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2021年
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 これまでにも何度か述べてきたことだが、『昭和定本日蓮聖人遺文(定本遺文)』345号、通称「瀧泉寺申状」は、内容その他から、表題に掲げたとおり「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」(以下「当文書」)を書名とするのが適当と思われる。当文書は『霊艮閣版 日蓮聖人御遺文(縮刷遺文)』続集200P(「中山所蔵新加」)に「瀧泉寺之申状」として初めて翻刻・収録され、その後「瀧泉寺申状」の書名が定着した。
 おそらく、この書名は、日祐『両寺〈法花・本妙〉本尊聖教録』(日祐目録)「十三 御書」の「瀧泉寺申状一通」からいただいたもので、『定本遺文』3巻に収める「日祐目録」にも、「瀧泉寺申状一通」に定本番号「三四五」(瀧泉寺申状)が充てられている。
 今となっては「日祐目録」にみえる「瀧泉寺申状」の内容を確認することはできないけれども、「瀧泉寺(寺号)+申状」をもって記していることから、この申状はおそらく、寺号を名乗れる者(院主・寺主等)の申状を指していると思われる。そこで当文書をひらいてみると、取意ではあるが「訴状云」として、院主代行智の訴状(申状)が引かれているから、陳状を起草した日蓮等が、これを披見していたことは明らかであり、その写が法華寺に伝わっていたのだろう。それが「日祐目録」にみえる「瀧泉寺申状一通」と思われる。写主はおそらく、同じく陳状の起草にたずさわった富木常忍ではかったか。
 「瀧泉寺申状」は日祐目録の「御書」部に入れられているで、その点、注意しなければならないが、「瀧泉寺申状」は同部末に、近時、池田令道師によって翻刻・紹介された、東密僧円鏡の「捨邪帰正勧発抄」や「良実難状」「強仁状」など、日蓮に向けられた難状とともに列挙されているから、さして問題にならず、むしろ「瀧泉寺申状」は日蓮等に向けられた難状の一つとして、括られていた可能性を指摘できるのではないか。
 ふたたび書名にもどると、「訴人(原告)が朝廷・幕府・本所などの裁判所に提出する申状をとくに訴状といい、これに対して被告(中世これを論人といった)が提出する弁駁の申状をとくに陳状といい、訴状・陳状を併せて訴陳状といった」(佐藤進一『古文書学入門』)が、「瀧泉寺申状」では訴陳状の何れを指しているのか不明で、しかも中山法華経寺に現存する当文書には、日蓮が「大体この状の様にあるべきか」と添書し、推敲のあとも随所にみられる。中には訴人が弥四郎男の斬首について、日秀等の所行に仕立てていることも加筆するよう、日蓮が指示を与えた箇所もある。よって実際に提出された陳状には、当然のこと、日蓮の指示をふまえた加筆もあったと思われるが、当文書にそれはみられず、提出した陳状の案文(写)でもない。また当文書には富木常忍の筆も混在していることから、草案たることがあきらかである。
 さらに当文書は「瀧泉寺」名をもってしたものではなく、提出者は、瀧泉寺〝大衆〟の日秀・日弁等であることが明記されているので、「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」が適当と考える。なお「瀧泉寺申状」の書名が不適当であることは、すでに高木豊氏や川添昭二氏も指摘している。

 中山法華経寺に現存する当文書をみると、日蓮が推敲のあとをいくつものこしているように、日蓮は陳状の内容に相当なこだわりをもっていたと思われる。そのこだわりの一つが書式で、具体的には平出(へいしゅつ)と擡頭(たいとう)の使用をあげることができる。平出とは「天皇、皇室等に関する文字が出るとき、これに敬意を表するための措置で、公式令の規定に由来」し、「天子、天皇、皇帝、陛下、太上天皇、天皇諡(オクリナ)、皇后などの文字は平出にすること」が定められている(佐藤進一上掲書)。
 すなわち平出とは、天皇等の名が現れた際に改行して、その名が上段にくるよう配慮する書式だが、日蓮の場合は、独自の仏法・王法観をもって、この平出を転用している。日蓮が当文書で平出を用いた名をみると「法華経(妙法蓮華経)・涅槃経・大日本国・大覚世尊(如来=釈迦)・天台大師・伝教大師・源右将軍(源頼朝)・平右虎牙(北条義時)・日蓮聖人(聖人・法主上人)」で、引文の場合はこの限りではないが、日蓮があたかも天子・天皇を敬って用いるごとくに、これらに平出を用いていることは、まことに興味深い。特に【図1】の一行目一番下の「聖人」は改行して上位にもっていくよう、日蓮みずから訂正している。
 
  【図1】「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」
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 この平出よりも、さらに敬意表記を高めた書式に擡頭(たいとう)がある。擡頭とは「当該語を改行したうえで、さらに各行の高さよりも一ないし二字分ほど突出させて記す用法」である(笠谷和比古「擡頭」『日本史大事典』)。当文書を見ると、日蓮は「法華経」に擡頭を用いているかに見えるが、そのことは、日蓮と共に陳状の草稿にたずさわった富木常忍の起草部分をみれば、より明確に看取され【図2】、日蓮らが何よりも法華経に重きを置いていたことがわかる。仏法と王法は古代より両輪のごとき関係にあったが、日蓮は仏法をより重くみていたのである。
 
  【図2】「瀧泉寺大衆日秀・日弁等陳状草案」
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 なお擡頭は、本邦においては規定がなく、中国における上奏文等にならったものといわれ、その用例も少ないらしい(瀬野精一郎「擡頭」『国史大辞典』)。そんな中で当文書に擡頭が見えることも興味深いが、近時、至元三年(一二六六)年八月、日本国王へあてた「蒙古国牒状」の日蓮写本断片が見つかった(都守基一「日蓮聖人真蹟断片に関する覚書(二)」『日蓮仏教研究』9号)。この「蒙古国牒状」には、まさしく擡頭が用いられていて、「上天」「大蒙古国皇帝」「祖宗(ジンギスカン)」には擡頭を用いているが、「日本国王」はワンランク下の平出としている【図3】。
 
  【図3】『図録日蓮聖人の世界』より転載
  【図版は無断転載禁止です】 
   相手の名(この場合「日本国王」)を一段下げて記すという書式は、言葉で語らずとも、その相手を見下していることは一目瞭然である。
 ちなみに、この牒状(蒙古国書)を受け取った日本は、武家の意向により「牒状の体、無礼なるによりて返牒に及ばぬよし、牒使に仰せ含て返却」(『五代帝王物語』)している。
  このように平出や擡頭は、言葉とはまた違ったかたちで、受け手に伝わるものがある。当文書における用例も同様で、擡頭を用いた法華経に対して、浄土経典や真言経典には何も用いておらず、その勝劣を日蓮は、ビジュアル効果も併用して示そうとした、とも考えられよう。
 また日蓮は、釈迦をはじめ、智顗・最澄の先師、そして日蓮に平出を用いている。それは日蓮自身、当文書で「法主聖人(日蓮)時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君の為、民の為、神の為、仏の為、災難を対治」する者と言っているように、その自覚と自負を、内外にも示す意図があったと考えられる。基本的には国難を退治する者は、叡山を除いては日蓮一人である、という『安国論御勘由来』以来の姿勢と変わらないが、その意識は、いっそう強まっていったといえよう。
 次回は当文書における平出の使用から、日蓮の国王観について再確認をしてみたいと思う。(坂井法曄)
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