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2022年
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 昨年末、例年どおり『興風』・『興風叢書』を刊行することができた。ささやかな宗祖生誕800年の報恩行でもあった。私も小論「日蓮遺文中の擡頭と平出―日蓮の国王観補遺―」を『興風』に投稿し、これまでの拙稿における不足をいくつか補ったつもりだが、「おわりに」でも述べたとおり、補訂はなお不充分で、日蓮遺文の書式(闕字[けつじ]・平出[へいしゅつ]・擡頭[たいとう])、とくに写本類についての精査はこれからである。
 今回は日蓮書状の、代筆から平出の用例を取りあげて追加報告を行うが、最初にあらためて闕字・擡頭・平出についてふれておこう。端的にいえば、闕字・平出・擡頭とは、文中に国王(天皇)やそれに関連する語句など、敬意対象となる用語があらわれた場合、闕字は1字ないし数字をあけて当該文字を記し、平出は改行して当該文字を行頭に、そして擡頭は、当該文字を他の行よりも1文字ないし2文字ほど高く記す。すなわち敬意度は闕字→平出→擡頭と高まってゆく、というものである。
 前掲小論では、日蓮遺文中にみえる平出や擡頭を摘記して、その独特な用法について略述した。また先述どおり、闕字・平出・擡頭は、国王(天皇)とそれに関わる用語に適用するものだから、日蓮がその対象とした人物と、日蓮の国王観とがリンクすることはいうまでもない。そしてこれまで述べてきた、文章表記、内容、用語に加え、書式の上からも、日蓮は北条氏得宗(北条家当主)をもって日本国王とみとめ、『立正安国論』を献上したことを、あらためて確認した。
 ところで日蓮は、一般的な擡頭・平出の用例と異なり、人物(国王など)だけではなく、「妙法蓮華経(法華経)」という経典を敬意表記の対象としているところに、大きな特徴がある。前掲小論では、特に日蓮起草の「陳状草案」(通称「瀧泉寺申状」)における用例を挙げたが、たとえば題目(南無妙法蓮華経)を記す場合「南無」で改行し「妙法蓮華経」を行頭に記すといった具合で、日蓮の法華経観を視覚的にもみることができる。

 
  図版1 日興写本「聖人等御返事」
   【図版は無断転載禁止です】

 またこれは日蓮の自筆ではなく、日興写本「聖人等御返事(変毒為薬御書)」【図版1】によって確認されることだが、日蓮は弘安2年(1279)、熱原の百姓3名が斬首されるにあたり、3名が最期に唱えた題目「南無妙法蓮華経」について、「南無」で改行せずに「奉唱」で改行し「南無妙法蓮華経」を平出している(本文3行目)。ここでは唱題そのものを敬意表記の対象としているわけだが、それは日蓮が、熱原百姓三名が最期に唱えた題目に、崇高なるものを感じたからに他なるまい。なお、この平出は日興写本に見られるもので日蓮自筆によるものではない、との批判もあろうが、この平出は日興がわたくしに用いたものではなく、日蓮自筆の書式にのっとたものであろうことは、前掲小論に述べている。参看を請う。
 とまれ日蓮は、これに先立ち、富士方面の檀越に対して、「末法に入なば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並に法花経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」とか「今、末法に入ぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」等と、日蓮の教説をきわめた、唱題の大事を書き示している。そして熱原の百姓3名は、見事にその大事を体現したわけで、日蓮が彼らの唱えた最期の題目「南無妙法蓮華経」を平出したのは、ゆえあることである。また日興写本を忠実に転写したと思われる「御筆集」にも、「法華経の題目となへまいらせ」の一節を平出(あるいは擡頭のようにもみえる)した例がみられる。
 その他、日朗代筆による日蓮書状「伯耆公御房御返事」【図版2】にも、平出が見られるので掲げておこう。

  図版2 日朗代筆「謹上伯耆公御房書」
    【図版は無断転載禁止です】

 上掲のとおり本状においても「法華経」(本文4行目)と「聖人(日蓮)」(本文6行目)を平出している(あるいは「日蓮」〔本文13行目〕も平出か)。日蓮がみずから「法華経」とあわせて「法主聖人・聖人」を平出していることは、弘安2年の陳状草案にもみられることで、「伯耆公御房御返事」における「法華経」「聖人」の平出は、日蓮の指示か、あるいは日朗による使用かどうか、にわかに判断することはできないけれども、日蓮のみならず弟子・檀越の間でも、法華経や聖人(日蓮)を平出することは、ある程度ひろまっていたことを示している。
 とまれ日蓮遺文における敬意表記は、これまで『日蓮大聖人御真蹟対照録』(立正安国会刊)を除いては、翻刻上、あまり注意されてこなかったことであり、今後は翻刻するにあたり、日蓮による闕字・平出・擡頭の表記は、何らかの形で注記する必要があろう。
 また近世の資料だが、日蓮門下必読書に川路聖謨の『島根のすさみ』がある。同書は佐渡叢書や東洋文庫(川田貞夫氏校注)より刊行されているが、東洋文庫本の凡例を披いてみると「底本の平出・欠字はこれを行わなかった」とある。このように平出・闕字等の表記は、日蓮遺文のみならず、資料を翻刻する上で、やはり重視されてこなかった。こうした資料翻刻上の問題点については、すでに佐藤博信氏の指摘があるけれども、このたびの考察を通じて、原資料のもつ重みをあらためて痛感した。統合システムに収録される諸資料についても、つぶさに敬意表記の仕方を考えてゆきたい。(坂井)
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 数回にわたって日蓮遺文中の擡頭・平出等について略述してきたが、最後にこれまでの所見等をまとめておく。
 いったい擡頭や平出とは、中国の書式であって、本邦における使用はこれに倣ったものと考えられる。また敬意表記の対象となる用語(平闕用語)は皇帝(本邦では天皇)に関するものだから、日蓮の活動した鎌倉期の東国武家社会では、使用されることの少なかった書式といえよう。日蓮は何によってこれを知識したのか。
 そんな中で注目されるのが、日蓮がみずから披見したといっている蒙古国牒状で、同牒状には擡頭・平出の使用がみられる。すでに佐藤博信氏は、日蓮・富木常忍起草による瀧泉寺大衆日秀・日弁らの陳状草案(通称:瀧泉寺申状)にみえる擡頭・平出の使用は、蒙古国牒状の影響によるのではないか、と指摘している(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)が、その可能性は高いように思う。
 また先年、都守基一氏によって蒙古国牒状の日蓮写本断編が発見され、現存部の訓点が東大寺宗性の写本と一致していることも指摘されている(『日蓮仏教研究』9号、2018年)。日蓮は間違いなく、蒙古国牒状をなぞっていたわけで、その書式(擡頭・平出)もまのあたりにしていた。しかも日蓮は陳状草案において、あたかも蒙古国牒状における擡頭・平出の使用を意識したかのように、平闕用語の対象(国王等)を牒状とは正反対に用いている。
 例えば蒙古国牒状では、蒙古国王クビライを「〝大〟蒙古国皇帝」として擡頭し、「日本国」は一段下げて日本国王を「〝小〟国之君」とするが、日蓮は陳状草案に「〝大〟日本国」と「大」を加えて記し、これを平出するも、「蒙古国」には敬意表記は用いず、「大」も冠していない。また日蓮は陳状草案に、「蒙王」(蒙古国王=クビライ)に敬意表記は用いず、「君」(北条時宗=日本国王)を平出するなど、相対的に記していることは一目瞭然である(拙稿『興風』33号、2021年)。
 また日蓮は陳状草案において、北条時頼への『立正安国論』献上について「上表」(国王に文書を奉る)といったり、北条時宗への上申を「上聞を驚かす」(天子に申し上げる)というなど、北条氏得宗(北条氏の当主)に対しては、書式も用語も日本国王としての扱いをしている。
 目的は何か。先に川添昭二氏は『立正安国論』に引かれる護国経典中の、正法護持・悪法治罰の国王を、日蓮は北条時頼に重ねて見ていることを指摘している(『日蓮と鎌倉文化』平楽寺書店、2002年)が、護国経典は漢訳の段階で、王権との結びつきを強化するため、内容を付加したことが指摘されており(松長有慶『密教』岩波新書、1991年)、国王は正法護持・悪法治罰を行ってこそ護国を実現できることが説かれてきた。いうまでもなく、護国は国王のつとめであって、国王としての自覚促進に、経典は大きな役割をになってきたのである。直接的な関わりは認められないものの、陳状草案における得宗の扱い(書式・用語)も、北条時宗に対して、日本国王としての自覚を促すねらいがあったと考えられる。日蓮は陳状草案で、護国のために用いるべき経典(法華経)と人師(日蓮)についても、国王(北条時宗)とならんで平出しており、ビジュアル効果を併用し、これを訴えたと考えられるのである。
 中山法華経寺に現存する陳状は、あくまでも草案だが、日蓮らがこうした思考をもって、草案をしたためたことは明白で、清書するにあたっても、この書式が用いられたことに疑う余地はない(たとえば日蓮は草案中、行末に書かれた「聖人(=日蓮)」を行頭にもっていくよう、すなわち平出するよう指示している)。
 鎌倉時代の裁判においては、当事者主義が徹底されていて、「証拠も自ら提出したものがすべてであった」(笠松宏至『徳政令』講談社学術文庫、2022年)し、問状についても「当事者すなわち訴人が自ら、あるいは使者をもって論人のもとに送達する制であった」(石井良助『新版中世武家不動産訴訟法の研究』高志書院、2018年)。
 瀧泉寺院主代の訴えた訴訟で、論人である日秀・日弁等の陳状が、どのようなかたちで提出されたのかはわからないが、少なくとも、陳状の書式(擡頭・平出)をまのあたりにした誰しもが、陳述者の訴える依経(法華経)・人師(日蓮)・国王(北条時宗)が一目瞭然となるよう、意識して書かれたものである。
 なお日蓮の没後も、日蓮門下による北条氏当主(得宗)=日本国王という認識は、鎌倉幕府滅亡まで続いており、直弟の日興は北条時宗の次代得宗、北条貞時による討罰対象者を「朝敵(国王の敵)」といっているし、日全は幕府滅亡後も、北条政権の奪還をめざした北条時行の挙兵(中先代の乱)に着目している(『法華問答正義抄』巻9〔興風叢書11〕、鈴木由美『中先代の乱』中公新書、2021年)。
 それから日蓮による北条氏得宗の平出は、日蓮の独創というわけではなく、同時代の、特に東国社会においては、やはり得宗を平出した例がまま見られる(佐藤雄基「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」〔『史学雑誌』129巻10号、2020年など)。また日蓮の国王観については、最近も論じれていて(山本みなみ『史伝北条義時』小学館、2021年)、私もひきつづき検討を重ねてゆく所存である。(坂井)
 
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 『修禅寺決』は、伝教大師が渡唐の際に道邃和尚から相伝されたという七箇法門を内容とする。七箇とは、四箇の大事(一心三観・心境義・止観大旨・法華深義)と、法華深義から開出される略伝三箇(円教三身・常寂光土義・蓮華因果)であり、恵心流七箇大事と称されている。
 ただし『修禅寺決』では、略伝三箇については名目のみ記し、その解説を「別集の如し」として省略する。よって『修禅寺決』の内容的構成は次のようになっている。

   ①修禅寺相伝私注 第一 一心三観
   ②修禅寺相伝私注 第二 心境義
   ③修禅寺相伝日記 第三 止観大旨
   ④修禅寺相伝日記 第四 法華深義

 ◎主な写本・刊本の伝存状況
 従来『修禅寺決』には、『伝教大師全集』五巻、及び『天台本覚論』(岩波・日本思想体系)の翻刻に当たって、次のような写本や刊本の存在が報告されている。
 まず『伝教大師全集』では、「江州坂本西教寺 慶長歳極月十三日 仙桃師写本二巻」と記して西教寺本を底本とし、次いで菊岡氏所蔵・永禄元年の日承本、叡山実蔵坊所蔵の刊本、藤田宗継刊本、赤松氏所蔵の刊本等を対校本として用いる。すなわち写本は慶長年間(1596~1615)、永禄元年(1558)が確認されている。なお刊本はいずれも刊年不明である。
 次に『天台本覚論』では、身延山久遠寺所蔵の身延11世日朝(1422~1500)の所持本(①②欠)、および身延12世日意(1444~1519)の所持本(④欠)を底本とし、「金沢文庫所蔵の古写本四帖、伝教大師全集所収本、立正大学所蔵の諸種刊本と対校した」とある。なお、日朝所持本には「文明第十二暦〈庚子〉正月上旬書写之了 京少納言 慶運判」の識語が確認される。
 文明十二年(1480)は日承本(永禄元年)より約80年ほど遡るが、さらに身延山久遠寺には 「一校畢/日定(花押)/永享五歴〈癸丑〉十一月廿五日/於武州師岡保神奈河青木/妙泉寺拭老眼尽志写之了〈生年六九二〉/日行聖人ヨリ蒙免許畢」(『身延文庫典籍目録』中)の奥書をもつ日定の書写本(①②欠)が所蔵されている。
 永享五年(1432)は、日朝所持本よりさらに約50年ほど遡り、しかも「日行聖人より免許を蒙り畢ぬ」との記述から、日定写本の元本があったことも確認される。「日行聖人」とは、延命院日行(1387~1434)のことで、甲州波木井郷の人であり、兄弟の身延8世日億・身延9世日学とともに身延7世日叡に師事している。また「免許を蒙り畢ぬ」からは、『修禅寺決』は身延において秘書として伝えられていたことが推測される
 いずれにせよ、日定本は現時点において確認される最古の写本であり、これら写本の伝存状況からも日蓮門下が『修禅寺決』に少なからず関わってきたことが窺える。

 ◎日蓮遺文との関連
 次に、日蓮遺文との関係について述べていきたい。すでに、これまでの研究にて『修禅寺決』は『当体蓮華抄』および『十八円満抄』と関係していることが指摘されている。

 〇『当体蓮華抄』
  「伝教大師修禅寺相伝ノ日記とて四帖あるなり。其中に五重玄義を委シく釈し給へり。日蓮又別に記す。其ヲくはしく見るべし。伝教大師四帖の書習ふべし。先キに御存知たりといへども別して書キ出タしまいらせ候。蓮華の沙汰彼を見給ふべし。蓮にをいて十八円満等の法門天台宗の奥義也。」(『定遺』2137頁) 

 〇『十八円満抄』
  「伝教大師修禅寺相伝ノ日記ニ之在リ。此法門ハ当世天台宗ノ奥義也。秘可シ秘可シ。」                                 (『定遺』2137頁) 
  「修禅寺相伝ノ日記之ヲ見ルニ妙法蓮華経ノ五字ニ於テ各々五重玄也。」(『定遺』2140頁) 
  「並ヒニ当体蓮華ノ相承等 日蓮之己証ノ法門等 前々ニ書キ進ラセシカ如シ。委クハ修禅寺相伝日記ノ如シ。天台宗ノ奥義之ニ過ク可ラ不ル歟。」(『定遺』2144頁) 

 両書とも偽撰遺文であり、そこには「修禅寺相伝日記」との書名がみえ、とくに『十八円満抄』には『修禅寺決』が多く引用されている。他に、『臨終一心三観』・『日女御前御返事』(1-256)・『御講聞書』などの関連も取り上げられるが、いずれも真撰遺文には属さない。真撰遺文には、『修禅寺決』の内容はもとより書名すらも確認することはできない。
 それゆえ、以下のような所説がみられる。
  〇浅井要麟「恵檀両流と日蓮聖人の教学」(『大崎学報』92号)
  「修禅寺決の成立年代を論ずる場合にも、文献として「日蓮上人の遺文」(恐らくは十八円満抄)を採り上げられているが、これは如何なものであろう。」 
  〇大久保良順「天台口伝法門と浄土教」(『印度学仏教学研究』第16巻第1号 通巻31号)
  「修禅寺決の主張からは、中古の天台法門が、日蓮教学の影響を受けた後、称名を唱題に進めようとした意図がうかがわれるといえよう。」 
  〇中条暁秀「日蓮遺文における御講聞書の位置」(『大崎学報』150号)
  「日蓮教学では総じて、修禅寺決からの引用は日蓮聖人遺文にはない、と踏んでいる。」 
  〇田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』
  「日蓮以後において、日蓮教学を摂取しつつ、天台本覚思想を構成したものが、「修禅寺決」であり、その「修禅寺決」を摂取しつつ、日蓮教学を構成したものが、「十八円満抄」であり、さらに、その「十八円満抄」をうけて、「法華肝要略秀句集」が偽作されたものではなかろうかということである。」 

 『修禅寺決』の真偽問題を遡れば、長遠院日遵(1588~1654)が、舜統院真迢(1596~1659)の『破邪顕正記』を破すため、『諫迷論』一巻(『日蓮教学全書』1巻)に
  「凡ソ天台大師ノ法華ヲ弘通シ給フ相ヲ案スルニ全ク我立ニハ非ズ。霊山会上ニテ直ニ釈迦世尊ノ面授口決ノ道ナリ。学生式・修禅決ヲ見ヘシ。」 
と述べ、『修禅寺決』を用いて真迢を難じている。
 それに対し、真迢は『禁断日蓮義』二巻(『日蓮教学全書』25巻)に
  「凡ソ修禅ノ決ハ古来偽書也ト云伝ヘタリ。略秀句・神奥秘一谷極等多ク偽書也。伝教大師ノ御作ノ目録ニイラズ。文章モ義勢モ甚タ相似セズ。恐クハ日蓮末弟ノ謀作ナルヘシ。又知謗法論ト云書アリ。是又五大院ノ真作ニ非ス。カヤウノ偽書繁多也。」 
とし、『修禅寺決』は偽書であり「日蓮末弟ノ謀作」と断言している。
 ここで注目されるのは、『修禅寺決』とともに「略秀句」(伝教仮託『法華肝要略注秀句集』)および「知謗法論」(安然仮託『要決法華知謗法論』)が列挙されていることである。この二書は、写本が身延山久遠寺に所蔵されており、日蓮偽撰遺文『法華本門宗要抄』の中で重要書とされている。また、「神奥秘一谷極」(『神奥秘谷極巻』)についても、その写本が身延山久遠寺に所蔵されている。
 近年にいたって『修禅寺決』は、『伝教大師全集』五巻に「修禅寺相伝私注」「修禅寺相伝日記」として所収され、『天台本覚論』(日本思想体系9)では、目次および内題に『修禅寺決(伝最澄)』として本書を取り扱っている。すでに、『日本大蔵経』(日本大蔵経編纂会 大正11年発行)解題に「修禅寺相伝口決四巻は伝教大師の撰述と云はるるも恐らく然らざる可し」とあり、他に、本書に関する諸論文をみても「伝最澄」に対する異論はみられない。ところが、本書は出処不明ゆえ、その成立については未解決のままである。

 ◎『法華肝要略注秀句集』との関連
 『法華肝要略注秀句集』(『伝教大師全集』五巻。以下、『略注秀句』と略称)は、伝教仮託書であり、日蓮偽撰遺文『法華本門宗要抄』に重要書として引用されている。また、『法華本門宗要抄』に引用される『要決法華知謗法論』『助顕法華略記集』(いずれも日蓮門下作成の安然仮託書)との関連から、『略注秀句』の成立を日蓮滅後70~80年頃とし、日蓮門下によって作成されたことを実証した(拙論「伝教仮託『法華肝要略注秀句集』に関する考察[『興風』33号])。
 その工程の中で、『略注秀句』と『修禅寺決』との関連を幾つか確認し、おぼろげながらも『修禅寺決』の成立には日蓮門下が携わっているようにもみえた。
 すでに、大久保良順「修禅寺決を中心とする二三の問題」(『天台学報』9号)では、次のように述べている。
  「この秀句集は「大唐貞元十四年三月三日、於龍興寺入道邃和尚室 稟承法華深義略伝三箇大事 所謂円教三身 蓮華因果 常寂光土義」(上巻)とあるように、恰かも略伝三箇大事についての決義であるような印象を与える。修禅寺決法華深義の下に「宗是妙因妙果 此開三種別方 一蓮華因果 二円教三身 三常寂光土 如別集」とあるので、その別集が肝要秀句集を指すように見えるのである。しかし未だそう断定し去るわけにもいかない。」
 ここでは、『修禅寺決』にて省略された略伝三箇の大事が、『略注秀句』の中にみえることから、「別集の如し」は『略注秀句』を指すと推測している。しかし、それは断定にいたっていないため、最近の研究においても「別集が何を、そしてどの文献を指しているのか、これは今もって解決されていない問題である。」(藤平寛田「中古天台における略伝三箇攷」『天台学報』58号)と指摘されている。
 そこで次回は、『修禅寺決』と日蓮門下によって作成された『略注秀句』(伝教仮託)・『要決法華知謗法論』(安然仮託)・『助顕法華略記集』(安然仮託)との関連を再検討し、あらためて『修禅寺決』の出処を探ってみたい。 (渡邉)
 
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 今回は、『修禅寺決』に用いられる年号の問題、および本文中にみえる「妙法蓮華経ノ五字」について考察してみたい。

一、「貞元二十四年三月一日」の記述について
 『修禅寺決』の冒頭に、次の一文がある。
  「大唐貞元二十四年三月一日 四箇ノ法門ヲ伝フ。所謂 一ニハ一心三観、二ニハ一念三千、三ニハ止観ノ大旨、四ニハ法華ノ深義ナリ也。」(『伝全』5巻69頁) 
 これによれば、伝教は「貞元二十四年」に「四箇ノ法門」を道邃より伝授されたことになるが、「貞元」は二十一年に「永貞」と改元されているため、実際には「貞元二十四年」の年号は存在しない。これと同じく、「貞元二十四年」を相承の年次とする典籍に『三大章疏七面相承口決』(伝最澄)があるが、この件については後述する。
 ここでは『修禅寺決』と日蓮門下作成の伝教仮託『法華肝要略注秀句集』(以下『略注秀句』と略称)、安然仮託『要決法華知謗法論』(以下『要決法華論』と略称)、日蓮偽撰遺文『法華本門宗要抄』との関連について述べてみたい。

 〇『法華肝要略注秀句集』
 まず『略注秀句』には次のような一文がある。
  「去ル延暦二十三年ニ入唐シ、大唐ノ貞元十四年三月三日、竜興寺ニ於テ道邃和上ノ室ニ入リテ、法華深義ノ略伝三箇ノ大事ヲ稟承ス。」(『伝全』5巻281頁) 
 ここには、「貞元十四年三月三日」に道邃より「法華深義ノ略伝三箇ノ大事」を承けたとある。「延暦二十三年」は西暦八〇四年で、「貞元十四年」は西暦七九八年であれば、すでにこの記述は時系列をなしていない。『修禅寺決』の「貞元二十四年」が存在しないため、「貞元十四年」と改めたものと思われるが、むろん矛盾といわざるを得ない。なお日付についていえば、『修禅寺決』には「三月一日」とあり、『略注秀句』には「三月三日」と近接している。
 次に、これらの件を伝教撰とされる『内証仏法相承血脈譜』の一文と照らし合わせてみよう。
  「大唐貞元二十一年歳乙酉ニ次ル〈大日本国延暦二十四年乙酉当也〉春三月二日初夜二更亥ノ時、台州臨海県竜興寺西廂ノ極楽浄土院ニ於テ天台ノ第七伝法ノ道邃和上ヲ奉請シ、最澄義真等、大唐ノ沙門二十七人与倶ニ円教ノ菩薩戒ヲ受タリ」(『伝全』1巻236頁) 
 ここには、貞元二十一年三月二日、竜興寺にて伝教が道邃より「円教ノ菩薩戒ヲ受タリ」とする史実が語られている。この『血脈譜』の「三月二日」と、『修禅寺決』の「三月一日」、および『略注秀句』の「三月三日」の記述について、高橋謙祐「日蓮聖人と『修禅寺決』(『日蓮教学研究所紀要』5号)は、次のように指摘する。
  「略伝三箇の伝法を二日としたいところであろうが、二日は菩薩戒を受けた日なので、重複をさけるために故意に一日、三日にしたとも推測できる。三月一日四箇相伝、二日受戒、三日略伝三箇稟承とすれば、一応の筋が通ってすっきりする。」 
 一連の日付の相違に会通を加えたものであり、それなりの見解と思われるが、年次の相違や矛盾については解明されていない。以下に三書の年月日に関する記述を掲げておきたい。
  [偽撰]『修禅寺決』      貞元二十四年         三月一日
  [真撰]『内証仏法相承血脈譜』 貞元二十一年〈延暦二十四年〉 三月二日
  [偽撰]『略注秀句』      貞元 十四年〈延暦二十三年〉 三月三日

 さて次に、『修禅寺決』と『要決法華論』及び『法華本門宗要抄』との記述を比較・対照してみたい。
 〇『要決法華論』
  「爰ヲ以テ山家大師即チ唐朝ニ於テ、貞元十四年〈戊子〉三月三日ニ竜興寺ニ於テ、法華ノ深義 略伝三箇大事ヲ相承。所謂円教三身・蓮華因果・常寂光土義也。」
                     (『興風叢書』15号 158頁) 
 〇『法華本門宗要抄』
  「延暦二十四年、伝教大師入唐シテ、貞元十四年〈戊子〉三月三日 竜興寺ニ於道邃ト行満ノ両師ニ値ヒ奉リ、法華宗ヲ習学スル之次テニ真言ト禅宗与ヲ伝フ。」
                     (『定遺』2150頁) 
 両書とも、『略注秀句』の「貞元十四年三月三日」を継承しているが、そこに「戊子」の干支が付されている。しかし「貞元十四年」の干支は、「戊子」ではなく「戊寅」でなければならない。加えて興味深いことに、本来存在しないはずの「貞元二十四年」に干支をあてると「戊子」となる。これを思うに、『要決法華論』及び『法華本門宗要抄』の作者は、『略注秀句』の「貞元十四年」を用いながら、『修禅寺決』の「貞元二十四年」にも意識があったので、「貞元十四年」に「戊子」を付してしまったと推測されようか。
 いずれにしても『修禅寺決』『略注秀句』『要決法華論』『法華本門宗要抄』の四書が関連することによって、史実に合わない「貞元二十四年」「貞元十四年〈戊子〉」の年次が作成されたことは間違いないだろう。

二、「貞元二十四年六月三日」及び「貞元二十四歳六月日」の記述について
 ここでは『修禅寺決』と、同じく伝教仮託の『三大章疏七面相承口決』(以下『七面口決』と略称)の記述に注目してみたい。
 まず『修禅寺決』の[第三 止観大旨]の中に、「貞元二十四年六月三日ノ伝法ニ云ク」として、教行証の止観を相伝されている。また[第四 法華深義]では、「于時貞元二十四歳六月日ナリ。抑モ妙法ノ深義ヲ尋ヌルニ」として、法華深義に関する問答が展開される。
 これらの記述をみると、『修禅寺決』の「貞元二十四年」はただの誤記ではなく、この年号があるものとして用いられている。
 これと同じように、『七面口決』の冒頭にも「大唐貞元二十四年五月日、仏立寺ニ於テ三大章疏ノ惣意ヲ伝フ」と記されている。この他の天台関連の典籍に「貞元二十四年」の年号は全く確認されないので、これだけでも『修禅寺決』と『七面口決』との密接な関連性が分かるのである。むろん、『修禅寺決』の「貞元二十四年六月三日ノ伝法」、「貞元二十四年」の記述、『七面口決』の「貞元二十四年五月日」の記述はともに史実として認められない。
 ところで、偽撰遺文で相伝書とされる『法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)』は、『七面口決』の内容を換骨奪胎して成立したものである。その冒頭には、
  「伝教大師ハ生歳四十二歳ノ御時仏立寺ノ大和尚ニ値ヒ奉リ、義道ヲ落居シ、生死一大事ノ秘法ヲ決シタマフノ日、大唐ノ貞元二十一年〈太歳乙酉〉五月三日三大章疏ヲ伝ヘ、各七面七重ノ口決ヲ以テ治定シ給ヘリ。」(『昭和新定』2688頁) 
との一文がある。これは『七面口決』の
  「大唐貞元二十四年五月日、仏立寺ニ於テ三大章疏ノ惣意ヲ伝フ。各七重ノ惣意ヲ以テ文文句句ニ通セシメ一部ノ難儀ヲ開クベシ。先玄文七面ノ口決トハ……」 
との一文に通じている。『本因妙抄』の作者は『七面口決』を用いながら、「貞元二十四年」の年次については「貞元二十一年」と変えて史実に合わせたようである。
 また『修禅寺決』には、「貞元二十四年六月日」の問答中に、「予幸ニ仏立寺ニシテ、座主向ヒテ一字成仏ノ秘伝ヲ問アグルニ……」との一文があるが、ここに記された「仏立寺」の寺名は、『七面口決』『本因妙抄』及び偽撰遺文の『臨終一心三観』にその用例が見られるのみで、他の天台や日蓮関係の典籍には見出せないようである。『臨終一心三観』は、『修禅寺決』における「三重の一心三観」の当該部分を抄録しただけなので著作にも当たらない。よって「仏立寺」に関して、『修禅寺決』『七面口決』『本因妙抄』の三書は深い関連を持っているといえよう。

三、「妙法蓮華経ノ五字」の表記・用例について
 次に、『修禅寺決』にみえる「妙法蓮華経ノ五字」及びその唱題思想について、少しく検討してみたい。『修禅寺決』の該当文を挙げると以下のようになる。
 ①第一「一心三観」
  「臨終之時、南無妙法蓮華経ト唱フ」「故ニ臨終ノ之行ニハ者、法華ノ首題ヲ唱フ可シ」 
 ②第二「心境義」
  「臨終ノ時専心ニ応ニ妙法蓮華ヲ唱フベシ」「妙法蓮華経ノ題名千返ナリ也」 
 ③第三「止観大旨」
  「口ニハ南無妙法蓮華経ト唱フ可シ心ニハ念ス可シ」 
 ④第四「法華深義」
  「妙法蓮華経ノ五字ノ中ニハ正ク蓮ノ字ニ在リ」「妙法蓮華経ノ五字即チ五重玄ナリ也」「諸仏ノ内証ニ五眼ノ体ヲ具ス、即チ妙法蓮華経ノ五字ナリ也」 
  ①②の臨終時における唱題については、他の天台関連の典籍には殆んど見当たらない。④の「妙法蓮華経ノ五字」の用語については、『七面口決』『出離生死血脈』に確認されるものの、両書はともに伝教仮託の偽撰書である。
 とくに④には、「十八円満ノ義」を一々にあげ、さらに「十九円満ヲ以テ蓮ニ名ク。所謂当体円満ヲ加フ」とし、「妙法蓮華経ノ五字ノ中ニハ正ク蓮ノ字ニ在リ」と説いている。偽撰遺文の『十八円満抄』及び『当体蓮華抄』は、『修禅寺決』の諸文を転写するかたちで出来あがっている。一方において、『修禅寺決』の唱題思想が天台関連の典籍に引用されているケースは殆んど見られない。
 次いで、日蓮門下によって作成された、伝教仮託『略注秀句』や安然仮託『要決法華論』、同『助顕法華略記集』を検索すれば、三書ともに「妙法蓮華経ノ五字」の用例が頻出するのである。これもまた『修禅寺決』と日蓮門下が作成した仮託書の内容が通底することを示しているだろうか。

【おわりに】
 今回は三つの項目を掲げて『修禅寺決』の出処を検討したが、『修禅寺決』は日蓮遺文に限らず複数の天台関連の仮託書と関連しているため、その成立については更なる精査が必要である。
 たとえば、『修禅寺決』の[第二 心境義]は円仁仮託『一念三千覆注』と同文であり、その成立伝承についても気にかかる。また忠尋仮託『漢光類従』三巻には、「山家ノ大師唐朝ヨリ御将来ノ日記ニ禄シ玉ヘル口伝也」(『大正蔵』74・400頁B)とあり、『修禅寺決』の影響が確認される。ただし『漢光類従』の成立に関して、大久保良順「天台口伝法門の成立と文献化」(『本覚思想の源流と展開』所収)は、「少なくとも政海の時代即ち一三〇〇年を過ぎる頃までは「漢光類従」は表面に現われることがなかったようである」と論評しており、日蓮滅後に成立した可能性も考えられる。もし一三〇〇年以降ともなれば、その成立や伝承には日蓮門下の存在も視野に入れなければならない。
 いずれにしても『修禅寺決』の考察には、それにまつわる天台関連の文献を種々検討しなければならない。今後も、『修禅寺決』の内容を分析しつつ、出処の解明を試みたい。(渡邉)
 
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 文永十一年執筆の『法華取要抄』と翌年三月十日執筆の『曾谷入道殿許御書』の内容に関連性があることは言うまでもない。ここで注目するのは、共通して引かれる『法華玄義』第六の文である。

(一)『法華取要抄』に引かれる法華玄義第六の文
 『法華取要抄』は大科五段の構成と考えられる。①諸経と法華経の勝劣、②三五下種結縁の釈尊は此土の本師、③法華経本迹二門は末法為正、④末法の要法の開示、⑤要法広布の先相。
 大科②〈三五下種結縁の釈尊は此土の本師〉では、五百塵点劫に下種して以来釈尊が娑婆世界の本師であるにも拘わらず、諸宗が久遠釈尊以外の諸仏を本尊とすることを批判して、『法華玄義』第六の文をこのように引く。
   「天台大師の云わく、もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退の地に住す。乃至、なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し等云云。」(『定遺』813頁)
 これは眷属妙の文である。少々説明を施すと、迹門十妙の眷属妙は五段で構成され、その第二・眷属を明かす段の応生の眷属を説明するところで、一分の中道を証得した法身の菩薩が此土に応生する理由に、他を熟させるために来る、自ら成熟するために来る、本縁のために牽かれるの三つをあげた。上掲の文は〔本縁のために牽かれる〕の冒頭部である。その具文と意訳を示そう。
  「三に本縁のために牽かれるとは、もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退の地に住す。仏はなお自ら分段に入りて仏事を施作す。有縁の者、何ぞ来たらざることを得ん。なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し。」(『大正』33巻756頁下) 
  《意訳》三に過去の因縁のために牽かれるとは、法身の菩薩は過去にこの仏に従って初めて道心を生じ、この仏に従って不退地に住することができた。仏は依然として自ら三界に入って施化を行っている。有縁の者がどうして来ないことがあろうか。あたかも百の川が海に流入すべきようなものであり、仏との縁に牽かれて三界に応生するのも同様である。 
 主旨は三界の施化を行う仏のもとに過去の因縁ある者が応生するという点にあり、「もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退の地に住す」の文は仏との過去の因縁を明かし、「なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し」の文は、過去の因縁に牽かれて有縁の者が三界に応生することを述べている。『法華取要抄』ではこの仏を、久遠以来此土の衆生に下種し教化してきた教主釈尊、有縁の者を、久遠以来下種され教化されて在世釈尊のもとに応生する諸衆のことと解釈する。
 ところで、大科③〈法華経本迹二門は末法為正〉に次の記述がある。
  「疑って云わく、多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出、これらは誰󠄀人のためぞや。(中略)仏の在世には一人においても無智の者これなし。誰人の疑いを晴さんがために、多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出だし、地涌の菩薩を召すや。方々もって謂れなきことなり。(中略)偏に我らがためなり。」(『定遺』815頁) 
 地涌の菩薩も過去の因縁によって在世の本門八品に来会したが、他の諸衆と異なり、要法付属を受ける責務を担っている。『法華取要抄』における『法華玄義』第六の引文目的は主副の二つあると推察され、主目的は上述のとおり、在世釈尊と諸衆の久遠以来の深縁を明かすためであり、副目的にこの「地涌の涌出」「地涌の菩薩を召す」理由を明かす〝呼び水〟としての役割があると考えられる。これは次に示す『曾谷入道殿許御書』の『法華玄義』第六の引文目的から推測できるが、しかし成功していない。理由は『法華玄義』第六の文は記入場所からみても、やはり大科②〈三五下種結縁の釈尊は此土の本師〉の文証であり、「地涌の涌出」「地涌の菩薩を召すや」の文との間がかなり離れているためである。

(二)『曾谷入道殿許御書』に引かれる法華玄義第六の文
 『曾谷入道殿許御書』は大科五段の構成と考えられる。①滅後末法の逆謗救助は要法に如かず、②在世正像と末法の弘通方規は異なる、③正像に弘通された経教、④末法日本の逆謗に下種すべき要法と上行自覚、⑤聖教の蒐集を求む。
 大科④〈末法日本の逆謗に下種すべき要法と上行自覚〉は前半と後半に分けられる。前半では地涌の菩薩が末法衆生を利益する文証に涌出品の経文と、『法華文句』涌出品、『法華文句記』涌出品、『文句輔正記』信解品の各文を引いてこう結ぶ。
  「天台の云わく、なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し云云。恵日大聖尊、仏眼をもって兼ねてこれを鑑みたまふ。故に諸の大聖を捨棄し、この四聖を召し出だして、要法を伝へ、末法の弘通を定むるなり。」(『定遺』904頁) 
 すでに大科②〈在世正像と末法の弘通方規は異なる〉で、釈尊在世の諸衆は「三五下種の輩」であると述べ終えたから、ここでは『法華玄義』第六の「なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是くの如し」の文のみを引き、上行等の四大菩薩に要法が付属され、末法の大導師と定められたことを明記したのである。これは『法華取要抄』で成功しなかった副目的を新たに主目的にした引用といえよう。
 末法の大導師の自覚は後半の最後にこう示される。
  「予、つらつら事の情を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍して、仏、上行菩薩出現の時を兼ねてこれを記したまふ故に、粗これを喩すか。しかるに予、地涌の一分に非ざれども、兼ねてこの事を知る。故に地涌の大士に前立ちて粗五字を示す。」(『定遺』910頁)
 こうして、前半最後に上行等の四大菩薩が末法の大導師と定められたことを述べ、後半最後に上行自覚を「地涌の大士に前立ちて粗五字を示す」という表現で示して、叙述がスムーズに行われている。この時すでに確固たる上行自覚があったことは、三ヶ月前の文永十一年十二月に図顕された通称万年救護本尊の讃文に、「此大本尊(中略)後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」(この大本尊は……後五百歳の時、上行菩薩が世に出現して始めてこれを弘宣す)とあり明白である。

(三)『注法華経』神力品に記入される法華玄義第六の文
 神力品の初頭にこう説かれている。
  「世尊、我等は仏の滅後に、世尊と分身所在の国土、滅度の処において、当に広くこの経を説くべし。所以は何ん。我等もまた自らこの真浄の大法を得て、受持読誦し、解説書写して、これを供養せんと欲す。」(『開結』577頁) 
 これは上行等の地涌の菩薩が仏滅後における唱導の決意を述べ、唱導を委託されんことを申し出たもので、『注法華経』ではこの裏に『法華玄義』第六の文が次のように記入してある。
   
   【図版は無断転載禁止です】
  「玄六に云わく、一は熟他のため、二には自熟のため、三には本縁のためなり。○二に自成のために来るとは、法身の菩薩は道を進むこと定まりなし。あるいは生身に従って道を進め、あるいは法身に従って道を進む。故に下の踊出の菩薩の云わく、我もまた自らこの真浄の大法を得んと欲すと。分別功徳品の中に増道損生を明かすは即ちその義なり。三に本縁のために牽かれるとは、もとこの仏に従って初めて道心を発こし、またこの仏に従って不退地に住せり。仏はなお自ら分段に入りて仏事を施作す。有縁の者、何ぞ来たらざることを得ん。なお百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生することまた是の如し。」(第7巻212番) 
 法身の菩薩が此土に応生する理由の内、〔自ら成熟するために来る〕〔本縁のために牽かれる〕の二つを具さに記していて、この記入から、地涌の菩薩は過去の因縁により釈尊在世に応生して末法の弘通を委託されることを望み、自ら修行し成熟するために末法に応現すると、日蓮が考えていたことが窺える。
 この記入は『曾谷入道殿許御書』の引文目的に合致しているから、両者の間に因果関係が認められよう。〈菅原〉
 
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