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2020年
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《『法華略記』と宗祖遺文との関連》

前回述べたとおり、『法華略記』は五大院安然の撰述となっているが、その内容には日蓮遺文を引き写したと思われる箇所が散見する。
今回は両者を対照して、その密接な関連性を指摘してみたい。

 ①「寒苦鳥」に関する記述 (『法華略記』上巻一紙)
  歎雪山苦鳥、雖厭夜々剋々於寒、怠朝日暖、又不造栖、被迫寒苦、得一生鳴、譬似仮命電光朝露易消〈中略〉芭蕉泡沫荒風老少不定〈中略〉朝開花易散暮風、宵出月易入暁雲。不開散風花、不傾隠雲月、皆是無常表義也。不知屠所半歩歩近不悲〈中略〉而親先立子、子先立親、或夫別妻、妻別夫、或昨日我訪人、今日人訪我、栄花皆是春花如。
当該文は『法華略記』上巻「第一 明倶舎宗」の冒頭にある一節で、雪山の寒苦鳥に関する故事である。意味を取りつつ読んでいけば、『新池御書』の一節を思い起こすのではないだろうか。その他にも「電光朝露」「芭蕉泡沫」など、日蓮遺文に類似した語句や用法が見える。
 ○『新池御書』
  雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう。(47)
春の朝に花をながめし時、ともなひ遊びし人は、花と共に無常の嵐に散りはてて、名のみ残りて其の人はなし〈中略〉秋の暮に月を詠めし時、戯れむつびし人も、月と共に有為の雲に入りて後、面影ばかり身にそひて物いふことなし。〈中略〉屠所の羊の今幾日か無常の道を歩みなん。
 ○『松野殿御返事』
  譬へば電光の如く、朝露の日に向かひて消ゆるに似たり。風の前の灯の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を遁れず〈中略〉或は老少不定の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是れは順次の道理なり。〈中略〉老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至りて恨めしきは幼くして親に先立つ子、歎きの至りて歎かしきは老いて子を先立つる親なり。 
 ○『聖愚問答抄』
  況や人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。 
ここに挙げた『新池御書』『松野殿御返事』『聖愚問答抄』は、いずれも疑義濃厚な遺文であるが、『法華略記』の文章内容と重なる部分が多い。おそらく両者は、その成立過程において、互いに影響し合っていたのではなかろうか。
『法華略記』の内容や文言は、他の安然の述作と何ら関連するものはなく、日蓮門下が『新池御書』等の疑義濃厚遺文とともに作成したものと考えられる。

②八宗破折の文について (『法華略記』上巻六紙)
  第一明倶舎宗、所宗依経四阿含経也。而増一阿含明人天因果。中阿含明真寂深義。雑阿含明諸禅定。長阿含破外道。 
当該文は倶舎宗を破折する前段として依経を挙げた部分であるが、これも『釈迦一代五時継図』(真偽未決)に粗同文が確認されるとともに、偽撰遺文の『法華本門宗要抄』では、より詳しい内容へと展開している。
 ○『釈迦一代五時継図
  四阿含等の小乗経を説くなり。増一阿含には人天の因果を明かし、長阿含には邪見を破し、中阿含には真寂の深義を明かし、雑阿含には禅定を明かす。 
 ○『法華本門宗要抄
  倶舎宗の如きは四阿含経に依る。〈中略〉四阿含とは一には増一阿含五十巻、此の中には人天の因果を明かす。〈中略〉二には中阿含六十巻、此の中には真寂の深義を明かす。〈中略〉三には雑阿含五十巻、此の中には諸の禅定を明かす。〈中略〉四には長阿含二十巻、此の中には外道を破す。 
また、成実宗について、『法華略記』は「第二明成実宗、依経如倶舎宗。以呵梨踆摩、而為祖師」(上巻七紙)と記し、『法華本門宗要抄』は「成実宗の如きは依経は前の倶舎宗の如し。〈中略〉呵梨跋摩三蔵此の宗を立つるなり」と記す。
これ以降、律宗・三論宗・法相宗・禅宗・真言宗・華厳宗・天台宗の順で、『法華略記』と『法華本門宗要抄』は同内容を続けている。ただし『法華本門宗要抄』は華厳宗・倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・禅宗・浄土宗・真言宗・三論宗・天台宗の順で十宗を破折する。いずれにせよ『法華略記』と『法華本門宗要抄』の関連の強さが窺える。
これにより、すでに指摘のある『法華本門宗要抄』と『要決法華論』との関係(『興風』19号 渡邉信朝「『要決法華知謗法論』に関する覚書」参照)に『法華略記』も加わることとなる。三者の成立過程を考察する上でこの項目は有用な材料となろう。

③摂受・折伏の二門 (下巻二十三紙)
   覩見一代聖教、各有二意。謂一摂受二折伏。不知摂受折伏二門、看一切経、当成諸仏敵、使断仏性種。迷惑之輩邪見諂曲族、或知摂受、未知折伏、或知折伏、未知摂受、或零摂受、僻破折伏、或落折伏、謬破摂受、或窮摂受折伏両門。
当該文は摂受・折伏の二門を説明したものだが、これもまた『開目抄』の一文を直ちに想起させる。また、この一文の後に「為結縁、令諸悪人唱法華経略首題者、滅無量罪」と記し、法華経の唱題が衆生との結縁となり罪障消滅に繋がるとしている。
さらに『法華略記』には、『摩訶止観』の「夫仏法両説。一摂二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首。是折義」の一文や、『薬王喩品』の「貴賤上下 持戒毀戒 威儀具足 及不具足 正見邪見 利根鈍根 等雨法雨」等の引用がみられる。前者は『開目抄』『一代五時継図』等に、後者は『法華初心成仏抄』『御講聞書』等に引用があり関連する。
このように、『法華略記』の摂受・折伏に関する記述は、日蓮遺文の内容を抜きにして語ることは出来ない。以下に摂受・折伏に関する日蓮遺文を挙げておく。
 ○『転重軽受法門』
  これは世に悪国・善国有り、法に摂受・折伏あるゆへかと、みへはんべる。正像猶かくのごとし。中国又しかなり。これは辺土なり。末法の始めなり。 
 ○『開目抄』
  夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらふ、折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。〈中略〉末法に摂受・折伏あるべし。所謂 悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は、悪国か、破法の国かとしるべし。問うて云く、摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると利益あるべしや。〈中略〉摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき。 
 ○『如説修行抄』
  凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり。一切の経論此の二を出でざるなり。されば国中の諸学者等、仏法をあらあらまなぶと云へども、時刻相応の道理を知らず。〈中略〉然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。〈中略〉是れを摂折二門の修行の中には法華折伏と申すなり。

④理同事勝について (上巻三紙)
  或以真言理同事勝、或以法華事同理勝。〈中略〉以法華経而為劣法、以真言法而為勝法、理同事勝判之。依最澄意以真言経而為劣法、以法華経而為勝法、理勝事同判之。 
当該文は、真言が「理同事勝」を、法華が「事同理勝」を主張して勝劣を争うとの記述である。これも日蓮遺文を利用して作文されたものであろう。また下巻(三十七紙)にも、
  然ニ我山ノ真言宗ノ多ハ山家大師ノ未弁与奪之釈者、一向真言而思勝法、或堕真言止観一致之文、不知真言除障方便、思事理同味、堕理同事勝。如此等者不知其数。 
という関連の一文がある。文意は、山門にて真言宗の側に立つ者の多くは、伝教大師の与奪両釈の真意が分からず、ひたすら真言が勝れると思うか、止観と真言は一致だと思うかである。しかし、真言は実は「除障方便」の教えであり、それを知らずに事理同味と思ったり、理同事勝に堕ちる者が多いのは嘆かわしい限りである、という意味合いである。
ところでここに使用される「理同事勝」「事同理勝(又は理勝事同)」等の成句について、『要決法華論』(七巻・第二十八)では次のように解説している。
  顕密相対シテ同異不同ノ口決束テ為五箇条ト。不出口外ヲ、秘中深秘ノ口伝也。一ニハ一向密勝レ顕劣ル事。二ニハ一向顕勝レ密劣ル事。三ニハ顕密一致事。四ニハ密、理同事勝ノ事。五ニハ顕、理同事勝事ナリ。〈中略〉四ニ謂フ顕密理同・密教事勝者、此大綱ハ説法華、細目ハ明衆経、故ニ旦存約教義ヲ。阿字本空・甚深無相ノ法質与天真独朗・根本法華ノ智体、専ラ提与義、許ス一致義ヲ、此理体ノ方也。事勝之方ハ但説法華仏之知見ヲ、広ク説印真言陀羅尼等之事相 。故ニ取此ノ方以テ号ス事勝 。此依ル一行阿闍梨之義也。〈中略〉将存師資相承之秘伝也。已上円仁口伝仰也。 
これによれば密教(真言)と顕教(天台)の勝劣について、円仁の五箇条口決があり、その四に真言勝・法華劣の「理同事勝」が置かれている。またそれを細釈では「一行阿闍梨之義」に依るとしている。さらに次下では、顕密勝劣について六重の勝劣を示し、その第三に「明ス顕密理同・密事勝ノ事ヲ」として、
  是レ依ル円仁・円珍ノ解釈ニ 。其証、円仁蘇悉地経疏一云、教有二種、一顕示教、謂三乗世俗勝義、未円融、故二秘密教謂一乗教世俗勝義、一体融故秘密教中亦有二種。一理秘密教謂華厳般若維摩法華涅槃等ナリ。但説世俗勝義不二、未説真言密印事。故二事理倶密教謂大日経・金剛頂経・蘇悉地経等、亦説世俗勝義不二、亦説真言密印事理等云云。又云、譬如有人手執刀杖、不著甲冑、入群賊中、儻勝一人、或為賊所害。顕教転報。亦復如是。未被如来三密甲冑。○若秘教不爾。三密甲冑著法界体。定恵之手執持阿字利剣。如来要誓。事理兼備。無災不除。無楽不与。譬如勇士密著甲冑、執持利剣、入群賊中、自他倶安云云。円珍云、本初是寿量義以師子奮迅之力、於十方世界、説成道事。過去常現在常未来常皆迹中事非仏本意也。自証境界無有長短久近之相。八葉諸尊随機取土。而中台不動本際。汝仏新成我仏久成等者皆是戯論。而非仏法。当知華厳所説仏智皆戯論也。久近在機都非在仏云云。
等と述べている。ここでは密教勝・顕教劣の理同事勝説を円仁と円珍の解釈であるといい、円仁からは『蘇悉地経疏』、円珍からは「後唐院ノ記」(書目不明)をその文証として挙げている。しかしながら、『法華略記』の文脈では法華最勝を旨とするので、真言勝・法華劣を主張する理同事勝説は誤謬となる。つまり一行阿闍梨の義および円仁・円珍の説に対して、安然は非難の矛先を向けたかたちになっている。
安然は円仁・円珍の後を継ぐ密教の大成者であり、同門の先達を非難の対象とするなどあり得ないことであろう。この一点でも『法華略記』とは如何なる書物か大いに考えさせられる。
「理同事勝」を円仁・円珍の解釈とする説も、それを一行阿闍梨の義に求めることも、日蓮遺文中に繰り返し説かれている。「理秘密」「事理倶密」を説く『蘇悉地経疏』の一文は『撰時抄』に引用され、円仁の理同事勝説を批判する文証となっている。また「後唐院ノ記」ついても、日蓮は要文として書き留め、『富木殿御書』に「円珍智証大師云く、華厳・法華を大日経に望むれば戯論と為作す」とその要旨を語られている。
以下、理同事勝に関わる日蓮遺文を掲げておく。
 ○『善無畏三蔵抄』
  而るに善無畏三蔵は、華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時、理同事勝の謬釈を作りしより已来、或はおごりをなして法華経は華厳経にも劣りなん、何に況や真言経に及ぶべしや。 
 ○『開目抄』
  真言大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし。善無畏三蔵、震旦に来たりて後、天台の止観を見て智発し、大日経の心実相我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として、其の上に印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の釈をつくれり。
 ○『大田殿許御書』
  所謂善無畏三蔵等法花経大日経理同事勝等。慈覚・智証等存此義歟。弘法大師法花経下花厳経等。此等二義共非経文。同存自義歟。将又慈覚・智証等作表奏之。随申有勅宣。如聞真言・止観両教之宗同号醍醐倶称深秘。 
 ○『曽谷入道殿御書』
  弘法大師の邪義は中々顕然なれば、人もたぼらかされぬ者もあり。慈覚大師の法華経・大日経の理同事勝の釈は智人既に許しぬ。愚者争でか信ぜざるべき。 
 ○『撰時抄』
  第三の慈覚大師御入唐、漢土にわたりて十年か間、顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう。又天台宗の人々広修・惟等にならわせ給しかとも、心の内にをほしけるは、真言宗は天台宗には勝たりけり。我師伝教大師はいまた此事をはくはしく習せ給さりけり。漢土に久もわたらせ給さりける故に、此の法門はあらうちにみをはしけるやとをほして、日本国に帰朝し、叡山東塔止観院の西に総持院と申大講堂を立、御本尊は金剛界の大日如来、此御前にして大日経の善無畏の疏を本として、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻をつくる。此疏肝心の釈云 教有二種。一顕示教 謂三乗教。世俗勝義未円融故。二秘密教 謂一乗教。世俗勝義一体融故。秘密教中亦有二種。一理秘密教 諸花厳・般若・維摩・法花・涅槃等。但説世俗勝義不二 未説真言密印事故。二事理倶密教 謂大日経・金剛頂経・蘇悉地経等。亦説世俗勝義不二 亦説真言密印事故等云云。釈の心は、法花経と真言の三部との勝劣を定させ給に、真言の三部経と法花経とは所詮の理は同く一念三千の法門なり。しかれとも密印と真言等の事法は、法花経かけてをはせす。法花経は理秘密、真言の三部経は事理倶密なれは、天地雲泥なりとかゝれたり。
 ○『報恩抄』
慈覚大師は去承和五年に御入唐、漢土にして十年か間、天台・真言の二宗をならふ。法華・大日経の勝劣を習しに、法全・元政等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝等云云。〈中略〉金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻、此疏の心は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と法華経の義は、其所詮の理は一同なれとも、事相の印と真言とに真言の三部経すくれたりと云云。〈中略〉智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は大体此国にして学し給けり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡給けるか。去仁寿二年に御入唐、漢土しては真言宗は法全・元政等にならはせ給、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のことし。 
この他にも日蓮遺文に「理同事勝」の成句は多く見られる。その用い方は佐前・佐後等で幾つかの段階や変遷があるようである。
文永七年から同九年頃までの日蓮遺文では、善無畏はじめ金剛智・不空等が一念三千を盗んで「理同事勝」を主張したと示されるが、次の段階では善無畏が一行阿闍梨を語らって『大日経疏』を造らせ、そこに天台教学を盛り込んだとする指摘が付け加えられる。さらに身延期に顕著になるのは理同事勝批判の対象として、日本天台の「慈覚・智証」が引き合いに出されることである。つまりひと口に理同事勝批判といっても、その対象の中心は善無畏→一行阿闍梨→円仁・円珍と変遷していることが窺える。
ところで「理同事勝」の成句は、円仁が直接言ったものではなく日蓮が密教批判を展開するために造語されたものと考えられている。円仁・円珍・安然等のたしかな著作を調べても「理同事勝」の成句は一切見当たらない。
しかし『法華略記』や『要決法華論』では、円仁・円珍・安然の言葉として「理同事勝」の成句が見えている。これも両書が日蓮門下の手によって作成された一つの証左となろう。
まだ他にも、法華経の文字数や閻浮提の国々の数え方、南都諸師と最澄との宗論、法滅尽経の引文等々、『法華略記』と日蓮遺文には類似する文章が多いが、詳しくは後稿を期したい。(渡邉)
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 今回は『法華略記』の二三の引用文について『要決法華論』との関連を述べ、次いで『要決法華論』および『法華肝要略注秀句集』(伝教仮託)にみえる「七水」について検討していきたい。

《『法華略記』と『要決法華論』との関連》
 ①『顕戒論』と『阿字秘釈』の引用
  「或顕密雖異大道不異。故於一山弘両宗云云。又云、阿字不生微妙体。即是衆生内心法。本来清浄如蓮華。故題妙法蓮華経。信毀究竟座蓮台。八葉正円無増減自受法楽而無得。南無妙法蓮華経云云。而皆人随彼等又定真言止観一致。」(『法華略記』上巻十八紙)
 当該文は、伝教の『顕戒論』に続けて引用されたもので、それゆえ「又云」以下の一文も伝教からの引用としている。

 ○『要決法華論』(安然仮託)
  「故知山家大師解釈云、真言止観其旨一致。故於一山弘両宗云云。或、阿字不生微妙体即是衆生内心法本来清浄如蓮華。故題妙法蓮華経。信毀究竟座蓮台八葉正円無増減。自受法楽而無得南無妙法蓮華経云云。或、誠願大日本国天台両業授菩薩戒以為国宝等云云」 
 ○『法華略注秀句集』(伝教仮託)
  「与論之曰、顕密一致大道不違。故於一山弘両宗也。」 
 ○『万法甚深最頂仏心法要』(恵心仮託)
  「根本大師云、顕密雖異大道不違。故於一山弘両宗。三体経云、阿字不生微妙体。即是衆生内心法。本来清浄如蓮華。故題妙法蓮華経。」

 このように『要決法華論』にも「山家(伝教)大師解釈」としてほぼ同文を引用している。しかし実は、『法華略記』の「又云」および『要決法華論』の「或」からは智証『阿字秘釈』を点々と引用したものである。
 『略注秀句』は伝教仮託なので地の文となっている。次に『万法甚深最頂仏心法要』(以下『万法法要』と略称)は、ほぼ『法華略記』と同じ順で引用がなされている。しかし『法華略記』の「又云」からの部分を「三体経云」(出典不明)として引用する。
 いずれにせよ、これらに「伝教云」として引かれる「顕密雖異大道不異、故於一山弘両宗」との一文が他の信頼できる伝教の著作に一切見当たらない。それだけでも四書の関係が密接であることを思わせる。さらにいえば『法華略記』および『要決法華論』と『万法法要』の内容は、『阿字秘釈』の略引用の仕方まで通じており大変興味深い。『万法法要』の内容・成立についても一考の余地があろう。
 この恵心作とされる『万法法要』の内容を見たところ、「出息不待入息」「譬如入宝山空手」「六万九千三百八十余体真仏」などの日蓮遺文にみられる語句が所々に確認できる。また『万法法要』は、日蓮と同時期の「俊範」「静明」の言説が記されており、恵心作とは到底認められず、そのためか天台宗では偽撰としてコメントすら見られない。もしかすると『万法法要』も日蓮門下による一連の仮託書の中の一つではないかと推測する。

 ②悲華経の大願
  「悲華経一百十四願云、我従無始来積集諸善一分不留我身。悉与十方衆生云云。同経百十五願云、十方世界諸衆生無始已来所造作極重五無間等ノ諸罪合為我一人之罪入地獄中大悲代受苦云云。同一百三十願云、我於来世穢悪土中当得作仏。即集十方浄土擯出衆生我当度之云云。」(下巻二十八紙) 
 当該文は、『悲華経』には存在せず、平安後期以降に成立した『釈迦如来五百大願』(高山寺本)の中の願文を用いたか、類書から引用したもののようである。

 ○『要決法華論』六巻・第二十六
  「悲花経一百十三願云、我於来世穢悪土中当得作仏即集十方浄土擯出衆生我当度之云云。同経百十五願云、十方世界諸衆生無始已来所造作極重五無間等諸罪合為我一人之罪入大地獄中大悲代受苦云云。同経一百十四願云、我従無始来積集諸大善根一分不留我身悉施与十方衆生云云。」

 『法華略記』の「一百十四願」「百十五願」「一百三十願」に対して、『要決法華論』は「一百十三願」「百十五願」「一百十四願」と、順序および「十三」と「三十」との相違があるが内容は同じである。
 いずれにしてもこの大願はその成立から時代的に安然が引用するには矛盾があり、また日蓮遺文の中でも『一代五時継図』等の真偽未決書のみにみえる。よって悲華経の大願を引く一連の仮託書と真偽未決書との関連は今後の研究課題である。

 他にも、『法華略記』と『要決法華論』の共通点として『転輪秘密陀羅尼経』の引用が確認される。しかも双方同文を引用している。
  「転輪秘密陀羅尼経云、我滅度後五百歳時、信正法者甚少。譬如爪上之土信邪法者転多。譬如十方大地乃至信受正法授与愚人、成仏者甚少如一二小石。好邪法堕地獄者如海中沙。如涅槃経十八説我諸弟子正説者少邪説者多、受正法少受邪法多云云。秘密陀羅尼経云、我滅度後二千余年、正法滅少邪法興盛、吾弟子少魔弟子多、善人甚少悪人転多、善比丘少悪比丘多、正法人少邪法人多、智人甚少愚人転多、於其時中優婆塞・優婆夷不悟法味、執着邪法成正法思。正法者謂邪法者、見正法時成狗法思。覩正法僧如視糞土、無有信心。其罪無量堕阿鼻獄不永可浮云云。」(『法華略記』下巻三十一紙) 
 この『転輪秘密陀羅尼経』もしくは『秘密陀羅尼経』は出処不明で、この経典は『要決法華論』の中で『転輪秘密経』『転輪秘密』『転輪経』とも呼ばれ、繰り返し挙げられている。にもかかわらず、経典そのものが今に伝えられないことは不思議に思える。
 他に、この『転輪秘密陀羅尼経(秘密陀羅尼経)』は偽撰遺文の『法華本門宗要抄』にも引かれ、「転輪秘密経、宋代に曇無密多三蔵之れを訳す」とあるが不明な経であるため確証はとれない。また「大勢至経・大宝積経・仏法滅尽経・大般涅槃経・般泥経・転輪秘密経・大論・明眼論・注秀句・要決論等」、「般泥経・仏法滅尽経及び転輪秘密経・大般涅槃経の説」として『法華本門宗要抄』の中でも重要な経として扱われている。
 それにしても『転輪秘密陀羅尼経(秘密陀羅尼経)』は三書以外に引用がみられないこと、その内容も『開目抄』の「仏涅槃経に記して云く、末法には正法の者は爪上の土、謗法の者は十方の土とみえぬ。法滅尽経に云く、謗法の者は恒河沙、正法の者は一二の小石と記しをき給ふ」と同意であることなどを勘合すれば、『転輪秘密陀羅尼経』は仮託書の文証として偽作されたものではないかと思われる。
 いずれにしても『法華略記』と『要決法華論』は、特殊な経典の同文を引用しており密接な関係にあることが分かる。

《「七水」について》
 ここでは、もう一歩踏み込んで『法華肝要略注秀句集』(以下『略注秀句』と略称)および『要決法華論』にみえる「七水」の用語について考察してみたい。この「七水」とは、日蓮遺文にはみられず、次に挙げた『無量義経』の経文より派生したものである。
  「性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕わさず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。善男子、法は譬えば水の能く垢穢を洗うに、若しは井、若しは池、若しは江、若しは河、渓、渠、大海、皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、其の法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う。善男子、水の性は是れ一なれども江、河、井、池、渓、渠、大海、各各別異なり。其の法性も亦復是の如し、塵労を洗除すること等しくして差別なけれども、三法、四果、二道不一なり。善男子、水は倶に洗うと雖も而も井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠は海に非ず。如来世雄の法に於て自在なるが如く、所説の諸法も亦復是の如し。」 
 これによると、七水とは江・河・井・池・渓・渠・大海を指しており、水の状態に違いがあるように教法にも違いがあると示されている。この経文の伝教の釈を宗祖は『注法華経』に写されている。
  「無量義経注釈云。[伝教大師釈]。釈迦一代四十余年。所説之教。略有四教及以八教。所謂樹王華厳・鹿苑阿含・坊中方等・鷲峯般若〈鷲峯般若演説一乗〉。菩薩歴劫修行〈大小菩薩歴劫修行〉・小乗三蔵教・大乗通教・大乗別教・大乗円教・頓教・漸教・不定教・秘密教。如是前四味〈如是等前四味〉。各々不同。是故名為種々説法。」
 ここでは、「江・河・井・池・渓・渠・大海」の諸水にかわり、四教八教の語句がみえその内訳が示されている。また宗祖は遺文の中で『無量義経』の「四十余年未顕真実」の経文は多用されているが、「江・河・井・池・渓・渠・大海」を七水とする見解はみられない。しかしながら、『法華本門宗要抄』に引用される『略注秀句』および『要決法華論』に「七水」の語句がみえる。
 ○『法華肝要略注秀句集』
  「前ノ四味ハ方便之法、種種不同ナリ。謂ク得道差別セリ。七水之得果階級ヲ呼ヒ挙クルニ方ニ皆是方便、爾前之教尽ク之ヲ挙ク。……故ニ知ヌ井池江河溪渠大海ノ七、隔テテ而シテ未タ開会セズ。是ノ経ハ而七水ニ於テ……今説ノ妙法ハ即チ有相無相ノ一法ヨリ万法ヲ出生スルカ故ニ一往ノ七水ヲ挙ケテ……若シ七水ヲ歎セハ大海ヲ訕ルニ為ナリ。復爾前ヲ讃セハ法華ヲ譏ルニ為リナン。無量義ノ七水ハ得益隔テテ而未タ合セズ。……法華経之大海ノ得益ハ本有常住同一鹹味ニシテ七名ヲ立テザレドモ七水ノ徳ヲ含ス。義経ノ七水ハ法華清浄、唯大海ノ用ナリ。……故ニ知ヌ義経ノ大海ハ即チ体外ノ権水、実ノ大海ヲ弁ヘズ。法華ノ大海ハ即チ体内ノ実水ナリ。権ノ大海ヲ帯ズ。義経ノ中ノ七水ハ其一ノ大海ハ即チ法華大直ノ智海ニ非ズ。」 
 ○『要決法華知謗法論』
  「或依已説経以執一仏名、或依今説経取七水之喩。即同一味ナリ。」 
  「注釈上云、釈迦一代四十余年所説之教略有四教及以八教。所以樹王華厳・鹿薗阿含・坊中方等・鷲峰等般若。演説一乗・大小菩薩歴劫修行・小乗三蔵教・大乗通教大乗別教・大乗円教・頓教・漸教・不定教・秘密教・如是等前四味各各不同。是故名為種説法云云。故ニ知ヌ無量義経法華開経故唯法華説前教意ニ至ル故ニ七水ヲ挙テ以テ四教四乗得益四果支仏等之階級顕今教意ニ喩。……無量義経ニ七水ヲ説ト雖モ今説ノ経ナリ。」
 『略注秀句』によると、七水の得果は爾前経の如く方便であって仏の本意ではないこと、「井・池・江・河・溪・渠・大海」を七水と言うこと、『無量義経』の七水は『法華経』の用であること、『無量義経』の七水の中の大海は「体外の権水」であり『法華経』の大海は「体内の実水」であることなど、『無量義経』で説かれる七水の大海と『法華経』の大海を立て分けている。
 『要決法華論』でも七水の喩は「今説経」に依るとし、八巻では、宗祖の『注法華経』に引用される伝教の『注無量義経』の一文を引いた後に七水を挙げ、あくまでも七水は今説である『無量義経』の教えであることを強調している。

 そこで日蓮門下における文献に当たってみると、中山三世・日祐の『問答肝要抄』、等覚院日全の『法華問答正義抄』、本行院日尭の『当家肝要文集』に「七水」の語句が見える。いずれも中山門流の文献である。
 ○『問答肝要抄』日祐 (一二九八~一三七四)
  「般若法華勝劣、爾前法華円同異、始見我見、我昔従仏、無智人中、当体蓮華、七水、爾前得道有無、用四経文事」 
 ○『法華問答正義抄』等覚院日全(一二九四~一三四四)
  「始自華厳経終至般若皆方便未顕真実ト説玉ヘリ。解釈然也。仏重テ以譬説之七水アリ」 
  「開経無量義ニ取七水譬ヲ以爾前円ヲ譬ト海ニ見ヘタリ。……七水ノ中ノ海ハ爾前ノ円ニ見タリ……」 
  「是以仏取喩於七水。水ノ大小ハ七ナレトモ水性本一也」 
  「但至七水之喩者、上ノ性欲不同種々説法、以方便力○未顕真実ノ故ヲ顕タルカ為ニ取喩也。……今七水喩以爾也」 
  「問、七水之中大海者何教耶。……其故以七水喩合法時、三法四果二道不一。……師云、但ニ経計ニテハ殊更テ分明也。其故ハ七水喩ハ本次上ノ種々説法得道差別ノ文ニ依レリ。……爾前法華聞同異ハ唱法華題目抄可見之。尋云、七水ノ中ノ円与無量義ノ円同異如何。示云、七水者、譬四時所説ニ故無量義ノ円ハ別也」
  「尋云、七名中円ト者、……其故挙四時所説ヲ譬取七水合譬畢」  
 ○『当家肝要文集』本行院日尭(~一三九六)
  「仰云、七水云云、不可有得益云云、……経文前後可談也、四十余年未顕真実ノ日ハ得道不可有ル〈私云、此義ハ秘蔵ノ口傳ノ御義也〉……仰云、凡ソ七水ノ譬ハ如経中ニ能々可得心法門也、七水ノ大海ヲハ円教ニ譬フ」 
  「祐師御物語云、及河左衛門殿、聖人ノ御前ニテ不審アマタ御申中ニ、此ノ七水ノ譬御申候、聖人仰云……」

 日祐の『問答肝要抄』には、相伝として列挙したと思われる用語の中に「七水」の名目だけがみえる。
 中山において日祐に師事した日全の『法華問答正義抄』には、「第二巻方便品」「第十一巻無量義経註釈」の中に七水の語が散見する。第二巻では、爾前経は未顕真実との解釈に重ねて七水の譬があること、その七水の中の海は爾前の円を指しているとある。第十一巻では、七水は『無量義経』の経文から派生していることからも、より詳しく七水について述べられ、七水の説明がなされた後に、問答形式をもって七水の海は何教であるのかを言及している。
 日尭の『当家肝要文集』では、日祐の「仰云」として「七水ノ譬」が挙げられ、ここでも七水の大海は「爾前ノ円」としている。また「祐師御物語云」として、及河左衛門(宗秀)が宗祖に七水の譬について申し述べ、安国論に爾前の四経が引かれる旨を尋ねる場面を挙げている。
 いずれにしても「七水」の用語は中山門流以外の文献には見えず、『当家肝要文集』に「秘蔵ノ口伝ノ御義」「能々可得心法門」とあるように「七水ノ譬」は中山門流特有の相伝であり、その伝承は日祐の時代まで遡ることが窺える。
 奇しくも『略注秀句』と『要決法華論』、または両書と密接な関係にある『法華本門宗要抄』および『法華略記』の成立時期と、日祐・日全・日尭の活躍した時代はほぼ同じである。しかし、『問答肝要抄』『法華問答正義抄』『当家肝要文集』に一連の仮託書の引用は見られず、書名すら挙げていない。

《おわりに》
 宗祖仮託の『法華本門宗要抄』に引用される『要決法華論』や『略注秀句』などの天台関係の典籍は、その内容から日蓮門下によって作成されたことが実証される。
 また『法華本門宗要抄』への評価を再確認すると、西山日代・慶林日隆・中正院日存・一如院日重・大石寺日精等は『法華本門宗要抄』を偽書と断定しており、そのような中で中山門流の本成房日実が『当家宗旨名目』で「但シ是ヲ偽書ト云人有之、無信心ノ至也。若此ノ御書ノ中ニ本迹勝劣ヲ御遊ス美濃房ト越後房トノ両人ノ事ヲ破シ給フ御文体有之」と述べており、上代の中山門流は本迹一致の立場から迹門不読を訴える天目や日弁の門流と争っていたことが窺える。
 いずれにせよ『法華本門宗要抄』に引用される特有の文献を紐解くことによって、その出処は自ずと明らかになるであろう。これよりは、日蓮遺文偽撰書にはそれとセットで作成された天台系の仮託書が存在することも意識しなければなるまい。ちなみに、山上弘道氏は平成30年11月のコラムにおいて、「やはり本抄(『法華本門宗要抄』)は、日進の著述や『金綱集』などを参看しうる、身延門流で成立した可能性が高いといえよう。またそこに引用されている『要決法華知謗法論』『助顕法華略記集』『法華肝要略注秀句集』の三書も身延門流で本抄に先行し作成されたと思われ、その他の関連偽撰遺文は本抄を前後して、やはり同所で作成されていったものと推定しておきたい。」と結ばれている。

 『法華本門宗要抄』の作者は、おそらく同時期に『略注秀句』『要決法華論』『法華略記』等を伝教や安然の名を借りて作成し、法華最勝を説示する日蓮義の援証としたのであろう。
 宗祖滅後より約百年の間にかなり精力的に偽撰書が作り出された背景が垣間見えるようである。(渡邉)
 
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 当位即妙は『玄義釈籤』巻二上、不改本位は同巻二下に見える法華経の絶待妙開会を表す用語である。『南部六郎三郎殿御返事』『上野尼御前御返事』ではこれを用いて法華経の名字即成仏を説くが、用法は『玄義釈籤』の原意と一致しない。では日蓮が用いる当位即妙・不改本位の意味は天台教学のどの辺りに起由するのだろうか。それを考察したのが、拙稿「『日蓮遺文』における当位即妙・不改本位について」(平成31年刊『日蓮仏教研究』第10号所収)である。以下その概要を記す。

(1)『玄義釈籤』の原意と異なる日蓮の用法
 法華経の特色である開会は、麁法の意義を開き顕して、麁法をそのまま妙法に帰入させることをいう。『玄義釈籤』の当位即妙は法華経に開会された権人が、爾前経で得た当位に即して妙となる意であり、不改本位も法華経に開会された権人が、爾前経で得た本位を改めずに妙となる意であるから同義語である。当位も本位も爾前経における行位であり、開会されて実教と権教の法体が不二になったので、爾前経の当位のままで妙となれる。後述するが、この開会に按位開と勝進開があり、当位即妙・不改本位は按位開を表す語である。
 しかし『南部六郎三郎殿御返事』(波木井三郎殿御返事)にはこうある。
  彼れを以て之れを推するに末代の悪人等の成仏・不成仏は、罪の軽重に依らず。ただこの経の信不信に任すべきのみ。しかるに貴辺は武士の家の仁、昼夜殺生の悪人なり。家を捨てずしてこの所に至りて何なる術をもってか三悪道を脱るべきか。よくよく私案あるべきか。法華経の心は当位即妙・不改本位と申して、罪業を捨てずして仏道を成ずるなり。(システム№18235)
 法華経の意は当位即妙・不改本位であり、罪業を捨てずに仏道を成ずるという。すなわち法華経のみを信ずる名字即にて、凡夫の悪が開会されて成仏を遂げる意味で当位即妙・不改本位の語を使用している。『上野尼御前御返事』にはこうある。
  少し苦しみやみぬる処に、我れ合掌して仏に問ひ奉りて、何なる仏ぞと申せば、仏答へて、我れは是れ汝が子息遺竜が只今書くところの法華経の題目六十四字の内の妙の一字なりと言ふ。八巻の題目は八八、六十四の仏、六十四の満月と成り給へば、無間地獄の大闇即大明となりし上、無間地獄は当位即妙・不改本位と申して常寂光の都と成りぬ。(システム№29661)
 法華経の題目を書いた遺龍の法華結縁が、亡父烏竜の地獄を当位即妙・不改本位に常寂光土へ変化させたという。すなわち地獄界の当位に仏界が現ずる九界即仏界の意味で、あるいは日蓮は法華結縁を名字即とするから、子の結縁の当位に父の成仏をみる、父子一体となった名字即成仏の意味で当位即妙・不改本位の語を使用している。よって日蓮の用法は明らかに『玄義釈籤』の原意と異なる。
 
  日興本『南部六郎三郎殿御返事』に見える当位即妙不改本位の語
  【図版は無断転載禁止です】 

(2)『法華玄義』の開麁位顕妙位における按位開と勝進開
 ところで『法華玄義』巻五上の位妙で円教の開麁位顕妙位が説かれ、二種の麁位が按位開・勝進開される。二種とはⓐ蔵通別の前三教の麁位ⓑ法華円教の六即の麁位である。それが『注法華経』開経70番に記入されているので、煩を厭わず全文を書下文で示そう。
  玄の五に云く、八に麁位を開して妙位を顕すとは、ただ権位を開して、即ち妙位を顕すなり。生死の麁心を開くとは、凡夫に反復あれば菩提心を発し易きことを明かす。生死即ち涅槃なれば、二なく別なし。麁に即してこれ妙なり。もし始め凡夫より析・体・別・円の四心を発せば、またこれ四位の初心は皆なこれ因縁所生の心なり。即ちこの因縁は即空・即仮・即中なれば、円の初心と二なく別なし。もし按位にして妙ならば即ち仮名妙を成じ、もし進んで方便に入らば相似妙を成じ、もし進んで理に入らば、即ち分真妙を成ず云云。別教の十信の位を開くがごときは前に同じ。十住を開くがごときは二乗に同じ云云。十行を開くがごときは。十廻向を開くがごときは。登地の位に決了せざるがごときは、ただこれ拙度の位なるのみ。今更に譬説せば、譬えば小国の大臣、大国に来朝して、本の位次を失うがごとし。行伍に預かるといえども、限外の空官なり。もし大国の小臣は心膂憑寄せば、爵はすなわち未だ高からざれども、他に敬貴せらる。諸教の諸位は麁を決して妙に入るに、入流するを得るといえども、円教の入妙に比せんと欲するに、なおこれ鈍の中より来たる。円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知れば、即ち喚びて仏となす。初心すらなお然り。いかに況んや後位をや云云。
 印は日蓮による中略を示す。前半ではⓐ前三教の麁位を按位開・勝進開して妙位を顕すことを説いている。按位開とは按位開会・按位開入のことで、按位は位に留まる意である。按位開の場合、譬えば前三教の伏見思位から、同じ伏見思位の法華円教の観行即に入り、前三教の断見思位から、同じ断見思位の法華円教の相似即に入る。勝進開とは勝進開会・勝進開入のことで、勝進は上位に昇進する意である。勝進開の場合、譬えば前三教の伏見思位から、法華円教の断見思位や断無明位の上位に入る。
 後半の「今更に譬説せば」以下では大国の小臣・小国の大臣の譬喩を説いている。大国に来朝した小国の大臣が小国での地位を失い、大国の軍隊に参加しても職務のない空官になるのは、ⓐ前三教の麁位が開会されて妙となることに譬える。対して、国王を信頼する大国の小臣が、身分は高くないが他から尊敬されるのは、ⓑ六即の麁位が開会されて妙となることに譬える。ⓑの部分にアンダーラインを引いた。その「円教の発心は未だ位に入らずといえども、よく如来秘密の蔵を知れば、即ち喚びて仏となす」の行位は観行即であり、観行即の人が按位開されて成仏することを説いている。ここに天台智顗の観行即成仏説が観取できる。「諸教の諸位は麁を決して妙に入るに」以下を私訳すると、次のとおりである。
  前三教の権人は按位開・勝進開されて妙に入流するけれども、初めから法華円教を修行する六即低位の円人の入妙に比べると、権人は鈍の中から来たので劣る。しかしながら法華円教の発心の人は、未だ正式な行位に入らない低位であるが、よく如来秘密の蔵を知ることができるので、仏となると呼ぶ。初心でさえそうである。まして後位の人はなおさらである。

(3)『玄義釈籤』の名字即成仏説と日蓮の当位即妙・不改本位の特徴
 この『法華玄義』巻五上の一段を扶釈した『玄義釈籤』巻五上の文章が『注法華経』開経71番に記入してあるので全文を示そう。
  籤の五に云く、次に合譬の中に「小国の大臣」等というは、前三教を名づけて「小国」となす。教主已下を皆な名づけて「臣」となす。臣の中の高位、これを名づけて「大」となす。両教の羅漢及び通の九地、別教の十住を開して円教に入るを名づけて「来朝」となす。並びに羅漢及び地・住等の次位の名を失うを本位を失うと名づく。「行伍に預かるといえども」等とは、阿羅漢の位を按じて円に入るがごとき、六根の行伍の位次に預かるといえども、本円の随喜より来たるに比すれば、すなわち限外の空位の菩薩となる。故に「空官」という。これは初入に拠ってかくのごとき説をなす。久しく聞いて観を転じ、惑を破し行を成ずれば、還って旧位の行伍の限に同じ。円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく。故に「憑寄」という。
 アンダーラインを引いた文が『法華玄義』巻五上のアンダーライン部分の扶釈である。「円の大国の凡夫の小臣のごときは名字仏と名づく」の文に妙楽湛然の名字即成仏説が観取できる。湛然は智顗の観行即成仏説を名字即に下げたのである。
 『注法華経』に記入されていないが、『玄義釈籤』はこの直前で、前三教の麁位の按位開を当位即是と表現する。つまり湛然はⓐ前三教の麁位の按位開を、当位即妙・不改本位・当位即是の三種の語で説明した訳である。この語はⓑ法華円教の六即麁位の按位開にも転用できる道理だから、湛然の名字即成仏説は、法華名字即凡夫の当位即妙・不改本位の成道を開き示したといえよう。
 日蓮が用いる当位即妙・不改本位の教学的根拠はここにあると私は思う。ただし天台教学では名字即より上位に昇進する修行も重視するから、そこが日蓮と異なる。日蓮の当位即妙・不改本位の成仏論は、上位に昇進する必要のない、まさに名字即の本位を改めず、当位のままで妙となる本因修行を根本に据えたところに特徴がある。それは末法適時の名字即成仏論である。拙稿では鎌倉時代の中古天台文献『法華玄義伊賀抄』の当位即妙義も比較考察した。ご一読を乞う。〈菅原〉
 
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 最澄が始修した法華十講は後に比叡山各所で行われる法華八講・三十講へ発展した。法華八講・三十講に資する論草は多く作られたが、『三百帖』はそれを編纂して成立したもので、法華経論義の参考書とされた。『無量義経』『法華経』『観普賢経』十巻の要点を三百問答で示し、その各々に二重問答(初重問と初重答、二重問と二重答)がある。これに第三重問答を加えたのが『法華十軸鈔』であり、撰者は『三百帖』は恵心流の常住院永心(-1169~81-)、『法華十軸鈔』は海岸坊性舜(-1183~1206-)と推測される。そうであれば『三百帖』は平安時代末期、『法華十軸鈔』は鎌倉時代初期の成立である。両書に異本や別本が多いのは、講経論義が各地で活発に催されたことを示している。近畿遊学した青年日蓮が『三百帖』『法華十軸鈔』の内容を知る機会はあっただろうし、その後『武蔵殿御消息』で「八講はいつにて候やらん」と尋ねているから、鎌倉かその近辺で催された法華八講に参加していたようである。日蓮は法華経論義に精通していたと考えられる。
 『法華十軸鈔』随喜功徳品釈の第二百番問答では、五十展転・五十番目の人の行位が名字即なのか観行即初品なのかを議論する。日蓮は名字即として名字即成仏論の重要な根拠としたが、日蓮と第二百番問答が用いる文証には共通性があり興味深い。そのことを中心に私見を述べたい。『三百帖』『法華十軸鈔』は『続天台宗全書』顕教7に収録されている。

(1)第二百番問答の名字即の文証と日蓮の共通性
 第二百番問答の第三重問答は八つの問答で構成され、問いは名字即説、答えは観行即初品説に立って問答する。日蓮と共通性が窺える文証は問いにある次の四つである。

『法華文句記』随喜功徳品釈「第五十人は必ず随喜位の初めに在る人なり。」(『続天』404下)
 第三重問答の第三問答の問いでは、初の字にサキの読みがあるから「随喜位の初め」は初品の先きの名字即を指すとして、これを名字即の文証とする。これと『唱法華題目抄』の次の説明は同じである。
  疏記の第十に云わく「初め法会にして聞くはこれ初品なるべし。第五十人は必ず随喜位の初めにある人なり」文。文の心は初会聞法の人は必ず初随喜位の内、第五十人は初随喜位の先きの名字即と申す釈なり。
 因みに宝地房証真(1131頃~1220頃)もこの「随喜位の初め」を名字即として、『法華疏私記』に「意は初品の前に在るを云うなり」と記す。

『止観輔行伝弘決』巻十之二「第五十人の随喜の心は、亦た何ぞ必ずしも須く即ち是れ五品の初随喜位なるべけんや。」(『続天』405上)
 第五問答の問いではこれを名字即の文証としていて、日蓮も『注法華経』六巻随喜功徳品95番にこう記入する。
  法華文句記箋難の巻第四に云わく〈赤城沙門有厳の箋〉「既に滅後五品の初めを校量す。初めとは謂く五品の中の随喜品の人なり。若し輔行に拠らば、則ち随喜は又た非入品の人に通ずるなり。」彼の第十に云わく「法華は四百万億〈乃至〉に施し、四果を得せしめんより、初随喜の人に如かずと。此の第五十人の随喜の心は、亦た何ぞ必ずしも須く五品の初随喜位なるべけんや。」
 これは四明知礼の孫弟子有厳(1020~1101)の『法華文句記箋難』巻四の文と『止観輔行伝弘決』巻十之二の文を、他文献から孫引きしたものである。日蓮は『止観輔行伝弘決』の「此の第五十人の随喜の心は、亦た何ぞ必ずしも須く五品の初随喜位なるべけんや」の文を有厳が「随喜は又た非入品の人に通ずる」と釈して、五十番目の人を名字即としたことを参考にしているのである。

行満『六即義』「名字即とは或いは経巻により、或いは善知識によって此の名字を聞き、深く此の理を信じて三諦に随順するを、法華は名づけて初随喜の人とす。」
 第六問答の問いに「又た行満の六即義、并󠄀びに明曠の釈は倶に品位に入らずと判ぜり」(『続天』405上)とあり、「行満の六即義」は③の文を指す。明言はないが、③の名字即の初随喜が五十番目の人を指すことは疑いなく、後述のように源信もそう解釈する。日蓮は『注法華経』三巻化城喩品185番に「道暹の六即義に云わく、名字位を法華は名づけて初随喜とす文」と記入している。道暹の『六即義』は逸書であり、この逸文は③と同内容だから、日蓮はこうした解釈があることを知っていたのである。

道暹『文句輔正記』法師功徳品釈「一向に未だ凡位に入らずとは、未だ観行を修せざるを以て、且く判じて五品の初めに在り。未だ五品位に入らざる故に。」(『続天』405上)
 これは第七問答の問いが引く五種法師の行位に関する文で、『法華文句記』の「或いは全く未だ品に入らず。(中略)五師は観行を修すと云わず。(中略)若し其の位に約して之れを簡べば、一向に未だ凡位に入らず」の文を扶釈している。道暹は妙楽湛然に従って五種法師の行位を名字即とし、「五品の初め」「未だ五品位に入らざる」と記した。初めを先き・前の意味で使っていることが重要で、この五品の初め=名字即の視点から上記の①「第五十人は必ず随喜位の初めに在る人なり」の文を眺めれば、随喜位の初めは名字即と解釈できる。問いが④を取り上げた目的はここにある。更に私見を加えれば、湛然が「五師は観行を修すと云わず」とし、道暹も「未だ観行を修せざる」ことを理由に名字即としたことも重要である。この観行は十乗観法のことで、湛然も道暹も十乗観法を全く修さないことを理由に五種法師を名字即としている。この名字即=十乗未修の視点から再び①「第五十人は必ず随喜位の初めに在る人なり」の文を眺めれば、五十番目の人は十乗未修の名字即であることになる。
 日蓮は『法華文句記』の「或いは全く未だ品に入らず」「一向に未だ凡位に入らず」の二文を『唱法華題目抄』に引き、五種法師を「五品已前の名字即の位とも釈する也」とした。そして『注法華経』六巻随喜功徳品の五十展転の所にこの二文(96番97番)、④『文句輔正記』の文(98番)、①『法華文句記』の文(102番)を記入した。その意図は上述のように、五品の初め=名字即とする④の視点から見れば、①は五十番目の人を名字即とすると解釈できるし、名字即=十乗未修とする④の視点から見れば、①の名字即は十乗未修と解釈できる点にある。『注法華経』には上記の『法華文句記箋難』『止観輔行伝弘決』の文(95番)も記入してあり、日蓮はこの諸文から五十番目の人が十乗未修の名字即であることを導き出そうとしているに違いない。

(2)第二百番問答に見える源信の名字即説とその会通
 第三重問答の答えでは、恵心源信の名字即説が障害になると見て会通を試みる。その名字即説は次の二つである。

未再治本『六即義私記』「答う。故に私に云わく、行満の意は第五十の随喜の人を指して名字即と名づくのみ。五品の中の初品に非ざるのみ。(中略)答う。行満の意は其の第五十を指して初随喜と名づくのみ。(中略)答う。随喜の語は通じて初品の随喜の十心具足を謂う。但し一念の随喜あり。名字と名づけるに何の失かあらん。」
 第八問答の答中に四種の問答があり、その問いに「恵心の六即義私記には品位に入らずと釈したまう如何」(『続天』407上)とあるのはⓐのことである。ⓐは上記の④行満『六即義』「名字即とは或いは経巻により、或いは善知識によって此の名字を聞き、深く此の理を信じて三諦に随順するを、法華は名づけて初随喜の人とす」の文を解釈したもので、行満は五十番目の人の初随喜を名字即と称したのであり、五十展転の随喜には初品で修す十乗観法の功徳が具わるが、ただし一念随喜もあり、これを名字即と名づけて過失はないと述べている。文脈上、源信は五十番目の初随喜・一念随喜の人は十乗未修であると考えているだろう。

『止観口伝略頌』「十乗未だ具せざるは猶お名字に属す。是の名字といえども随喜の初心に、念を法界に一うするを名づけて行体とす。」
 第八問答の問いに「恵心は十心未具をば名字に属すと釈したまえり」(『続天』405下)とあるのはⓑを指している。ⓑは十乗未修の人は名字即であり、名字即の随喜初心に念を法界に一(ひとし)うする修行があると述べている。この名字即の随喜初心と、ⓐの名字即の初随喜・一念随喜は同義だから、名字即の随喜初心=十乗未修とするⓑの視点から眺めれば、ⓐ名字即の五十番目の人も十乗未修であることになる。よってⓐⓑを合わせると源信は、五十番目の人は名字即の初随喜(一念随喜・随喜初心)であり、十乗未修であると主張していることになる。この十乗未修は十乗観法を全く修していない状態であると私は考える。
 
 この名字即説をどう会通したのか。先ず第二問答の答えではⓑ「是の名字といえども随喜の初心」の随喜の二字を観行に変えてこう記す。
  恵心先徳は「十心未だ具せざるは猶お名字に属す。是れ名字といえども観行の初心」文。名字に判属すれども正しくは観行の初心に取るべしと見えたり。(『続天』406上) 
 源信が十乗未具は名字即に属すが、名字即といえども観行の初心であると記したのは、十乗未具は一往名字即に判属するが、正しくは観行即初心に取るべきことを示したのであると述べている。ここでは十乗未具の意味を、十乗観法を修し始めたが全てを修し終えていない段階と考えている。すなわち十乗観法を修し始めた段階は、十乗観法を一通り修し終わる観行即初品ではないから一往名字即に判属するが、曲がりなりにも修し始めた訳だから再往は初品の初心に属すと、ⓑの文意を改変したのである。
 そして第八問答の答えではⓐの名字即説を消し去るために、次のエピソードを作った。源信は五十番目の人を観行即初品とする覚超の再治本『六即義私記』を見て翻意し、未再治本『六即義私記』を捨てよと命じたというのである(『続天』407上)。しかし覚超の再治本『六即義私記』は源信没後の著作だから、もちろん事実ではない。

(3)名字即成仏の文証を探求して末法適時の成仏論修行論を構築した日蓮
 長保5年(1003)の『答日本国師二十七問』に見える源信の所見を紹介しよう。
  八。問う。随喜品に「第五十人は展転して法華経を聞き一念随喜す。所得の功徳は無量無辺なり」と。疏に判じて「初随喜品は合して五十の功徳あり」とす。又た勧発品に云わく「四法を成就せば、能く是の経を得ん」。疏に云わく「旧に、能く四法を行ぜば、手づから是の経を得んと説く。今謂わく、爾らず。上の文に謂わく、諸法実相の義は已に汝等のために説くと。又た云わく、衆生をして仏の知見に開示悟入せしめんとすと。蓋し法華の正体は能く四法を行ずれば、必ず此の解を得ん」。疑者の云わく、大般若経に「善根未だ熟せず、福徳薄きが故に、尚お名字を聞かず。況んや手に執ることを得んや。若し手に得れば、速やかに菩提座に坐せん」と説く。又た云わく「一たび其の耳に経れば、善根力の故に、定んで無上菩提を得ん」。即ち知んぬ、五十の功徳を具せず、実相を解せずといえども、但だ名字を聞き、手に経巻を執れば、皆な是れ功徳無量なることを。誠に此れ偏取すべからざるなり。 
 先ず随喜功徳品では五十番目の人の一念随喜は功徳無量であると説くこと、次に『法華文句』随喜功徳品釈では初品に「合して五十の功徳あり」と判ずること、そして『法華経』普賢菩薩勧発品では諸仏に護念せられ、諸の徳本を植え、正定聚に入り、一切衆生を救う心を発す四法を行ぜば『法華経』が得られると説くが、『法華文句』同品釈によればそれは諸法実相の解を得ることである、と記している。その上で『大般若経』を文証にして、利根にして智恵がある等の五十もの功徳を具えなくとも、諸法実相を解了できなくても、ただ名字を聞き、手に経巻を執るだけの名字即において功徳は無量であると思うがどうであろうかと、宋の四明知礼(960~1028)に問うたのである。源信は寛仁元年(1017)に76才で没したが、これを見ると、名字即の五十番目の人といえども、その一念随喜に無量の功徳が具わることを晩年まで重視していたことが分かる。
 日蓮は『四信五品抄』で初随喜位を本来の観行即初品から名字即に下げ、その理由を本門によって教弥実位弥下の釈を判ずると、五十番目の人の随喜が名字即になるからであるとした。これは未再治本『六即義私記』『止観口伝略頌』『答日本国師二十七問』に見える源信の説と一脈通じている。
 俯瞰すれば、中国原始天台から日本中古天台に至るまで、法華修行の裾野を名字即に広げようとする思想は存在する。法華経論義に精通する日蓮は、天台宗のどの釈文が名字即成仏を論ずる際に有効か、その知識を蓄積していただろう。そして更に独自に文証を探求して、名字即を根本とする末法適時の成仏論・修行論を構築した。その解明には更なる考察が必要である。〈菅原〉
 
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 本稿は日蓮の檀越で、下総国八幡庄曽谷郷(千葉県市川市曽谷)に住した曽谷氏について、従来「曽谷入道」と「曽谷二(次)郎入道」は同人とされてきたが、はたしてそれは是であるのか非であるのか、について考察するものである。
 曽谷氏といえば、『転重軽受法門』等の対告者曽谷入道、『観心本尊抄副状』に見える教信御房、『法蓮抄』の対告者法蓮上人、そして『曽谷二郎入道殿御報』の対告者曽谷次郎入道の名があげられるが、、たとえば『日蓮宗事典』の「曽谷教信」の項では、すべて同人であることを前提として論じられ、『日蓮聖人御遺文講義』(18巻351頁)『日蓮聖人遺文全集講義』(26巻83頁)の『曽谷二郎入道殿御報』の解説でも、すべて同人として論じられている。『日蓮聖人遺文辞典』(歴史篇)「そやじろうにゅうどう」の項では、曽谷入道・曽谷二郎入道・法蓮は同人とし、教信御房については「更に考究すべき」として疑問符を提している。
 上の状況を見れば、教信御房については疑問符が提されているものの、少なくとも曽谷入道と曽谷二郎入道とが同人であることは一致していることがわかる。だがはたしてそうであろうか。
 ではまず以下に曽谷氏宛、および曽谷氏の名が明記される遺文を系年順に掲げてみよう。ただし曽谷氏関連(曽谷氏の名が出てくるものを含む)で偽撰遺文と判断される、『曽谷殿御返事』(異称『五節供事』『時節到来抄』。『定遺』未収録)、『秋元殿御返事』(『定遺』45。「委しくは曽谷殿へ申し候」とあり)、『曽谷入道殿御返事』(『定遺』171)、『曽谷殿御返事』(『定遺』226)は除く。偽撰遺文たる根拠については、紙数の関係で省略する。
 さて真撰遺文を時系列的に上げると、下の七編をあげることができる。
文永八年十月五日『転重軽受法門』。宛所に「大田左衛門尉殿 蘇谷入道殿 金原法橋御房 御返事」(『定遺』509頁)とある。
文永十一年十一月二十日『曽谷入道殿御書』。その末尾の真蹟が最近発見され、そこには「曽谷入道殿 土木入道殿並びに人々御中」とある。
文永十二年三月十日『曽谷入道殿許御書』。宛所に「曽谷入道殿 大田金吾殿」とある。
建治二年十一月(『定遺』は建治元年十一月)『尊霊御菩提御書』「大田殿・次郎入道殿の御事は観心の法門の時申すべし。」(『定遺』1119頁)とある。
建治三年十一月二十八日『曽谷入道殿御返事』(『定遺』267)。書名は『定遺』は「曽谷入道殿御返事」であるが、宛所には「曽谷次郎入道殿」とあり、本来「曽谷次郎入道殿御返事」である。
弘安元年八月十七日(『定遺』は弘安二年)『曽谷殿御返事』。宛所は「曽谷の道宗御返事」である。
弘安四年閏七月一日状『曽谷二郎入道殿御報』。

 なお文永十年四月二十六日状『観心本尊抄副状』に見られる「教信御房」、建治元年末頃に系けられるべき『法蓮抄』の対告者「法蓮上人」は、ともに大方の所伝のように曽谷入道のこととして良いと思うが、本稿の主題ではないので詳述はしない。
 さて本題の曽谷入道と曽谷二(次)郎入道についてであるが、上の①②③の宛名は「曽谷入道」(蘇谷入道)となっている。
 ④『尊霊御菩提御書』は『定遺』は建治元年十一月とするが、大田殿の所労について、転重軽受と心得べきことが述べられているのが、建治二年十一月三日状『大田入道殿御返事』(『定遺』197)と内容的に共通しており、同状は『定遺』は建治元年状とするが、智証が破折の対象となっており、それは建治二年以降のことであるから、建治二年十一月三日状とすべきであり、よって本状も建治二年十一月に系けるべきである。
 この『尊霊御菩提御書』に「大田殿・次郎入道殿の御事は観心の法門の時申すべし。」とある「次郎入道殿」とは、大田殿と並び称され、かつ本状が富木殿宛であることを勘合すれば、曽谷次郎入道であることはまず間違いあるまい。
 ⑤は『定遺』は『曽谷入道殿御返事』とするが、宛所に「曽谷次郎入道殿」とあり、本来は『曽谷次郎入道殿御返事』でなければならない。
 ⑥『曽谷殿御返事』は宛所が「曽谷の道宗御返事」であり、道宗(道崇)は曽谷入道の子息とされている。同状は『定遺』は弘安二年八月十七日状とするが、内容的に弘安元年九月の『本尊問答抄』と多く共通し、また大進阿闍梨の死去後、そう時を経ていないことをうかがわせる記述があることなどから、弘安元年とするのが妥当である。詳細は拙稿「『曽谷殿御返事』(焼米抄)と『本尊問答抄』の法義的位置づけ」(『興風』26号)を参照のこと。
 ⑦『曽谷二郎入道殿御報』は日興写本があり、宛所からも曽谷二郎入道宛であることは明白である。
 以上を通覧すると、③文永十二年三月十日『曽谷入道殿許御書』までが曽谷入道宛であり、④を挟んで⑤以降は曽谷次(二)郎入道宛と子息といわれる曽谷道宗宛となることが了解されよう。
 上のような大まかな状況を踏まえた上で、特に注目したいのが⑥『曽谷殿御返事』の次の記述である。
  「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此れらは末代悪世には一えんぶだい(閻浮提)第一の仏事にてこそ候へ。いくそばくか過去の聖霊もうれしくをぼすらん。」(『定遺』1664頁)
 ここでは「貴辺」、すなわち曽谷道宗の要請にて、「去ぬる三月」、すなわち弘安元年三月に、身延山で修された仏事に、百余人の僧たちに読経をさせ法門談義をさせたことが報告されている。そしてその仏事とは「過去の聖霊もうれしくをぼすらん。」とあるから、故人供養のための仏事であったことがわかる。
 そしてその対告者曽谷道宗が曽谷次郎入道であることは、この仏事の三ヶ月前、建治三年十一月二十八日の⑤『曽谷次郎入道殿御返事』との密接な関連によって知ることができる。すなわち『曽谷次郎入道殿御返事』では、曽谷次郎入道より「小袖二重・鵞目十貫・並に扇百本」(『定遺』1407頁)が供養されているが、中でも「扇百本」の供養は、まさに先の百余人の僧たちに読経させた仏事に、準備したものと思われるのである。
 そうとすればこの時の仏事で追善供養された「過去の聖霊」とは、曽谷入道をおいて他にあるまい。かつこのような大きな法事であるから、それは一周忌か三回忌あたりとするのが妥当であろう。一周忌であれば建治三年三月頃、三回忌であれば建治二年三月頃の死去が想定される。
 そこで改めて④建治二年十一月『尊霊御菩提御書』の「大田殿・次郎入道殿の御事は観心の法門の時申すべし。」の文に注目すれば、もしこの時曽谷入道が健在であれば、『転重軽受法門』『曽谷入道殿許御書』が大田殿と連名されているように、「大田殿・曽谷入道殿の御事は」といわれていたであろう。よって今は曽谷入道の死去は、それ以前の建治二年三月頃と推定しておきたい。すなわち弘安元年三月の仏事は曽谷入道の三回忌の法要だったと思われる。
 曽谷二(次)郎入道が曽谷入道の子息であったと推定される根拠がもう一つある。それは⑦弘安四年閏七月一日状『曽谷二郎入道殿御報』で、その末文には次のように述べられている。
  「爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり。然りと雖も、有漏の依身は国主に随ふ故に此の難に値はんと欲するか。感涙押へ難し、何れの代にか対面を遂げんや。唯一心に霊山浄土を期せらるべきか。設ひ身は此の難に値ふとも、心は仏心に同じ。今生は修羅道に交はるとも、後生は必ず仏国に居せん。」(『定遺』1876頁)
 上文の「難に値」い、「修羅道に交」わり、落命の危機にさらされるとの文言は、蒙古襲来による日本国全体の危機を述べているとも一応はとれる。しかし、二郎入道との今生の別れともとれる緊迫した文言は、そうした一般論とはかなり乖離しているように思われる。故高木豊氏は『日蓮とその門弟』(276頁)において本状を取り上げ次のように述べている。
   「単に蒙古襲来によって結果的に修羅道に入るだけでなく、防衛のため干(かん)戈(か)を交える修羅道に赴くことを前提にした文言ではなかろうか。さらに有漏の依身を国主に随えるの言句も、かれが動員体制のなかにくみいれられていることを示すものではないか。」
 高木氏の推測はおそらく妥当であろう。そう考えてこそこの緊迫した末文は、過不足無く理解されるのである。
 そしてそのことは、曽谷入道と曽谷二郎入道が親子関係にあったことを補完していよう。すなわち曽谷入道はすでに文永八年『転重軽受法門』時点で「入道」といわれている。同信同輩の富木常忍がその年五十六歳であり、おそらく同年配ではなかったかと想像される。そうとすればそれから十年後の弘安四年に、老境にある曽谷入道が防人としてかり出されることは考えにくい。やはり二郎入道はその子息と考えるのが妥当なのである。
 ちなみに日興『宗祖御遷化記録』には強信であった曽谷入道親子の名が見られない。それは曽谷入道はすでに死去し、子息曽谷二郎入道は上のように防人として出兵していたためだったのである。〈山上〉 
 
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 日蓮の要文集は、日蓮の真蹟をすべて収録する『日蓮大聖人御真蹟対照録』(以下『対照録』)に基本的に日蓮真蹟部分が紹介されているが、いわゆる「御書」としては各遺文集に収録されて来なかった。しかしたとえば北山本門寺に所蔵される日興筆『開目抄要文』は、『開目抄』に引文される要文のみを抽出したもので、いわば皮・肉をそぎ落とした骨子というべきものであり、却って日蓮が意図したことがストレートに伝わる面もあるように思われる。
 文永六年に系けられる『双紙要文』『天台肝要文集』は、その後佐渡において著わされた『開目抄』『観心本尊抄』という大著の土台となるものであり、さらに『注法華経』へ繋がる重要な位置にある。これらは単なる要文集として扱われるのではなく、「御書」として遺文集に収録すべきことを、まずは提言しておきたい。
 また日蓮の要文集の大きな特徴として、その殆んどが日蓮の一筆ではなく弟子の筆が見られ、いわば共同作業で作成されていることがあげられよう。これは日蓮の弟子教育の有り様の一端を示すもので、今日の教育制度で見落とされている、有力な教育方法ではないかと思う。
 本コラムにおいては、そのようなことを念頭に置きつつ、以下日蓮の要文集のいくつかを見ていきたい。

一、『秘書要文』(中山法華経寺蔵)
 『秘書要文』の図版は『日蓮聖人真蹟集成』(以下『真蹟集成』六巻八三頁以下)に日蓮筆部分(第十五紙裏・第十六紙表裏・第十七紙表・第三十一紙表裏・第三十二紙裏・第三十三紙表)のみが収録され、『対照録』(下巻九三頁)に同部分の翻刻が掲載されている。全文が紹介されたのは菅原関道氏「中山法華経寺蔵『秘書要文』の考察」(『日蓮仏教研究』五号)で、図版・翻刻とともに詳細な検討が加えられている。
 同論ではまず、冒頭からその大部分が富木常忍の筆蹟であることが、綿密な文字照合により立証されている。そして上記日蓮筆と、その他に某者筆が数紙見られる。また菅原氏は、富木氏筆部分の『玄義』の引文中に「正因」を「性因」と、某者筆部分に「非想」を「悲想」と誤記されており、それは日蓮真蹟に見られる癖であることから、元に日蓮の要文集があって、それを日蓮の教示を受けつつ筆写したものではないかと推測している。またその成立は日蓮が鎌倉に進出した建長七・八年頃と推定している。妥当な見解である。
 内容としては、一念三千成道論にかかわる、性善・性悪、種類種・相対種、五十展転名字即成道の法門などが示されている。詳細は菅原論文を参照されたい。
 興味深いのは末部分に、日蓮が虚空蔵・文殊・不動種・愛染等の梵字を記していることで、富木氏等に教示しつつ記したものと思われる。その勉強の成果か、本要文集の表紙には、下掲①のように、「秘書」と書かれた右に二文字、左下に二文字の梵字が見られる。「秘書」の右の梵字は「ビ・ショ」と発音し、左下の梵字は「ジョウ・ニン」と発音する。要するに富木氏は、表題の「秘書」に梵字を宛ててルビとし、左下に自分の名前を梵字で表記したのである。
 初めてローマ字を教わって、自分の名前を横文字でノートの表紙に記した時、なんともいえず嬉しかったことを思い出す。
 
  ①『秘書要文』の表紙部分
  【図版は無断転載禁止です】 

二、『天台肝要文集 上』(中山法華経寺蔵)
 本要文集の図版は『真蹟集成』(六巻一八四頁以下)に、末紙他筆四十五紙裏・四十六紙表裏を除き収録されている。その内容は題名が示すように、天台所立の法華最勝義を、主に天台三大部および妙楽の注釈を中心に引文列挙し示されている。また華厳澄観への批判、天台が龍樹天親等に勝れることを示す引文群も見られる。
 さて本要文集の末尾、四五丁表裏・四六丁表裏が他筆であるが、菅原関道氏「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」(『興風』一六号一二五頁)において、綿密な文字照合により、富木常忍筆であることが示されている。
 そこには『法師品』『文句八』等の引文により、如来滅後の弘教には大難があることが示されており、これは日蓮の指示によって記されたものと思われる。

三、『行忍手沢要文集』(『行忍抄』・保田妙本寺蔵)『興風叢書』〔18〕
 『真蹟集成』(六巻三〇六頁以下)に日蓮筆部分が収録される。表紙に「行忍」とある故に『対照録』(下巻二八二頁)、『真蹟集成』は『行忍抄』とするが、行忍の手沢本と思われるので、ここでは『行忍手沢要文集』とした。全体像は『興風叢書』〔18〕に図版と翻刻が掲載され、解説が加えられている。その解説によれば、日蓮・日興・某者A・某者Bの四人によって記されており、中でも某者A筆が全六十二丁表裏の内、四十六丁をしめている。系年は『対照録』が建治元年に系けている。
 興味深いのは五丁表から六丁表にかけての表記で、まず②の五丁表末行「嘉祥上智者書云」は従義『三大部補注』の文であるが、そこまで日蓮が書いて、次下③五丁裏に「至如周旦没後」と中欠ながら『補注』の文が続くのであるが、それを某者Aがバトンタッチして三行程を記し、さらにまた日蓮に変わって「浄名授記云」以下三行が書き継がれている。そして六丁表「玄十云」以降はまた日興筆に変わっている。このめまぐるしさは一体どうしたわけだろう。「ちょっとトイレに」という訳ではあるまい。思うにこれが日蓮の弟子への教育の仕方なのではあるまいか。説明しながら途中からでも弟子に書かせるのである。弟子の頭の中には、否応なく強烈にその文が刻み込まれる。
   
  ③六丁表・日興筆、五丁裏・某者A   ②『行忍手沢要文集』五丁表・日蓮筆
【図版は無断転載禁止です】 

四、『双紙要文』(中山法華経寺蔵)
 図版は他筆も含め『真蹟集成』(六巻一五四頁以下)に収録されている。本要文集は一丁表裏、そして三十七丁裏から四三丁裏までは、内容的に別物と考えられるので、実質二丁表から三十七丁表までが『双紙要文』と考えられる。大きく二段に分けられ、前段冒頭の二丁表には日蓮の「爾前円与法華円同異事」との表題があり、以降それに関する引文がなされている。同法義は文応元年五月二十八日『唱法華題目抄』(『定遺』二〇一頁)、文永八年『十章抄』(『定遺』四八八頁)等に見られ、この間集中的に論じられている。
 後段は十三丁表からで「一念三千名目出処勘文」の表題があり、一念三千についての引文群である。その内の三四紙裏から三七紙表までが他筆で、「一念三千法門」の表題のもと、それに関する図表と引文が見られる。「一念三千名目出処」に関しては、『観心本尊抄』の冒頭から詳述されており、その土台となるべきものである。またコラム故詳述できないが、これらの要文は『注法華経』と密接に関連しており、その土台ともなっている。系年は『対照録』は文永六年とする。
 このような重要な法義が展開され、しかも日蓮自らの表題が示されているにもかかわらず、『対照録』を除き各遺文集には、『定遺』平成十二年改訂版に「断簡三四七」として、本要文集の「一念三千名目出処勘文」の日蓮筆部分のみが収録されるにとどまっているが、是非とも全体を収録すべきことを提言したい。
 さて本要文集に見られる他筆であるが、以下に示す『識分法門一念三千即理事』の富木常忍筆部分との文字照合により、常忍筆と判断する。

  双紙要文   識分法門一念三
千即理事
  双紙要文    識分法門一念
三千即理事
 
             
      『双紙要文』「弘」   『識分法門一念三
千即理事』「弘」
           
  『双紙要文』他筆
「夫一心具十法界」
  常忍筆『識分法門
一念三千即理事』
「夫一心具十法界」 
  『双紙要文』「大論」   『識分法門一念三
千即理事』「大論」
        【図版は無断転載禁止です】  
 ちなみにこの常忍筆部分は、『一念三千理事』中の「一念三千事」部分(『定遺』七八頁)とほぼ同内容である。このような締めの部分を常忍に書かせたのは、一念三千法門を習得させるための配慮と思われる。しかし最後の「記四云」「籖四云」は日蓮の筆蹟で、最後の最後の締めはおこたっていない。

五、『授決円多羅義集唐決上』(神奈川県立金沢文庫蔵)
 以上弟子との共同作業で、法門を教示しつつ作成されたと思われる要文集のいくつかを紹介したが、最後にこれは要文集ではないが、日蓮が十七歳の時「是聖房」の名で筆写した『授決円多羅義集唐決上』を取り上げておきたい。真蹟は『真蹟集成』(五巻二七〇頁以下)に収録されている。
 従来これは是聖房一筆の写本といわれてきたが、実は八丁表三行目「以前後」から八丁裏、一〇丁表五行目から一二丁裏、一七丁裏から一八丁裏、二一丁裏から二二丁表は他筆である。
     
  ⑤『立正安国論』
の「種種」(『真蹟
集成』二巻五頁
三行目) 
  ④十九丁表(左・是聖房筆)・十八丁裏(右・他筆)
   
   ⑥末尾是聖房の識語部分
   【図版は無断転載禁止です】 
 上掲④の右半分が他筆、左半分が是生房筆であるが、他筆二行目・五行目の「種」の字と、是生房筆二行目の「種」の字体が全く異っており、かつ是生房の方は、日蓮の書き癖である「重」の縦棒が上から貫かない形(⑤参照)が良く出ている。
 本写本が是聖房のものであることは、⑥末尾識語に「安房國東北庄清澄山道善房東面執筆是聖房生年十七才」とあることから明らかである。
 さて他筆部分であるが、それが誰の筆蹟かは不明であるが、その整った字体からして十七歳の是聖房よりは年長者のように思われる。そうとすれば前年出家したばかりの是聖房に、指導しつつ筆写させた、指導的位置にあった者である可能性もあろう。
 日蓮の弟子との共同作業は、こうした修学期の体験に基づくものではなかろうか。(山上) 
 
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 以前のコラムに、身延文庫蔵『祖書見聞 報恩抄・開目抄・撰時抄』(以下『三大部見聞』と略称)の撰者と内容について紹介及び解説を載せた。また続いて『興風』第31号に、『三大部見聞』の全文翻刻とその図版を掲載し、「開目抄見聞」「報恩抄見聞」「撰時抄見聞」の内容と特色について、それぞれ解説を加えた。要言すれば、『三大部見聞』は本妙寺三世日祐(1298~1374)述作の重要御書に関する注釈書であり、上代の日蓮教学や門流史を考察するには必要欠くべからざる書物であるといえよう。
 その全体像については拙稿を参照願いたいが、当コラムでは、拙稿にて言及できなかった『三大部見聞』に引用された日蓮遺文(『撰時抄』本文)の表記について、少しく私見を述べてみたい。
 日祐は、まず『撰時抄』の本文を「一、天台伝教ノ未弘通給……」等と記してから注釈を付け始めるが、その本文を『定本遺文』の表記と照合すると少なからず相違がある。『定遺』は真蹟(玉沢妙法華寺蔵)の表記なので、日祐所持本と真蹟の間には文章上の相違があることになる。
 日常(富木常忍)の『常修院本尊聖教事』には「撰時抄上下二帖」(『日宗全』187頁)とあり、日祐『本尊聖教録』にも「撰時抄 各上下」(同422頁)との記載があるので、日祐は当然ながら中山蔵の当該写本をテキストして「撰時抄見聞」を作成したであろう。この写本は現存しないので誰の筆かは不明だが、富木常忍や帥公日高等の可能性もないとはいえない。むろん上代の貴重本であったことは間違いない。それが『撰時抄』真蹟と文章が相違するとなれば、そのわけをどう考えればよいか、なかなか興味深いものがある。
 それでは両者にどんな違いあるのか、以下に8件の用例を挙げてみた。上が日祐所持本の表記(末尾に「撰時抄見聞」の丁数を記した。『興風』第31号の翻刻参照)、下が『撰時抄』真蹟の表記(『定遺』の頁数を記した)になっている。両者の相違する部分にはアンダーラインを引いた。

①「天台伝教ノ未弘通給最大深密ノ大法、経文ノ面ニ顕然也」(「撰時抄見聞」34丁表)
「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。」
(『定遺』1029頁)

 両者に「大法」と「正法」、「現前」と「顕然」の相違がある。これを思うに、現在の『撰時抄』真蹟を草案と見れば、宗祖が文章を推敲して「大法」→「正法」、「現前」→「顕然」に改められた可能性がある。また一方で、真蹟を書写する際に弟子か檀越かが書き改めたとすることも推測される。その場合、宗祖の教示により弟子檀越が書き改めることも考えられよう。いずれにせよ、真蹟と日祐所持本の文章の相違には何らかの理由があると思われる。  ちなみに平賀本の『撰時抄』は、「大法」「顕然」となっていて日祐所持本と同表記である。また②以降も、平賀本は真蹟と相違して、日祐所持本と近似する。

②「幸ニ末法ニ生レテ一歩ヲアユマズシテ三祇ヲ越ヘ、頭ベヲ虎ニ不飼シテ得コトヨ無間頂相ヲ」(「撰時抄見聞」34丁裏)
 幸ヒ我等末法に生レて一歩をあゆまずして三祇をこえ、頭を虎にかわずして無見頂相をえん。」(『定遺』1029頁)
 これは「我等」の二字の有無で、真蹟にはあるが日祐所持本にはない。わずかな相違ではあるが、この有無には意味を明確にしたものか、それとも文章の贅を削ったものか、どちらのケースも考えられよう。ちなみに平賀本には「我等」の二字はない。

③「内侍所ノ神鏡灰燼ト成リ○宝剱海ニ入ル」(「撰時抄見聞」34丁裏)
「内侍所の神鏡燼灰となんしかども○宝剣西海に入リしかども」(『定遺』1030頁)

 「灰燼(かいじん)」と「燼灰(じんかい)」の相違。意味は燃えて無くなることで、どちらの使い方もあるが、宗祖は『撰時抄』の他のところや『立正安国論』広本で「灰燼」と記しており、「燼灰」の表記は用いられていない。つまり草案段階の「燼灰」を「灰燼」に書き改めた可能性もあるだろう。平賀本の表記は「灰燼」である。
 また真蹟「西海」の「西」は「大」に重ね書きしたものだが、『対照録』では「西」を他筆と判断している。「大海」か「西海」か、ただの「海」か、表現としての適不適は何ともいえない。なお平賀本は「西海」でも「海」でもなく、「海底」と表記する。

④「徳一ハ一言ニツマルノミナラズ舌八ニサケテ死ヌ」(「撰時抄見聞」35丁裏)
得一はつまるのみならず、舌八ツにさけて死シ候ぬ」(『定遺』1038頁)

 日祐所持本には「一言ニ」とあるが、真蹟にはそれがない。もともと真蹟は「得一は舌八ツにさけて死シ候ぬ」と書き、圏点「○」により「つまるのみならず」を挿入して文章を整えている。さらにそれを推敲して、「一言に」を入れた可能性がある。平賀本には「一言に」がある。
 日祐所持本は「徳一」、真蹟は「得一」と相違する。「徳一」の表記は写本遺文にはあるが、真蹟には見られないので、宗祖は一貫して「得一」と記されているようだ。ちなみに『観心本尊抄』『法華行者値難事』『曽谷入道殿許御書』等が「得一」と表記する。もともと一般的には「徳一」「徳溢」等の表記もあるので、書写する際に「徳一」とした可能性が高い。

⑤「真言ノ名字ヲバ削セ給テ天台宗ノ止観真言等カヽセ給フ」(「撰時抄見聞」36丁裏)
真言宗の宗の名字をば削らせ給ヒて天台宗の止観真言等かかせ給フ」(『定遺』1041頁)

 真蹟が「真言宗の宗の名字をば」とあるところを、日祐所持本では「宗の」がなく、「真言宗ノ名字ヲバ」と簡略な表記になっている。これも意味を明確にしたものか、文章の贅を削ったものか、判断はむつかしい。平賀本には「真言の名字をば」とある。

⑥「天竺・漢土・日本ニハ真言宗以前木画ノ像ハ或ハ行歩シ、或ハ説法シ、或ハ御物語有リ」(「撰時抄見聞」36丁裏)
「天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行キ、或は説法し、或は御物語(言)あり」(『定遺』1044頁)
 真蹟は「或は行キ」とするが、日祐所持本は「或は行歩し」と表記する。文章的に整束しているのは、真蹟ではなく、「行歩」「説法」「御物語」と展開する日祐所持本であろう。草案を推敲して文章を改めた可能性がある。なお真蹟は「御物言」と表記するが、それでは意味が通じづらいので、『定遺』は写本表記を採用して「御物語」とする。なお平賀本は日祐所持本と同表記。

⑦「野干ノ鳴クガ身ニ負フ(「撰時抄見聞」37丁裏)
「野干のなきの己が身にをう(『定遺』1045頁)

 真蹟には「己が」とあり、日祐所持本にはない。これは、次下の「還着於本人」の比喩に使われたもので、キツネが鳴いて自らを滅ぼすように、自分の行いが自分に還ってくることを意味する。ただし『対照録』は「己が」の部分を他筆と注記する。平賀本は「野干の鳴ハ身に負(おう)なる様に」とあり、日祐所持本に近い。

⑧「釈迦如来ノ御神、我身ニ入カハラセ給ケルニコソ我身ナガラモ悦身ニアマレリ」(「撰時抄見聞」38丁表)
 「釈迦如来の御神、我身に入リかわせ給ヒける。我ガ身ながらも悦び身にあまる」(『定遺』1052頁)

 日祐所持本は「入カワラセ」と表記し、真蹟には「入リかわせ」とある。ただし「入りかわせ」は文法的に誤用であろう。正しくは「入りかわらせ」で、動詞「入り代わる」の未然形+助動詞「す」の連用形+補助動詞「たまふ」という尊敬表現となっている。
 また真蹟の「~にや」は、「……であろうか」「……であったのであろうか」との意味となる。反語形で後ろの「あらむ」が省略された形。また日祐所持本の「~ニコソ」は、大切なことを特に強調する用法で、日蓮遺文には用例が多い。「入カワラセ」と「~ニコソ」はともに、真蹟を推敲して日祐所持本の表記になったといえようか。なお平賀本は日祐所持本と同表記である。
 ここまで真蹟『撰時抄』と日祐所持本における、文章表記の相違について8件の例を挙げた。前述したように、おそらく日祐所持本は、富木常忍『常修院本尊聖教事』収録の写本であれば、宗祖在世にも近い古写本である。すなわち上代の大変早い段階に、表記が少しく相違する二本の『撰時抄』があったことになろう。もしこれを両方とも宗祖の表記とすれば、草案と清書の関係で、推敲によって宗祖自身が文章を改めたことになる。一方で、現存の真蹟『撰時抄』の書写に際して、誰かが加除訂正を施したという可能性も残っていよう。弟子檀越が勝手に入筆することは考えづらいかも知れないが、宗祖の教示のもとに書写したすれば、それも首肯されるであろう。この場合も一応は草案本(真蹟)と清書本(日祐所持本)という関係になる。ともあれ、「撰時抄見聞」の本文引用は「一、……」の箇条部分しかなく、真蹟との対照箇所があまり多くないので結論を出すには至っていない。
 また、日祐所持本と平賀本の『撰時抄』の表記が近似するので、平賀日意は遺文の書写や蒐集にあたり、中山架蔵本の写本御書を活用した可能性が指摘されよう。少し大胆にいえば、平賀本の解読・翻刻は、曾存した中山架蔵本の写本御書を復元する手がかりになると思われる。平賀本録内で『日祐目録』所載の写本御書に該当するものは、その観点を忘れずに読み進めてゆく必要がある。 (池田)

【参考図版】 真蹟『撰時抄』と日祐「撰時抄見聞」の表記対照・2例




  【図版は無断転載禁止です】 
  用例の④、⑧ともに、真蹟は書き直しや文言の挿入が多い。『撰時抄』真蹟は全篇にわたり、このような加除訂正があるので、宗祖は後に浄書して完本とされる予定があったのかもしれない。ただし『撰時抄』の浄書本はわずかな断片も現存しないので、おそらく宗祖自らは浄書されなかったのであろう。そこで考えられるのは、身延山中において門下檀越が真蹟『撰時抄』を拝し、宗祖の教示のもとに書写し、完本を作成したという状況である。これならば、大筋はすべて真蹟でありながら、細かな文言の訂正がほどこされた完本が出来あがるであろう。それが真蹟『撰時抄』(草案)と日祐所持本(完本・流布本)との文言の差異なのではなかろうか。
あるいは、この方法は『開目抄』『報恩抄』等の書写のあり方(宗祖と門下檀越との共同作業的な状況)にも通じていようか。種々再考してみたいものである。
 
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 前回のコラムでは、日祐撰『三大部見聞』の「撰時抄見聞」と真蹟『撰時抄』の本文表記について種々検討した。両者の表記の異同について8件の例をあげ、これがともに宗祖の表記とすれば、草案と清書の関係で、宗祖自身が推敲によって文章を改めたのであろうと推察した。また一方で、弟子檀越が宗祖の教示をもとに真蹟『撰時抄』を書写して、それが流布本(日祐所持本・平賀本など)となった可能性についても言及した。この場合も、一応は真蹟が草案本で、日祐所持本は清書本という関係にある。
 今回さらに、真蹟『撰時抄』と録内『撰時抄』の本文を対照し、その表記の異同から両者の関係性について述べてみたい。ここにいう録内『撰時抄』とは、手元にある諸本(Ⓐ平賀本・Ⓑ本隆寺本の複写、およびⒸ興風談所寄託の端本『撰時抄 下』)を参照した。三本の表記は細かい点では相違するが、真蹟との異同についてはほぼ一致する。
 以下に掲げる本文は『定遺』=真蹟の表記であり、それに対し、録内『撰時抄』の表記を朱字〔〕内に入れ、その異同を示したものである。〔ナシ〕としたところは、直前のアンダーライン部分が録内『撰時抄』には表記なしとの意味。

☆『定遺』の真蹟『撰時抄』表記と録内『撰時抄』との異同

  但し、承久の合戦にそこばくの真言師の〔肝胆ヲクタヒテ〕いのり候しが、調伏せられ給ヒし権の大夫殿はかたせ給ヒ、後鳥羽院は隠岐の国へ、御子ノ天子は佐渡ノ島々〔1字ナシ〕へ調伏しやりまいらせ候ぬ。〔又〕結句は野干のなきの己が〔2字ナシ〕身にをうなるやうに、還著於本人の経文にすこしもたがわず。叡山の三千人かまくらにせめられて、一同にしたがいはてぬ。しかるに又かまくら、日本を失ハンといのるかと申スなり。これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人なるべし。よくよくしるべきか。〔51字ナシ〕今はかまくらの世さかんなるゆへに、東寺・天台〔ナシ〕・園城・七寺の真言師等と並に自立をわすれたる法華宗の謗法ノ人々関東にをちくだりて、頭をかたぶけ、ひざをかゞめ、やうやうに武士の心をとりて、諸寺諸山の別当となり、長吏となりて、王位を失ヒ〔1字ナシ〕〔国土ヲ乱リシ、〕悪法をとりいだして国土安穏といのれば、将軍家並ヒニ所従の侍〔以〕下は国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもひて有るほどに、法華経を失フ大禍の僧どもを用ヒらるれば国定メテほろびなん。亡国のかなしさ〔滅〕身のなげかしさに、身命をすてゝ此事をあらわすべし。〔サンニ〕国主世を持ツべきならば、あやしとをもひ〔ミヲナシ〕て、〔是ヲ〕たづぬべきところに、ただざんげんのことば〔無尽ノ謗言ヲ〕のみ用ヒてやうやうのあだをなす。(『定遺』1045頁) 

 以上、両者の表記の異同を示したが、主だった点を説明してみよう。
 まず『定遺』=真蹟には、「真言師のいのり候しが」とあるところ、 ⒶⒷⒸは三本ともに「真言師肝胆をくだいて祈り候しが」と記されている。これは真蹟を後に推敲して、意味を強めるための修辞を施したといえようか。次に真蹟の「佐渡ノ島へ」は「佐渡島へ」となっている。これもⒶⒷⒸは同じ表記であり、意味も後者のほうがよい。
 次に、真蹟には、「又かまくら、日本を失ハンといのるかと申スなり。これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人なるべし。よくよくしるべきか」という一文があるが、ⒶⒷⒸには記されていない。ただし、真蹟の掲載図版(下段・左)をみれば分かるように、当該部分の処置として、3行目の「又かまくら……よくよくしるべきか」の部分に宗祖が自ら記した囲み線がみえる。
 この一文は、承久の変に際し、後鳥羽院が真言師に幕府調伏を祈らせて自滅したように、今度幕府が真言師に蒙古を調伏させるのは、還って日本国を失う祈りとなろう、と糾弾したところだが、「かまくら、日本を失ハンといのるかと申スなり」だけでは、意味が取りづらく、唐突な感は否めない。次下の「これをよくよくしる人は……よくよくしるべきか」の一文は宗祖ご自身を指されたものだが、文章的に据わりがわるいようである。
 よって宗祖は再治の際にこれらを削除し、「今ハ」の2字を入れて「しかるに今ハかまくらの世さかんなるゆへに」と続けて、より良く整束した文章にされたのであろう。つまり囲み線は、宗祖自らが文章の抹消を示したものといえよう。『撰時抄』ではもう一箇所、同様の囲み線がある。(下段・右参照)
       
    玉沢妙法華寺蔵『撰時抄』真蹟・第4巻21紙
3行目の下から「又かまくら……の智人なるべし。よくよくしるべきか」の部分に囲み線がみえる。
    同『撰時抄』真蹟・第1巻5紙
1行目の下から「諸聚落城邑……所属法等云云」の部分に囲み線が記されている。
    【図版は無断転載禁止です】 

 右・図版の文章は、「罵詈等 及加刀杖者云云。諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所属法等云云。 此等の経文ハ/悪口罵詈乃至打擲すれども/とかれて候ハ、説人の失となりけるか。求云 此の両説ハ/水火なり。いかんが心うべき。答云/天台云 適時而已。章安云 取捨」と記されていて、1行目の下から「諸聚落城……所属法等云云」まで、囲み線が施されている。これは法華経『勧持品』の経文だが、次上の「有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者、乃至」に続くもので、冗長と思われたのであろう。「乃至」を消して「云云」とし、以下を囲み線で抹消したのである。
 それゆえ二つの囲み線の文章は、ⒶⒷⒸの録内『撰時抄』には省かれている。なお付言すれば、前回紹介した日祐所持本は、Ⓐ平賀本と表記が相似するので同じ処置が施されていたであろう。これ思うに、これらの処置は、宗祖の教導のもと弟子檀越が真蹟『撰時抄』を書写する際に書き改めたのが発端となり、それが通途の録内『撰時抄』(流布本)の表記になったものと推測されよう。今はⒶⒷⒸ3本を確認したのみだが、「又かまくら……よくよくしるべきか」を抹消した録内『撰時抄』は、他にも数あるものと思われる。
 なお現行の遺文集は、刊本録内『撰時抄』→『高祖遺文録』→『縮刷遺文』→『定遺』の順にて、当該文を表記している。つまりこれは、真蹟の文字を抹消と見ない処置であるが、真蹟『撰時抄』を草案とし、録内『撰時抄』(流布本)を浄書・再治とする関係からは一考を要しよう。
 以下の「王位を失ヒし悪法をとりいだして」→「王位を失ヒ、国土を乱りし悪法をとりいだして」の書き加えや、「此事をあらわすべし。国主世を持ツべきならば」→「此事をあらわさんに、国主世を持ツべきならば」との書き換え、「あやしとをもひて、たづぬべきところ」→「あやしみをなして、是をたづぬべきところ」とか、「ただざんげんのことばのみ用ヒて」→「ただ無尽の謗言をのみ用ヒて」との書き改めなど、後者のほうが全体的に丁寧かつ文章も整っており、いずれも再治に際して添削されたものと見るのが妥当ではなかろうか。
 以上、真蹟『撰時抄』と録内『撰時抄』ⒶⒷⒸ3本の本文表記を対照し、真蹟=草案、録内『撰時抄』=浄書・再治との関係性について論及した次第である。今後も両者の本文表記の異同について、細かい点も含め種々考えをめぐらしてみたい。(池田)

       【参考図版】 本隆寺本録内『撰時抄』の当該部分
 
    【図版は無断転載禁止です】 
 真蹟における「一同にしたがいはてぬ。しかるに又かまくら、日本を失ハンといのるかと申スなり。これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人なるべし。よくよくしるべきか。今はかまくらの世さかんなる」の表記が、本隆寺本では、「一同ニ随ヒハテヌ。而ニ今鎌倉ノ世盛ナル」(右・5、6行目)となっていて、アンダーライン部分が省略されている。右・初行の「肝胆ヲクタヒテ」は真蹟にない語句を加えたもの。なお本隆寺本録内は、本隆寺二祖日鎮筆である。 

 
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 『一乗論談抄』(以下『論談抄』)は、文字通り一乗法華経二十八品中に説かれている内容について論義したものをまとめたものである。その撰者・松林房政海は、当時の天台宗の中でも決して主流の系脈に連なる人物とはいえないが、その著述は今でも多く残っている。鎌倉期から室町期にかけての天台宗の動向を理解していく上で、政海の撰述は重要な位置にあり、今後の翻刻が待たれている。詳しくは『興風叢書〔22〕』『同〔23〕』の「政海撰『一乗論談抄』解題」及び「政海撰『一乗論談抄 二』解題」を参考にしていただきたい。
 今回解読した『論談抄』(『興風叢書〔24〕』収録分)は、前号の続きで第四中(法師品)・第四下(宝塔品)・第五上(提婆品)・第六下(分別功徳品)であるが、中でも第四下(宝塔品)の論談の中から興味深い記述を拾ってみた。
 法華経の宝塔品は、宝塔の突然の出現といい、多宝仏と釈迦の二仏が宝塔中に並び座したりというセンセーショナルな内容を含み、法華経の中でも扱いが難しい品と言えそうである。そのため法華経を所依の経典とする宗々も、宝塔品の理解や会通には苦慮しているようである。天台宗では「二仏並出」として、宝塔品に説かれる多宝仏と釈迦仏の一世界に同時に二仏の存在することが取り上げられ、九十余の宗要の算題の最初に配置されていることからもその重要性が窺えよう。
 さて既刊の『興風叢書〔22〕』及び『同〔23〕』の『論談抄』には、それぞれの問答の後に「新仰」として静明のコメントが随所に見られ、問答の纏めとしての役割があるように思われる。特に今回解読した第四下の宝塔品では、他の品の論談と比べてもかなり多いようである。具体的にいえば、同品には66個の問答が設けられ、ほぼ全問答の後に「新仰」がある。とりわけ68丁辺りでは、問答の後に「私尋(政海)」と「新仰(静明)」との間に矢継ぎばやの応酬があり、臨場感あふれる問答の光景が思い起こされる。
 以下に掲げたのは、63番目(90丁表)の問答並びに、それに対する静明のコメントである。

  問、経文、此経難持、若暫持者、我即歓喜、諸仏亦然、○是名持戒、行頭陀者文。況何事耶。
答、持経功徳具戒品云也。
付之乗戒遥異也。設雖一乗持経者争具作法受得戒品ヲ耶。依之。
新仰云、発菩提心処ニ具事戒善不事。付菩薩戒円頓戒ニ重々ノ可有子細。菩薩戒者、権大乗戒也。梵網戒品是也。サレハ山家ノ学生式ニハ、梵網・瓔珞・大集・大品等諸大乗経等云ヘリ。悉ク以帯権経ヲ為傍依経ト。付ハ菩薩戒ニ発菩提心処ニ即事戒善ヲ具スル菩提心モ可有ル。不具菩提心可有也。殺生偸盗等戒品也。仮令従空入仮菩提心時ハ、此菩提心体カ即事ノ饒益有情戒儀カ任運ニ具足ナル也。四重・十重・四十八軽等、一切戒品重々ナレトモ只慈悲一法也。慈悲心有ハ之、殺生・偸盗・邪淫等不可有者也。如此無犯戒者、是饒益有情形也。此饒益有情行儀作法ヲ接律儀戒トハ云也。是作法受得義也。接律儀戒カ饒益有情ヲハシテヰタル也。有情ヲ饒益スル行儀作法ヲ律儀戒トハ云也。威儀ナルカ故也。

 宝塔品の「此経難持、若暫持者、我即歓喜、諸仏亦然、○是名持戒行頭陀者」の文はどういうことかとの問いで、その答えとしては、法華経を持つ功徳には一々の戒を具すということである。これに付いて、乗と戒は本質的に性格が違うもので、法華経の持経者が即ち作法受得の戒品を具すことがあるのか。
 次下に、この問答に対する「新仰」があり、それを口語訳すれば次のようになる。

  「菩薩は発菩提心を根本とするが、菩提心を発すところには実際に戒を具するのか否かの解釈については、菩薩大乗戒と円頓戒とに分けて考えられる。菩薩戒とは、権大乗の戒で、梵網経の十重四十八軽戒等がそれである。最澄の山家学生式にも梵網経や菩薩瓔珞本業経・大集経・大品般若経等に説かれる戒が挙げられている。これらの帯権の経に説かれる戒を以て傍依としている。菩薩戒については、発菩提心に戒が具わる時もあれば、また具わらない時もある。殺生や偸盗等の基本的な戒について考えてみても、菩提心は有情を利益するという慈悲が根底にあり、四重・十重・四十八軽戒等の一切の戒品は慈悲を根本としているので、慈悲が根本にある限り殺生・偸盗・邪淫等の犯戒はあり得ないことである。菩薩の行は慈悲心を根底として衆生を利益するための行儀作法ということである。菩薩の発菩提心に一々の戒品を接するので接律儀戒という。またその作法受得は有情を利益するためのものでもある。有情を利益する行儀作法なので、これを律儀戒という」 

等と、静明は教示している。またそれに続けて世間の風体を取り上げ、事戒について興味深い説明を施している。

  旃陀羅者、此国武士也。是ハアリク時ハ手ヲフテアリク也。是ハ者ヲ降伏スル形也。手ヲフレハ鳥獣モ畏ルヽ也。臣家等ハ以右手ヲ左ノ大指ヲニキル。人ニ対面スルニモ如此スル。是納ムル世ヲ威儀也。是モ印也。律僧ハ手ヲ常ニコマヌク也。此等律儀形也。是等ハ饒益有情ヲ上威儀作法也。 

等とあるが、これを意訳すれば、

  「旃陀羅と呼ばれる階級は我が国には武士といわれる人々である。武士は手を振って歩く。これはものを降伏する姿で、手を振り歩くことにより野獣も恐れおののき、それによって治安が保たれる。家臣は右手で左手の親指を握り、それによって敵意のないことを意味する。主人等に対面する時もそのように振る舞う。それで秩序が保たれ、世が治まる威儀である。律僧は常に腕を組み敬礼の意を表す。それが律僧の行儀である。これらは有情を利益することを基本にしての威儀作法である」 

となろう。武士は武士の、家臣は家臣の、律僧は律僧のそれぞれの威儀作法は、有情を利益することを根底とした大乗菩薩戒であることを見出している。この後、さらに円頓戒の観点からの解釈が続く。(成田)

  【参考図版】
 
  身延文庫蔵『一乗論談抄・四下』89丁裏・90丁表
  右丁4行目に「新仰云、発菩提心処ニ具事戒善不事。……」とあり、左丁3行目の途中から「旃陀羅者、此国武士也。是ハアリク時ハ手ヲフテアリク也。……」との一文が見える。
   【図版は無断転載禁止です】 

 
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 今回は前回に引きつづき、『一乗論談抄』第六下の「宝塔品」に関する一文について紹介・解説を加えてみたい。それは95丁表にある、菩薩戒と円頓戒の勝劣不同はどうか、との「私」政海の尋ねに対する「新仰」、すなわち静明の返答部分である。
 以下、静明仰せの原文を読み下し、次でその現代語訳を掲げてみよう。

  新仰ニ云ク、大乗菩薩戒ニハ一分受・具分受ノ不同之レ有アリ。具分受トハ十戒悉ク犯サザル也。一分受トハ一戒ヲバ破リタレドモ、又一戒ヲバ破ラズシテ之レヲ持ツ也。仍テ一戒ヲバ破リタレドモ一戒ヲバ承ケ犯サズ、之レヲ持チヰタル也。心ハ人ヲ一人忽チニ打チ殺シ畢ンヌ、殺生罪治定シ畢ンヌ。然レドモ此ノ人極メタル悪人ニテ此ノ人ヲ生シ置キタラバ、十人二十人ヲモ殺ス可キ者也。仍テ一人ヲ殺シツルハ殺生ナレドモ、十人二十人ノ人ヲ殺サザル故ニ、又不殺生戒ヲ持タルニ成ル也。仙預国王、五百婆羅門ヲ害スル故ニ十劫寿命之レヲ得ルガ如キ也。是ヲバ金光明経疏ニ云ク、唯殺唯慈。亦作事殺亦作理殺。如仙預大王殺五百婆羅門〔○〕与其十劫之寿。仍テ帯権経菩薩戒トハ、一戒ヲバ破リ、一戒ヲバ持ツ。一戒ヲバ犯シ、一ヲバ持ツ也。一戒ヲバ破レドモ一戒ヲバ持ツ心ヘ重々也。譬ヘバ楽シキ者ノ財宝ヲ盗ミ、貧道ニシテ衣食ヲ与ヘザレバ、忽チニ死門ニ及ブ可キ輩ヲ、ハグクミテ之レヲ与フルナラバ、盗ミハシタレドモ、人命ヲ助ツレバ不殺生戒ヲバ持チタル者也。是モ能々慈悲ノ上ニ沙汰ス可ベキ事也。サレドモ一戒ヲ持ツ故ニ得益有リ、仙預大王ノ如シ。

【現代語訳】
  大乗菩薩戒においては、十戒を悉く犯さない「具分受」と、一つの戒は破っても他の戒は犯さず持つ「一分受」とがある。「一分受」とは、例えば人を殺せば当然それは殺生戒を犯すことになるが、仮にそれが極悪人でそのまま生かしておけば十人二十人と人を殺しかねない者を殺した場合、ひとりを殺すことがかえって、十人二十人を殺さないですむことになり、つまりは不殺生戒を持つことになる。仙預国王が五百人の婆羅門を殺しても十劫の寿命を得たということがそれであろう。かように金光明経文句には釈されている。よって帯権経の菩薩戒とは、一つの戒を破したとしても一つの戒を持つ、その心はたいへん重要なのである。譬えば、裕福な者の財宝を盗み、貧しくて衣食がなければ今にも死にそうな者のためにこれを与えたとすれば、盗みはしたとしても人命を救うことになり不殺生戒を持つことになる。これも慈悲心を持った上でいえることで、一つの戒を持つが故に得益があるのである。

 ここでは、十戒は持つに越したことはないが、他人との関わりの中で完璧に「具分受」をまもることは如何にも困難なことで、現実的には菩薩戒の「一分受」を持つことが大事な初手となるのであろう。
 一方、円頓戒については、さらにに続けて次のように語られている。ここでは煩を恐れて現代語訳のみを掲げよう。詳しくは『興風叢書〔24〕』(今年12月刊行予定)を参照願いたい。

  「円頓戒とは、菩薩戒に超過して、切るべきを切り、禁ずべきを禁ず、というのがその正体である。頚を切っても当体を改めず得益すれば、即ちそれは持戒である。たとえば、ある禅師が猫の頚を切って殺した。猫は切られて即ち得益し、それを快く受け入れた。猫は切られたけれど、時宜を見計らって切ったので得益したのである。密教の調伏法も此の定めにて行われている。つまり、内には慈悲心を持ち外には忿怒を表しており、現実的には殺生であっても、切られて得益すればその当体は持戒のすがたである。悪人盗人を禁めとして殺害するのは、その悪念・煩悩を殺すのである」。

 ところで、この猫の頚を切るというくだりは、「南泉斬猫」という禅の公案の話である。すなわち、東西の禅宗の堂僧が一匹の子猫をめぐって、その所有とか魅力とか、ひいては子猫の仏性とかについて激しく論争を繰り広げて全く決着が付かないでいた。そこへ南泉和尚がきて、子猫について何か双方が納得いく良い結論はないかと堂僧達に尋ね、巧い答えが出れば子猫を助け引き取るが、答えが出なければ斬ってしまうと言った。しかし誰もよい答えを出すことができず、ならばと子猫の頚を斬ってしまった。結果、子猫の頚を斬ることによって双方の決着が付くことになったというものである。

そして静明はこの後に、

  サレバ国王大臣ハ国ヲ収ムル形チハ、切ル可キヲバ之レヲ切ル、禁ズ可キヲバ之レヲ禁ズ。然ラザレバ国中乱レテ悪党盗人等、繁昌セシム可キ事也。仍テ之レ切ルハ余悪ヲ留ムル料也。仍テ之レヲ切リ、之レヲ禁ルハ防非止悪ノ形也。仍テ国王大臣憲法ノ世ヲ収ムル、持戒ノ形ニテアル也。相模守日本国中、幾千万ノ頚ヲ切ラム、幾千万ノ輩ヲカ禁ラム。其ノ数ヲ知ラザレドモ、一悪忠害スレバ、衆悪之レヲ恐レル故ニ防非止悪形ニテアル也。殺トモ盗トモ大慈心ニ任セテ之レヲ行ヘバ、是レ即チ殺生モ盗犯モ体ヲ改メズ、ヤガテ殺生当体ヲオサヘテ殺生戒ヲ持ツト云フ也。之レヲ殺スハ煩悩・悪業ヲ殺ス也。其ノ人ヲハ殺サザル也。其ノ人ヲバ殺シテ助クル也。一分受ハ、殺シタルヲハ殺生戒既ニ之レ破ルト云ヒテ、破ニオチフス処ガ少シ劣ナル也。

 これは以下のような意味合いである。
  国王大臣が国を治めるには切るべきを切り、禁ずべきを禁ず。そうでなければ国が乱れ悪党盗人が蔓延ることになる。よって切るべきを切ることは余の悪を止める防非止悪の役目となる。だから国王大臣が憲法によって国を治めることは持戒の形と言える。執権北条時宗が幾千もの頚を切り、幾千もの者を誡めたかその数は知れないが、一つの悪を対治することによって多くの悪を止めたのである。大慈悲心のままに殺生・偸盗を行ったとしても、体を改めずその当体を抑えるので殺生戒を破ることにはならない。殺すことが助けとなるのであ。それに比して「一分受」の菩薩戒は、一分でも破戒になるので、円頓戒よりも少し劣るのである。

 これが静明が結論として語った、円頓戒と菩薩戒の勝劣である。
 こうしてみると、菩薩戒については、修行者の主観的な心情の立場から持戒ということを観ているようであり、円頓戒については、社会全体の秩序とか二つの物の均衡ということを念頭にして客観的に持戒が語られているように思われる。ともあれ静明は、当時の世間の事象に照らして持戒や破戒を縦横に語ったり、また京都方に生きた人物でありながら、鎌倉の執権北条時宗の治世を肯定的に見ているなど、ユニークな一面を持っている。
 これらの所説は、日蓮と同時代を生きた静明の言葉だけに、大変興味を引かれるものがある。(成田)

 【参考図版】
       身延文庫蔵『一乗論談抄・第四下』95丁裏・96丁表
 左96丁表の3行目に「相模守日本国中幾千万/頸ヲ切ラム、幾千万輩ヲカ禁ラム」の一文が見える。末尾識語によれば、当該本の筆者は権律師実海、康永三年(1344)十一月一日、武州仙波における書写である。
 
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 先のコラムで『一乗論談抄』の第四下の宝塔品には、「新仰」すなわち静明の言葉が他の品と比べて多いことを述べた。その中には静明(~1286)が、同世代の求道房恵尋(~1289))の相伝の一心三観と円頓戒の解釈について、言及しているところがあるので今回紹介してみたい。
 求道房恵尋は、日蓮聖人や静明とは同世代の天台の学僧で、叡山の檀那流を代表する恵光院門跡を継承し、叡山の十二年篭山行を復興せんとした、戒家の祖師とされる人物である。その著作とされるものに『一心妙戒抄』、『円頓戒聞書』(續天台宗全書 圓戒1所載)がある。他にも恵尋の口決を弟子が記した『三通口決』(續天台宗全書 圓戒1)、『一心三観本文』(興風叢書17所載)がある。詳しくはそれぞれの著作・解題を参考にしていただきたい。
 静明が求道房恵尋の所説へ寄せたコメントは、第四下・宝塔品の92丁裏に見られる。煩雑になるので原文は「新仰」の部分だけにする。
まずその一段は、静明に対する政海の尋ねから始まる。その口語訳を記せば、

  円頓戒の時、乗と戒が一体で別物でないとするなら、伝教大師は竜興寺で円頓戒を受けた後、一心三観を伝受したこと、また『顕戒論』には「一心三観伝於一言 菩薩円戒受於此身」とあれば、一心三観を一言に伝えられ、その外に円頓戒を受けたことになる。これらは乗・戒を別物とする理解になるではないか。

とあり、政海は静明に円頓戒の正体について質疑を起こしている。それに対して静明は、次のようにコメントしている。

  新仰云、求道房ノ相伝ニハ一心三観外ニ円頓戒伝之云也。常ノ人々モ此定ニ云也。然而当流相伝ハ不然。一心三観、伝於一言、菩薩円戒、受クト於此身云ヘルハ、一心三観ヲ伝ル一言ニ処ニ、ヤカテ菩薩円戒ヲ此身ニ受ケタリト云也。是即一心三観外ニ全無円頓戒故也。心無乱戒也。明了ナルハ恵也。不動ナルハ定也。戒定恵三学也。是一体三宝也。心性不動明王之体。亡泯三千即大智剣。雖亡而存執大悲索。是本性三諦也。是無作三身也。法華開顕時、一体三法モ顕レ、乗戒一体旨モ可顕也。学生式云、虚空不動戒。虚空不動定。虚空不動恵。三学倶伝、名曰妙法。妙法ト云ヘル法ハ乗戒一体、三学円融法也。独開顕上法門也。別々ニ可持之法ニハアラス。

【現代語訳】
  静明が仰せられるには、求道房の相伝では一心三観の外に円頓戒を伝受すると言っているし、常の人々もそのように言っている。しかし当流の立て方はそうではない。『顕戒論』の文は、「一心三観を一言に伝える処に、やがて菩薩の円戒を此の身に受ける」ことでもある。つまり一心三観の外にまったく円頓戒があるわけではない。「心に乱なきは戒であり、明了なるは恵であり、不動なるは定である」の文は、一心に戒定恵の三学を具すこと、それは一体三宝のすがたである。また「心性不動明王之体。亡泯三千即大智剣。雖亡而存執大悲索」の文は本性の三諦を示す。それは無作三身のことでもある。さらには『学生式問答』の「虚空不動戒。虚空不動定。虚空不動恵。三学倶伝名曰妙法」の文は、妙法とは、乗戒一体・三学円融して独り開顕の上の法門であり、別々に持つ法ではない。

 静明は、求道房の相伝では一心三観と円頓戒を別々に持つというが、三宝や三諦、三学はそれぞれ一体であれば別々に持つべきではないとして、恵尋の相伝と当流(恵心流)との立場の違いを鮮明にしている。
またその後には、

  尋ねて云く、難じて云く、伝教大師は道邃和尚より円頓戒を竜興寺の西のひさし・極楽浄土寺において、義真和尚已下二十七人と一緒に受けられた。その他にまた三観を伝受されたようであるが、それはどう考えるべきであろうか。
という政海の尋ねに対し、静明は次のように答えている。

  新仰云、伝教大師、一心三観御伝受ヲ遂和尚ニ御所望有キ之。遂和尚仰云、一心三観純円開顕法門也。円頓戒受仏戒ヲ後成テ純円比丘僧ト。一心三観法門可習学之。仍受円頓戒後三観法門授之也。我朝モ受戒ト学文トハ二度ヒニスル也。是逗中下機ニ儀式也。我山ハ一向大乗寺也。サレハ登壇シテ先受円頓戒法ヲ後ニ学天台法門ヲ読玄義・止観ヲハ也。中下機ハ尤如此スヘキ也。上根利智機ハ円頓戒受之時、即一心三観外ニ不可受之。為ニハ此人又両重ニハ不可受之。

【現代語訳】
  静明が仰せられるには、伝教大師が一心三観の伝受を道邃和尚に所望された。すると和尚は「一心三観は純円開顕の法門なので、円頓戒の仏戒を受けて純円の比丘僧になって後、その法門を修学すべきである」と言われた。よって円頓戒を受けて後に、三観の法門を授けるのである。わが日本においても受戒と学文は二度に分けてなされるが、これは中下の機根に限っての儀式である。我が叡山は一向大乗寺である。したがって登壇受戒して先ず円頓戒法を受け、その後に天台の法門を学び、さらに玄義・止観を修学するのである。中下の機根は、皆そのように為すべきである。しかし上根上機の者は、円頓戒を受ける時に即ち一心三観も受け、その他に重ねて受けるべきではない。

 すなわち静明の仰せは、道邃が最澄へ一心三観と菩薩円戒を相伝する際に、道邃自身が言葉を添えて伝受した経緯をも明かしている。これもまた大変興味を引く内容をもっていよう。
「新仰」は政海が聞いた静明本人の生の言葉なので、それらを丁寧に拾い集めて検討していけば、より真実に近い静明像が浮かび上がってくると思われる。今後における『一乗論談抄』の考察のあり方として提起しておきたい。(成田)

【参考図版】
 
      身延文庫蔵『一乗論談抄・第四下』92丁裏・93丁表
 右92丁裏の4行目に「私 尋云、円頓戒時乗戒一体ニテ……」との一文が見える。「私」は松林房政海のこと。次で7行目の「新仰云」が粟田口静明の仰せである。次下の「弘道房」が求道上人恵尋のことで「弘道」は「求道」の音通である。
   【図版は無断転載禁止です】 
 
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