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2023年
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 法華経の読誦や聞法による功徳譚は、本邦においても代表的な『法華験記』をはじめとして、様々に語られてきた。南条時光宛の日蓮書状にみえる、大橋太郎の物語もその一類と位置づけられ、日蓮がこうした譚を説話として用いたり、あまねく功徳を唱題に集約し説示していたことは周知のとおりである。
 いったい今日にいたるまで、どれほどの人びとが法華経の題目を唱えてきたのかは、知るよしもないが、先年、ひょんなことから嵯峨家(旧公爵家)と愛新覚羅家(大清帝国・満州国皇族)の婚姻により、唱題行が大陸へ渡ったという物語のあったことを知った。
 これまで近現代に法華信仰をたもった人びとについては、山上ゝ泉氏らによって綴られてきたけれども、表題の件について触れた論著を私は知らない。またこのコラムに相応しい内容かどうかも分からないが、これも題目信仰の一齣であることは確かなので、忘れぬうちに、書きとめておくこととする。

 宣統帝こと愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ1906~1967)は、中国王朝(清朝)最後の皇帝として、また日帝の建国した満州国の皇帝として著名である。1987年度、アカデミー賞9部門を独占した映画『ラストエンペラー』(むろん創作もあるが)によって、その波乱にとんだ生涯は、多くの人々の知るところとなった。
 溥儀には年子の弟がいた。愛新覚羅溥傑(あいしんかくら・ふけつ1907~1994)である。溥傑は日本の皇族とつながりのある公爵嵯峨家の長女、嵯峨浩(さが・ひろ1914~1987)と政略結婚をした。この浩こそが唱題を勧進した人と推断される。

 
  清朝皇統・嵯峨家略系図
   【図版は無断転載

禁止です】

 溥傑の実兄である溥儀は、清王朝滅亡後、満州国の皇帝となったが、溥儀には子がなかったため、日帝の関東軍は皇弟の溥傑に男子が生まれた場合、これを次期皇帝とする「帝位継承法」を立法させた。のちに浩はこういっている。
  「弟の妃に日本人を貰うことになった皇帝にしてみれば、心中穏やかであるはずはありません。私たちの間に男児が生まれれば、帝位はやがて日本人の血を引く甥にいくことになります。皇帝が私を関東軍の手先と警戒したのは当然すぎることだったかもしれません」(中公文庫版『流転の王妃の昭和史』78頁) 
 しかし溥傑と浩は、二人の女子(慧生=えいせい・嫮生=こせい)をもうけたものの、男子は生まれなかった。しかも日本国の敗戦により満州国も崩壊。溥傑は皇帝の溥儀とともに日本への亡命を試みるも、ソ連軍に捕縛され、やがて身柄は中国の「撫順戦犯管理所」へと移送された。浩と娘達は何とか日本へたどり着いたが、収監された溥傑と妻子は16年もの間、離ればなれになってしまう。悲劇はなおも一家をおそい、1957年、溥傑と浩の長女、慧生が、男子同級生とともに伊豆の天城山中で遺体となり発見された。事件は「天城山心中」として知られ、映画まで作られたが真相は明らかではない。
 暗い監房の中で妻子との再会だけを支えに生きていた溥傑は、どん底に突き落とされた。
  「こんなことがあっていいのか? 浩さん、これは本当なのですか? 私は、こうして書いているいまでさえ、わが娘がこの世にいないことをどうしても信じられない。それにしても、なぜだろうか? 清朝の血を享けた娘が薄幸であることは宿命とでもいうのか? 私の将来のすべてを慧生と嫮生に託してきた。苦しみに耐えてこられたのも、二人の娘と浩さんがいて、いつかは一緒に暮らせるという夢があればこそだった。・・・なんということだ。遠く離れていて、親として何もしてやれなかったことが、これほど恨めしいことはない。もしだれかに罪あるとすれば、この私、父である私にだ・・・ 」【溥傑書簡(浩宛)1958・1】

 そして溥傑が題目を唱えていたことは、そんな話の場面に記されている。すなわち次女の嫮生は次のように語る。
  「母の実家の嵯峨家は神道の家柄ですが、京都嵯峨野にある天台宗の二尊院にも墓地があります。何代か前に日蓮宗に帰依した祖先がいて、『南無妙法蓮華経』とお題目を唱えるようにもなっていました。父は、嵯峨家の影響を受けたのか、結婚後、日蓮宗のお題目を唱えることがあったそうです。戦犯管理所に収容されている間も、『南無妙法蓮華経』を唱えて家族や両国民の幸福を願い、亡くなった方々を弔っていました。それなのに、姉が死んでからというもの、「神も仏もない」と悲嘆し、お題目を唱えるのを止めてしまったそうです。それほど姉の死は、父にとって衝撃でした」(福永嫮生『流転の王妃 愛の書簡 愛新覚羅溥傑・浩』160頁)
 同じ部屋に収監されていた溥儀も、溥傑の唱える題目を耳にしたことだろう。慧生の非業の死によって、溥傑は一時、信仰から離れてしまったようだが、妻の浩に先立たれた晩年、溥傑は「妻の分骨と写真、及び亡くなった長女慧生の分骨と写真は、いつも私の寝室の中で私と相伴って居るので、毎朝の焼香と仏号を唱えることは、既に私の毎日の必修課になって居る」(「妻を語る」1992・2)といっており、再び信仰を取り戻したようである。
 また嫮生によれば、嵯峨家の「何代か前に日蓮宗に帰依した祖先」がいたそうだが、前掲略系図の中に、該当しそうな人物がいる。維新後に「嵯峨」の姓を名乗った正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる1821~1909)である。実愛は天皇に近侍し、その命を公卿に伝えたり、あるいは天皇への取り次ぎをする「議奏」をつとめた人である。
 文久3年(1863)、大石寺僧の日胤が宗義天奏を行っているが、これを孝明天皇に取り次いだのも実愛だった。日胤は当時を回顧し「文久三年の天変地夭により天奏を行ったところ、議奏の正親町三条殿(実愛)は、当宗の法義に深く感悦し、必ずお上(孝明天皇)へ上奏すると仰られ、褒美に和歌懐紙を授けられた」(取意)と語っている(当該資料は能勢順道編『諸記録』第2部169頁に掲載)。
 いまだ実愛と法華信仰については明らかではないけれども、実愛が日蓮宗に対し、ある程度の理解を示していたことは窺えよう。溥傑の妻となり、溥傑に唱題を勧めたであろう浩は、実愛のひ孫にあたる。浩の書簡や著作を読んでいると、彼女が唱題を精神的支柱としていたことが窺える。例えば空襲時「私は観念して慧生と嫮生を抱きしめ、その場に座り込み、お題目を唱えました」(『流転の王妃の昭和史』108頁)といい、また溥儀の没後、溥儀の幽霊がでるとの噂があったらしく、浩の書簡には「私の方には一度も(幽霊が)出ていらっしゃいませんが、赤鼻の方(夫人)には、度々出ていらっしゃるので、こわくてこわくてと。近所の人も二三人が見たとかで、まだうかばれなくていらっしゃるのかしら。当方では、毎日御題目をあげているので、そんなはずも無いのですが・・・」【浩書簡(溥傑宛)1967】と書かれている。
 溥傑と浩・嫮生の往復書簡によると、一家は身延山久遠寺や池上本門寺と深い縁があったらしいが、切がよいので今回はここまで。           (坂井法曄)
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 前回、愛新覚羅溥傑に嫁いだ浩の生家(嵯峨家)において、浩の何代か前、日蓮宗に帰依した人物がいたこと、その人物の特定はできないものの、浩の三代前、正親町三条(嵯峨)実愛が日蓮宗に理解を示していた様子が窺えること、そして溥傑は、おそらくは「毎日お題目を唱えている」という浩の影響により、撫順戦犯管理所で題目を唱えていたことなどを紹介した。また日本国の敗戦・満州国の崩壊により、溥傑と妻子(浩、慧生・嫮生)は16年にわたり離ればなれになってしまったが、長女の慧生は、溥傑が戦犯管理所に収監されている間に、男子同級生とともに亡くなってしまう。これによって溥傑が絶望の淵にたたされ、一時、唱題をやめてしまったところまでを記した。

 さて浩は、慧生の菩提を弔うことで、立ち直ろうと歩みはじめたが、その際、浩は題目と日蓮宗寺院とを拠り処としていた。すでに「結婚したとき、浩さんは身延山から『五段のお守り』という貴重な護符をいただいた。そしてそれを身辺離さず大切に持っていた。終戦になったときも、浩さんは、いつも持って歩く銀狐のハンドバッグの底深くそれをしまって、だいじに持ち歩いた」(『婦人生活』15巻5号,1961年。取材:高岩五郎)というし、次女の嫮生も、日本の敗戦により満州を立つことになった浩について「母は守りの短刀と、身延山で頂いた法華経の小さな経本を自分の荷物に入れた」(本岡典子『流転の子』28頁)といっている。
また浩は溥傑宛の書簡で、慧生を供養するためのお堂や埋葬・分骨について細かに報告している。

【浩書簡(溥傑宛)1958・3・31】
お墓はつくらず、分骨して身延山(日蓮宗総本山の久遠寺)に永代位としておさめ、大部分は北京に持ち帰り我々の祖先のお墓に入れようと思います。そして、天城に碑をたて、池上本門寺(日蓮宗大本山)にさゝやかな堂を建て・・・ 

【浩書簡(溥傑宛)1958・6・5】
あれからずっと慧生の記念事業を残して置く為に活動しており、せめてもの私の心のなぐさめとなりませう。一千万円で、その内八十万円の中国式のお堂をたて、慧生の胸像を安置(池上本門寺境内)その側にさゝやかな室を建て、私達もそこに引き移り、堂守りをしながら中国の留学生の学資困難の人の援助と日本古典文学を中国に紹介する人の援助のお金を利息から出して、両国の友好関係の掛橋となろうと願って、出来なかった慧生の遺志を残してやりたく、一生懸命運動しております。 

【浩書簡(溥傑宛)1958・8・18】
(※慧生の遺体発見現場に)写経をしてうめてまいりました。碑に刻む文に御希望があれば何んなりと刻ませます。池上の方の堂は、中国式の堂を建てゝ、故人の遺品を納め、日中文化交流の堂場にして、永く故人の遺志を死してから活躍させたいと念願致しております。死してから魂の活躍する人もある事故、どうかそのようにあらん事を念願致しております。・・・身延山に嫮生と慧子チャンの学友と池見あき子、町田幹子、父や私で分骨の納骨に行ってまいりました。「永く日蓮上人のお骨と共に全山の僧が確かにお守り致します」と僧正が約束され、朝夕の読経の供養を受けておられます。事件のあった日、山より僧正降りて日吉(※横浜市にある嵯峨家)迄おいで下さいましたのに混乱状態で玄関迄ゆけずに帰りましたとの事・・・                (※は坂井注)

 また次女の嫮生も、慧生の遺体発見現場を訪れた際の様子を溥傑に報告した書簡(1958・3・31)に、「サルスベリの木には、万年筆で南無妙法蓮華経と書いてきましたが、すぐ消えてしまうかも知れませんね」と書き送っていて、その信仰を継いでいたようである。
 それから浩は「石橋湛山氏等にも時々あいます」【溥傑宛書簡1961・12】といっている。石橋は日中の国交正常化に尽力していたこともあってか、浩の書簡にしばしば登場する。いうまでもなく彼は、杉田日布(身延山久遠寺81世)の息であり、浩は信仰面からも親しみをもっていたかもしれない。
 なお慧生の遺骨が身延山へ納められたこと、および浩の一行が身延山を訪れたことは、『近代日蓮宗年表』等にもみえない。

 以上「嵯峨家と愛新覚羅家と唱題のこと」と題し、関連する記事を摘記したが、いっぽうの愛新覚羅家・清王朝も相応に仏教を重んじてきた。
 まだ溥儀・溥傑兄弟が紫禁城にあった時のこと。広大な宮中で遊んでいた兄弟は、養心殿西側の仏壇から赤い包み紙を見つけた。紙には乾隆帝(清朝6代皇帝)の筆で「これを開けた者は私の子孫ではない」と書かれていた。が、兄弟の好奇心がまさった。

「私たちは、仏壇の前に跪いて三回叩頭してから恐る恐る開けて見ると、まさしく乾隆帝親筆の遺詔だった。内容は、雍正帝(乾隆帝の父)が皇帝の座を争って、二人の弟を殺したことに関してのものだった。乾隆帝はそこで雍正帝の一切の過去を隠し、父に代わって神仏に懺悔文を書いて仏壇に入れたのだった」(『溥傑自伝』39頁)

 驚くべき内容だが、父に代わって懺悔文を仏前に捧げた乾隆帝の、ささやかな信仰が看取される。そして清朝12代、最後の皇帝となった溥儀も、仏教を深く信仰していた。溥儀は皇帝時代の生活を次のように振り返っている。

 「私は仏書を読むにつれてますます夢中になった。ときに夢を見たが、夢で地獄に行ってきては、ますます信心を強めた…(中略)…家じゅうの者はみな私のために気が変にされてしまった。私の影響で、家のなかには終日いたるところにお経の声が聞こえ、木魚や鐘の音のたえまがなく、まるでお寺にいるようだった」(『わが半生』下112頁)

 溥儀は中国人民解放軍の兵士に向っても「私は仏教信者」(同上158頁)と語っている。溥儀はソ連の牢獄で念仏の他「『金剛般若経』を唱えたり占いなどをしていた」(舩木繁『皇弟溥傑の昭和史』145頁)というが、撫順戦犯管理所へ移送される際も「溥儀は『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と念仏を唱え続けて」(『流転の子』169頁)いた。実弟の溥傑も「溥儀は仏教を信じていて、始終坐禅を組み読経をしていた。とくに精神的に悩みがある時は、彼はますます念仏に頼って平安を祈願した」(『溥傑自伝』89頁)と語っている。
 時代に翻弄された溥儀がその生涯で、唯一心を許すことができたのは、弟の溥傑だけだったという。その溥傑の唱える題目を耳にして、念仏を唱えていたラストエンペラー溥儀は、何を思ったか。「それはなんだ?」とでも問うただろうか。溥傑はどう答えただろうか。今となっては、兄弟間でそんなやりとりがあったのかどうかさえも分からない。
 かつて日蓮の直弟、日目の生家である新田(にいだ)家において、西光寺尼(日目の祖母)の仏事を、法華・念仏のいずれで行うかの擦った揉んだがあった。報告を受けた日興は、法華経で行うことができれば、新田一族に動執生疑を起こさせるであろうから、大変に喜ばしいと日目へ伝えている(『日興上人全集』162頁)。念仏と唱題は、鎌倉時代からいつも対立してきたし、念仏を唱える溥儀、題目を唱える溥傑の兄弟間にも、何かあったかも知れない。

 もっとも溥儀は戦犯管理所において「思想改造」、すなわち仏教信者から共産主義・毛沢東崇拝者へと「思想改造」され、晩年はかつての熱烈な仏教信者とはことなり、「ただ偉大な毛沢東思想、偉大なる中国共産党と偉大な毛主席のみが、中国人民を解放し、ほんとうに私を救ってくれ、私を新しく生まれ変わらせてくれました」(【溥儀書簡:孫博盛宛】『溥儀日記』443頁)と語っている。
 「自己を改めなければならない」と考える受刑者が、刑務所内で改宗したり、毛沢東崇拝者となることはままみられ、元統一世界ヘビー級王者のマイク・タイソンも、キリスト教からイスラム教へ、そして毛沢東崇拝者となった。タイソンの場合「刑務所のイスラム教徒たちを見て、イスラム教に心を魅かれた」(『真相:マイクタイソン自伝』606頁)といい、刑務所における「くそ長い行進のあいだ、心の中では毛沢東の隣にいた」とか「毛沢東に入れ込むあまり、彼の顔を体に刺青してもらったくらい」(334頁)と語っている。
 ただ毛沢東をめぐる溥儀とタイソンの視角には差違があると思われ、溥儀は文化大革命時に自伝(『わが半生』)を痛烈に批判され、みずからを熱烈な毛沢東崇拝者と装っていたかにも見える。それはあたかも日本最後の将軍である徳川慶喜が、維新後に政治的発言を一切おこなわず、歴代将軍が行ってきた仏式の葬儀・墓所を辞し、神式を用いて天皇崇拝・恭順の姿勢を貫いたことにも似て、溥儀もみずからの信仰・思想・信条等を表出することは、厳につつしまなければならなかったのかも知れぬ。
 いっぽう溥傑の晩年はこうだった。
「最晩年の溥傑は朝六時に起き、体を冷水で清め、その後、浩と慧生のために書斎で祈りを捧げていた。清朝時代から愛新覚羅一族は深く仏教に帰依しており、溥傑も毎日、二人の遺影に向かって経を唱えた。読経の時間、書斎は、亡き妻、娘との魂の交感の場となり、誰も立ち入ることはできなかった」(前掲『流転の子』337頁) 

 このことについては溥傑自身も同様に語っている(前回参照)。ただ溥傑にせよ、嵯峨家にせよ、両者はいわゆる「専持法華」ではなく、嫮生が「嵯峨家は神道の家柄」「天台宗の二尊院にも墓地があります」といっているように、神道や他宗も大事にしていた。愛新覚羅家においても仏教だけではなく儒教や道教も重んじている。
 とかく日蓮門下では、人物と唱題との接点を見つけては、そのことを強調しすぎる嫌いがある。しかし両家の信仰は、一神教的ではなく多神教的であり、唱題もその中の一つであったことを、あえて記しておきたい。
 かつてイスラム教へ改宗したタイソンが、カアパ神殿を訪れた際、教団は大々的にこれを報じた。タイソンは教団の報道に落胆し「関心は一人の人間としての俺じゃなく宣伝にあった」(前掲『自伝』609頁)と歎いているが、先年、史上の著名人と教団との接点を、教団関係者が大々的にとりあげた記事を目の当たりにした。内容は、その著名人が、まるで教団の熱烈な信奉者であったかのように綴られ、他宗との関わりには一切ふれない偏見ぶりに驚いた次第である。
 今回とりあげた愛新覚羅溥傑・浩夫妻も、著名な史上の人物だが、彼らはけっして熱烈な「専持法華」ではない。また管見に入った両家と唱題・日蓮宗寺院等に関する資料は、上掲のとおり断片的で、私も全体像を把握するにはいたっておらず、抽象的記事にならざるをえなかったことを了とされたい。一口に唱題と言っても様々な信仰形態があるということ、その一例として両家と唱題との関わりを紹介した次第である。

            * * * * * * * *

 2010年秋、町田幹子(ことこ)の遺品から、溥傑と浩の往復書簡が大量に発見された。幹子は浩の末妹で、溥傑の日記や書簡にもしばしば登場し、浩が病に伏したときは幹子が溥傑への連絡役をつとめていたようである。これらの書簡は2018年、杉並区立郷土博物館で開催された特別展「愛新覚羅浩展」に展示された。現在確認される往復書簡は300余通に及ぶという。同展には溥傑と浩の遺児である嫮生さんもテープカットに訪れ、私も興味深く観覧した。書簡の図版は展示図録にも紹介されている。浩の書状は原文のまま紹介すべきであったかもしれないが、明らかな誤記(本門地→本門寺など)は訂正した。興味のある方は図録をご覧いただきたい。
 なお前回ふれた「帝位継承法」に関する浩の理解は、皇帝の溥儀(愛新覚羅溥儀『わが半生』ちくま文庫、下77頁)や、夫の溥傑(『溥傑自伝』92頁)と同じだが、これとは異なる見方(入江曜子『貴妃は毒殺されたか』新潮社等)もある。 (坂井法曄)


【主要参考文献】※原版・初出年等は略した
能勢順道編『諸記録』(私家版)
李淑賢『溥儀と私(「素顔の皇帝・溥儀」第三巻)』(大衡出版社,1988年)
舩木繁『皇弟溥傑の昭和史』(新潮社,1989年)
愛新覚羅溥儀著・小野忍他訳『わが半生』上下(ちくま文庫,1992年)
王慶祥編『溥儀日記』(学生社,1994年)
愛新覚羅溥傑著・丸山昇監訳・金若静訳『溥傑自伝』(河出書房新社,1995年)
入江曜子『貴妃は毒殺されたか』(新潮社,1998年)
菊池秀明『中国の歴史⑩ラストエンペラーと近代中国』(講談社,2005年)
R.F.ジョンストン著・中山理訳『紫禁城の黄昏』上下(祥伝社黄金文庫,2008年)
渡辺みどり『愛新覚羅浩の生涯』(中公文庫,2010年)
本岡典子『流転の子』(中央公論新社,2011年)
福永嫮生『流転の王妃 愛の書簡』(文藝春秋,2011年)
愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』(中公文庫版,2012年)
マイク・タイソン著・ジョー小泉監訳・棚橋志行訳『真相 マイクタイソン自伝』(ダイヤモンド社,2014年)
 
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 『修禅寺決』は、恵心流の口伝法門を整理した代表的な中古天台の文献として伝わっており、日蓮偽撰遺文などにその引用がみられる。しかし、その一方で伝教仮託であることはすでに定着しているものの、いつ誰によって作成されたのかは特定されていない。
 そこで今回は、『修禅寺決』の伝存状況をとりあげ、その成立を少しく考察してみたい。

一、二種類の『修禅寺決』
 そもそも、『修禅寺決』は、伝教大師が渡唐の際に道邃和尚から相伝されたという七箇法門を内容とする。七箇とは、「四箇大事」(一心三観・心境義・止観大旨・法華深義)と、法華深義から開出される「略伝三箇大事」(円教三身・常寂光土義・蓮華因果)であり、恵心流七箇大事と称されている。
 そこで、『修禅寺決』を翻刻した既刊本として、『天台本覚論』(日本思想体系)と『伝教大師全集』五巻が挙げられるが、まずは両書の「四箇大事」の構成を比較してみたい。

  『天台本覚論』               『伝教大師全集』
 ①修禅寺相伝私記 一心三観・心境義  ①修禅寺相伝私注  一心三観・心境義
 ②修禅寺相伝日記 止観大旨      ②修禅寺相伝私注 心境義(一念三千覆注)
 ③大教縁起口伝   法華深義上      ③修禅寺相伝日記  止観大旨
 ④大教縁起口伝   法華深義下      ④修禅寺相伝日記  法華深義

 上記のように、①は双方とも同じ内容となっており、②~④には異同がある。『天台本覚論』では、①において「一心三観」の後に続く、「大文ノ第二。心境義ノ一念三千観ノ伝トハ者……」からはじまる220字ほどの内容を「心境義」とし、②止観大旨と続く。その一方で、『伝教大師全集』も同様に①において220字ほどの心境義の内容をもちながら、②では『一念三千覆注』(以下『覆注』と略称)の内容をもって新たに「心境義」を設けている。これが双方の大きな違いである。これにより、『修禅寺決』には『覆注』が含まれているものと含まれないものが伝存していることが窺える。
〇『天台本覚論』
 『天台本覚論』では、身延久遠寺所蔵の「日朝所持本」(①②欠)と「日意所持本」(④欠)を底本としている。『日朝本』は、文明十二年(1480)成立で、該当部分は伝存していない。『日意本』は、成立(日意1519寂以前)は特定できないが、『覆注』を含んでいないことが確認される。これにより、『日意本』の元本になったと思われる『日朝本』も『覆注』が含まれていないことが推測される。また、対校本として「金沢文庫所蔵の古写本」「伝教大師所収本」「立正大学所蔵の諸種刊本」を列挙しているが、この中の『金沢文庫本』には『覆注』が含まれていないことを確認している。したがって『天台本覚論』は、『覆注』を含む『伝教大師全集』を対校本としながら、『日意本』および『金沢文庫本』に従って翻刻していることが窺える。
〇『伝教大師全集』
 次ぎに『伝教大師全集』は、「慶長歳極月十三日」の識語をもつ『西教寺本』を底本とし、「比叡山実蔵坊所蔵本」「菊岡氏所蔵本(永禄元年日承師写本)」「藤田宗継出版本」「赤松氏所蔵本」「三井法明院所蔵本」を対校本としている。底本の『西教寺本』(慶長年間1596~1615)は、『伝教大師全集』の翻刻のとおりに『覆注』を含んでいる可能性がある。そうであれば、『覆注』を含んだ写本の初見になるかもしれない。いずれにせよ、『日承本』(1558)とともに全体の内容確認が必要である。
 また、対校本の『実蔵坊本』『菊岡氏所蔵本』『藤田宗継本』『法明院蔵本』は、いずれも刊時不詳の刊本である。興風談所には、刊時不詳の『修禅寺決』刊本および『藤田宗継本』と同型の刊本が架蔵されている。いずれも『覆注』を含んでおり、これにより江戸期以降は『覆注』を含む『修禅寺決』が流布していたことが窺える。
〇身延久遠寺蔵本について
 身延久遠寺には、『日朝本』『日意本』の他に、『日定本』(①③欠)と『文安本』が所蔵されている。『日定本』は確認済みだが、『文安本』の全容は確認できていない。両写本の成立は、『日定本』は識語に「永享五年」(1433)とあり、『文安本』は『身延文庫典籍目録』によれば、「文安元年」(1444)および「文安二年」の書写年が確認される。
 両写本とも、②の部分が「止観大旨」となっているので、『覆注』が含まれていない可能性が高い。
〇『修禅寺決』伝存状況一覧
 これまでに挙げた、『修禅寺決』の写本および刊本の伝存状況を年代順に列挙すると次ぎの通りになる。
 『日定本』   永享 5年(1433)    身延久遠寺蔵 ①④欠  確認
 『文安本』   文安 2年(1445)    身延久遠寺蔵      部分確認
 『日朝本』   文明12年(1480)    身延久遠寺蔵 ①②欠 未確認
 『日意本』   日意寂年 (1519)以前  身延久遠寺蔵 ③④欠  部分確認
 『日承本』   永禄 1年(1558)    菊岡氏所蔵       未確認
 『西教寺本』   慶長 年(1596)以後  西教寺蔵        未確認
 『金沢文庫本』    [識語ナシ]      金沢文庫蔵       確認
 『実蔵坊所蔵本』 刊本[刊時不詳]
 『藤田宗継出版本』刊本[刊時不詳]     ※同型本 興風談所架蔵  
 『赤松氏所蔵本』 刊本[刊時不詳]
 『法明院蔵本』  刊本[刊時不詳]
 『興風談所架蔵本』刊本[刊時不詳]

 上記の一覧により、『日定本』が最古の写本であることが分かる。また、写本の多くが身延久遠寺に伝存していることが窺える。さらに、現時点において『修禅寺決』の伝存状況は室町期を遡ることはない。ちなみに、『覆注』の最古写本(南北朝期)として、文和三年(1354)4月22日の吉水所蔵本が、渋谷亮泰編『天台書籍綜合目録上巻』173頁に確認される。
 今後、これらの写本の全容を分析することにより、その傾向がより明確にされるものと思われる。

二、『金沢文庫本』について
 確実に全体が揃っている写本として、『文安本』と『金沢文庫本』が挙げられる。このたび『金沢文庫本』の全容を確認することができたので、その形態を紹介してみたい。また同時に、身延久遠寺所蔵の各写本との比較も試みたい。
 『金沢文庫本』は、全三巻で識語は記されていない。全体に虫食いの跡や剥落部分が確認される。
〇第一巻
 表紙に「大教縁起口伝 一心三観第一 一念三千第二」とあり、21丁からなっている。冒頭に「修禅寺決相伝私注 沙門最澄記」の内題を掲げ、「大唐貞元廿四年三月一日……」と本文が続く。「一心三観」の内容は第1紙表から第18紙裏、「一念三千」の内容は第20紙表から第21紙表となっている。
 ここでの特徴は、身延所蔵の『日意本』『文安本』は第二を「心境義」としているのに対し、『金沢文庫本』は同内容でありながら「一念三千第二」としている。また、『日意本』と『文安本』は、「一心三観」と「心境義」の文章が続いているのに対し、『金沢文庫本』は「一心三観」と「一念三千」の間に一紙分の区切りを設けている。
〇第二巻
 表紙に「止観大旨 第三」とあり、32丁からなっている。第1紙表の「第三止観ノ大旨ト者……」からはじまり、第32紙表まで続く。したがって、『覆注』を含んでいない。これは身延所蔵の写本と同じ形態である。
〇第三巻
 表紙に「法華深義下 第四」とあり、41丁からなっている。第1紙表から第20紙表2行目までが「法華深義上」、第20紙表2行目から第41紙表までが「法華深義下」の内容である。身延所蔵の『日定本』『文安本』は「法華深義」を上下の二冊としているのに対して、『金沢文庫本』は「法華深義」の上下の内容を区切ることなく一冊本としている。

 以上、簡単に『金沢文庫本』の特徴を述べたが、『覆注』が含まれていないことは身延所蔵の写本と共通しているが、「四箇大事」の名称や区切り方、巻数の分け方などに若干の違いがみられる。それゆえ、『金沢文庫本』は身延所蔵本とは違った経路を辿って伝えられてきたものと思われる。さらなる内容分析とともに、『金沢文庫本』の書写年を割り出していくことも今後の課題である。

三、興風談所架蔵の刊本
 前述のように、興風談所には二種類の『修禅寺決』の刊本が架蔵されている。一つは刊時不明で、後半に伝教仮託の『天台法華宗牛頭法門要纂』(『伝教大師全集』五巻所収、以下『牛頭決』と略称)が合本されている。一冊本で、前に『修禅寺決』49丁、後に『牛頭決』13丁となっている。
 もう一冊は、刊時不明の『藤田宗継出版本』で、同じく『牛頭決』が合冊されている。これも一冊本で、こちらは前に『牛頭決』13丁、後に『修禅寺決』49丁の装丁となっている。
 冠賢一著『近世日蓮宗出版史研究』(平楽寺書店)に、「〈史料4〉寛文九年正月「法華宗門書堂」出版書」の一覧が示されており、その中に「修禅寺決附牛頭法門要纂 冊数1 著者最澄 (寛永9)→藤田宗継」との記述がある。これによると、寛文九年(1669)正月に「法華宗門書堂」より、また寛永九年(1632)に藤田宗継によって『修禅寺決』が出版されたことが窺える。
 興風談所架蔵本は、一つは「寛永九年本(藤田宗継出版)」で、もう一冊は「寛文九年本(法華宗門書堂出版)」の可能性がある。いずれにせよ、『修禅寺決』の刊本は、天台宗側ではなく、日蓮宗側より盛んに出版されていることが窺える。

四、おわりに
 インターネットの「新日本古典籍総合データベース」に、『修禅寺相伝私注』(名古屋大学附属図書館)が紹介されている。その中で、「国書所在」の写本として
「大谷(明治写、他と合一冊)、金沢文庫(三冊)(一帖)、久遠寺(一帖本三部)、西教寺正教蔵(慶長年間仙桃写二巻)、輪王寺天海(室町中期亮応写一冊)、旧彰考(一冊)、菊岡義衷(永禄元日承写一冊)」
との情報が挙げられている。これにより、新たに『大谷本』『輪王寺天海本』『旧彰考本』の伝存が確認される。これら三書についても、情報を収集し『修禅寺決』伝存状況一覧に加えていきたいと思う。
 また、「国書所在」の刊本として、
「元和五古活字版(天台法華宗牛頭法門要纂の付)、[補遺]茶図成簣、天理〈寛永二版〉竜谷(他と合一冊)〈寛永九版(三巻一冊)〉寛永寺、実蔵坊真如蔵、[補遺]立正、竜谷(天台法華宗牛頭法門要纂の付)」
が挙げられている。ここには、「元和五」(1619)、「寛永二版」(1625)、「寛永九版」(1632)の刊時が確認される。これにより、刊本の伝存の初見が元和五年まで引き上げられることになる。また、『牛頭決』と合冊されていることが『修禅寺決』出版本の特徴のようである。各刊本の全容確認についても今後の課題である。(渡邉)
 
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 前回、『修禅寺決』には円仁仮託の『一念三千覆注』(以下『覆注』と略称)が含まれているものと、含まれていないものが伝存していることを示した。また、身延久遠寺所蔵の『日意本』や金沢文庫所蔵の写本には『覆注』が含まれておらず、江戸期に法華宗門書堂などから出版された刊本には『覆注』が含まれていることを述べた。
 そこで今回は、忠尋仮託書の『漢光類聚』『法華略義見聞』『法華文句要義聞書』を取り上げ、『漢光類聚』と『覆注』の関係、『法華文句要義聞書』にみえる『修禅寺決』の引用、『法華略義見聞』にみえる「略伝三箇大事」の相伝について、これより考察してみたい。
 『漢光類聚』は、南岳が天台に相伝したとする「心要」に注釈を加えた口伝書である。抑も、南岳天台の相伝は「略義」「略文」「心要」の三箇があり、内容は『玄義』『文句』『止観』の総意を要約したものとされ、「略義」と「略文」は伝存していない。しかしながら、「略義」には『法華略義見聞』、「略文」には『法華文句要義聞書』の注釈書があり、これらは『漢光類聚』とともに忠尋撰として伝来している。

一、忠尋仮託『漢光類聚』と『一念三千覆注』の関係
 はじめに、『修禅寺決』を引用する文献として、日叡の『立法華肝要集』(1392成立)、明導照源(1298~1368)の『義科 廬談 法華玄義』、および日蓮仮託遺文の『当体蓮華抄』『十八円満抄』『臨終一心三観』『日女御前御返事』『御講聞書』が挙げられる。この中に、『覆注』部分からの引用は見られない。ただし、『漢光類聚』の第三巻には、『覆注』と同文の「心境義」を引用していることが確認される。はじめに『修禅寺決』の「心境義(『覆注』)」の該当部分、続いてそれを引用する『漢光類聚』の一文を示すと次の通りである。
 〇『修禅寺決』「心境義(『覆注』)」
  「亦行門ノ一念三千ニ於テ三重有リ。一ニハ常用ノ一念三千ノ観、二ニハ別時ノ一念三千ノ観。三ニハ臨終ノ一念三千ノ観也。常用ノ一念三千トハ者、時処所縁ヲ簡ラハズ。或ハ前念ヲ観シテ三千具足ト為シ、或ハ現前ノ境界ヲ縁シテ、三千具足ト為ス。若シ観道成就ノ輩ハ、即生ニ天命ヲ開クニ。観道未成就ノ輩ハ者、観念ノ勝縁ニ由テ、必十方浄土ノ仏世界ニ生シテ、重ネテ一念三千ノ観ヲ修シ。仏心三昧ニ入ルコトヲ得。次ニ別時ノ一念三千ノ観トハ者、別シテ道場ヲ修厳シ、身口意ヲ調ヘテ、三千ノ観ヲ修ス。……三七日ノ之間、別行ヲ修ス可シ。初七日ハ本尊ノ勝妙形状ニ、行者ノ迷妄ノ劣身ヲ対シテ深ク恥愧ヲ生ス。後ノ二七日ハ本尊ノ三千円備ノ体性ハ行者ノ三千具足ノ自体ナリト観ス可シ也。……乃至、道場ト尊ト皆是根境相対ノ一念ナリト観セヨ也矣。次ニ臨終ノ一念三千観トハ者、妙法蓮華経是ナリ也。妙ハ即チ一念、法ハ即チ三千ナリ。是ノ故ニ、一念三千ト名異義同ナリ也。臨終ノ時専心ニ応ニ妙法蓮華ヲ唱フベシ。亦一伝ニ云ク……。」
 〇『漢光類聚』第三
  「三ニ観相ノ口伝ト者、是レニ重々ノ観相有リ。一ニハ別時ノ一念三千。二ニハ常用ノ一念三千。三ニハ臨終ノ一念三千也。別時ノ一念三千ト者、別シテ道場ヲ構ヘ所持ノ本尊ヲ請シテ心ヲ一境ニ作シテ、或ハ一七日乃至三七日之ヲ修ス。此ノ修行ニ多種ノ機有ル可シ。行法ノ次第四箇ノ伝法ノ如シ。常用ノ一念三千観ト者、行住座臥語黙動静ニ必ス一念三千観ヲ修ス可シ。是レニ二機有リ。一ニハ任運本解ノ機、二ニハ別修行ノ機也。任運本解ノ機ト者、一念三千観ヲ修セズ。知一切法ノ本解ヲ捨失セズ。常時ニ諸法一心ノ観解ヲ成ス。所起ノ心念皆ナ是レ一念三千也。……次ニ別修行ノ機ト者、前念ヲ境ト為シ、後念ヲ智ト為スト云テ、若シ一念ノ心起ルニ、次ギノ刹那ニハ前念ノ心体三千具足也。三千ノ外ニハ余法無シ。故ニ此ノ如ク念々ニ相続スル是レ常用ノ一心三観也。臨終ノ一念三千ト者、是ニ重々ノ口伝有リ。委細ノ旨四箇伝法ノ決ノ如シ。」 
 「心境義(『覆注』)」において、「常用ノ一念三千」「別時ノ一念三千」「臨終ノ一念三千」について説明がなされており、その部分を『漢光類聚』は省略して引用している。
 両文を比較すると、「常用」と「別時」は前後しているが、『漢光類聚』はその内容を「四箇ノ伝法ノ如シ」「四箇伝法ノ決ノ如シ」とし、『修禅寺決』からの引用であることを示している。これにより、『漢光類聚』が作成される際に、すでに『修禅寺決』に『覆注』が挿入されていたことが窺える。
 このように、『修禅寺決』・『覆注』・『漢光類聚』が互いに影響しあっている様相は、同一グループによって三書が作成されたことを想起させる。

二、忠尋仮託『法華文句要義聞書』にみえる『修禅寺決』の引用
 次ぎに、『漢光類聚』の姉妹編ともいわれる『法華文句要義聞書』に、『修禅寺決』の引用が確認される。該当箇所を挙げると以下の通りである。
 〇『法華文句要義聞書』第五(『大日本仏教全書』法華略義見聞 外二部)
「山家大師修禅寺ノ相伝日記ニ云、此ニ二意有リ。一ニハ果海住本。二ニハ本性住本。果海住本者、諸法自体本有三身一性無作ノ仏体ナリ。……経ニ云、是法住法位世間相常住ト文。」 
「山家大師唐土ニ於テ四箇ノ相伝有リ。其中ノ止観大旨ト者則是也。相伝日記ニ云、止観大旨ハ者此ニ二種ノ大旨有リ。所謂ル付文元意也……若シ己心ノ所行ナラハ者、何ニ況ヤ一法ノ外等ト云云。」 
「相伝日記ニ云、初ニ発大心ト者、釈名従リ偏円ニ至リ、或ハ方便ニ至ル解了分別也。……果報ハ感大果。起教ハ裂大網。旨帰ハ帰大処也。」 
④  「相伝日記ニ云、発大心ト者、此ニ二有リ。一ニハ者簡非。二ニハ顕是。……二ニ云ク、前心ヲ離テ重テ還テ一念不起之処ニ著是失也等ト文。」 
 このように、『法華文句要義聞書』第五では、「相伝日記云」として断続的に『修禅寺決』を引用している。ただし、①~④は「法華深義」および「止観大旨」からの引用である。ところが、『修禅寺決』を引用した後に、次ぎのようにある。
A
「山家大師仏立寺ニ於テ此事ヲ決シ給ヘリ。一念三千観ヲハ心境義ノ一句ニ口伝スル也。故ニ四箇ノ大事随一ノ一念三千観ヲハ心境義ノ相伝ト名ク。」 
B  「尋テ云、大師所修ノ大行如何。答、一念三千観也。顕非顕是乃至修大行等。委ハ四箇伝法決ノ如シ。」
 AとBの一文は、引用文ではなく『修禅寺決』の「心境義」について述べたものである。Aでは、「四箇ノ大事(一心三観・心境義・止観大旨・法華深義)」の中で随一の一念三千観は「心境義」に説かれ、これを「心境義ノ相伝」と名づくとある。またBでは、伝教大師の大行とは一念三千観であり、委しくは「四箇伝法決」いわゆる『修禅寺決』に説かれていると示している。
 前回述べたように、本来の「心境義」は「一心三観」に続く220字ほどのものである。この本来の「心境義」を「四箇ノ大事随一ノ一念三千観」とするのが妥当だが、『漢光類聚』が『覆注』の内容を引用する事から、『法華文句要義聞書』にて説示する「心境義」も『覆注』の内容を指しているのかどうか、ということも視野にいれなければならない。
 いずれにせよ、『漢光類聚』と同様に、『法華文句要義聞書』もまた『修禅寺決』の影響を受けていることが窺える。

三、忠尋仮託『法華略義見聞』にみえる略伝三箇大事の相伝
 略伝三箇大事とは、『修禅寺決』の「法華深義」の中で開出される「円教三身・蓮華因果・常寂光土」のことで、これらは『修禅寺決』では「別集の如し」として名目のみが示されている。ところが、『法華略義見聞』には次のような一文がある。
 〇『法華略義見聞』上
  「貞元二十四年三月三日、龍興寺ニシテ法華ノ深義略伝三箇ノ大事ヲ相伝ス。謂円教ノ三身、蓮華ノ因果、常寂光土ノ義也。」
 ここに、「貞元二十四年三月三日」の年月日が確認される。この中の「貞元二十四年」は、『修禅寺決』および『漢光類聚』、または伝教仮託『三大章疏七面相承口決』にみえる特殊な年号で、「貞元」は二十一年(805)に「永貞」と改元されたので、「貞元二十四年」は架空の年号となる。
 この「貞元二十四年」の年号が『法華略義見聞』にも確認され、その年の「三月三日」に略伝三箇の大事が相伝されたとある。とくに「三月三日」の日付は、『修禅寺決』や『漢光類聚』には確認されず、伝教仮託『法華肝要略注秀句集』・安然仮託『要決法華知謗法論』・日蓮仮託『法華本門宗要抄』に確認することができる。
 〇伝教仮託『法華肝要略注秀句集』
  「貞元十四年三月三日、龍興寺ニ於テ道邃和上ノ室ニ入リテ、法華深義ノ略伝三箇ノ大事ヲ稟承ス」 
 〇安然仮託『要決法華知謗法論』
  「貞元十四年戊子三月三日、龍興寺ニ於テ、法華ノ深義、略伝三箇大事ヲ相承ス」
 〇日蓮仮託『法華本門宗要抄』
  「貞元十四年戊子三月三日、龍興寺ニ於テ道邃・行満ノ両師ニ値ヒ奉リ、法華宗ヲ習学スル之次テニ真言ト禅宗トヲ伝フ」
 これらの三書は、日蓮門下によって作成されたことが濃厚で、いずれも「三月三日」の日付が確認される。年号は「貞元十四年」となっているが、これは「貞元二十四年」を訂正したものと考えられる。その理由は、『要決法華知謗法論』と『法華本門宗要抄』に「戊子」の干支がみえるからである。貞元十四年の実際の干支は「乙亥」であり、仮に架空の「貞元二十四年」に干支をあてると「戊子」となる。
 それにより、これらの三書は『修禅寺決』の影響を受けていることが窺え、しかも、『法華略義見聞』の「三月三日」の略伝三箇の相伝を踏襲している。
 したがって、「貞元二十四年」の表記が確認される『修禅寺決』や忠尋仮託の『漢光類聚』・『法華略義見聞』、そこに上の三書が関連することによって「貞元十四年戊子」という年次が作成され、さらに三月三日に龍興寺において略伝三箇の相承があったという伝説が作り上げられた経過が窺える。

四、おわりに
 以上、『修禅寺決』と忠尋仮託書(『漢光類聚』『法華文句要義聞書』『法華略義見聞』)との関連について簡単に述べたが、それだけでも双方が強い関係にあることを知ることができる。また、忠尋仮託書と『法華肝要略注秀句』・『要決法華論』・『法華本門宗要抄』などの日蓮門下が携わっている仮託書との関連も見過ごすことはできない。これよりも、『修禅寺決』の成立を考察するうえで、『漢光類聚』などの忠尋仮託書の内容を分析することも必要不可欠である。
 最後に、『漢光類聚』『法華文句要義聞書』『法華略義見聞』の伝存状況を示してみたい。
  『漢光類聚』   長享 1年(1487)   身延久遠寺蔵 
  『漢光類聚』   天正11年(1583)   身延久遠寺蔵
  『漢光類聚』   寛永11年(1634)   叡山天海蔵
  『法華略義見聞』   慶安 2年(1649)    西教寺蔵
  『漢光類聚』(刊本)   慶安 2年(1649)   興風談所架蔵
  『法華文句要義聞書』   慶安 5年(1652)   西教寺蔵
 上の一覧から、長享元年の身延久遠寺蔵の『漢光類聚』の写本が最古であることが分かる。
これにより、『漢光類聚』等の伝存状況は、『修禅寺決』(永享5年[1433]最古写本)と同様に室町期を遡ることはできない。
 ただし、西教寺蔵の慶安二年『法華略義見聞』写本の奥書に、貞和5年(1349)、応永13年(1413)の識語をもつ写本の伝来を記している。また、その識語には「嶋倉中館法華坊」「翰主日圓」といった日蓮門下に関わる寺名・僧名が確認される。いずれにせよ、現時点において、今回紹介した忠尋仮託書の伝存は南北朝期を遡るものは確認できない。(渡邉)
 
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一、宗祖の主体的な確信・決断
 『観心本尊抄』第二十番問答は「問うて曰く、上の大難未だその会通を聞かず如何」と問い、私たちの劣心に仏界がそなわるかの難問に明快な解答を求めた。これに答えて、まず無量義経の「未だ六波羅蜜を修行することを得ずといえども六波羅蜜自然に在前す」の文を引く。法華修行者は六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の菩薩行を全てできなくても、自然にその功徳が得られるという意味である。続けて次の諸文を引く。
  「法華経に云く、具足の道を聞かんと欲す等云云。涅槃経に云く、薩とは具足に名づく等云云。竜樹菩薩云く、薩とは六なり等云云。無依無得大乗四論玄義記に云く、沙とは訳して六と云う。胡法には六を以て具足の義と為すなり。吉蔵の疏に云く、沙とは翻じて具足と為す。天台大師云く、薩とは梵語なり。此には妙と翻ず等云云」
 これにより具足=薩=六=沙=妙の等式が成立し、六波羅蜜修行の功徳は妙法にそなわると会釈して、
  「私に会通を加えば本文を黷(けが)すがごとし。しかりといえども文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」
と結論した。「釈尊の因行果徳の二法は」以下が受持譲与段で、自然譲与段とも、原文が漢字三十三字であることから三十三字段とも呼ばれる。
 釈尊の因行果徳の具足する妙法を受持すれば、その功徳を自然に譲られ、私たちに仏界がそなわるというのである。私はこれを、宗祖がそう確信したと考える。ほとんどの研究者はこうした見解を示さないが、浅井円道氏は「自然譲与は妙法受持による成仏を決断した言であり、これを聖人の成仏観とする」(『仏典講座観心本尊抄』一四四頁)と指摘する。宗祖の確信、決断という観点は軽視されがちであるが、宗祖の主体性から離れた解釈は歴史的意義を見失うことになるだろう。

二、釈尊の他力救済に帰結するのか
 これまで受持譲与段は修行者の信力、釈尊の仏力、妙法の法力の三力による自然譲与と説明されることが多く、中でも仏力(他力)に重点が置かれてきた。たとえば茂田井教亨氏は受持は修行者の自力であるが、自然譲与は釈尊による他力の意が強く表れており、受持の自力に始まり、他力の功徳譲与に帰結する。因行果徳というのは釈尊の働きで、釈尊の因行果徳が能動して我々が動かされる、という(『本尊抄講讃』中巻六一五・六三六頁)。茂田井氏は釈尊の能動性を読み取ろうとしているが、はたして因行果徳は能動するだろうか。因行果徳は因果の功徳であり、能動の働きがあるわけではないだろう。「自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」の自然譲与は、ひとりでに(他の力が加わることなく)譲り与えられる意であり、釈尊の他力救済を述べてはいない。
 また間宮啓壬氏は譲与について次のように説明する。私たちの側からいえば受け取るとはいえても、自らの力で獲得するとはとてもいえないものであり、受持によって可能となることだから自力的側面を有してはいるが、
  「日蓮はそれを久遠本仏が「譲与」したものとして表現する。(中略)私たちの自力的側面は久遠本仏の背後へと退けられているのである。(中略)かくして、救いの究極的主体はあくまでも久遠本仏であるという他力的側面が前面に出てくるようになる」(『日蓮仏教研究』一二号所収論文「「己心」の二重性、「開け」としての「受持譲与」」二一頁)
 修行者の自力よりも釈尊の他力救済を重視するのは、茂田井氏の所見に似通っている。しかしこうした解釈に対して浅井円道氏が、「聖人の宗教を他力仏教と判断してはならない。前の「受持」は行者の三業力を要求している」(『仏典講座観心本尊抄』一四四頁)と批判するように、受持譲与段は修行者の身口意の三業力によって、ひとりでに釈尊の因果の功徳が譲り与えられるという意味に理解すべきである。

三、難問は四十五字段で解決されたのか
 受持譲与段は釈尊の因果の功徳が妙法にそなわり、受持によって功徳が自然譲与されるというのであって、釈尊と修行者が一体となるとは一言も述べていない。
 しかし望月歓󠄀厚氏は「五字を信受し、念持すれば、自然、卒爾に彼の釈尊の因行の功徳・果上の功徳を譲り与へられて、釈尊同体の仏となる」「凡仏同体の成仏は、自然譲与によって成就すと説き示したのである」(『日蓮聖人御遺文講義』第三巻二二〇・二二一頁)という。そして私たちの劣心に仏界がそなわるかの難問は、受持譲与段と四十五字段で解決されたという。こうした解釈は多くの研究者に見られる。四十五字段は次の一段である。
  「今本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化もって同体なり。これすなわち己心の三千具足、三種の世間なり」
 本時の娑婆世界は寿量品の説法により開顕された久遠釈尊の娑婆世界であり、北川前肇氏も両段を結び付けて、「法華経の信仰者は妙法五字の受持によって久遠の釈迦と一体となり」(『日蓮聖人『観心本尊抄』を読む』二〇四頁)と述べる。
 しかし大平宏龍氏はこうした解釈について、「五字の受持で自然に因果の功徳を譲与される」ということと、「受持者と釈尊が一体となる」ということとは少し異なるようにも思われるが如何であろうか(『日蓮遺文の思想的研究』五七頁)と、疑問を呈している。私も同感であり、詳細は別稿を期す。

四、具足=薩=六=沙=妙の等式は成立しない
 受持譲与段は具足=薩=六=沙=妙の等式により導き出されたが、実はこれは成立しない。宗祖は「涅槃経に云く、薩とは具足に名づく等云云。竜樹菩薩云く、薩とは六なり等云云」と記すが、『大正新脩大蔵経』所収の涅槃経・大智度論を見ると、ともに「薩」ではなく「沙」であり、宗祖が涅槃経の「沙」を「薩」に置き換えたことはすでに判明している。大智度論の「薩」もその蓋然性が高いだろう。「沙」であれば、等式は〈具足=沙=六〉と〈薩=妙〉に二分されるから、六波羅蜜修行で得た釈尊の因果の功徳が妙法にそなわるという結論は導き出せない。よって、受持譲与段は宗祖の主体的な確信、決断による結論と考えるのが適切である。(菅原)
 
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 一、妙法受持により私たちの身土は一念三千となる
 『観心本尊抄』は冒頭に摩訶止観の一念三千の文を引く。
  「それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心にあり。もし心無くんば而已(やみなん)。介爾(けに)も心あれば即ち三千を具す。(中略)ゆえに称して不可思議境となす。意はここにあり云云」
 心があれば誰でも一念三千をそなえるというこの理論を、妙楽湛然は理境(理具性徳の境)と呼ぶ。しかし末法の私たちの劣心に本当に仏界がそなわるのか。この難問は受持譲与段で解決された。
  「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」
 妙法受持により釈尊の因果の功徳が自然譲与されて仏界がそなわる、という宗祖の確信である。ただし十界具足が保証されても、三世間(五陰・衆生・国土)との関係をまだ述べていないから、『観心本尊抄』前半の最後に止観弘決の文を引く。
  「まさに知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称(かな)いて一身一念は法界に遍(あまね)し」
 これは摩訶止観の一念三千の文を釈したもので、衆生の身(五陰世間・衆生世間=正報)と土(国土世間=依報)は一念三千であり、十境十乗観法を修して成仏した時にこの本理にかない、一身一念が法界に周遍するという意味である。これを宗祖は末法の修行に引き寄せて、妙法受持により私たちの身土は一念三千義を成就するという意味で引用した。「身土は一念三千」について浅井円道氏は、「個人の幸福は家庭の不和や社会の動乱によって破壊されることになる」「故に依正は常に別々のものではあり得ない」と説明している。逆にいえば、私たちの人格(正報)は家庭や社会(依報)の安寧に影響を及ぼすといえよう。
 こうして『観心本尊抄』前半では、私たちに十界互具・一念三千が成就するかという問題について、摩訶止観の引文(一念三千の理具)→受持譲与段(十界の事具)→止観弘決の引文(一念三千の成就)という流れで叙述して決着をみたのである。

二、止観弘決の文は釈尊の一身一念の法界遍満を述べているという異解釈
 止観弘決の文は十境十乗観法を修行する者の「一身一念は法界に遍し」について述べているが、そうではなく久遠釈尊の「一身一念」であり、宗祖の引文意図も同じという解釈がある。たとえば浅井円道氏は著書や講演にて、
  「釈尊の成道という事実を基盤にして仏色心の遍満を述べたのである」
  「釈尊が成仏した時、釈尊の身心が全法界にゆきわたる故に、私たちに仏界が備わっている」
  「身土一念三千というこの本理、この本理を証得して、お釈迦さまの一身一念が法界に遍満した。お釈迦さまが成道されたから、我々は仏界を具することができるようになったのだよということです。(中略)伝教大師の「註無量義経」にこれと同じようなことがらが書いてあります。この筋です」
と説明する。註無量義経にはこうある。
  「この究竟即の三仏陀等はただ一人あり。修顕して体を得れば法界に周遍して常寂光に居す。三千世間の依正は宛然として自受法楽するなり。一衆生も三仏陀の性を具有するが如し。一切衆生もまた是くの如し。すでに顕れるを仏陀となし、いまだ顕れざるを衆生となし、分に顕れるを菩薩となす」
 氏はここに、釈尊の修行して得た果徳が法界に遍満し、衆生の心中に本来それがそなわるという義勢がうかがえるとし、止観弘決の文意はこれと同じ筋であるという。

三、受持譲与段は釈尊の一身一念の法界遍満を前提としていない
 浅井氏は『国訳一切経・経疏部二』妙法蓮華経文句(改訂版)の校訂と解説を担当したことから分かるように、中国原始天台の研究者でもあるから、十境十乗観法を修行する者の「一身一念」であることを知っている。知っていながら、あえて釈尊の一身一念と解釈したのは、釈尊の一身一念が法界に遍満しているから受持譲与段(三十三字段)が成り立つと主張するためであり、氏はこう述べる。
  「三十三字段で受持を媒介として釈尊の因果の功徳の自然譲与を受けるという末法観心の修行方法も、釈尊の成道によってその一身一念が法界に充満したという性具の理を基盤に置いているのでなければ、成立しないという意味を示されたことになる」
 しかし私は受持譲与段が釈尊の一身一念の法界遍満を前提としているとは思えない。受持譲与段と同趣旨としてよく引かれる『日妙聖人御書』の、
  「この妙の珠は、昔釈迦如来の、檀波羅蜜と申して身をうえたる虎に飼(か)いし功徳、鳩に貿(か)いし功徳、尸羅波羅蜜と申して須陀摩王として虚言(そらごと)せざりし功徳等、忍辱仙人として歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子・尚闍梨仙人等の六度の功徳を、妙の一字におさめ給いて、末代悪世の我ら衆生に、一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたえ給う。「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子」これなり。我ら具縛の凡夫、たちまちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云く「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり」
の文も、釈尊の六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)修行の功徳がそなわる妙法を受持すれば、釈尊と同じように成仏できると、その確信を述べているが、釈尊の一身一念の遍満を前提としていない。
 『開目抄』でも『観心本尊抄』と同様に、方便品、涅槃経、無依無得大乗四論玄義記、吉蔵の疏、法華玄義、大智度論の諸文から、妙=薩=具足=沙=六の等式を成立させて、
  「妙とは具足。六とは六度万行。諸の菩薩の六度万行を具足するようをきかんとをもう。具とは十界互具。足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり。満足の義なり」
と、六度万行の功徳を含む十界互具の妙法であると述べるが、釈尊の一身一念の遍満を前提としていないのである。
 もとより止観弘決の「一身一念は法界に遍し」は十境十乗観法を修する者のそれであり、釈尊のそれではない。にもかかわらず現今の『観心本尊抄』の解説本や論文の多くが、釈尊の一身一念とする異解釈を用いているので、その点注意を要する。
 繁雑なため浅井氏の所見の出典を省略した。詳しくは『興風』三四号の拙稿「『観心本尊抄』受持譲与段と止観弘決の文の考察」を見てほしい。(菅原)
 
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