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2019年
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 前回、松岡正次氏の指摘どおり、『観心本尊抄』に説かれた一念三千に関する一節「天台伝後知之者多々也」は、原文にしたがい「天台伝う後、これを知る者多々なり」と読むべきで、後人の加筆を採用した既刊本の読み「天台伝教已後、これを知る者多々なり」では、後続の文章と整合がとれないことを確認した。
 今回は、「天台伝已〝教歟〟後」と「已」に「教歟」(「已は教の誤記か」の意)を加筆したのは誰なのか? その周辺を探ってみたい。そもそも『本尊抄』は、副状の充所(宛名)「富木殿御返事」によって、下総の檀越、富木常忍へ宛てられたことは明らかで、また副状の文中「此の書は難多く答え少なし、未聞の事なれば人の耳目之れを驚動すべきか、設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べてこれを読むことなかれ」と説かれているように、軽々にこれを手にとって拝すことは許されなかったと思われる。
 しかも富木常忍が置文で定めたとおり、御真蹟は門外不出だったから、これに書き込みをする、また書き込みができる人物は、おのずと限られてこよう。
 そこで御真蹟に加筆をした人物として、第一に浮上するのが、『本尊抄』の対告衆であり、その御真蹟格護を厳命した富木常忍その人である。実際、常忍は『本尊抄』に引かれる経釈について、出典の確認を行った形跡がみられ、これを自らの筆をもって訂正している。
     
   【図1】 【図2】 
【図版は無断転載禁止です】
 【図1】がそれで、常忍は出典を確認するさなか、「天台大師云」と「妙楽云」の引文が転倒していることに気づいた。すなわち御真蹟「天台大師云」の下に小さく〇のような記号(これを圏点とか挿入符という)を入れ、隣に「是我弟子応弘我法妙楽云」と書き込んでいる。同文末の「妙楽云」の三字を常忍自筆と比較してみよう。すなわち常忍図顕御本尊(永仁三年)、同御本尊(永仁五年=ただし、こちらは妙楽が顛倒していて、これも圏点を入れてひっくり返して読むよう指示がある)、「識分法門一念三千即離事」から当該文字を採取したのが【図2】で、字の輪郭からして常忍筆とみてよかろう。
 問題の異筆「教歟」については、残念ながら確認した常忍の筆からは同型を拾うことはできなかった。ただ幸いなことに、下総の法華寺を常忍からついだ日高上人筆『本尊抄』が京都本法寺に伝わっていて、これを確認したところ、日高上人が書写した段階で、「教歟」の加筆は既にあったと思われる。すなわち日高上人代を遡って、御真蹟に「教歟」を書き込みをした人物がいたわけで、その人物とは、もはや検討に及ぶまい。富木常忍をおいて他に該当者を求めることはできないだろう。
   
   【図3】 【図4】 
  【図版は無断転載禁止です】
 日高写本に書写年を示す識語は存在しないが、日高上人は正和3年(1314)に遷化しているので、それ以前、すなわち鎌倉期の写本たることの明らかな什本である。先ほど、常忍が御真蹟における引文の転倒を圏点(挿入符)をもって訂正した箇所のあることを示したが、日高上人もこれを写本に記している【図3翻刻文】。
 問題の「教歟」も日高上人は追記しているが、日高上人は「伝」と「已後」の間に圏点を入れている【図4翻刻文】。つまり日高上人は「日蓮聖人は〝天台伝教已後〟と書かれようとしたのではないか、と判断したのではないか。ともあれ常忍の段階も日高上人の段階も、あくまでも「〝歟〟そうではなかろうか」という注記にとどまっていることに留意したい。
 ところが日高上人の後を継いだ日祐上人の段階になると変わってくる。『本尊抄』の日祐写本は、現在二点確認されていて、その一本、京都本法寺本は、『本法寺文書 二』(同編纂会、1989年)に冒頭部と奥書部分の図版が紹介されている。その奥書に「元徳三年大才辛酉五月二十八日 於中山坊書之了 執筆日祐」とあって、中山で書写されていることが分かる。おそらくは御真蹟をもって書写したのであろう。ただ「教歟」の部分は残念ながら未見、未確認である。
 もう一本の日祐写本は多古正覚寺に所蔵されており「今建武四年歳次丁丑五月二十二日 於武州六浦坊令書写之畢、執筆日祐生年五八才也」の奥書を有する。冒頭から末尾まで丁寧な楷書で書かれている。『本尊抄』の御真蹟には、先述のとおり日蓮聖人や先師による追記、訂正が数多みられるけれども、正覚寺本は、これらの箇所を整理したうえでの清書本と判断される。ただ残念なことに途中欠損があって、他筆によって補われている箇所がある。ともかく問題の箇所を確認してみると、「天台伝教已後」と、ここでは「教」の字が完全に本文に組み込まれ、一つの文章として成立している。日祐上人は、そう判断したのだろう。
 以上、中山における『本尊抄』当該部の書承関係について整理しておくと、

①御真蹟
 
天台伝已後
②常忍段階 「已後」の「已」に「教歟」と書き込む。
  すなわち常忍は「天台伝教」の誤記かと考えた。
 
③日高段階  「教歟」の常忍追記を「伝」と「已」の間に入る注記と判断。
    すなわち日高は「天台伝教已後」ではないか判断。
④日祐段階 先師の注記を整理して「天台伝教已後」と判断。

 このような流れになろう。日祐上人は身延山久遠寺3世日進上人とも深い関わりがあったし、他宗の寺院にも赴くなど交流関係はひろい。当該部に関する現行本の読み、すなわち「天台伝教已後」は日祐写本が転写され展開したもの、とも思われるが、もはやその先の書承関係については、識語等で確認されない限り、想像の域を出ない。
 ともあれ私は、今のところ「教歟」の書き入れは富木常忍によるもので、これが転写されていく過程で、真蹟に数多書き込まれた注記等が整理され、現行本の読みとなったのではないかと考えている。
 松岡正次氏の指摘を追跡調査する中で、いちおう上述のような考えをもつにいたった。諸賢のご高覧とご批正を乞う次第である。なお次回は『本尊抄』の諸写本を披見し、気づいたこと二三を記したい。(坂井)
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 二回にわたって、一念三千の説示に関する『観心本尊抄』の一節、「天台伝後知之者多々也」について、松岡正次氏の指摘どおり、日蓮聖人真蹟の記載をそのまま書き下し「天台伝(つた)う後、これを知る者多々なり」とするのが正読であること、また中山法華寺(法華経寺)における書承の過程で、日祐上人の代に「天台伝教已後これを知る者多々なり」という、現行本の読みとなったのではないか、そしてこれが流布した可能性を仮定してみた。今回は管見に入った、中山門流以外の諸師が書写した『本尊抄』の諸写本と当該部の記事について取りあげる。

①伝日興写本『観心本尊抄』
 周知のとおり、日蓮聖人直弟の中で、もっとも多く日蓮遺文を書写したのは、六老僧の日興上人で、『本尊抄』についても、筆写本が京都要法寺に伝わるという。その原本は未見だが、北山本門寺に、これを忠実に透写(影写)したという冊子が伝わっていて、先年これを拝見する僥倖に恵まれた。
 日興写本『本尊抄』については、早く富谷日震師が大正2年(1913)、『刊本録内御書』・『霊艮閣版日蓮聖人御遺文』(縮刷遺文)と対照して、これを「本尊抄興本対照記」(『大崎学報』28号、1923年)として紹介しているけれども、富谷師は原本の所在について「京都要法寺に所藏せりと傳ふる。日興上人の直筆第一轉古寫本」という、微妙な言い回しをしている。大正2年当時、富谷師は静岡妙音寺の住持で(『明治大正昭和日蓮門下仏家人名辞典』)、あるいは富谷師が披見し紹介したのは要法寺所蔵の原本ではなく、北山本門寺所蔵の透写本ではなかろうか。
 『本尊抄』に関する日興上人のコメントといえば、『富士一跡門徒存知事』(『日興上人全集』307P)に

  一、観心本尊抄
一、取要抄一巻
一、四信五品抄一巻 法門不審条々申付御返事也、仍彼進状奥書之、
已上三巻因幡国富城荘本主今常忍、下総国五郎入道日常賜、正本在彼在所歟、 

とあるのが想起される。他所では、日興所持の本は第一転ないし二転等と示しているけれども、『本尊抄』については、所持していたとも書写したとも語っていない。富谷師が何をもとに要法寺所蔵の『本尊抄』について「日興上人の直筆第一轉古寫本」としたのかは判然としない。
 さて北山本門寺所蔵の透写本だが、表紙には次のような貼紙がある。

  此本抄ハ開山興上人ノ御直筆ニシテ要法寺ニ秘蔵スル処ノモノナリ志師之カ謄本ヲ当山文庫ニ収ント葦名周上人(此上人ハ元京都妙満寺御貫首タリ我興門ノ法義ヲ感シ遂ニ帰シテ要法寺大学頭トナリ尋テ豆山貫首ト成ラル)ニ依頼セラル周上人之ヲ要山主貫師ニ請ヒ得一点一畫ノ背クアランヲ恐レ力ヲ尽シテ「敷」模写(スキウツシ)セラルヽ處ノ寳本也、
※「敷」は見せ消ち。( )内はルビ

 これによれば、日志上人の依頼によって日周上人が、要法寺貫主日貫上人の許可を得て「模写」したもの、と判断されよう。「模写」に「スキウツシ」とルビを振っているように、字形や見せ消ちにいたるまで、本紙に薄様を重ねて忠実に写しとったものと見做される。字形を見るに複数人の筆が混在しているようで、一筆写本ではなく多筆写本と思われる。また本表紙に「本主 日興(花押)」とあるが、字形は日興上人のものではなく、本文、奥書にいたるまで、筆蹟については検討を要する。
 ちなみに奥書は「弘安四年〈太歳辛巳〉三月五日申時許書写了 南無妙法蓮華経」である。『日興上人全集』編纂時は、原本・透写本ともに未見で、富谷師の紹介文にしたがって「申時拝書写了」としたが、透写本による限り「拝」の一字は「許」で、「申時許」すなわち「十六時頃に書写した」の意と判断される。
 くりかえすが、透写本であることを差し引いても、当写本の筆蹟を日興上人と見ることはできず、いまのところ写主については不明と言うほかない。
 では問題の「天台伝已後」の箇所はというと、現行本と同じく「天台伝教已後」になってる。「弘安四年」の奥書をそのまま信用すれば、日蓮聖人の在世中、すでに「天台伝教已後」の読みが流布していた実例となるが、原本を披見するまでは参考にとどめたいと思う。
 ちなみに京都要法寺には、日興上人筆蹟影写本『開目抄要文』(北山本門寺蔵)が伝わっていて、本間俊文「北山本門寺所蔵『開目抄要文』について」(『日蓮教学研究所紀要』44号,2017年)によると、影写本は「欠損部分も筆でなぞって写している」ものの、原本にみられる「他筆による加筆部分等、書写されていない箇所もいくつか確認」されるという。忠実な写しと思われる、伝日興『本尊抄』の透写本だが、やはり原本の実見をまちたい。

②慶長版本『観心本尊抄』(百部刷)
 この版本については、『稲田文庫図書目録』(稲田海素師の収集資料・蔵書目録)9ページ「b和本」に「立正安国論(慶長木活本)」(整理番号808・809)等とならび、「如来滅後五百歳始観心本尊抄 日乾(百部刷)」(整理番号292)と記されていて、近年、木村中一「新発見『慶長本』の書誌学的考察」(『大崎学報』167号,2011年)、同「《史料紹介》御書五大部百部刷本観心本尊抄」(『日蓮教学研究所紀要』39号,2012年)に影印で紹介された。冠賢一「慶長版本『御書五大部』の書誌学的考察」(『日蓮教学研究所紀要』22号,1995年)も、諸本との異同や版本の流布を確認するに有益である。参照されたい。
 さて慶長版本『本尊抄』の奥には「以正中山御正筆第一轉之本謹寫之 寂照院日乾」とあって、これによれば底本は『本尊抄』真蹟の一転本である。問題の箇所は現行本と同じく「天台伝教已後」で、おそらく「御正筆第一轉之本」の段階で、すでに整束された文章となっていたのだろう。「御正筆第一轉之本」が誰の手になるものなのか、まったく想像の域を出ないが、あるいは前回とりあげたように、日祐上人が真蹟に書き込まれた日蓮聖人自身の、あるいは富木常忍の添削等を浄書した写本が、身延(たとえば日祐上人と親交のあった日進上人)に伝わり、これが流布した可能性もあるのではないか。

 
  版本『観心本尊抄』
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 ともかく管見の限りでは、真蹟の原文「天台伝已後」どおりに写した本も、刊本も確認できない。ただ今回、諸本を対照していて改めて感じたことは、日蓮遺文をテキスト化するにあたり、本文が改められものはこれに留まらないのではないか、ということである。真蹟が現存していれば今回のように確認ができる。たとえば『本尊抄』の他の箇所においても、本来「三千」と書くべきところ、日蓮聖人が「三種」と明らかに誤記した箇所は、日高上人も何もことわらず「三千」として写しているし、承知の通り日蓮聖人は、「天竺」を「天笠」に、「幼」を「幻」に、「點」を「黙」とする書き癖があるけれども、いかに原本に忠実といえども、そのとおりに写していたらテキストにならないので、真蹟校合本、第一転の写本、一字一点真蹟の通りに書写したという写本であっても、本文の取捨選択・加除修正は普通に行われているとみなければなるまい(ただし模本ではそのまま写している例がある)。

 以上、『観心本尊抄』の一節「天台伝後知之者多々也」について、松岡正次氏の指摘を再確認し、また追跡調査をおこない、気づいたこと二、三を記した。松岡氏の指摘から、一文一句なりとも軽んじてはならぬという格言を、改めて教えていただいたように思う。氏の学恩に深く謝する次第である。(坂井)
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 智顗は『法華玄義』巻五上において円教の開麁位顕妙位を説いた。これは迹門十妙の位妙で円教位を明かすところにある。日蓮がこれに注目したことは拙稿「日蓮の名字即成仏論の探究」(『興風』28号所収)に記述したし、昨年二月のコラム「日蓮の名字即成仏論の探究(一)」にも記した。ただし訂正すべき点があるので、今回改めて、この開麁位顕妙位について解説したい。

〈法華は按位開・勝進開によって前三教の衆生を円教に入れる〉
 開麁位顕妙位では蔵通別の前三教の麁位を開会して、円教の妙位を顕わすことを説く。ただし、最後に大国小臣・小国大臣の譬喩が説かれたことによって、円教低位の麁位を開会して即妙とする観点の転換が起きている。日蓮が『注法華経』開経(70番)に開麁位顕妙位の長文を記入したのは、これに注目してのことだろう。
 ではもう少し詳しく開麁位顕妙位の大要を述べよう。智顗は、未だ仏教に縁していない凡夫や前三教の二乗・鈍根の菩薩が、開会されて円教に入ることを毒発の譬を用いて詳説し、その際、開会を按位開と勝進開に分けて説明した。按位開の按位とは位に留まる意で、按位開の場合、たとえば前三教の断見思の階位にある者は、同じく円教の断見思の階位である相似即十信に入る。一方、勝進開の勝進とは昇進とも書き、前三教の階位から円教の高い階位に入ることをいう。たとえば前三教の断見思の階位にある者が開会され、修行を進めて円教の分真即初住に入るようなケースを勝進開という。

   
  『注法華経』開経(70番)に記入された『法華玄義』巻五上の開麁位顕妙位の文。   
  【図版は無断転載禁止です】  

〈開会の按位開・勝進開と被接の按位接・勝進接〉
 話はそれるが、この按位開・勝進開に関して言えば、天台学の被接の法門では按位接と勝進接の用語が使われる。この按位・勝進の意味は前記したのと同じである。無論、被接と開会は法義が異なるが、対象者にも違いがあり、被接は通教と別教の利根の菩薩が対象なのに対して、開会は凡夫や前三教の二乗・鈍根の菩薩など、鈍根が対象となる。また被接は法華の説時より前の華厳時、方等時、般若時において起きるが、開会は専ら法華に限る。
 改めて説明すると、被接とは通教や別教の利根の菩薩が、過去以来身につけてきた智慧によって、その教説に含まれている中道の真理を悟ることにより、それまでの修行が、より勝れた別教や円教の修行に引きつがれ、引き入れられることである。被接には別接通・円接通・円接別の三種があり、一般に次のように説明される。通教の不但空の教えを聞いて中道の理を悟る利根の菩薩が、その理を空・仮から独立した但中と理解すれば別教に引きつがれ(別接通)、空・仮に即して円融した不但中と理解すれば円教に引きつがれる(円接通)。また別教の初地以前の利根の菩薩が、中道の理は但中と説く別教を聞いて不但中と理解する時、円教に引きつがれる(円接別)。そして、引きつがれて別教の十廻向、円教の十信の階位にある者はまだ無明を断じていないので似位の被接、按位接といい、別教の初地、円教の初住の階位にある者は無明を断じているので真位の被接、勝進接という。
 このように開会と被接には按位開と按位接、勝進開と勝進接という紛らわしい用語があるので注意しなければならないが、この場を借りて拙稿の細部を訂正すると、拙稿「日蓮の名字即成仏の探究」では『法華玄義』の開麁位顕妙位を説明して、「毒発の譬えで被接を述べている」「被接には按位接勝進接があり」(『興風』28号379頁)と記したがこれは間違いで、ここでは被接ではなく開会を論じているから、この被接を開会に、按位接を按位開に、勝進接を勝進開に訂正したい。拙稿にはこの後にも「被接」が一箇所、「按位接」が三箇所、「勝進接」が二箇所にあるが、これも同様に訂正する。また昨年二月のコラム「日蓮の名字即成仏論の探究(一)」で開麁位顕妙位の大要を説明するに際しても「被接」「按位接」「勝進接」と記したが、これも同様に訂正する。これによって私見の論旨が変わることはないが、己れの不明を恥じるばかりである。

〈初めから法華円教を修行する六即低位が按位開される〉
 話を戻すと、開麁位顕妙位では、前三教の衆生を按位開・勝進開して円教に入れ、円教の一妙を成就したことを次のように記す。
  もし諸の権を決せば、あるいは按位妙、あるいは進入妙なり。麁の待すべきなく、同じく一妙を成ず。その義はすでに顕わる。(『仏教大系』玄義3-538)
 そしてこの直後に大国小臣・小国大臣の譬喩が説かれたのである。
  今さらに譬説せば、譬えば小国の大臣、大国に来朝して本(もと)の位次を失うがごとし。行伍に預かるといえども限外の空官なり。もし大国の小臣は心膂憑寄せば、爵はすなわち未だ高からざれども他に敬貴せらる。
 ここでは、開会されて前三教から円教に入る者を小国の大臣が大国に来朝することに譬え、初めから円教だけを修行する低位の者を大国の小臣に譬えて、前者より後者が勝れるとしている。さらに智顗は、
  諸教の諸位は、麁を決して妙に入るに、入流するを得るといえども、円教の入妙に比せんと欲するに、なおこれ鈍の中より来たる。円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知ればすなわち作仏と喚ぶ。初心すらなお然り。何に況んや後位をや。(『仏教大系』玄義3-539)
と、初めから円教を修行する初心の者は如来秘密の蔵を知るので作仏すると断じた。これは観行即五品弟子位を指すが、『玄義釈籖』巻五上では次のように扶釈された。
  「雖預行伍」等とは、阿羅漢の按位に円に入るがごとき、六根行伍の位次に預かるといえども、本(もと)の円の随喜より来たるに比するに、すなわち限外空位の菩薩となる。故に「空官」という。(中略)円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく。(『仏教大系』玄義3-538)

   
  『注法華経』開経(71番)に記入された『玄義釈籖』巻五上の扶釈の文。中央に「若円大国
凡夫小臣名々字仏」(円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく)の一文が見える。
 
  【図版は無断転載禁止です】  

 湛然はそれを法華円教の随喜の名字即凡夫として、その成仏を見ているのである。このように開麁位顕妙位の説示では、前三教の麁位を開会して妙位を顕わすことから転じて、円教低位の麁位を按位開して即妙とする、観点の転換が起きている。日蓮が注目したのはこの点である。コラム「日蓮の名字即成仏論の探究(一)」に記したように、中山法華経寺に所蔵される『秘書要文』(11丁裏)には開麁位顕妙位の要文が記入してあり、「今は初住妙覚に叶うとも本(もと)より名字という」とのコメントも付加してある。このコメントは上記の湛然の扶釈に対して、日蓮が感慨深く発した言葉ではないかと思う。『秘書要文』のこの部分は富木常忍が書いているが、日蓮から直接教示されたこと、耳で聞いたことを綴ったものと私は推測するのである。   〈菅原〉
 
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 『法華玄義』巻五上に説かれる大国小臣・小国大臣の譬喩と湛然の扶釈をめぐって、日蓮と日本中古天台では着目点が異なっているようである。今回はこの譬喩と湛然の扶釈を丁寧に説明しながら、そのことを少々述べたい。

〈智顗の小国大臣・大国小臣の譬喩と説示〉
 『法華玄義』の大国小臣・小国大臣の譬喩は次のように説かれる。
   
今さらに譬説せば、譬えば小国の大臣、大国に来朝して本(もと)の位次を失うがごとし。行伍に預かるといえども限外の空官なり。もし大国の小臣は心膂憑寄せば、爵はすなわち未だ高からざれども他に敬貴せらる。(『仏教大系』玄義3-538)
 これを菅野博史氏は次のように現代語訳している。
今、あらためて比喩によって説くと、たとえば小国の大臣が大国に来朝して、もともとの位階を失うようなものである。軍隊に参加するけれども、員数外の職掌のない官位である。もし大国の小臣は、身心ともに[大国の王に]頼れば、爵はかえってまだ高くないけれども、他に尊敬される。(東哲叢書『現代語訳法華玄義(上)』542)
 智顗は蔵通別の前三教を修す人を小国の大臣に、円教を修す初心の人を大国の小臣に、前三教の人が開会されて円教に入ることを、小国の大臣が大国に来朝することに譬えていて、小国の大臣は大国に来ると元々の位階を失って、軍隊に参加しても役柄のない空官になるが、大国の小臣は位階は高くないけれども他に尊敬されると述べている。続いて次のようにある。
   
諸教の諸位は、麁を決して妙に入るに、入流するを得るといえども、円教の入妙に比せんと欲するに、なおこれ鈍の中より来たる。円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知ればすなわち作仏と喚ぶ。初心すらなお然り。何に況んや後位をや。
(『仏教大系』玄義3-538)
さまざまな教のさまざまな位は、麁を開会して妙に入る場合、[妙に]流れ入ることができるけれども、円教の妙に入ることと比較しようとすると、やはり鈍のなかから来る。円教の発心は、まだ位に入らないけれども、如来秘密の蔵を知ることができれば、仏となると呼ぶ。初心でさえそうである。まして後の位はなおさらである。(『現代語訳法華玄義(上)』542)
 前三教から円教に入る人は、初めから円教を修行して妙に入る人と比べると、鈍の中から来るので劣り、円教初心の発心はまだ正式な階位に入っていないけれども成仏すると確約しているのである。この円教初心の発心は観行即五品弟子位を指している。

〈湛然の扶釈をめぐる日蓮と中古天台の着目点の相違〉
 これを湛然は『玄義釈籖』巻五上で次のように扶釈した。
   
譬の中に「小国大臣」等と云うは、前の三教を名づけて小国となす。教主己下を皆な名づけて臣となす。臣の中の高位、これを名づけて大となす。両教の羅漢および通の九地、別教の十住を開して円教に入るを名づけて「来朝」となす。並びに羅漢および地住等の次位の名を失うを本位を失うと名づく。(『仏教大系』玄義3-538)
 すなわち『法華玄義』の「小国の大臣、大国に来朝して本(もと)の位次を失うがごとし」の文は、前三教を小国、前三教の高位の人を小国の大臣、蔵教の阿羅漢果・通教の第九の菩薩地・別教の十住の人が開会されて円教に入ることを来朝に譬えていて、円教に入って阿羅漢果・菩薩地・十住の階位を失うことを、本の位次を失うことに譬えているという。この前三教の階位は皆な見思を断ずる位である。続いて、
  「行伍に預かるといえども」等とは、阿羅漢の按位に円に入るがごとき、六根行伍の位次に預かるといえども、本円の随喜より来たるに比するに、すなわち限外空位の菩薩となる。故に「空官」という。これ初入によって此(かく)のごときの説をなす。久しく聞いて、観を転じ、惑を破し、行をなせば、かえって旧位の行伍の限りに同じ。

と扶釈している。すなわち『法華玄義』の「行伍に預かるといえども限外の空官なり」の文は、蔵教の阿羅漢果の人は按位開されて円教の相似即六根清浄位に入るが、円教の随喜より来た人と比べると空位の菩薩であり劣ることを説いているという。次の赤色で示した文は正確な意味を把握しづらいけれども、前三教の人がどのようにして円教の人と同等となるかということを説いていると思われる。中古天台の諸師はこの文に着目して種々詳説する。それについては、いずれ本コラムでも紹介したい。日蓮は『玄義釈籖』のこの辺の一段を『注法華経』開経71番に記入していて、この赤色で示した文もその中にあるが、着目したのはこれではなく、この文に続く次の緑色で示した文である。
  円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく。故に「憑寄」という。「膂」とは脊なり。『説文』にいわく骨なり。ただこれまったく身心をもって仏境に寄託するのみ。よく色心すなわちこれ法性と観ず。故に仏法界に憑寄すと名づくるなり。いまだ品位に入らざれば、他を益すること能(あた)わざるを爵はいまだ高からずと名づく。すなわち九界の敬貴するところとなる。 
 湛然は法華円教の初心凡夫を名字仏と称していて、ここに名字即成仏説を見ることが可能である。しかるに今のところ私は、この文から名字即成仏を説く中古天台の記述に出合っていない。よってあくまでも現時点での指摘であるが、この『玄義釈籖』の文をめぐって日蓮と中古天台に着目点の相違があることを指摘したい。中古天台では前三教の人を開会して法華円教に入れる天台教学を重視して赤色で示した文に着目したのに対して、日蓮は純粋な法華の十界互具・一念三千の妙法によって末法の名字即成仏を説くために、緑色で示した文に着目したのであろう。〈菅原〉
 
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 昨年『興風叢書』〔22〕として『一乗論談抄(一)』が刊行された。『一乗論談抄』は鎌倉時代の重要な法華経注釈書であり、身延山久遠寺の身延文庫に十六冊が所蔵されているが、その第一上・中・下、第二上の四冊がここに解読・翻刻されたのである。この四冊はいずれも法華経の序品釈である。
 池田令道師の解題にしたがって紹介すると、撰者の松林房政海(1231~98-)は日蓮とほぼ同時代を生きた天台僧で、幼少にて檀那流毘沙門堂流の範承を師として出家し、1248年に他界した後は遺言によって恵心流の学匠俊範(-1187~1259-)に弟子入りして、静明・心賀・承瑜・全海などからも多くを学んでいる。とりわけ、俊範-静明-心賀の系譜は恵心流の正統たる椙生流であり、政海は檀那流を下地に、本領を椙生流に置いたのである。解題では本抄と日蓮の『注法華経』との接点も指摘されていて興味深い。今後引き続き刊行予定であり、研究が多角的に進められることが期待される。本コラムではその一端として、第一中の「問う、久遠に下種されて王城で得脱する者はあるべきや」の問答に見える本覚思想について私見を述べたい。

 第一中では冒頭に釈尊の化導を説く『法華文句』巻一上の四節三益の文と、『法華文句記』の扶釈の文を掲げて「問う、久遠に下種されて王城で得脱する者はあるべきや」と問い、「師云」「新仰云」「末師云」の三人の説を記して答えている。『日本大師先徳明匠記』は『政海類聚抄』の読み方として「類聚見様」の一項を設けているが(叢書483頁)、それを参考にすると「師云」は範承、「新仰云」は静明(-1244~86)の口伝となるが「末師」は不明である。まず「末師云」としてこう記される。
  この釈は三世料簡門の心には非ず。本門寿量の無作三身の顕本あらわるる上にて、久遠下種の相を釈すなり。今云う所の久遠とは、五百塵点の事成の昔を指すには非ず。無作三身の顕本の上には、霊山衆会儼然未散と云いて、法々塵々悉く無作三身の霊山浄土なるべし。これを指して久遠と云うならば、我等が一念の当体は久遠なるべし。「釈迦久遠に正覚を成すこと、皆な衆生の一念心の中に在り」矣。横に十方、竪に三世十界三千の万法は悉く無作三身ならば、更に久遠下種と云えるは、五百塵点の事成の昔とは意得るべからざることなり。(叢書155頁。原文の漢文を読み下し、片仮名を平仮名に改めるなどした) 
 『法華文句』が四節三益の第一節の下種を「衆生は久遠より仏の善巧を蒙れり。仏道の因縁を種(う)えしめたり」と説き、『法華文句記』が「本因果に種え」と扶釈したことについて、これは三世の料簡を説いたのではなく、寿量品の無作三身顕本の上から久遠下種の相を説いたのだという。無作三身の顕本によって、現実の法々塵々の法界に霊山浄土が顕在しているのであり、そう観ずる今の我ら一念の当体が久遠なのであって、けっして過去の五百塵点劫を指すのではないという。文証に引くのは安然の『胎蔵金剛菩提心義略問答抄』(菩提心義抄)に引かれる『大日経義釈』の文である。釈尊の久遠以来の化導を中古天台流の無作三身論で再解釈していることが明らかである。
  無作三身の本が顕わるる上は、何物の何処も、久遠に非ざる物あるべからず。よって三世常恒の三身なるが故に、過去遠々・未来永々・現在漫々、何物か久遠に非ざる耶。(中略)顕本の上には法々悉く本覚如来、久遠実成の教主なり。(156頁)
 これも同様に、無作三身が顕本されて現実世界はことごとく本覚如来、久成教主が顕在する世界となっているという。続いて「新仰云」として記される文にこうある。
  三千の事々諸法を対治し止息すれば迹門の行なり。体を改めず本覚の当体ぞと云うは本門なり。これを無作三身と号すなり。「貪体即覚体とは本覚の理に名づくなり」「もし貪即菩提と覚るは始覚に名づくなり」。無作三身は一念三千なり。されば「三千は並びに倶体倶用と成る」と云い、「三身は並びに倶体倶用と成る」とも云えるは同じ事なり。(中略)一念三千倶体倶用の法門に非ずや。「釈迦久遠に正覚を成すこと、皆な衆生の一念心の中に在り」の心なり。(159~160頁)
 迹門は善悪を含む現実の三千諸法を対治し止息する修行を立てるが、本門は現実の三千諸法の体を改めることなく本覚の当体と見るのであり、これを無作三身と称している。文証に引く「貪体即覚体」云云の文は『胎蔵金剛菩提心義略問答抄』の文である。
  大通仏は迹門の教主、迹門の仏は心実相なり。(中略)本迹の仏、本より三世常恒なるべき故に、今日以前に迹仏の下種結縁の義これあるを意得るは、三千塵点の間、久しく生死を流転すとは意得るべからず。三千塵点も一念にあるべきなり。ただ三千の数これを挙げることは、一念の中において三千の諸法これあれば、これに約して三千の数、これを挙げると意得るべきなり。迹門の立行は欲心等の起念の一念を対治し止息して寂せしむ。寂せしむるを実相と云い、三千の事々念々の起こるを諸法と云うなり。これを取り合わせて諸法実相とは云うなり。諸法実相と言わば同じくとも本迹二門の意は異なるべし。本門には十界三千の万法を対治し止息する義これなし。体を改めず本有なり、本覚なりと云うなり。(160~161頁) 
 さらには迹門と本門の諸法実相の違いを説明して、現実の十界三千の万法を対治し止息したりせず、その当体を改めずに本有・本覚と見るのが、本門の諸法実相であるという。以上、総じていえば、釈尊の過去の種熟脱の化導が否定され、無作三身の顕本後は十界三千の現実世界がそのまま本有・本覚の状態になっているとして、煩悩をも肯定しているようである。
 対して日蓮は、釈尊の四節三益の化導を事実として認め、『観心本尊抄』では華厳や真言の諸宗は「三五の遠化を亡失し、化道の始終、跡を削りて見えず」と批判し、『曾谷入道殿許御書』では大日経等の得道について「彼々の経々に種熟脱を説かざれば還りて灰断に同じ。化に始終なきの経なり」と難じた。また『大田殿女房御返事』では「毒と申すは苦集の二諦、生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし」と自省した上で、「この毒を生死即涅槃、煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申しけるなり」と、妙法経力の功徳を力説した。日蓮は過去の仏菩薩の化導を尊重しながら末法適時の仏道修行を確立し、倫理性を保つ信仰に基づいて理想社会の実現を目指したのだと思う。〈菅原〉
 
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