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2025年
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「法華本門見聞」(『日順雑集』)に、

  石河殿〈新兵衛入道殿〉者西山大内入道ト打ツレテ度々鎌倉奉値聖人ノ御法門ヲ聴聞セラレシカトモ、法門ヲハ道理トテ世間ハヽカラレシヲ、我上野ヘ越タリシ時、聖人御生存ノ時歌ヲ一首〈日興上人ニ被進候〉ヨミテ遣シタリ、
其ノ歌云、
西ヘ行 道ヲムナシト 聞カラニ 心ニ宿ヲ トリソワツラウ
御返事ノ歌云、
西ヘ行 道ヲムナシト 聞ナラハ 思モトマレ 鷲ノ山里
如此アリシ程ニヤカテ上野ヘ来玉ヒテ法門ノ事尋玉フ…
                       (『富士宗学要集』2巻125頁)

 
  「法華本門見聞」(『日順雑集』)
   【図版は無断転載禁止です】

 という一節がある。石河殿〈新兵衛入道殿〉は法名を道念といい(日興『弟子分帳』)、嫡子の義忠は、後に重須本門寺の開基檀越となっている。西山大内入道は、一説に西山本門寺の開基檀越、大内安清といわれるが未詳。ただその名乗りから日興母方、大宅一族であることは間違いない。
 また大石寺6世日時談『大石記』に「石川殿は歌道より日興上人へ近付き申して法華を持つなり、重代にはあらず」とあって、おそらくはこの物語と関わる話であろうが、ともかく彼らは鎌倉にて日蓮の教えに接したことにより、当時風靡していた浄土信仰に疑問をもつにいたった。
 石河道念と西山入道は、ともに富士地方の日蓮の檀越だが、同じく富士の檀越、南条兵衛七郎も、浄土信仰から法華信仰に転じた檀越だったことが、「南条兵衛七郎殿御書」によってうかがえる。南条氏もまた、鎌倉にて日蓮の教えに接したようである。
 上掲の物語は、石河・西山の両名が、鎌倉にて日蓮の教えを聴聞し、説くところは尤もと得心するも、日蓮は世にはばかられる存在であり、一歩を踏み出せずにいた。日蓮はいう。

   本地久成の円仏は此の世界に在せり、此の土を捨てて何れの土を願ふべきや、故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思ふべし、何ぞ煩はしく他処を求めんや
                    (『守護国家論』)

 西方極楽浄土こそが、我等衆生を救う世界であり、阿弥陀仏こそが、此土から浄土へ導いて下さる仏様と認識していたであろう石河氏等からすると、日蓮の説示は斬新だったに違いない。

  西ヘ行 道ヲムナシト 聞カラニ 心ニ宿ヲ トリソワツラウ

の一首は、石河道念が悶々としたその心境を歌に託し、日興のもとへ参らせたものである。これに対する日興の返歌が、

  西ヘ行 道ヲムナシト 聞ナラハ 思モトマレ 鷲ノ山里

で、いよいよ石河道念は日蓮の教えに深く接することとなった。いうまでもないが「西へ行」とは、西方極楽浄土へ行くことである。
 この「西へ行」の一節は、多くの詠歌に見られ、たとえば恵心僧都源信も、

  うらやまし 何なる空の 月なれば 心のままに 西へ行くらむ

 と詠んでいる(『沙石集』巻五ノ十三)。源信は西へかかる月に、西方極楽浄土をかさね見て「うらやまし」と、羨望のまなざしで眺めたのである。かように「西へ行」は、まったく西方極楽浄土へ行くことの代名詞で、他にも「西へ行く」を三十一文字にこめ、往生を願った歌は多い。

 また鎌倉時代語研究・角筆研究の第一人者である小林芳規氏は、小城岩蔵寺の『大般若経』を精査した際、角筆による「一種の誦文のような趣」で「願申西にゆく處」の文が、都合三十七帖に書き込まれていることを発見した(「佐賀県小城町岩蔵寺蔵大般若経に書入れられた鎌倉時代の角筆文字等について」〔『鎌倉時代語研究』5輯1982年〕、同『角筆文献の国語学的研究 研究編』汲古書院,1987年)。この『大般若経』には、文永十年、建治二年、弘安三年など、鎌倉時代の年号が散見されるけれども、ともかく、この「願申西にゆく處」もまた、西方極楽浄土を欣求した一文である。

 かように「西へ行く」は、一般的には西方極楽浄土に恋い焦がれたうたい文句だが、冒頭に掲げた石河道念と日興の歌は、これを否定的に詠んだ、たぐいまれな例であり、「中世の思想家で念仏を否定したのは、日蓮とその門弟たちだけ」(平雅行『親鸞とその時代』法蔵館,2001年)という、日蓮門下ならではの詠歌といえよう。
 また浄土信仰が隆盛で、多くの人々が西方極楽浄土を夢見た鎌倉時代、日蓮は『諫暁八幡抄』に、

   天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり、扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ、月は西より東に向へり、月氏の仏法東へ流るべき相なり、日は東より出づ、日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず、在世は但八年なり、日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり、

と説いた。東からのぼり西へと向かう日の光を法華経に喩え、そのさまは、まさに仏法が月氏へかえるべき瑞相であり、日の光(法華経)こそが、末法の闇夜を照らす教えだというのである。これより先、『顕仏未来記』にも、

  月は西より出でて東を照らし、日は東より出でて西を照らす、仏法も又以て是の如し、正像には西より東に向かひ、末法には東より西に往く、

と説かれている。こうした日蓮の教えに接した石河氏らは「西へ行く」→「西方極楽浄土」から、「西へ行く」→「仏法(法華経)西還」を思いえがき、その『法華経』を此土にて信行することの大事を、心身に刻み込んだのである。(坂井)
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 日蓮の有力檀越である富木常忍が、下総国守護千葉氏に仕えていたことはよくしられている。私は縁あって、目下、千葉氏について少々学んでいるが、千葉氏とその周辺の学習は、日蓮遺文や日蓮教団の理解を深めるに、裨益することはなはだ大きく、今回はその中から日蓮遺文の一節で、自分なりに腑に落ちたことを紹介したい。

   *      *       *

 大原三千院(京都市左京区)に『拾珠抄』という古典籍が伝わっている。全20冊(現存15冊)からなる唱導集で、編者は園城寺の僧、房仙である。その第20冊に「千葉介貞胤亡母卅五日忌 建武四三七」にはじまる一書がある。千葉貞胤は千葉氏11代当主。その母の三十五日忌説草が本書で、法要の導師は、園城寺の僧、朝観がつとめた。
 朝観については、大久保良順氏が「止観外勘鈔とその著者」(『儒仏道三教思想論攷』1991年)において、朝廷と関わりのあった天台僧の一人としてその名をあげているが、『花園天皇宸記』をひらいてみると、朝観はたびたび朝廷の法会に招かれ、説者を務めていたことが記されており、相当な説法上手と評されていた。
ともかく『拾珠抄』の記事によって、園城寺僧の朝観と千葉氏とに、つながりのあったことがわかる。また朝観は、説草の後部に次のような略系図を掲げている。

 


 『拾珠抄』の掲げる、この略系図にいち早く着目したのは、関靖「金沢氏系図について」(『日本歴史』12号,1948年。のち同『金沢文庫の研究』〔講談社,1951年〕にて再説)で、関氏はこれによって、金沢北条氏と千葉氏とが姻戚関係にあったこと等を指摘している。系図冒頭の「越後入道」は金沢(北条)顕時、「越後太郎」は顕時の嫡子である貞顕、そしてその「女子〈今聖霊也〉」が、三十五日忌を迎えた千葉貞胤の亡母である。
 ここで、いま少し略系図を広げてみてみよう。

 


上掲どおり千葉貞胤の亡母は、金沢北条氏の嫡家貞顕の女子で、千葉氏10代当主、胤宗の正妻だった。両家ともに学問を重んじた家系で、特に金沢実時の創設した金沢文庫に、房総の古典籍が多く伝わっていることはよく知られている。中には日蓮17歳の筆『授決円多羅義集唐決』をはじめ清澄寺関係の古典籍もあるが、そのことは、両地域の学的交流がさかんだったことを示していよう。

   *      *       *

 ここでようやく本題である日蓮遺文との関連に入るが、金沢北条氏といえば、文永10年(=推定)9月9日付、富木常忍宛の日蓮書状に、次のようなかたちで登場する。

  【原文】
九月九日雁鳥、同十月二十七日飛来仕候了、抑越州嫡男並妻尼御事、不知是非、此御一門御事自謀叛之外異島流罪過分事歟、ハタ又四条三郎左衛門尉殿便風、于今不参付之条、何事耶、定自三郎左衛門尉殿申旨候歟(以下略)
【読み下し】
九月九日の雁鳥、同十月二十七日飛来仕り候ひ了んぬ。抑、越州嫡男并びに妻尼の御事、是非を知らざれども、此の御一門の御事なれば、謀叛よりの外は、異島流罪は過分の事か、はた又、四条三郎左衛門尉殿の便風、今に参付せざるの条何事ぞや、定めて三郎左衛門尉殿より申す旨候か(以下略)

 当時、流刑地の佐渡に在島していた日蓮は、富木常忍からの雁鳥(書状)によって、金沢実時の長子、実村(嫡男には長子の意がある=『日葡辞書』)の母子が流罪されたことを知った。日蓮は御一門(北条一門)の人が、謀叛を起こしたわけでもないのに、異島(本島から離れた島だろう)に流されるのは過分な処罰ではないか、との所感を伝えるとともに、なぜ本件に関して、四条頼基からの報がいまだに到着しないのか、といぶかしげに記している。
 おそらく日蓮は平生、北条氏に関する情報は、基本的に、その一族に仕える四条頼基から得ていたのだろう。ところがこのたびは、北条氏の内紛という重事にももかかわらず、いまだに頼基が伝えてこないことについて「何事ぞや」と語気を強め、「定めて三郎左衛門尉殿(四条頼基)より申す旨候か」と、頼基からの報告をせきたてている。
 ちなみに文中にみえる「于今不参付之条(今に参付せざるの条)」の「参付」は、最新の『古語大鑑』にも立項されていないが、「金沢貞将書状」(金沢文庫古文書)の一節「度々進愚状候之処、不参付哉、不預御返事候之条、歎入候」(『鎌倉遺文』31647号,41-5P)を併読すれば、「到着」の語意に同ずとみてよい。
ともかく日蓮は、富木常忍からの便りによって、鎌倉で起きた北条一族の内紛を知ったが、日蓮の佐渡流刑期における北条氏の内訌は、これが二度目である。すなわちその前年=文永9年の2月、北条時頼の嫡子時宗が、異母兄(庶長子)の時輔を討った二月騒動がそれで、二月騒動は『立正安国論』にいう、いまだ起こらぬ二難のひとつ、自界叛逆難にかぞえられている。
 しかしその後の日蓮遺文では、金沢実村母子の流刑に触れるところがない。それは日蓮が実村母子の流刑について「謀叛よりの外は、異島流罪は過分の事か」というように、謀反ではなく、過分な処罰だと認識していたことが一つ。さらに母子ともに流刑されていることからして、実村は廃嫡(嫡子の身分を廃すること)された、悲劇的存在とみていた可能性もあろう。
またかような廃嫡は、表だって行なうものではなかったようだ。北条一族における類例は、北条時定にもみられ、これについては、熊谷隆之氏の研究「二人の為時」(『日本史研究』611号,2013年)に詳しい。時定は、鎌倉幕府五代執権、北条時頼の同母弟だが、時定は、まるで〝失踪〟したかのように突如、史料上から姿を消す。これに着目した熊谷氏は、時定について、北条時頼の嫡子、時宗とならび時頼の後継になり得る存在として、ひそかに肥後国へ配流・廃嫡された可能性を指摘した。前後にかけての状況から推認しうることで、金沢実村の廃嫡も、これに類するものだったと思われる。詳細は熊谷氏の玉稿を参照されたい。また本件については、私も「日蓮遺文に登場する北条一族覚書」(『日蓮仏教とその展開』2020年)で小述した。
 おそらくは金沢実村母子も〝ひそかに〟異島へ流されたと思われ、そんなことから、この事件については、ただちに四条頼基の耳目に触れることはなかったのだろう。
 では富木常忍はいかにして、金沢実村母子流刑の情報を入手したのか。それは前掲どおり、金沢貞顕(実村を廃した顕時の嫡子)の女子は、富木常忍の主君千葉頼胤息の正妻であり、正妻にとって実村は大叔父だったからで、そうした親縁から、金沢実村母子の流刑は、千葉氏の知るところとなり、同氏に仕える富木常忍もまた、その情報を得ることができたのだろう。
 また千葉氏といえば、下総国守護にあったことから、現在の千葉県在住のイメージが強くもたれているけれども、近年の研究によって千葉氏は鎌倉に本貫(本籍)をもつ、鎌倉中の御家人であることが明らかになっている。そしてその千葉氏に仕える富木常忍もまた、多く鎌倉にあったと思われるのである。

   *      *       *

 私は旧稿「日蓮遺文に記された金沢北条氏の内訌」(『季刊ぐんしょ』再刊62号,2003年)、およびこれを増補した「金沢北条氏に関する日蓮の記録」(『興風』18号,2006年)、「金沢実村母子の流刑について」(『日本史史料研究会会報』vol.27,2014年)にて、北条実村母子の流刑事件を取りあげたが、当時は富木常忍が仕える千葉氏と金沢北条氏との姻戚関係が視野に入っておらず、また四条頼基=鎌倉住、富木常忍=下総住の認識のもとにこれをつづった。
 そして千葉氏に仕える下総国の富木常忍でさえ、金沢実村母子流罪の情報を得て日蓮に報じているのだから、日蓮が鎌倉の住人で、北条一族に仕える四条頼基に対し、なぜ伝えてこないのかと訝しむのも、当然と思っていた。
 しかしそれは私の認識と知識の不足によるものであり、いまは上述のように考え、「四条三郎左衛門尉殿の便風、今に参付せざるの条何事ぞや、定めて三郎左衛門尉殿より申す旨候か」の一節をはじめ、その背景が少しずつ分かってきたように思う。日蓮遺文の理解に、さまざまな知識が必要であることも、あらためて痛感した。(坂井法曄)
 
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