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2022年
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 昨年末、例年どおり『興風』・『興風叢書』を刊行することができた。ささやかな宗祖生誕800年の報恩行でもあった。私も小論「日蓮遺文中の擡頭と平出―日蓮の国王観補遺―」を『興風』に投稿し、これまでの拙稿における不足をいくつか補ったつもりだが、「おわりに」でも述べたとおり、補訂はなお不充分で、日蓮遺文の書式(闕字[けつじ]・平出[へいしゅつ]・擡頭[たいとう])、とくに写本類についての精査はこれからである。
 今回は日蓮書状の、代筆から平出の用例を取りあげて追加報告を行うが、最初にあらためて闕字・擡頭・平出についてふれておこう。端的にいえば、闕字・平出・擡頭とは、文中に国王(天皇)やそれに関連する語句など、敬意対象となる用語があらわれた場合、闕字は1字ないし数字をあけて当該文字を記し、平出は改行して当該文字を行頭に、そして擡頭は、当該文字を他の行よりも1文字ないし2文字ほど高く記す。すなわち敬意度は闕字→平出→擡頭と高まってゆく、というものである。
 前掲小論では、日蓮遺文中にみえる平出や擡頭を摘記して、その独特な用法について略述した。また先述どおり、闕字・平出・擡頭は、国王(天皇)とそれに関わる用語に適用するものだから、日蓮がその対象とした人物と、日蓮の国王観とがリンクすることはいうまでもない。そしてこれまで述べてきた、文章表記、内容、用語に加え、書式の上からも、日蓮は北条氏得宗(北条家当主)をもって日本国王とみとめ、『立正安国論』を献上したことを、あらためて確認した。
 ところで日蓮は、一般的な擡頭・平出の用例と異なり、人物(国王など)だけではなく、「妙法蓮華経(法華経)」という経典を敬意表記の対象としているところに、大きな特徴がある。前掲小論では、特に日蓮起草の「陳状草案」(通称「瀧泉寺申状」)における用例を挙げたが、たとえば題目(南無妙法蓮華経)を記す場合「南無」で改行し「妙法蓮華経」を行頭に記すといった具合で、日蓮の法華経観を視覚的にもみることができる。

 
  図版1 日興写本「聖人等御返事」
   【図版は無断転載禁止です】

 またこれは日蓮の自筆ではなく、日興写本「聖人等御返事(変毒為薬御書)」【図版1】によって確認されることだが、日蓮は弘安2年(1279)、熱原の百姓3名が斬首されるにあたり、3名が最期に唱えた題目「南無妙法蓮華経」について、「南無」で改行せずに「奉唱」で改行し「南無妙法蓮華経」を平出している(本文3行目)。ここでは唱題そのものを敬意表記の対象としているわけだが、それは日蓮が、熱原百姓三名が最期に唱えた題目に、崇高なるものを感じたからに他なるまい。なお、この平出は日興写本に見られるもので日蓮自筆によるものではない、との批判もあろうが、この平出は日興がわたくしに用いたものではなく、日蓮自筆の書式にのっとたものであろうことは、前掲小論に述べている。参看を請う。
 とまれ日蓮は、これに先立ち、富士方面の檀越に対して、「末法に入なば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並に法花経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」とか「今、末法に入ぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」等と、日蓮の教説をきわめた、唱題の大事を書き示している。そして熱原の百姓3名は、見事にその大事を体現したわけで、日蓮が彼らの唱えた最期の題目「南無妙法蓮華経」を平出したのは、ゆえあることである。また日興写本を忠実に転写したと思われる「御筆集」にも、「法華経の題目となへまいらせ」の一節を平出(あるいは擡頭のようにもみえる)した例がみられる。
 その他、日朗代筆による日蓮書状「伯耆公御房御返事」【図版2】にも、平出が見られるので掲げておこう。

  図版2 日朗代筆「謹上伯耆公御房書」
    【図版は無断転載禁止です】

 上掲のとおり本状においても「法華経」(本文4行目)と「聖人(日蓮)」(本文6行目)を平出している(あるいは「日蓮」〔本文13行目〕も平出か)。日蓮がみずから「法華経」とあわせて「法主聖人・聖人」を平出していることは、弘安2年の陳状草案にもみられることで、「伯耆公御房御返事」における「法華経」「聖人」の平出は、日蓮の指示か、あるいは日朗による使用かどうか、にわかに判断することはできないけれども、日蓮のみならず弟子・檀越の間でも、法華経や聖人(日蓮)を平出することは、ある程度ひろまっていたことを示している。
 とまれ日蓮遺文における敬意表記は、これまで『日蓮大聖人御真蹟対照録』(立正安国会刊)を除いては、翻刻上、あまり注意されてこなかったことであり、今後は翻刻するにあたり、日蓮による闕字・平出・擡頭の表記は、何らかの形で注記する必要があろう。
 また近世の資料だが、日蓮門下必読書に川路聖謨の『島根のすさみ』がある。同書は佐渡叢書や東洋文庫(川田貞夫氏校注)より刊行されているが、東洋文庫本の凡例を披いてみると「底本の平出・欠字はこれを行わなかった」とある。このように平出・闕字等の表記は、日蓮遺文のみならず、資料を翻刻する上で、やはり重視されてこなかった。こうした資料翻刻上の問題点については、すでに佐藤博信氏の指摘があるけれども、このたびの考察を通じて、原資料のもつ重みをあらためて痛感した。統合システムに収録される諸資料についても、つぶさに敬意表記の仕方を考えてゆきたい。(坂井)
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 数回にわたって日蓮遺文中の擡頭・平出等について略述してきたが、最後にこれまでの所見等をまとめておく。
 いったい擡頭や平出とは、中国の書式であって、本邦における使用はこれに倣ったものと考えられる。また敬意表記の対象となる用語(平闕用語)は皇帝(本邦では天皇)に関するものだから、日蓮の活動した鎌倉期の東国武家社会では、使用されることの少なかった書式といえよう。日蓮は何によってこれを知識したのか。
 そんな中で注目されるのが、日蓮がみずから披見したといっている蒙古国牒状で、同牒状には擡頭・平出の使用がみられる。すでに佐藤博信氏は、日蓮・富木常忍起草による瀧泉寺大衆日秀・日弁らの陳状草案(通称:瀧泉寺申状)にみえる擡頭・平出の使用は、蒙古国牒状の影響によるのではないか、と指摘している(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)が、その可能性は高いように思う。
 また先年、都守基一氏によって蒙古国牒状の日蓮写本断編が発見され、現存部の訓点が東大寺宗性の写本と一致していることも指摘されている(『日蓮仏教研究』9号、2018年)。日蓮は間違いなく、蒙古国牒状をなぞっていたわけで、その書式(擡頭・平出)もまのあたりにしていた。しかも日蓮は陳状草案において、あたかも蒙古国牒状における擡頭・平出の使用を意識したかのように、平闕用語の対象(国王等)を牒状とは正反対に用いている。
 例えば蒙古国牒状では、蒙古国王クビライを「〝大〟蒙古国皇帝」として擡頭し、「日本国」は一段下げて日本国王を「〝小〟国之君」とするが、日蓮は陳状草案に「〝大〟日本国」と「大」を加えて記し、これを平出するも、「蒙古国」には敬意表記は用いず、「大」も冠していない。また日蓮は陳状草案に、「蒙王」(蒙古国王=クビライ)に敬意表記は用いず、「君」(北条時宗=日本国王)を平出するなど、相対的に記していることは一目瞭然である(拙稿『興風』33号、2021年)。
 また日蓮は陳状草案において、北条時頼への『立正安国論』献上について「上表」(国王に文書を奉る)といったり、北条時宗への上申を「上聞を驚かす」(天子に申し上げる)というなど、北条氏得宗(北条氏の当主)に対しては、書式も用語も日本国王としての扱いをしている。
 目的は何か。先に川添昭二氏は『立正安国論』に引かれる護国経典中の、正法護持・悪法治罰の国王を、日蓮は北条時頼に重ねて見ていることを指摘している(『日蓮と鎌倉文化』平楽寺書店、2002年)が、護国経典は漢訳の段階で、王権との結びつきを強化するため、内容を付加したことが指摘されており(松長有慶『密教』岩波新書、1991年)、国王は正法護持・悪法治罰を行ってこそ護国を実現できることが説かれてきた。いうまでもなく、護国は国王のつとめであって、国王としての自覚促進に、経典は大きな役割をになってきたのである。直接的な関わりは認められないものの、陳状草案における得宗の扱い(書式・用語)も、北条時宗に対して、日本国王としての自覚を促すねらいがあったと考えられる。日蓮は陳状草案で、護国のために用いるべき経典(法華経)と人師(日蓮)についても、国王(北条時宗)とならんで平出しており、ビジュアル効果を併用し、これを訴えたと考えられるのである。
 中山法華経寺に現存する陳状は、あくまでも草案だが、日蓮らがこうした思考をもって、草案をしたためたことは明白で、清書するにあたっても、この書式が用いられたことに疑う余地はない(たとえば日蓮は草案中、行末に書かれた「聖人(=日蓮)」を行頭にもっていくよう、すなわち平出するよう指示している)。
 鎌倉時代の裁判においては、当事者主義が徹底されていて、「証拠も自ら提出したものがすべてであった」(笠松宏至『徳政令』講談社学術文庫、2022年)し、問状についても「当事者すなわち訴人が自ら、あるいは使者をもって論人のもとに送達する制であった」(石井良助『新版中世武家不動産訴訟法の研究』高志書院、2018年)。
 瀧泉寺院主代の訴えた訴訟で、論人である日秀・日弁等の陳状が、どのようなかたちで提出されたのかはわからないが、少なくとも、陳状の書式(擡頭・平出)をまのあたりにした誰しもが、陳述者の訴える依経(法華経)・人師(日蓮)・国王(北条時宗)が一目瞭然となるよう、意識して書かれたものである。
 なお日蓮の没後も、日蓮門下による北条氏当主(得宗)=日本国王という認識は、鎌倉幕府滅亡まで続いており、直弟の日興は北条時宗の次代得宗、北条貞時による討罰対象者を「朝敵(国王の敵)」といっているし、日全は幕府滅亡後も、北条政権の奪還をめざした北条時行の挙兵(中先代の乱)に着目している(『法華問答正義抄』巻9〔興風叢書11〕、鈴木由美『中先代の乱』中公新書、2021年)。
 それから日蓮による北条氏得宗の平出は、日蓮の独創というわけではなく、同時代の、特に東国社会においては、やはり得宗を平出した例がまま見られる(佐藤雄基「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」〔『史学雑誌』129巻10号、2020年など)。また日蓮の国王観については、最近も論じれていて(山本みなみ『史伝北条義時』小学館、2021年)、私もひきつづき検討を重ねてゆく所存である。(坂井)
 
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 『修禅寺決』は、伝教大師が渡唐の際に道邃和尚から相伝されたという七箇法門を内容とする。七箇とは、四箇の大事(一心三観・心境義・止観大旨・法華深義)と、法華深義から開出される略伝三箇(円教三身・常寂光土義・蓮華因果)であり、恵心流七箇大事と称されている。
 ただし『修禅寺決』では、略伝三箇については名目のみ記し、その解説を「別集の如し」として省略する。よって『修禅寺決』の内容的構成は次のようになっている。

   ①修禅寺相伝私注 第一 一心三観
   ②修禅寺相伝私注 第二 心境義
   ③修禅寺相伝日記 第三 止観大旨
   ④修禅寺相伝日記 第四 法華深義

 ◎主な写本・刊本の伝存状況
 従来『修禅寺決』には、『伝教大師全集』五巻、及び『天台本覚論』(岩波・日本思想体系)の翻刻に当たって、次のような写本や刊本の存在が報告されている。
 まず『伝教大師全集』では、「江州坂本西教寺 慶長歳極月十三日 仙桃師写本二巻」と記して西教寺本を底本とし、次いで菊岡氏所蔵・永禄元年の日承本、叡山実蔵坊所蔵の刊本、藤田宗継刊本、赤松氏所蔵の刊本等を対校本として用いる。すなわち写本は慶長年間(1596~1615)、永禄元年(1558)が確認されている。なお刊本はいずれも刊年不明である。
 次に『天台本覚論』では、身延山久遠寺所蔵の身延11世日朝(1422~1500)の所持本(①②欠)、および身延12世日意(1444~1519)の所持本(④欠)を底本とし、「金沢文庫所蔵の古写本四帖、伝教大師全集所収本、立正大学所蔵の諸種刊本と対校した」とある。なお、日朝所持本には「文明第十二暦〈庚子〉正月上旬書写之了 京少納言 慶運判」の識語が確認される。
 文明十二年(1480)は日承本(永禄元年)より約80年ほど遡るが、さらに身延山久遠寺には 「一校畢/日定(花押)/永享五歴〈癸丑〉十一月廿五日/於武州師岡保神奈河青木/妙泉寺拭老眼尽志写之了〈生年六九二〉/日行聖人ヨリ蒙免許畢」(『身延文庫典籍目録』中)の奥書をもつ日定の書写本(①②欠)が所蔵されている。
 永享五年(1432)は、日朝所持本よりさらに約50年ほど遡り、しかも「日行聖人より免許を蒙り畢ぬ」との記述から、日定写本の元本があったことも確認される。「日行聖人」とは、延命院日行(1387~1434)のことで、甲州波木井郷の人であり、兄弟の身延8世日億・身延9世日学とともに身延7世日叡に師事している。また「免許を蒙り畢ぬ」からは、『修禅寺決』は身延において秘書として伝えられていたことが推測される
 いずれにせよ、日定本は現時点において確認される最古の写本であり、これら写本の伝存状況からも日蓮門下が『修禅寺決』に少なからず関わってきたことが窺える。

 ◎日蓮遺文との関連
 次に、日蓮遺文との関係について述べていきたい。すでに、これまでの研究にて『修禅寺決』は『当体蓮華抄』および『十八円満抄』と関係していることが指摘されている。

 〇『当体蓮華抄』
  「伝教大師修禅寺相伝ノ日記とて四帖あるなり。其中に五重玄義を委シく釈し給へり。日蓮又別に記す。其ヲくはしく見るべし。伝教大師四帖の書習ふべし。先キに御存知たりといへども別して書キ出タしまいらせ候。蓮華の沙汰彼を見給ふべし。蓮にをいて十八円満等の法門天台宗の奥義也。」(『定遺』2137頁) 

 〇『十八円満抄』
  「伝教大師修禅寺相伝ノ日記ニ之在リ。此法門ハ当世天台宗ノ奥義也。秘可シ秘可シ。」                                 (『定遺』2137頁) 
  「修禅寺相伝ノ日記之ヲ見ルニ妙法蓮華経ノ五字ニ於テ各々五重玄也。」(『定遺』2140頁) 
  「並ヒニ当体蓮華ノ相承等 日蓮之己証ノ法門等 前々ニ書キ進ラセシカ如シ。委クハ修禅寺相伝日記ノ如シ。天台宗ノ奥義之ニ過ク可ラ不ル歟。」(『定遺』2144頁) 

 両書とも偽撰遺文であり、そこには「修禅寺相伝日記」との書名がみえ、とくに『十八円満抄』には『修禅寺決』が多く引用されている。他に、『臨終一心三観』・『日女御前御返事』(1-256)・『御講聞書』などの関連も取り上げられるが、いずれも真撰遺文には属さない。真撰遺文には、『修禅寺決』の内容はもとより書名すらも確認することはできない。
 それゆえ、以下のような所説がみられる。
  〇浅井要麟「恵檀両流と日蓮聖人の教学」(『大崎学報』92号)
  「修禅寺決の成立年代を論ずる場合にも、文献として「日蓮上人の遺文」(恐らくは十八円満抄)を採り上げられているが、これは如何なものであろう。」 
  〇大久保良順「天台口伝法門と浄土教」(『印度学仏教学研究』第16巻第1号 通巻31号)
  「修禅寺決の主張からは、中古の天台法門が、日蓮教学の影響を受けた後、称名を唱題に進めようとした意図がうかがわれるといえよう。」 
  〇中条暁秀「日蓮遺文における御講聞書の位置」(『大崎学報』150号)
  「日蓮教学では総じて、修禅寺決からの引用は日蓮聖人遺文にはない、と踏んでいる。」 
  〇田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』
  「日蓮以後において、日蓮教学を摂取しつつ、天台本覚思想を構成したものが、「修禅寺決」であり、その「修禅寺決」を摂取しつつ、日蓮教学を構成したものが、「十八円満抄」であり、さらに、その「十八円満抄」をうけて、「法華肝要略秀句集」が偽作されたものではなかろうかということである。」 

 『修禅寺決』の真偽問題を遡れば、長遠院日遵(1588~1654)が、舜統院真迢(1596~1659)の『破邪顕正記』を破すため、『諫迷論』一巻(『日蓮教学全書』1巻)に
  「凡ソ天台大師ノ法華ヲ弘通シ給フ相ヲ案スルニ全ク我立ニハ非ズ。霊山会上ニテ直ニ釈迦世尊ノ面授口決ノ道ナリ。学生式・修禅決ヲ見ヘシ。」 
と述べ、『修禅寺決』を用いて真迢を難じている。
 それに対し、真迢は『禁断日蓮義』二巻(『日蓮教学全書』25巻)に
  「凡ソ修禅ノ決ハ古来偽書也ト云伝ヘタリ。略秀句・神奥秘一谷極等多ク偽書也。伝教大師ノ御作ノ目録ニイラズ。文章モ義勢モ甚タ相似セズ。恐クハ日蓮末弟ノ謀作ナルヘシ。又知謗法論ト云書アリ。是又五大院ノ真作ニ非ス。カヤウノ偽書繁多也。」 
とし、『修禅寺決』は偽書であり「日蓮末弟ノ謀作」と断言している。
 ここで注目されるのは、『修禅寺決』とともに「略秀句」(伝教仮託『法華肝要略注秀句集』)および「知謗法論」(安然仮託『要決法華知謗法論』)が列挙されていることである。この二書は、写本が身延山久遠寺に所蔵されており、日蓮偽撰遺文『法華本門宗要抄』の中で重要書とされている。また、「神奥秘一谷極」(『神奥秘谷極巻』)についても、その写本が身延山久遠寺に所蔵されている。
 近年にいたって『修禅寺決』は、『伝教大師全集』五巻に「修禅寺相伝私注」「修禅寺相伝日記」として所収され、『天台本覚論』(日本思想体系9)では、目次および内題に『修禅寺決(伝最澄)』として本書を取り扱っている。すでに、『日本大蔵経』(日本大蔵経編纂会 大正11年発行)解題に「修禅寺相伝口決四巻は伝教大師の撰述と云はるるも恐らく然らざる可し」とあり、他に、本書に関する諸論文をみても「伝最澄」に対する異論はみられない。ところが、本書は出処不明ゆえ、その成立については未解決のままである。

 ◎『法華肝要略注秀句集』との関連
 『法華肝要略注秀句集』(『伝教大師全集』五巻。以下、『略注秀句』と略称)は、伝教仮託書であり、日蓮偽撰遺文『法華本門宗要抄』に重要書として引用されている。また、『法華本門宗要抄』に引用される『要決法華知謗法論』『助顕法華略記集』(いずれも日蓮門下作成の安然仮託書)との関連から、『略注秀句』の成立を日蓮滅後70~80年頃とし、日蓮門下によって作成されたことを実証した(拙論「伝教仮託『法華肝要略注秀句集』に関する考察[『興風』33号])。
 その工程の中で、『略注秀句』と『修禅寺決』との関連を幾つか確認し、おぼろげながらも『修禅寺決』の成立には日蓮門下が携わっているようにもみえた。
 すでに、大久保良順「修禅寺決を中心とする二三の問題」(『天台学報』9号)では、次のように述べている。
  「この秀句集は「大唐貞元十四年三月三日、於龍興寺入道邃和尚室 稟承法華深義略伝三箇大事 所謂円教三身 蓮華因果 常寂光土義」(上巻)とあるように、恰かも略伝三箇大事についての決義であるような印象を与える。修禅寺決法華深義の下に「宗是妙因妙果 此開三種別方 一蓮華因果 二円教三身 三常寂光土 如別集」とあるので、その別集が肝要秀句集を指すように見えるのである。しかし未だそう断定し去るわけにもいかない。」
 ここでは、『修禅寺決』にて省略された略伝三箇の大事が、『略注秀句』の中にみえることから、「別集の如し」は『略注秀句』を指すと推測している。しかし、それは断定にいたっていないため、最近の研究においても「別集が何を、そしてどの文献を指しているのか、これは今もって解決されていない問題である。」(藤平寛田「中古天台における略伝三箇攷」『天台学報』58号)と指摘されている。
 そこで次回は、『修禅寺決』と日蓮門下によって作成された『略注秀句』(伝教仮託)・『要決法華知謗法論』(安然仮託)・『助顕法華略記集』(安然仮託)との関連を再検討し、あらためて『修禅寺決』の出処を探ってみたい。 (渡邉)
 
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 今回は、『修禅寺決』に用いられる年号の問題、および本文中にみえる「妙法蓮華経ノ五字」について考察してみたい。

一、「貞元二十四年三月一日」の記述について
 『修禅寺決』の冒頭に、次の一文がある。
  「大唐貞元二十四年三月一日 四箇ノ法門ヲ伝フ。所謂 一ニハ一心三観、二ニハ一念三千、三ニハ止観ノ大旨、四ニハ法華ノ深義ナリ也。」(『伝全』5巻69頁) 
 これによれば、伝教は「貞元二十四年」に「四箇ノ法門」を道邃より伝授されたことになるが、「貞元」は二十一年に「永貞」と改元されているため、実際には「貞元二十四年」の年号は存在しない。これと同じく、「貞元二十四年」を相承の年次とする典籍に『三大章疏七面相承口決』(伝最澄)があるが、この件については後述する。
 ここでは『修禅寺決』と日蓮門下作成の伝教仮託『法華肝要略注秀句集』(以下『略注秀句』と略称)、安然仮託『要決法華知謗法論』(以下『要決法華論』と略称)、日蓮偽撰遺文『法華本門宗要抄』との関連について述べてみたい。

 〇『法華肝要略注秀句集』
 まず『略注秀句』には次のような一文がある。
  「去ル延暦二十三年ニ入唐シ、大唐ノ貞元十四年三月三日、竜興寺ニ於テ道邃和上ノ室ニ入リテ、法華深義ノ略伝三箇ノ大事ヲ稟承ス。」(『伝全』5巻281頁) 
 ここには、「貞元十四年三月三日」に道邃より「法華深義ノ略伝三箇ノ大事」を承けたとある。「延暦二十三年」は西暦八〇四年で、「貞元十四年」は西暦七九八年であれば、すでにこの記述は時系列をなしていない。『修禅寺決』の「貞元二十四年」が存在しないため、「貞元十四年」と改めたものと思われるが、むろん矛盾といわざるを得ない。なお日付についていえば、『修禅寺決』には「三月一日」とあり、『略注秀句』には「三月三日」と近接している。
 次に、これらの件を伝教撰とされる『内証仏法相承血脈譜』の一文と照らし合わせてみよう。
  「大唐貞元二十一年歳乙酉ニ次ル〈大日本国延暦二十四年乙酉当也〉春三月二日初夜二更亥ノ時、台州臨海県竜興寺西廂ノ極楽浄土院ニ於テ天台ノ第七伝法ノ道邃和上ヲ奉請シ、最澄義真等、大唐ノ沙門二十七人与倶ニ円教ノ菩薩戒ヲ受タリ」(『伝全』1巻236頁) 
 ここには、貞元二十一年三月二日、竜興寺にて伝教が道邃より「円教ノ菩薩戒ヲ受タリ」とする史実が語られている。この『血脈譜』の「三月二日」と、『修禅寺決』の「三月一日」、および『略注秀句』の「三月三日」の記述について、高橋謙祐「日蓮聖人と『修禅寺決』(『日蓮教学研究所紀要』5号)は、次のように指摘する。
  「略伝三箇の伝法を二日としたいところであろうが、二日は菩薩戒を受けた日なので、重複をさけるために故意に一日、三日にしたとも推測できる。三月一日四箇相伝、二日受戒、三日略伝三箇稟承とすれば、一応の筋が通ってすっきりする。」 
 一連の日付の相違に会通を加えたものであり、それなりの見解と思われるが、年次の相違や矛盾については解明されていない。以下に三書の年月日に関する記述を掲げておきたい。
  [偽撰]『修禅寺決』      貞元二十四年         三月一日
  [真撰]『内証仏法相承血脈譜』 貞元二十一年〈延暦二十四年〉 三月二日
  [偽撰]『略注秀句』      貞元 十四年〈延暦二十三年〉 三月三日

 さて次に、『修禅寺決』と『要決法華論』及び『法華本門宗要抄』との記述を比較・対照してみたい。
 〇『要決法華論』
  「爰ヲ以テ山家大師即チ唐朝ニ於テ、貞元十四年〈戊子〉三月三日ニ竜興寺ニ於テ、法華ノ深義 略伝三箇大事ヲ相承。所謂円教三身・蓮華因果・常寂光土義也。」
                     (『興風叢書』15号 158頁) 
 〇『法華本門宗要抄』
  「延暦二十四年、伝教大師入唐シテ、貞元十四年〈戊子〉三月三日 竜興寺ニ於道邃ト行満ノ両師ニ値ヒ奉リ、法華宗ヲ習学スル之次テニ真言ト禅宗与ヲ伝フ。」
                     (『定遺』2150頁) 
 両書とも、『略注秀句』の「貞元十四年三月三日」を継承しているが、そこに「戊子」の干支が付されている。しかし「貞元十四年」の干支は、「戊子」ではなく「戊寅」でなければならない。加えて興味深いことに、本来存在しないはずの「貞元二十四年」に干支をあてると「戊子」となる。これを思うに、『要決法華論』及び『法華本門宗要抄』の作者は、『略注秀句』の「貞元十四年」を用いながら、『修禅寺決』の「貞元二十四年」にも意識があったので、「貞元十四年」に「戊子」を付してしまったと推測されようか。
 いずれにしても『修禅寺決』『略注秀句』『要決法華論』『法華本門宗要抄』の四書が関連することによって、史実に合わない「貞元二十四年」「貞元十四年〈戊子〉」の年次が作成されたことは間違いないだろう。

二、「貞元二十四年六月三日」及び「貞元二十四歳六月日」の記述について
 ここでは『修禅寺決』と、同じく伝教仮託の『三大章疏七面相承口決』(以下『七面口決』と略称)の記述に注目してみたい。
 まず『修禅寺決』の[第三 止観大旨]の中に、「貞元二十四年六月三日ノ伝法ニ云ク」として、教行証の止観を相伝されている。また[第四 法華深義]では、「于時貞元二十四歳六月日ナリ。抑モ妙法ノ深義ヲ尋ヌルニ」として、法華深義に関する問答が展開される。
 これらの記述をみると、『修禅寺決』の「貞元二十四年」はただの誤記ではなく、この年号があるものとして用いられている。
 これと同じように、『七面口決』の冒頭にも「大唐貞元二十四年五月日、仏立寺ニ於テ三大章疏ノ惣意ヲ伝フ」と記されている。この他の天台関連の典籍に「貞元二十四年」の年号は全く確認されないので、これだけでも『修禅寺決』と『七面口決』との密接な関連性が分かるのである。むろん、『修禅寺決』の「貞元二十四年六月三日ノ伝法」、「貞元二十四年」の記述、『七面口決』の「貞元二十四年五月日」の記述はともに史実として認められない。
 ところで、偽撰遺文で相伝書とされる『法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)』は、『七面口決』の内容を換骨奪胎して成立したものである。その冒頭には、
  「伝教大師ハ生歳四十二歳ノ御時仏立寺ノ大和尚ニ値ヒ奉リ、義道ヲ落居シ、生死一大事ノ秘法ヲ決シタマフノ日、大唐ノ貞元二十一年〈太歳乙酉〉五月三日三大章疏ヲ伝ヘ、各七面七重ノ口決ヲ以テ治定シ給ヘリ。」(『昭和新定』2688頁) 
との一文がある。これは『七面口決』の
  「大唐貞元二十四年五月日、仏立寺ニ於テ三大章疏ノ惣意ヲ伝フ。各七重ノ惣意ヲ以テ文文句句ニ通セシメ一部ノ難儀ヲ開クベシ。先玄文七面ノ口決トハ……」 
との一文に通じている。『本因妙抄』の作者は『七面口決』を用いながら、「貞元二十四年」の年次については「貞元二十一年」と変えて史実に合わせたようである。
 また『修禅寺決』には、「貞元二十四年六月日」の問答中に、「予幸ニ仏立寺ニシテ、座主向ヒテ一字成仏ノ秘伝ヲ問アグルニ……」との一文があるが、ここに記された「仏立寺」の寺名は、『七面口決』『本因妙抄』及び偽撰遺文の『臨終一心三観』にその用例が見られるのみで、他の天台や日蓮関係の典籍には見出せないようである。『臨終一心三観』は、『修禅寺決』における「三重の一心三観」の当該部分を抄録しただけなので著作にも当たらない。よって「仏立寺」に関して、『修禅寺決』『七面口決』『本因妙抄』の三書は深い関連を持っているといえよう。

三、「妙法蓮華経ノ五字」の表記・用例について
 次に、『修禅寺決』にみえる「妙法蓮華経ノ五字」及びその唱題思想について、少しく検討してみたい。『修禅寺決』の該当文を挙げると以下のようになる。
 ①第一「一心三観」
  「臨終之時、南無妙法蓮華経ト唱フ」「故ニ臨終ノ之行ニハ者、法華ノ首題ヲ唱フ可シ」 
 ②第二「心境義」
  「臨終ノ時専心ニ応ニ妙法蓮華ヲ唱フベシ」「妙法蓮華経ノ題名千返ナリ也」 
 ③第三「止観大旨」
  「口ニハ南無妙法蓮華経ト唱フ可シ心ニハ念ス可シ」 
 ④第四「法華深義」
  「妙法蓮華経ノ五字ノ中ニハ正ク蓮ノ字ニ在リ」「妙法蓮華経ノ五字即チ五重玄ナリ也」「諸仏ノ内証ニ五眼ノ体ヲ具ス、即チ妙法蓮華経ノ五字ナリ也」 
  ①②の臨終時における唱題については、他の天台関連の典籍には殆んど見当たらない。④の「妙法蓮華経ノ五字」の用語については、『七面口決』『出離生死血脈』に確認されるものの、両書はともに伝教仮託の偽撰書である。
 とくに④には、「十八円満ノ義」を一々にあげ、さらに「十九円満ヲ以テ蓮ニ名ク。所謂当体円満ヲ加フ」とし、「妙法蓮華経ノ五字ノ中ニハ正ク蓮ノ字ニ在リ」と説いている。偽撰遺文の『十八円満抄』及び『当体蓮華抄』は、『修禅寺決』の諸文を転写するかたちで出来あがっている。一方において、『修禅寺決』の唱題思想が天台関連の典籍に引用されているケースは殆んど見られない。
 次いで、日蓮門下によって作成された、伝教仮託『略注秀句』や安然仮託『要決法華論』、同『助顕法華略記集』を検索すれば、三書ともに「妙法蓮華経ノ五字」の用例が頻出するのである。これもまた『修禅寺決』と日蓮門下が作成した仮託書の内容が通底することを示しているだろうか。

【おわりに】
 今回は三つの項目を掲げて『修禅寺決』の出処を検討したが、『修禅寺決』は日蓮遺文に限らず複数の天台関連の仮託書と関連しているため、その成立については更なる精査が必要である。
 たとえば、『修禅寺決』の[第二 心境義]は円仁仮託『一念三千覆注』と同文であり、その成立伝承についても気にかかる。また忠尋仮託『漢光類従』三巻には、「山家ノ大師唐朝ヨリ御将来ノ日記ニ禄シ玉ヘル口伝也」(『大正蔵』74・400頁B)とあり、『修禅寺決』の影響が確認される。ただし『漢光類従』の成立に関して、大久保良順「天台口伝法門の成立と文献化」(『本覚思想の源流と展開』所収)は、「少なくとも政海の時代即ち一三〇〇年を過ぎる頃までは「漢光類従」は表面に現われることがなかったようである」と論評しており、日蓮滅後に成立した可能性も考えられる。もし一三〇〇年以降ともなれば、その成立や伝承には日蓮門下の存在も視野に入れなければならない。
 いずれにしても『修禅寺決』の考察には、それにまつわる天台関連の文献を種々検討しなければならない。今後も、『修禅寺決』の内容を分析しつつ、出処の解明を試みたい。(渡邉)
 
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 文永十一年執筆の『法華取要抄』と翌年三月十日執筆の『曾谷入道殿許御書』の内容に関連性があることは言うまでもない。ここで注目するのは、共通して引かれる『法華玄義』第六の文である。

(一)『法華取要抄』に引かれる法華玄義第六の文
 『法華取要抄』は大科五段の構成と考えられる。①諸経と法華経の勝劣、②三五下種結縁の釈尊は此土の本師、③法華経本迹二門は末法為正、④末法の要法の開示、⑤要法広布の先相。
 大科②〈三五下種結縁の釈尊は此土の本師〉では、五百塵点劫に下種して以来釈尊が娑婆世界の本師であるにも拘わらず、諸宗が久遠釈尊以外の諸仏を本尊とすることを批判して、『法華玄義』第六の文をこのように引く。
   「天台大師の云わく、もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退の地に住す。乃至、なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し等云云。」(『定遺』813頁)
 これは眷属妙の文である。少々説明を施すと、迹門十妙の眷属妙は五段で構成され、その第二・眷属を明かす段の応生の眷属を説明するところで、一分の中道を証得した法身の菩薩が此土に応生する理由に、他を熟させるために来る、自ら成熟するために来る、本縁のために牽かれるの三つをあげた。上掲の文は〔本縁のために牽かれる〕の冒頭部である。その具文と意訳を示そう。
  「三に本縁のために牽かれるとは、もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退の地に住す。仏はなお自ら分段に入りて仏事を施作す。有縁の者、何ぞ来たらざることを得ん。なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し。」(『大正』33巻756頁下) 
  《意訳》三に過去の因縁のために牽かれるとは、法身の菩薩は過去にこの仏に従って初めて道心を生じ、この仏に従って不退地に住することができた。仏は依然として自ら三界に入って施化を行っている。有縁の者がどうして来ないことがあろうか。あたかも百の川が海に流入すべきようなものであり、仏との縁に牽かれて三界に応生するのも同様である。 
 主旨は三界の施化を行う仏のもとに過去の因縁ある者が応生するという点にあり、「もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退の地に住す」の文は仏との過去の因縁を明かし、「なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し」の文は、過去の因縁に牽かれて有縁の者が三界に応生することを述べている。『法華取要抄』ではこの仏を、久遠以来此土の衆生に下種し教化してきた教主釈尊、有縁の者を、久遠以来下種され教化されて在世釈尊のもとに応生する諸衆のことと解釈する。
 ところで、大科③〈法華経本迹二門は末法為正〉に次の記述がある。
  「疑って云わく、多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出、これらは誰󠄀人のためぞや。(中略)仏の在世には一人においても無智の者これなし。誰人の疑いを晴さんがために、多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出だし、地涌の菩薩を召すや。方々もって謂れなきことなり。(中略)偏に我らがためなり。」(『定遺』815頁) 
 地涌の菩薩も過去の因縁によって在世の本門八品に来会したが、他の諸衆と異なり、要法付属を受ける責務を担っている。『法華取要抄』における『法華玄義』第六の引文目的は主副の二つあると推察され、主目的は上述のとおり、在世釈尊と諸衆の久遠以来の深縁を明かすためであり、副目的にこの「地涌の涌出」「地涌の菩薩を召す」理由を明かす〝呼び水〟としての役割があると考えられる。これは次に示す『曾谷入道殿許御書』の『法華玄義』第六の引文目的から推測できるが、しかし成功していない。理由は『法華玄義』第六の文は記入場所からみても、やはり大科②〈三五下種結縁の釈尊は此土の本師〉の文証であり、「地涌の涌出」「地涌の菩薩を召すや」の文との間がかなり離れているためである。

(二)『曾谷入道殿許御書』に引かれる法華玄義第六の文
 『曾谷入道殿許御書』は大科五段の構成と考えられる。①滅後末法の逆謗救助は要法に如かず、②在世正像と末法の弘通方規は異なる、③正像に弘通された経教、④末法日本の逆謗に下種すべき要法と上行自覚、⑤聖教の蒐集を求む。
 大科④〈末法日本の逆謗に下種すべき要法と上行自覚〉は前半と後半に分けられる。前半では地涌の菩薩が末法衆生を利益する文証に涌出品の経文と、『法華文句』涌出品、『法華文句記』涌出品、『文句輔正記』信解品の各文を引いてこう結ぶ。
  「天台の云わく、なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し云云。恵日大聖尊、仏眼をもって兼ねてこれを鑑みたまふ。故に諸の大聖を捨棄し、この四聖を召し出だして、要法を伝へ、末法の弘通を定むるなり。」(『定遺』904頁) 
 すでに大科②〈在世正像と末法の弘通方規は異なる〉で、釈尊在世の諸衆は「三五下種の輩」であると述べ終えたから、ここでは『法華玄義』第六の「なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し」の文のみを引き、上行等の四大菩薩に要法が付属され、末法の大導師と定められたことを明記したのである。これは『法華取要抄』で成功しなかった副目的を新たに主目的にした引用といえよう。
 末法の大導師の自覚は後半の最後にこう示される。
  「予、つらつら事の情を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍して、仏、上行菩薩出現の時を兼ねてこれを記したまふ故に、粗これを喩すか。しかるに予、地涌の一分に非ざれども、兼ねてこの事を知る。故に地涌の大士に前立ちて粗五字を示す。」(『定遺』910頁)
 こうして、前半最後に上行等の四大菩薩が末法の大導師と定められたことを述べ、後半最後に上行自覚を「地涌の大士に前立ちて粗五字を示す」という表現で示して、叙述がスムーズに行われている。この時すでに確固たる上行自覚があったことは、三ヶ月前の文永十一年十二月に図顕された通称万年救護本尊の讃文に、「此大本尊(中略)後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」(この大本尊は……後五百歳の時、上行菩薩が世に出現して始めてこれを弘宣す)とあり明白である。

(三)『注法華経』神力品に記入される法華玄義第六の文
 神力品の初頭にこう説かれている。
  「世尊、我等は仏の滅後に、世尊と分身所在の国土、滅度の処において、当に広くこの経を説くべし。所以は何ん。我等もまた自らこの真浄の大法を得て、受持読誦し、解説書写して、これを供養せんと欲す。」(『開結』577頁) 
 これは上行等の地涌の菩薩が仏滅後における唱導の決意を述べ、唱導を委託されんことを申し出たもので、『注法華経』ではこの裏に『法華玄義』第六の文が次のように記入してある。
   
   【図版は無断転載禁止です】
  「玄六に云わく、一は熟他のため、二には自熟のため、三には本縁のためなり。○二に自成のために来るとは、法身の菩薩は道を進むこと定まりなし。あるいは生身に従って道を進め、あるいは法身に従って道を進む。故に下の踊出の菩薩の云わく、我もまた自らこの真浄の大法を得んと欲すと。分別功徳品の中に増道損生を明かすは即ちその義なり。三に本縁のために牽かれるとは、もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退地に住せり。仏はなお自ら分段に入りて仏事を施作す。有縁の者、何ぞ来たらざることを得ん。なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是の如し。」(第7巻212番) 
 法身の菩薩が此土に応生する理由の内、〔自ら成熟するために来る〕〔本縁のために牽かれる〕の二つを具さに記していて、この記入から、地涌の菩薩は過去の因縁により釈尊在世に応生して末法の弘通を委託されることを望み、自ら修行し成熟するために末法に応現すると、日蓮が考えていたことが窺える。
 この記入は『曾谷入道殿許御書』の引文目的に合致しているから、両者の間に因果関係が認められよう。〈菅原〉
 
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 『曾谷入道殿許御書』に「例せば法身の大士に非ざれば三悪道に入らざるが如し。大苦忍び難きが故なり」(定遺903)とある。この法身の大士の行位について述べたい。

(一)法身の大士=上行等の地涌の菩薩
 『曾谷入道殿許御書』は大科五段の構成で、その大科④〈末法日本の逆謗に下種すべき要法と上行自覚〉の前半では、上記の文の後、次のように結論している。
  「これらの大菩薩、末法の衆生を利益したまふこと、なお魚の水に練れ、鳥の天に自在なるが如し。濁悪の衆生、この大士に遇ひて仏種を殖うること、例せば水精の月に向かひて水を生じ、孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し。天台の云わく、なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し云云。恵日大聖尊、仏眼をもって兼ねてこれを鑑みたまふ。故に諸の大聖を捨棄し、この四聖を召し出だして、要法を伝へ、末法の弘通を定むるなり」(定遺904)
 上行等の四大菩薩はよく苦難を忍び、巧に末法衆生を利益するから、釈尊は本門八品の会座に涌出させて末法下種の大導師に定めたというのである。この一連の文脈では法身の大士=上行等の地涌の菩薩として話を展開している。

(二)天台教学における法身の大士の行位
 法身の大士は一分の中道を証した菩薩のことで、天台教学では円教の初住以上とするのが基本である。しかしそれは建前であって、次に示すように、それ以下の行位に解釈することもできる。そもそも中道の証得とは、法華教学の煩悩即菩提、生死即涅槃、三道即三徳を証することで、三道即三徳を秘密蔵ともいう。『法華玄義』第五にこうある。
  「円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知れば即ち作仏と喚ぶ。初心なお然り。何に況んや後位をや云云」(仏教大系法華玄義3-539)
 天台智顗は通常、秘密蔵を知る位を観行即とするから、これは観行即にて三道即三徳の秘密蔵を知って作仏するという観行即成仏を提示している。さらに妙楽湛然は『玄義釈籤』第五に、
  「円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく。故に憑寄という。(中略)未だ品位に入らざれば、他を益すること能わざるを、爵は未だ高からずと名づく」(同3-538)
と扶釈した。「名字仏」「未だ品位に入らざれば」とあるように、観行即五品位に入らない名字即における成仏を提示したのである。これにより、一分の中道を証する行位も自ずと名字即に下げられたことになる。日蓮はこの『法華玄義』と『玄義釈籤』の文を『注法華経』開経七〇番七一番【図版1】に記入している。

 
  図版1 右線部が『法華玄義』左線部が『玄義釈籤』の当該文
  【図版は無断転載禁止です】

(三)末法応現の上行菩薩は名字即
 日蓮はこうした天台教学を熟知していたから(『日蓮仏教研究』10号拙稿「『日蓮遺文』における当位即妙・不改本位について」213頁参照)、法身の大士=地涌の菩薩は名字即の菩薩として末法に応現すると考えていただろうし、名字即の日蓮が上行を自覚することは許されると考えていただろう。
 これを不軽菩薩の行の紹継という面から説明するとこうなる。周知のとおり、日蓮は『聖人知三世事』に「日蓮はこれ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(定遺843)として不軽の行を紹継したが、『顕仏未来記』では、
  「かの二十四字とこの五字と、その語はことなりといえども、その意これ同じ。かの像法の末と、この末法の初めは全く同じ。かの不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり」(定遺740)
と、初随喜の不軽菩薩と名字即の日蓮を同じ行位とした。この初随喜は観行即初品の位ではなく、『注法華経』三巻一八五番に「道暹の六即義に云わく、名字の位を法華は初随喜と名づく」【図版2】とあるように名字即のことである。

 
図版2 道暹『六即義』の逸文
  【図版は無断転載禁止です】

 道暹の『六即義』は不現存のため、これは貴重な逸文である。そして行満の『六即義』にも「名字即とは(中略)法華は名づけて初随喜の人となす」(続蔵100-805上)とあって、湛然の弟子の二人が揃って、名字即の初随喜に言及していることは注目できよう。(『興風』28号拙稿「日蓮の名字即成仏論の探究」388頁参照)
 末法で不軽の行を行う日蓮自身に引き寄せて解釈すれば、末法に応現する法身の大士は名字即となり、日蓮の自覚する末法応現の上行菩薩も名字即ということになろう。
 こうしてみると、法身の大士を必ずしも初住以上と考える必要はない。私は日蓮の名字即の行位と、法身の大士(上行等の地涌の菩薩)の行位は矛盾なく結び付くと考えるのである。前回と今回の内容は『興風』33号の拙稿「『法華取要抄』と『曾谷入道殿許御書』の比較考察」に指摘したので参照願いたい。〈菅原〉
 
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『真言宗私見聞』は、日健本録外を初出とし、刊本録外に収録された録外遺文である。『定遺』は「続二五」に偽撰遺文として収録する。
 本書の内容は真言対破に関するもので、15の項目により構成されている。それは、
  第一 教主同異事、第二 諸仏同道事、第三 真言説処事、第四 一仏他仏事、第五 教主勝劣事、第六 顕密勝劣事、第七 祈祷事、第八 即身成仏事、第九 方等部事、第十 真言亡国事、第十一 謗法事、第十二 背自宗経師事、第十三 貴人背法事、第十四 理同事勝事、第十 五弘法事
などである。
 本書は、現在まで『金綱集』「真言宗見聞」(日王丸本)との対照で、その内容的関連が指摘されてきた(『日蓮聖人遺文辞典(歴史篇)』(585頁)及び、中條暁秀氏『日蓮宗上代教学の研究』〈平楽寺書店刊・平成8年11月〉266頁以下参照)。中條氏は『真言宗私見聞』と『金綱集』日王丸本の文章表記を上下段に配し、両書の密接な関係を論述している。また『昭和定本 日蓮聖人遺文』(以降『定遺』と略称)続二五『真言宗私見聞』では、日王丸本との文章の異同(『定遺』のページ数)を脚注に示している。これらは、『真言宗私見聞』と日王丸本が密接な関係にあることを裏付けるものだが、反対に両書の異同部分に目を向けると、それなりに分量が多く、また新たな視点を与えてくれる。
 『金綱集』「真言宗見聞」には、日王丸本の他に藻原本(茂原市藻原寺蔵)と未詳本(身延文庫蔵)がある(3本の内容や書誌については拙稿「『金綱集』に関する基礎的考察」参照。『日蓮仏教研究』第12号所収)。この両本と『真言宗私見聞』との内容的な関係はどうであろうか。藻原本は未詳本の抄録なので、未詳本と『真言宗私見聞』との文章表記を対照し、その関係を検討してみよう。

 結論を先にいえば、『真言宗私見聞』の『金綱集』「真言見聞」の第四、第六、第八、第九、第十一、第十四、第十五等の7項目は、殆んどが未詳本の引文といっても過言ではない。現在まで『真言宗私見聞』は『金綱集』日王丸本との対照で、その内容的関連が指摘されてきたが、未詳本との対照はそれにも増して重要だったのである。
 その点について具体的に説明すれば、まず「第四 一仏他仏事」(『定遺』2073~77頁)の本文は、未詳本(61ウ~66ウ)の抄録で、全体がほぼ同文である。
 『定遺』は脚注に日王丸本との異同を示して、「❺〔世無二仏…云はば〕114字−金」(『定遺』2075頁)と注記している。これは『真言宗私見聞』の、
  世無二仏ノ経論少少可引キ申。涅槃経ノ三十五ニ云ク、我於処処ノ経ノ中説テ言ク、一人出世スレハ多人利益ス。一国土ノ中ニ二転輪王 一世界ノ中ニ二仏出世スレハ 無有是処。地持論ニ云ク、無有一世界二仏倶ニ出。記ノ一ニ云ク、世ニ無二仏国ニ無二主。一仏ノ境界無二ノ尊号。経論釈義ノ明文道理如此ノ。若破道理横様ニ名別出世の仏ありと云はば(『定遺』2057頁)
との114字が日王丸本に無しという意味であるが、当該文はじつは未詳本(64ウ~65オ)より抄録したものである。
 同様に「❽〔又劫は……無之〕36字−金」(『定遺』2075頁)、「❼〔其故……奪義以如此〕203字−金」(『定遺』2076頁)、「❶〔無成道始……非仏説也〕56字−金」(『定遺』2077頁)等は日王丸本に無いが、未詳本にほぼ同文がある。すなわち『真言宗私見聞』は日王丸本ではなく、未詳本を用いて述作されている。
 次に「第六 顕密勝劣事」(『定遺』2078頁~80頁)は未詳本(56オ~58ウ)より引文する。全体が未詳本とほぼ同文で、日王丸本にない長文が含まれている。例えば、
  問テ云ク 今汝カ所云フ東寺の海公が所立ル也。非天台真言ノ義。但シ顕密相対シテ立勝劣事 未得其意。所謂顕密ノ語ハ互ニ有得失。……密の言ハ千万無量なりと云フとも曲会私情ノ非義 荘厳己義ノ邪説也。私ニ法華経ヲ名顕教如来軽背ノ謗法也。法華ノ云秘密証拠 論釈ノ義不遑広ク述。粗是ヲ可出ス。……安楽行品ニ云ク 文殊師利 此法華経ハ諸仏如来ノ秘密之蔵ニシテ、於諸経ノ中最モ在其上。寿量品ニ云ク、如来秘密神通之力。神力品ニ云ク、如来ノ一切ノ秘要之蔵。(『定遺』2079頁)
との一文は、もともと日王丸本にはなく、未詳本(56ウ~57ウ)からの引文である。
 また「第八 即身成仏事」(『定遺』2082頁2行目~)は未詳本(49ウ~52ウ)より引文。全体ほぼ同文である。『定遺』脚注は「❻〔然るに……堕獄ノ基哉〕62字−金」とするが、未詳本にはある。
 「第九 方等部事」(『定遺』2084頁~86頁)は未詳本(54オ~56オ)を引文。全体ほぼ同文である。『定遺』脚注は「❺〔他云大唐広修……難極〕178字−金」とするが、この長文も未詳本にある。
 「第 十一謗法事」(『定遺』2087頁~89頁)は未詳本(18ウ~21オ)を引文する。当項は全体が『法華真言勝劣事』であり、それは日王丸本にも収録されるが、冒頭の部分が未詳本と日王丸本では相違する。日王丸本(『宗全』13・238頁)には、
  東寺弘法空海ノ所立ニ云ク、法華経ハ尚劣華厳経。何況於大日経等乎。慈覚大師円仁、智証大師円珍、安然和尚等ノ云、理同大日経於印真言ノ事者是尚劣也〈其所釈余処出之〉。空海依大日経・菩提心論等立十住心判顕密勝劣。
とあり、未詳本(18ウ)には、
  東寺ノ弘法立十住心摂一代。是依大日経第一巻十住心品并ニ竜猛菩薩ノ菩提心論。其中従第一至第五者、凡夫・悪人・善人・外道・声聞・縁覚、小乗ナレハ置之。
とある。未詳本のそれは、日進が日王丸本を再治した時に改変したものであろう。『法華真言勝劣事』は種々の理由で偽撰遺文と推定されるが、両本の冒頭部分の相違も、真偽を考える際に興味深い視点となろう。なお『真言宗私見聞』の記述は未詳本に依っている。
 「第十四 理同事勝事」(『定遺』2090頁~92頁)は未詳本(58ウ~60オ)を引文する。全体がほぼ同文である。『定遺』脚注は、『真言私宗見聞』と日王丸本の異同を詳しく載せるが、その内容に当たれば『真言宗私見聞』の記述が未詳本に依ったことを示している。
 「第十五 弘法事」(『定遺』2092頁~93頁)は未詳本(88オ・ウ)を引文する。全体ほぼ同文。日王丸本は当項目そのものがなく、本文はむろん不載である。

 以上、『定遺』の脚注を示しつつ、『真言宗私見聞』の多くが未詳本の引文で構成されていることを説明した。なお脚注の細かな異同は、まだ数多くあるが煩雑になるので省略した。ともあれ『真言宗私見聞』は未詳本への依存度がすこぶる高く、内容的にもあまり工夫が見られないようである。
 また『真言宗私見聞』は偽撰遺文とされるが、本来は日蓮に仮託したものではなく、日蓮門下が真言対破のために編集した門下撰述とみなされよう。それは「第一 教主同異事」に、
  師ノ云ク、粗四方四仏五仏ノ事ノ引証如此ノ。仏説ノ経文ニ中央ハ釈迦と説く。北方ヲ釈迦と云へる事ハ限礼懺計。人師弘法ノ浮言不足信用。(『定遺』2071頁) 
とあり、また「第四 一仏他仏事」の冒頭に
  師ノ云ク、抑モ密宗ノ大日法身ハ中央ノ如来也。釈迦応身ハ辺土ノ教主也等云云。此事大ニ不審也……。(『定遺』2073頁)
とあり、さらに「第十四 理同事勝事」にも
  仰セニ云ク、抑モ唐朝ノ善無畏・金剛智等カ法華・大日ノ両経ニ作理同事勝ノ釈事ハ 梵・華両国倶ニ勝劣ナル歟如何……。(『定遺』2090頁)
等とあることが証左となろう。この三文は、それぞれ未詳本(89オ、62オ、58ウ)にあるもので、そこには当然ながら「師ノ云ク」「仰セニ云ク」等は書かれていない。これは『真言宗私見聞』の作者が付したもので、未詳本の本文を、作者は師の仰せと認識していたのである。偽撰遺文とすれば、日蓮が「師ノ云ク」「仰セニ云ク」と書いたことになり、じつに不都合で説明がつかない。 
 未詳本・は日進の再治であれば、『真言宗私見聞』の作者はおそらく日進門弟の誰かとなろうか。付弟の日善もその候補の一人といえるだろうか。(池田)
 
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 今回は七七『真言天台勝劣事』について述べてみたい。本書は録内御書に収録されるが、私見ではその内容から偽撰であろうと推察する。一方で、身延文庫には宝聚日伝(身延久遠寺13世)筆写の『真言宗見聞』が伝来し、その内容が『真言天台勝劣事』と少なからず関連する。本書は真言破に関わる身延門流上代の法門書で、私見では日進の述作ではないかと考えている。
 以下、『真言天台勝劣事』と『真言宗見聞』について、内容的に重なる部分を幾つか検討してみたい。『真言天台勝劣事』の引文末尾には『定遺』の頁数、『真言宗見聞』のそれには原本の丁数を記した。

 はじめに、安然『教時義』の「五失」について、『真言天台勝劣事』は次のように述べる。
  弘法大師の立十住心法華は三重劣ルと云フ事は、安然の教時義と云フ文に十住心の立様を破して云ク 五の失有り。謂ク一ニハ者 大日経の義釈に違する失。二ニハ者 金剛頂経に違する失。三ニハ者 守護経に違する失。四ニハ者 菩提心論に違する失。五ニハ者 衆師に違する失也。此五ツの失を陳ずる事無クしてつまり給へり。然ル間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが大なる僻事也。(『定遺』478頁)
 この一文は、真言義が「弘法大師ハ立十住心法華ハ自真言三重ノ劣」とするのに対し、安然『教時義』の「五失」を引いて破折したものである。
 これは『真言宗見聞』にも、「法華経ハ望大日経三重ノ劣也。何者秘蔵宝鑰・十住心論開之、第八法華経、第十大日経等」(50ウ)とする真言義に対して、
  一、違大日経及義釈失  二、違金剛頂経失
教時義二云 五失 三、違守護経之説失 四、違菩提心論之失
        五、違衆師之説失
今真言宗ノ此十住心ノ次第ノ用否。答、有五失故ニ不用十心ノ次第。其五失云何。(52オ)
と『教時義』を引用し破折した構図と同じである。さらに『真言宗見聞』では、「五失」の詳細を長文にわたり引文している。
 なお日蓮の真撰遺文で、安然『教時義』の「五失」をもって真言・弘法を破折した例はない。翻って、前回の御書コラムで門下の述作と結論した『真言宗私見聞』「第十二 背自宗経師事」(『定遺』2089頁)に「五失」を引文する例がある。これらは、おそらく日蓮滅後に展開された真言対破の一つと考えられようか。
 次いで『真言天台勝劣事』には、日蓮義として、大日如来と釈迦牟尼仏の関係を次のように述べている。
  大日経は釈迦の大日となて説キ給へる経也。故に金光明最勝王ノ経第一には中央釈迦牟尼と云へり。又金剛頂経ノ第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云フべし、大日の説とも云フべし。又毘盧遮那と云フは天竺の語、大日と云フは此土の語也。釈迦牟尼ヲ名二ク毘盧遮那一トと云フ時は大日は釈迦の異名也。(『定遺』479頁)
 この一文は、大日と釈迦を別仏とする真言義に対し、「大日は釈迦の異名」で一仏と主張するもの。
 大日経の中央・大日如来に対し、釈迦如来を中央とする金光明経や金剛頂経をあげ、普賢経の「釈迦牟尼ヲ名毘盧遮那」を文証とし、「大日と釈迦とは一つ中央の仏」と論じている。しかし、日蓮の真撰遺文には釈迦と大日を一体・一仏とする所説や文言は見られない。
 しかるに『真言宗見聞』では、『真言天台勝劣事』と同様に
  一、釈迦ヒルサナ異名一体ノ経々事 金剛頂経大日経ノ文ハ前ニ如出スカ。普賢経云、釈迦牟尼仏名ヒルサ那遍一切処。其仏住処名常寂光。(10ウ)
とあり、以下に大日経・華厳経・像法決疑経・文句・守護国界経・大日経指帰・金剛頂経・蘇悉地経・大日経義釈等の経論を引いて、釈迦と大日が一体・一仏である文証とする。
 また同(19オ)には「真言三部ノ経ニモ釈迦大日一仏ト見タリ」とあり、同(49オ)には「答云、ヒルサ那是釈迦ノ異名也。人師等迷此異名奪テ取中尊ノ位定北方ノ脇士既ニ下尅上ノ宗也。」等とある。
 いずれも『真言天台勝劣事』の内容と同轍であるが、日蓮在世には見られない論義である。因みに門下述作の『真言宗私見聞』には、
  普賢経ニ云ク 釈迦牟尼仏ヲハ名毘盧遮那遍一切処其仏ノ住処ヲハ名常寂光。此等ノ経文ハ釈迦・大日一体ト云フ証拠也 如何。……自ノ云ク従顕教云フトキハ釈迦・大日一体ト被説カ。又於密教釈迦・大日一体ト云フ証拠可出之ヲ。……大日経ノ五ニ云ク 中央毘盧遮那如来……金剛頂経ノ一ニ云ク 中央釈迦牟尼如来(『定遺』2071頁) 
と記されている。これら釈迦と大日を一体・一仏とする所説も、日蓮滅後の真言対破における方策の一つといえるであろう。
次に『真言天台勝劣事』には、
  彼経説の五味を天台は盗取て立己カ宗云ふ無実を被云付弘法大師の大なる僻事也。所以に天台は依涅槃経立給へり。全く六波羅蜜経には不依ラ。況ンヤ天台死去の後百九十年あて貞元四年に渡レる経也。何として天台は見給べき。(『定遺』481頁) 
との一文がある。これは、六波羅密経に説かれる「醍醐味」を天台が盗んだとする真言義を破折したもの。これと同様に、『真言宗見聞』には、
  真言宗云、天台大師ハ六ハラ密経ノ醍醐ヲ盗テ我家ノ醍醐ト成スト。是則逆サマ事也。天台ノ立玉ヘル醍醐遥ニ前キ也。真言ノ醍醐ハ後也。……天台隋ノ開皇十七年十一月二十四日未時御円寂也。六ハラ密経ハ唐ノ徳宗ノ御宇貞元四年戌辰至テ将来ス。然隋開皇十七年ヨリ至貞元四年中間既ニ百九十二年也。何未渡経文ヲ盗ミ玉フヘキ耶。(46オ)
と記されている。この記述は、『真言宗見聞』が『金綱集』「真言宗見聞」の未詳本を引文したものだが、日王丸本でも当該箇所を「何ソ天台入滅百九十二年ノ後ニ渡レル六波羅密経之醍醐ヲ可盗給乎」と結んでいる。
 六波羅密経の「醍醐味」に関する記述は、『撰時抄』『曽谷入道殿許御書』にも見えるが、「貞元四年」「百九十年」等の年号や年数には少しも触れられていない。
 すなわち、『真言天台勝劣事』における「天台死去の後百九十年あて貞元四年に渡レる経也。何として天台は見給べき」との一文と、『真言宗見聞』の「至貞元四年中間既ニ百九十二年也。何未渡経文ヲ盗ミ玉フヘキ耶」、日王丸本の「何ソ天台入滅百九十二年ノ後ニ渡レル六波羅密経之醍醐ヲ可盗給乎」との間には、密接な関連があるといえよう。これらの年号・年数や言い回しは、真言対破をより具体的に示すため日蓮滅後に後付けされたものであろう。
 次に『真言天台勝劣事』には、
  凡ソ印相・尊形は是権経の説にして非実教ノ談。設ヒ説之権実大小の差別浅深有ルべし。所以に阿含経等にも印相有ルが故に、……法華は只三世十方の仏の本意を説て、其形がとある、かうあるとは不可云フ。例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣ルとは不可云フ如し。(『定遺』482頁) 
との一文がある。これは、印真言が法華経にないと論難する真言義に対し、印相は権経の説で阿含経にも世界建立の相がある。それを法華経が説かずとも小乗経に劣ることはない、と論じたものである。逆にいえば、世界建立の相を説かない大日経は小乗経に劣るのか、と反詰したわけである。
 これに呼応するかのように『真言宗見聞』には、
  事勝ト申ハ印真言ハ法華ニ無之。大日経ニ有之。道理必然也。其経ニ無キ事ヲ説タラン経ハ勝ヘキ歟。其故ハ大日経ニ無キ世界建立ノ様在之。(26オ) 
と述べた一文がある。事勝というのは法華経に印真言が無く、大日経にあることで、真言勝の道理は必然である。ここまでは真言側の主張で、以下は法華側の反論である。事相の有無によって経の勝劣がつくのであれば、世界建立の相を説かない大日経はそれを説く小乗経に劣るのか等と反詰している。
 印真言を破折するために、小乗経の「世界建立」を持ち出すことは真撰遺文に全く見られない。これも恐らくは門下による後付けの論義であろう。偽撰遺文と推定される三六『法華真言勝劣事』にも、
  法華経ニハ無印真言 大日経ニハ印真言有之云云。付印契真言之有無定二経之勝劣 大日経ニ有印真言法華経ニ無之故ニ劣ルト云ハヽ者 阿含経ニハ世界建立・賢聖ノ地位 是分明也。大日経ニハ無之。若爾ラハ者大日経ハ自阿含経劣ル歟。(『定遺』306頁) 
とあり、同様の記述が示されている。
  因みに、『金綱集』「浄土宗見聞・下」には、
  何事モ虚事ト得意ハ、世間ノ性相・世界建立等モ皆虚妄歟。……答、世界建立等ノ事ハ勿論爾前小乗ノ教也。(『宗全』13巻160頁) 
と記されている。これは真言対破に関するものではないが、『金綱集』にある「世界建立」の用例として掲げておく。
 今後さらに、『真言宗見聞』及び七七『真言天台勝劣事』、続二五『真言宗私見聞』、三六『法華真言勝劣事』等の関連性について、じっくり検討を加えていきたい。(池田)
 
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一、書誌
 『和漢王代記』は静岡県富士宮市西山に所在する西山本門寺に真蹟が所蔵される。全十七紙であるが、末紙に他筆で「本聞(門)寺重寶也 カミ十八マイ」とあり本来十八紙であったようである。事実第十五紙と第十六紙は文章が繋がっておらず、その間に欠失があることがわかる。右識語からするとその欠失は一紙であるから、第十六紙が欠失したということになる。
 寸法は寺尾英智氏『日蓮自筆資料の原本の形状に関する基礎的研究』(25頁)によれば、各紙ばらつきはあるが、タテはおよそ34㎝から34・5㎝、ヨコは51・9㎝から53・4㎝である。日蓮が通常使用する料紙は、およそタテ30㎝前後、ヨコ45㎝前後であるから、かなり大きい紙が使用されている。
 他筆にて所々に書き込みや文字の訂正、本文への補筆が見られ、また全般にわたり恐らく同人が付したと思われる片仮名のルビや送り仮名、また返り点が見られる。

二、『善議等謝差勅使表等要文』との関連
       
  『善議等謝差勅使表等要文』
(『真蹟集成』5巻263頁)
  『和漢王代記』第十五紙
(『真蹟集成』3巻301頁) 
 
  【図版は無断転載禁止です】 
 さて右述の欠失部分について『日蓮大聖人御真蹟対照録』(上巻620頁下注・以下『対照録』)では、「闕失は或は第16紙のみに留まらざる歟。№487善議等謝差勅使表等要文(6行断片)の如き或は本書の一部ならん歟」との重要な指摘がなされている。
 すなわち京都府本満寺に所蔵される『善議等謝差勅使表等要文』(『日蓮聖人真蹟集成』5巻263頁・以下『真蹟集成』)が、欠失部分の一部ではないかとしているのであるが、たしかに上掲写真を較べると、字体や、他筆の片仮名のルビや送り仮名が酷似しており、そしてなによりその寸法がタテ34・8㎝(『真蹟集成』5巻363頁参照)とほぼ同じであることが、右推測を一層確たるものとしている。
 当然その内容も、第十五紙では伝教と南都六宗との宗論にて南都側が屈し、六宗十四人が桓武天皇に謝表を呈した旨が記されており、しっかりと対応している。
 ただし「闕失は或は第16紙のみに留まらざる歟。」とし、欠失を一紙以上と見ていることについては一考の余地がある。
 『対照録』は謝表の前半部分や、謝表の後に「普賢経記云」とあってその引文もあったと想定されることから、一紙では収まらないと判断し右のようなコメントとなったものと思われる。しかし謝表の前欠部分は、たとえば『撰時抄』で引文される謝表の文(『昭和定本日蓮聖人遺文』1028頁・以下『定遺』)で換算すると、それは五行ほどであったと思われ、末行の「普賢経記云」以下に引文されていた文章がそう長いものではなかったと想定すれば、一紙に収まらないこともない。ここは前掲の本書末尾に付された識語「カミ十八マイ」との情報を尊重し、欠失は第十六紙一紙と見るのが妥当ではあるまいか。

三、『和漢王代記』の内容
 本書は中国と日本の王の歴世を列挙し、各時代の仏教の伝播の様相を図表的に示したものである。まず中国の三皇五帝からはじまり、順次周の第四昭王の時代に釈尊が誕生し、第五代穆王の時入滅したこと、後漢第二光武の時代に仏教が渡り、魏代には『双観経』、晋代に『法華経』『阿弥陀経』『華厳経』および三論宗が、宋代に『観経』が渡り、斉代には『涅槃経』が渡りかつ南三北七の十師および浄土宗が立ち、梁代に『摂論』『地論』が渡りまた禅宗が起こり、陳代・隋代に南岳・天台が出世して、五時八教を立てて南三北七等を破して法華宗を建立し、唐代には新来の華厳および真言宗・法相宗が渡り妙楽がこれを破折し、日本では伝教・慈覚・智証がこの二宗と諍論したこと、などが図表によって示されている。
 なお智証『授決集』の法相宗・真言宗等を初めとする諸経を批判する文が、四度にわたり肯定引文されていることが注目される。
 ついで日本の王代記に移り、まず天神七代・地神五代の神代十二代が示され、ついで人王第一神武天皇以降第五十三代淳和天皇までが図表によって示される。
 仏教に関する事項としては第十四代仲哀天皇・第十五代神功皇后は八幡大菩薩たる第十六代応神天皇の父母であること、第三十代欽明天皇の時仏教が百済国より渡り、第三十二代有明天皇の子聖徳太子は南岳大師の後身・観音の垂迹といわれたこと、第四十五代聖武天皇の代に南都に六宗が建立され、第五十代桓武天皇の代に伝教大師が出世し、南都六宗を破折して比叡山に天台法華宗を建立、第五十二代嵯峨天皇の代に叡山に戒壇が建立されたこと、等が示されている。第五十三代淳和天皇は名前のみが記され、以降一紙が欠しているが、そこには前述の南都六宗の謝表、智証の『普賢経記』が引文されていたと思われる。最後に破折のために『選択集』『往生要集』が引文され、『守護国界章』の法華一乗が末法に弘通されるとの文を引いて本書は終っている。

四、系年について
 本書には執筆の日付は見られない。『定遺』(2343頁下注)は稲田海素『日蓮宗年表』により建治二年、『真蹟集成』も建治二年に系け、『昭和新定日蓮大聖人御書』(2418頁下注。以下『新定』)は「未詳、或建治二年」とし、『対照録』は文永七年に系ける。
 では以下に本書の系年について、まずその内容から考察し、次にそれを踏まえた上で形態や伝来にも目を配りながら推測していきたい。
(一)内容から
 まず注目されるのは、本書では真言宗批判が指向されている点である。日蓮の明確な真言批判は文永六・七年頃からであるから(拙著『日蓮の諸宗批判』57頁以下参照)、それ以降であることがわかる。かつその批判にあたり、智証の『授決集』が四度肯定引文され、かつ日本での真言批判者として、「又日本国の伝教・慈覚・智証之れを諍ふ。」(『定遺』2347頁)と伝教・慈覚・智証をあげており、いまだ慈覚・智証の台密批判を開始する以前であることがわかる。
 台密批判の嚆矢は『法華取要抄』の草案『取要抄』で、その成立は文永十一年二月五日以降、佐渡赦免の三月八日以前頃と推測されている。そこには「慈覚等本師実義を忘れ唐師権宗の人に付順する也。智證大師は少しく伝教大師に似たり。」とあり、まず慈覚のみが批判されている(拙著160頁)。よってそれ以前ということになる。
 そうとすれば『定遺』『新定』『真蹟集成』等の建治二年説は不可ということになる。では『対照録』の文永七年説はどうか。右真言破折の状況からすればその範囲であるから、一応妥当な系年といえよう。しかし本書の形態や伝来を考慮すると、もう少し後の佐渡期の成立が見えてくる。

(二)本書の形態と伝来
 本書は真言をはじめとする諸宗批判の意をもって作成されているが、その形態は書状でも論文でも要文集でもない、ある種独特なものである。ではどういう目的で作成されたのであろうか。
 ヒントとなるのは、同じく西山本門寺に所蔵される『浄土九品之事』である。同書は浄土教批判を目的として作成されているが、図表を駆使し各種要文を諸所に配すその形態が本書とよく似ている。そして注目されるのが、同書の寸法がタテが38㎝から38・9㎝(前掲寺尾稿26頁)と、本書以上に大きく仕立てられていることである。
 思うにこれらは、門下に法義を指導教授するための、教材として作成されたのではなかろうか。かなり大きめに作成されているのは、それを複数の門下に指し示しながら教えるためであったと思われるのである。
 ではこれらはいつどこで作成されたのであろうか。『浄土九品之事』の系年はこれまで、『定遺』は稲田海素『日蓮宗年表』の説により文永六年とし、『新定』がそれを踏襲し、『対照録』は文永八年とし、『日蓮聖人遺文辞典』(歴史篇)は、同書を「浄土教徒との対決を意図しての筆録」と見、文永九年正月に系けられる『法華浄土問答抄』と関連ありとしている。
 しかるに近時石附敏幸氏は「日蓮の浄土教批判の再検討」(『興風』31等385頁)において、同書に「一弟子善恵小坂 故嵯峨法皇御師」(『定遺』2309頁)とあることに注目し、「故嵯峨法皇」とあるのは、善恵房証空を師としているとの記述から「故後嵯峨法皇」の誤記であり、後嵯峨法皇の崩御は文永九年二月であるから、成立はそれ以降であるとの見解を示している。重要な指摘であり、『浄土九品之事』は少なくとも文永九年二月以降の成立であることが判明した。そうとすれば以下に示すその伝来も含め、姉妹編と思われる本書もおよそそれ以降と考えてよいであろう。
 さて次に『和漢王代記』と『浄土九品之事』が西山本門寺に伝来所蔵されることに注目したい。すなわち両書は日蓮→日興→日代と伝来していることから、日興が日蓮より授与されたものと想定されるのである。
 そのことを念頭に置き、両書成立の範囲、すなわち『浄土九品之事』が文永九年以降、『和漢王代記』が台密批判の始まる文永十一年二・三月以前であることを勘案すれば、両書の成立は佐渡期に限定されるのであり、そうとすればこの両教科書は、日蓮の佐渡流罪に随行し生活を共にした、日興をはじめとする弟子のために作成され、そしてそれ等は使用された後(繰り返し講義は行われたであろうが)、日興に与えられたと推測されるのである。
 さてでは佐渡期のいつ頃を想定すべきか。その後期、文永十年四月の『観心本尊抄』では台当本迹違目が提示され、十一年二・三月頃には台密批判がなされるのであるが、それよりも、前期文永九年二月の『開目抄』が、『授決集』を肯定引文し、かつ「今真言の愚者等、印真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝れたりとをほせられぬれば、なんどをもえるはいうにかいなき事なり。」(『定遺』585頁)と、真言師の慈覚批判に対し、それを「とるにたりぬこと」と庇っていることが、先に示した『和漢王代記』の内容に近似しているように思われる。
 よって今は本書成立を佐渡前期の文永九年頃と推定しておきたい。(山上)