脈相承事』(『本因妙抄』)
  「三には四重浅深の一面、名の四重有り。一には名体無常の義、爾前の諸経諸宗なり。二には体実名仮、迹門は始覚なれば無常なり。三には名体倶実、本門は本覚なれば常住なり。四には名体不思議、是れ観心直達の南無妙法蓮華経なり。」(『昭和新定日蓮大聖人御書』2689頁)
爾前無常・迹門始覚無常・本門本覚常住・観心直達の妙法

(二)我が身本覚の如来ととするもの(☆は「無作三身」の語を含む)
①『持妙法華問答抄』
  「寂光の都ならずは、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏 後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思ひ出なるべけれ。」(285頁) 
妙法蓮華経を持つところこそ、現世安穏後生善処の本覚の栖である
②☆『授職潅頂口伝抄』
  「此の品より以下の十四品は、彼の成ずる所の三身三観を本覚無作と明かす故に、法華一部の大綱にして衆生をして成仏せしむ。……右此の品(寿量品)の肝要は釈尊の無作三身を明かして弟子の三身を増進せしめんと欲す。……此の三身は無始本覚の三身なりと雖も、且く五百塵点劫の成仏を立つ。三身即三世常住なり。今弟子の始覚の三身も亦我が如く顕はして、三世常住の無作を成ずべきなり。」(801頁) 
本門は無始本覚無作三身を明かし、弟子をまた我がごとく無作三身となす。
③『阿仏房御書』
  「今日蓮が弟子檀那又々かくのごとし。末法に入りて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。……我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。」(1144頁) 
我が身三身即一の本覚如来と
④☆『教行証御書』
  「就中 五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人々は思し召し候。我等が如き凡夫、無始已来生死の苦底に沈淪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を、無作本覚の三身と成し、実に一念三千の極理を説くなんど浅深を立つべし。」(1485頁) 
寿量品は我等凡夫を無作本覚の三身となす
⑤『三世諸仏総勘文教相廃立』(28例あるがその主要なものをあげる)
  「仏の心法妙と衆生の心法妙と、此の二妙を取りて己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は、己身の本覚の三身如来なり。是れを経に説いて云く「如是相〈応身如来〉、如是性〈報身如来〉、如是体〈法身如来〉」此れを三如是と云ふ。此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好と為す。是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり。法界に周遍して一仏の徳用なれば、一切の法は皆是れ仏法なりと説き給ひし時、其の座席に列なりし諸の四衆八部も畜生も外道等も、一人も漏れず皆悉く妄想の僻目(ひがめ)僻思(ひがおも)ひ立ち所に散止して、本覚の寤に還りて皆仏道を成ず。仏は寤の人の如く、衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを、即身成仏とも、平等大恵とも、無分別法とも、皆成仏道とも云ふ。只一つの法門なり。」(1690頁) 
仏と衆生と己心は一体にして本覚の三身如来である。また三如是は本覚の三身如来であり、十方法界に周偏する故に、我が身は本覚の三身如来である。仏は本覚の寤の人、衆生は生死の夢みる者であるが、この法理を知り本覚の寤に還ることを、即身成仏という。
  「十法界は十なれども十如是は一なり。譬へば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し。九法界の十如是は、夢中の十如是なるが故に、水中の月の如し。仏法界の十如是は、本覚の寤の十如是なれば、虚空の月の如し。是の故に仏界の一つの十如是顕はれぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も欠減無く同時に皆顕はれて、体と用と一具にして一体の仏と成る。十法界を互ひに具足して平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も、一人の身中に具足して欠くること無し。」(1694頁) 
本覚寤の十如是たる虚空の月と、九法界の夢中の水月とは、行者の一心に具足して一体である。
  「我が身を生死の凡夫なりと思ふ時は、夢に蝶と成るが如く僻目僻思ひなり。我が身は本覚の如来なりと思ふ時は、本の荘周なるが如し。即身成仏なり。」(1695頁) 
  「此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり。本覚の如来なり。」(1697頁) 
我が身凡身こそ本覚の如来である。
⑥『十如是事』
  「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く「如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」文。……されば此の三如是を三身如来とは云ふなり。……かう解り明らかに観ずれば、此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり。……只今までみつる所の生死妄想の邪思ひ、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつつの覚りにかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賤しと思ひし我が此の身が、三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。」(2030・1・2頁) 
三如是は三身如来であり、我が身を三身即一の本覚の如来と知るを即身成仏という。
⑦『一念三千法門』
  「此の一念三千・一心三観の法門は、法華経の一の巻の十如是より起これり。……此の三を法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。【此の三身如来全く外になし。我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり。……始めの三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出だし給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が能生の子なり。……法華経は念々に一心三観・一念三千の謂れを観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出だされ、無明の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即ち本有常住の如来となるべし。此れを即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す。」(2034・5・6頁) 
  「此の一念三千・一心三観の法門は、法華経の一の巻の十如是より起これり。……此の三を法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。【此の三身如来全く外になし。我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり。……始めの三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出だし給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が能生の子なり。……法華経は念々に一心三観・一念三千の謂れを観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出だされ、無明の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即ち本有常住の如来となるべし。此れを即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す。」(2034・5・6頁) 
三如是は三身・三諦・三徳であり、我が身即三身即一の本覚の仏である。また我等こそ妙覚の仏の父母であり、仏は能生の子である。
⑧『成仏法華肝心口伝身造抄』
  「此の五字の中の蓮華の二字を草木成仏と云ふ事なり。又之れを案ずるに、草木の根本は本覚の如来、本有常住の妙体なり。然りと雖も我等が一念の妄心に依りて五道に迷ふが故に、乃至木とも見、草とも見るなり。此の妄心を翻へして本覚に帰り立ち還りて見れば、本有常住の草木にて有りけるを、我等が迷ひて極悪不善の草木と見るなり。此の故に此の身の成仏を以て草木成仏とも云ふなり。依正不二の成仏とも云ふなり。身則ち成仏すれば国土も寂光なり、五道も亦本有なり、草木も亦本有なり。」(2106頁) 
本覚より立ち返ってみれば草木は本覚の如来・本有常住の名体であり、依正不二なる故に我が身成仏すれば国土は寂光土、草木も本有の成仏である。
⑨☆『無作三身口伝抄』
  「本地無作の如来本覚の体とは無作の応身なり。無作の応身とは我等凡夫なり。故に解釈には「凡夫亦得三身之本」と釈し給へり。抑 凡夫の一身無作の三身なる事を能く能く意得れば、万法に於て三身の謂れを知らしめて、一塵一質に於て意得らるるなり。」(2111頁)
無作の応身とは我等凡夫であり、また凡夫の一心は無作の三身である(⑭『御講聞書』と同意)。
⑩『讀誦法華用心抄』
  「如是相と云ふは、我が形を云ふなり。此れを応身如来と謂ひ、又解脱と云ひ、又仮諦とも云ふなり。如是性とは、我が心性を云ふなり。此れを報身如来と云ひ、又空諦とも云ふなり。如是体と云ふは、我が身体と謂ふなり。此れを法身如来と云ふなり。又実相中道本有本覚とも云ふなり。此の三如是は、我が内心と外色と一体相即して、色心不二の一身の上の三徳にして、三身即一の仏なり。」(2180頁) 
如是体とは我が身体であり法身如来であり実相中道本覚である。
⑪『御講聞書』(左の他に多数あるが略す)
  「所詮現世安穏とは、法華経を信じ奉れば三途八難の苦をはなれ、善悪上下の人までも皆教主釈尊同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕はす。自身の当体、妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり。爰を開くを後生善処と云ふなり。」(2567頁) 
自身釋尊と同等の本覚の如来である。
☆  「仰せに云く、釈に云く「凡夫も亦三身の本を得たり」云云。此の本の字は応身の事なり。されば本地無作本覚の体は、無作の応身を以て本とせり。仍って我等凡夫なり。応身は物に応ふ身なり。」(2585頁)
  三身の本は応身であるゆえに、本地無作本覚の体は無作の応身を体とし、それは我等凡夫のことである(⑨『無作三身口伝抄』と同意)。

(三)下種即本覚とするもの
①『具謄本種正法実義本迹勝劣正伝』(百六箇抄)
  「四十三、下種の寂照実事・体用無上の本迹。生仏一如の事の上の本覚の寂照なり。人は迹、仏は本なり云云。」(『昭和新定日蓮大聖人御書』2713頁) 
下種――生仏一如の事の上の本覚寂照
  「五十一、下種の六即実勝の本迹。日蓮は脱の六即を迹と為し、種の三世一即の六即、案位の理即は開会の妙覚にして、開会の理即は本覚の極果を本と為るなり。」(『新定』2714頁) 
下種――脱の六即は迹、種の開会理即、本覚の極果を本とする。

(四)右以外の用例
①『聖愚問答抄』
  「次に止観には、妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千、是れ本覚の立行本具の理心なり。」(390頁) 
止観は一念三千・本覚の立行を説くが、その真文を見聞できることは喜ばしいことであると。台当本迹違目に立っていない。 
②『大黒天神御書』
  「然れば本覚の月は光を増し、財施の珍味を献すれば、垂迹の貌に咲を含む。」(2115頁) 
本覚の月

 右の他に引用文中に「本覚」の語が含まれる遺文は左の三編である。
『八宗違目抄』(真蹟・528頁)『蓮華三昧経』を否定的に引用
『生死一大事血脈抄』(522頁)『天台法華宗牛頭法門要纂』を引用
『大白牛車事』(1412頁)『天台法華宗牛頭法門要纂』を引用

 以上「無作三身」「本覚」の語が、真撰遺文には見られず偽撰遺文に頻出することを示したが、宗祖がその用語を使われなかった大きな理由の一つに、右に具体的に見たように、それらが中古天台本覚思想のような、理即本覚的・凡夫即極的成道論に進んでいく危惧があったことがあげられよう。
 すなわち宗祖が凡夫成道論を展開される際に思想基盤とされたのは一念三千論であるが、ことに本門の一念三千論は久遠実成の釈尊、およびその下種が不可欠要素であるのに対し、「無作三身」「本覚」から立論される成道論は、それを無視した凡夫即極的成道論、ひいては凡仏逆転の思想に進んでいく危険性が甚だ大きいということである。〈山上〉
 
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 前回に続き、偽撰遺文に頻出する特徴的語句を紹介する。

三、「一心三観」
 一心三観の用語は、天台教学における最もスタンダードな用語の一つである。しかるにこの用語も膨大な真撰遺文には全く見られず、偽撰遺文にのみ頻出するというはっきりした傾向が見られる。
 その使用傾向には、「(一)肯定的に法華経独歩の修行として使用する場合」と「(二)天台過時、上根上機の修行として否定的に使用する場合」がある。

(一)肯定的に法華経独歩の修行として使用する場合
①『身延山御書』
  「此等をさまざま思ひつづけて觀念の牀(とこ)の上に夢を結べば、妻戀(つまこふ)鹿の音(こえ)に目をさまし、我身の内に三諦卽一一心三觀の月曇(くも)り無く澄(すみ)けるを……」(1923頁)
我が身に三諦即一一心三観の月を観ずと

②『一念三千法門』
  「法華経の余経に勝れたる事何事ぞ。此の経に一心三観・一念三千と云ふ事あり。……此の一念三千・一心三観の法門は、法華経の一の巻の十如是より起これり。」(2033・4頁)
一念三千・一心三観は法華経のみに説示。十如是より起こる。
  「法華経は念々に一心三観・一念三千の謂れを観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出だされ、無明の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即ち本有常住の如来となるべし。」(2036頁)
一心三観・一念三千の謂れを観ずれば、我が身本覚の如来なることを悟る。
  「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まれり。妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納めて候ひけり。」(2036頁)
一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まり、妙法は我等が一心に納まると

③『法華本門宗要抄』
  「故に過去・現在・未来世々番々に諸仏・菩薩・行者等の証得する所の実相、実相の体には全く差別無し。又本有の本迹に勝劣有ること無し。故に一念三千・一心三観・十界十如等、本迹両門に於て、敢へて勝劣有るべからず。但し時機に随ひて表裏・傍正之れ有るべきなり。」(2165頁)
一念三千・一心三觀には本迹の勝劣無し。時機によって傍正有り。

④『御講聞書』
  「観音は円観なり。円観とは一念三千なり。観音とは法華の異名なり。……仍って観音の二字は人法一体なり。所謂 一心三観・一念三千是れなり云云。」(2581・2頁)
法華経即一心三観・一念三千

⑤『御義口伝』
  「爰を以て之れを思ふに、此の文は一心三観・一念三千、我等が即身成仏なり。」(2624頁)
一心三観・一念三千は我等即身成仏

(二)天台過時、上根上機の修行として否定的に使用する場合
①『持妙法華問答抄』
  「問うて云わく、……傳ヘ聞く、一念三千の大虚(だいきよ)には慧日くもる事なく、一心三観の廣池には智水にごる事なき人こそ、其修行に堪たる機にて候なれ。……答えて云わく、……(法華經は)一切衆生皆成佛道の敎なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要也。」(279頁)
問者の、一念三千・一心三観は上根上機の修行と伝え聞くとの問いに、上根上機は観念観法たる一念三千・一心三観を行じ、下根下機は信心が肝要であると答えている。

②『当体義抄』
(一心三観は像法過時の修行)
 
像法時代に南岳天台は時至らざる故妙法の名を一念三千・一心三観に変えて修行したとする。
 上の『持妙法華問答抄』『当体義抄』では「一念三千・一心三観」を像法過時としているが、真蹟存の『十章抄』では「眞實に圓の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華經なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本國の在家の者には但一向に南無妙法蓮華經ととなえさすべし。」(490頁)とあり、「一念三千」のみで「一心三観」が無いことに注意。

③『授職潅頂口伝抄』
  「夫れ二十八品は両箇大事の得益なり。所謂一心三観無作三身なり。而るに此の品より以前の十四品は、一心三観を以て始覚の三身を成ず。此の品より以下の十四品は、彼の成ずる所の三身三観を本覚無作と明かす故に……」(801頁)
迹門は一心三観、本門は無作三身とする

④『立正観抄』
  「問ふ、何を以て妙法は一心三観に勝れたりと云ふ事を知ることを得るや。答ふ、妙法は所詮の功徳なり。三観は行者の観門なる故なり。……一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり。」(848・9頁)
一心三観を迹門能観の修行とし、妙法を所詮の功徳とするのは、『授職潅頂口伝抄』に一心三観を迹門能観の修行、無作三身を本門所観の対境とするのと、構造的に類似している。本抄では他に十三箇所「一心三観」の語があるが、すべて右に同意。

⑤『立正観抄送状』
  「一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門十如実相の文を依文として釈成し給ひ了んぬ。爰に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云ふ事を。」(871頁)
『立正観抄』と同じ

⑥『十八円満抄』(一心三觀・一念三千は像法過時の修行)
  「問うて云く、天真独朗の法(一念三千・一心三観)、滅後に於て何れの時か流布せしむべきや。答へて云く、像法に於て弘通すべきなり。……所詮 末法に入りては天真独朗の法門無益なり。助行には用ゐるべきなり。正行には唯南無妙法蓮華経なり。……一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず。」(2143・4頁)
天真独朗の法たる一念三千・一心三観は像法過時の修行であり、末法においては南無妙法蓮華経が正行であり、一念三千・一心三観は助行に用うべきである。

 以上偽撰遺文にのみ見られる「一心三観」の用例を列挙したが、それを肯定的に使用するにせよ否定的に使用するにせよ、ほぼ一念三千と一心三観とを同意として列挙使用するという傾向がある。
 しかるに宗祖が真撰遺文で「一心三観」の用語をまったく使用されなかったのは、「一念三千」と「一心三観」を同意と見ていなかったからであると思われる。その理由としては、①一念三千成道論が二箇の大事と妙法信受を前提としているのに対し、「一心三観」や「本覚」の指向する成道論は必ずしもそれが前提とされず、凡夫即極的成道論に陥る可能性があること、②一念三千は天台智顗が法華経の十如実相・十界互具を基調として説示された成道論であるのに対し、一心三観は南岳より相伝したものであること、などが考えられよう。

四、「闕(欠)減なし」
 この用語が使用される遺文は以下の通りである。

①『総在一念抄』
  「此の三千世間の法門は我等が最初の一念に具足して全く欠減無し。」(81頁)
  「此の三身は無始より已来我等に具足して欠減なし。」(85頁)

②『得授職人功徳法門鈔』
  「謂く与の義とは、一位に皆五十一位を具し互具相即して且くも欠減無し。」(626頁)

③『当体義抄』
  「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。」(760頁)

④『三世諸仏総勘文教相廃立』
  「是の故に仏界の一つの十如是顕はれぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も欠減無く同時に皆顕はれて、体と用と一具にして一体の仏と成る。」(1694頁)

⑤『放光授職潅頂下』
  「但し山谷曠野等と見えたれば同居の穢土とをぼしけれども、本有の寂光に三土の色質欠減すべからず。」(2101頁)

⑥『十八円満抄』
  「六に諸教円満とは諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して更に欠減なきが故に。……八に事理円満とは、一法の当体而二不二にして欠減無く具足するが故に。……十二に権実円満、謂く法華実証の時は実に即して而も権、権に即して而も実、権実相即して欠減無き故に、」(2138頁)
ただしこれは『修禅寺決』の引文。

⑦『万法一如抄』
  「此等の万法は一如にして、人界の一念においても三千の法を具足し、天界の一念においても三千を具足し、乃至余の地獄界等の界々の一念においても、ことごとく一念三千を具足して欠減無し。」(2189頁)
  「只おのれおのれとして鎮(とこしなえ)に三世常住に欠減もなく立つ波なり。……若し捨つると云はば、是れ万法一如の謂れ更に欠減して、法華の大旨破壊しなん。」(2190頁)
  「法の位に住すと説けるは、今の十界互具して欠減なしと覚知する処を住すとは説けるなり。」(2191頁)
  「此の依正の二法欠減無く、只我等衆生の一念に具足したりと云ふ処を、万法一如とは云ふなり。」(2192頁)

⑧『今此三界合文』
  「又云く「次に随自の本門真実の本とは、釈迦如来は是れ三千世間の総体、無始より来(このかた)、本来自証無作の三身、法々皆具足して欠減有ること無し。」(2292頁)
これは『懐中決』(典拠不明)の引文である

 以上であるが、この用語が使用される遺文はすべて偽撰遺文であり、真撰遺文には全く見られない。
 ちなみにこの用語は中古天台文献たる『修禅寺決』(『傳教大師全集』5巻131頁)、『七面相承決』(右同148頁)、『法華即身成仏要記』(『恵心僧都全集』3巻264頁)、『枕双子』(『大日本仏教全書』32巻121頁)、『御廟決』(右同155頁)等に頻出するものであり、偽撰者はそれらの影響により使用しているものと思われる。    〈山上〉
 
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五、「日蓮が弟子檀那」
①『椎地四郎殿御書』
  「……如渡得船の船とは申ス也。是にのるべき者は日蓮が弟子檀那等也。能能信じさせ給へ。」(228頁)
②『弟子檀那中御書』
 
③『四條金吾殿御書』
 
④『生死一大事血脈鈔』
 
  「今日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華經と唱ん程の者は、千仏の手(みて)を授け給はん事、譬へ瓜(うり)夕顔(ゆふがほ)の手を出だすが如くと思食せ。」
 
⑤『諸法実相抄』
 
⑥『当体義抄』
 
⑦『阿仏房尼御前御返事』
 
⑧『阿仏房御書』
  「今日蓮が弟子檀那又々かくのごとし。末法に入りて、法華經を持つ男女のすがたより外には寳塔なきなり。」(1144頁)
⑨『日女御前御返事』
 
⑩『波木井殿御書』
 
⑪『御講聞書』
 
 
 
⑫『御義口伝』
 
 
 
 
⑬『産湯相承事』
 

【真撰遺文】
⑭『兄弟抄』
  「一切明佛の末の男女等は、勝意比丘と申せし持戒の僧をたのみて喜根比丘を笑てこそ、無量劫が間地獄に堕つれ。今又日蓮(それがし)が弟子檀那等は此にあたれり。」(924頁)
「日蓮」にはおそらく日朗筆と思われる「それかし」とのルビが有り、ニュアンスも右偽撰遺文で使用されているのとは、微妙に異なるように思われる。
⑮『諸人御返事』
 
これも「日本国の人々は日蓮の弟子檀那となる」としており、右偽撰遺文の場合とはニュアンスが異なっているように思われる。

 以上十五遺文をあげたが、真撰遺文にも二例見られ(偽撰遺文の使用例とはニュアンスが異なっているように思われる)、このことのみによって真偽を判定することはできないが、偽撰遺文に多く用いられる用語であることは確かである。

六、「日蓮相承」
①『四條金吾女房御書』
  「日蓮相承の中より撰み出して候」(『定遺』484頁)
②『法華宗内證佛法血脈』
  「今日蓮が相承も亦復是くの如し」「日蓮が相承も亦復是くの如し」(697・8頁)
③『諸法実相抄』
  「日蓮が相承の法門」(729頁)
④『立正観抄送状』
  「日蓮相承の法門血脈」(872頁)
⑤『三大秘法稟承事』
  「日蓮慥かに敎主釋尊より口決相承せし也」(1865頁)
⑥『十八圓満抄』
  「日蓮の己心相承の秘法」(2143頁)

七、「授(受)職潅頂」
①『最蓮房御返事』
 
②『得受職人功徳法門鈔』
 
「作法ノ受職潅頂ノ比丘ヲハ」とあるのは像門で行われていた「作法受得」を思わせる。『授職潅頂口伝抄』では「作法授得本門円頓戒文」(803頁)とある。
③『授職潅頂口伝抄』
  「文永十一年二月十五日、靈山淨土之釋迦如來結要付屬シテ日蓮謹テ授職潅頂スル也。」(802頁)とし、「結要付屬無作ノ戒體卽身成佛授職潅頂ノ次第作法」として本門の釈尊以下曼荼羅本尊に見られる仏菩薩諸天等を勧請し、末文には釈尊より血脈相伝(受職潅頂)の者として、迹門付属は薬王菩薩の後身である天台・伝教があげられ、本門の付属は上行菩薩たる日蓮大徳が受職潅頂したと述べる。
④ 『放光授職潅頂』(『放光授職潅頂 下』)
  「問ふ、爾前・迹門・本門の三重授職・権実の相貌は粗之れを聞く。然るに当家の授職潅頂にも真言・天台の両宗の如く作法受得の儀式之れ有るや。答ふ、当家には専ら此の義有るべし。但し諸宗と当家との作法異なるなり。」(2100頁)
⑤『妙一女御返事』
  「世間の学者の中に、真言家に立てたる即身成仏は釈尊所説の四味三教に接入したる大日経等の三部経に、別教の菩薩の授職潅頂を至極の即身成仏等と思ふ。是れは七位の中の十回向の菩薩の歓喜地を証得せる為体(ていたらく)なり。全く円教の即身成仏の法門にあらず」(1797頁)

 授職潅頂に関しては、真撰遺文ではそれを行っていた形跡はまったく見られない。
 一方宗祖は真言の潅頂を、『撰時抄』(1039頁)、『高橋入道殿御返事』(1090頁)、『破良観等御書』(1278・82頁)にて、敷漫荼羅とて仏を足げにするとして批判しており、ことに『清澄寺大衆中』では「天台宗の学者の潅頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、」(1133頁)として、真言の潅頂を主体とする叡山天台宗を批判していることは、宗祖が授職潅頂を行わなかった傍証となろう。

八、「当体 蓮華」
①『生死一大事血脈抄』
  「妙は死、法は生なり。此の生死の二法が十界の当体なり。又此れを当体蓮華とも云ふなり。」(522頁)
②『諸法実相抄』
  「仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり。」(725頁)
③『当体義抄』
  「問ふ、一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば、我等が如き愚痴闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや。答ふ、当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず。謂ゆる権教の人、実教の人なり。而して権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云はるべからず。実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是れなり。」(758頁)
  「能居所居、身土色心、倶体倶用、無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。」(760頁)
他多数あり
④『当体義抄送状』
  「当体蓮華解し難し。故に譬喩を仮りて之れを顕はすとは、経文に証拠有るか。答ふ、経に云く「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し、地より而も涌出す」云云。地涌の菩薩の当体蓮華なり。譬喩は知んぬべし。」(768頁)
⑤『当体蓮華抄』
  「今蓮華のいはれを釈すべし。蓮華に法の蓮華、譬の蓮華と云ふ事あり。今は当体の蓮華を釈すべし。譬の蓮華と云ふは、泥の中より生じたる蓮華の泥に染まざるが如く、我等が本性清浄の蓮華の泥水にそまずして、倶体倶用の諸尊を具足したる事を譬へたり。当体の蓮華とは一切衆生の胸の内に八分の肉団あり、白くして清し。大小麁細をえらばず。螻蟻蚊虻のつたなき者までも生を受けたるものは、皆悉く此の八葉の蓮華胸の内にをさまれり。」(2130頁)
⑥『十八円満抄』
  「十八円満等の法門能く能く案じ給ふべし。並びに当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等、前々に書き進らせしが如し。」(2144頁)
⑦『御講聞書』
  「是の五字即十界同時に授職する所の秘文なり。十界己々の当体、本有妙法蓮華経なりと授職したる秘文なり云云。」(2594頁)
他多数あり
⑧『御義口伝』
  「今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るを当体蓮華の仏と云ふなり云云。」(2646頁)
他多数あり

 以上八項目にわたって、偽撰遺文に頻出する特徴的語句について述べたが、思想的な真偽判定がとかく主観的な判断に陥りやすいのに比して、こうした語句による真偽の判定は客観的であり、これのみによって判定することは危険であるとしても、大きな判定要素となることは間違いないであろう。 〈山上〉
 
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