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2008年

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 奈良の大文字焼きが行われる高円山の裾野の一画に水田がある。ゴールデンウィークの頃、田植えの為に水が入れられた。田の形に合わせて等しい間隔を取り、一面に苗が植えられていったのだが、一カ所だけ何時までたっても水溜りのままであった。何が植えられているのか分らなっかたが、七月に入ると小さく丸まった様な葉が水面に出てきた。二三日すると水玉が乗っており、小さいながらも立派な蓮の葉である。十日には葉の生長とともに脇からピンク色した穂先を持つ蓮華の蕾が伸びてきた。二十日頃には花びらの下方がピンクで、上は白く美しい蓮の花が咲き誇っていた。
 御書システムを使い一つの語句で検索するとき、31767の全データの中から2桁や3桁のデータが検出され、更に絞り込んで当該の御書を探し出すこともあれば、「該当本文ナシ」の場合もある。膨大な御遺文の中、たまたま唯一箇所にあることが分かったとき、一人愉悦に浸り、ほくそ笑んでしまう。蓮華の異称である「芙蓉」の語がそれである。蓮華の譬喩を使って甚深の法門が顕わされる。その異称である芙蓉の語を宗祖は使われていると思っていたのだが、『開目抄』(C3=曽存御書)の中で維摩経の一文を引用されている所だけであった。
「又云く、譬へば族姓の子高原陸土には青蓮華芙蓉の衡華を生せず、卑湿汚田に乃 ち 此華を生ずるが如し」(№16055)
 これは維摩居士が如来種(仏種)とは何かと質問したのに対して、文殊師利が答えた一文である。「族姓子よ。譬えるなら青蓮華芙蓉の衡華は高原の陸地には生じないが、卑しく汚い湿地にこそ生ずるように、二乗の心には仏種が生じない」と説く維摩経の一文が引用されている。
 ここに「青蓮華芙蓉」の華は高原の陸地に生じないとある。芙蓉には葵科の落葉低木を指すこともあるが、湿地に生ずるとあるので蓮華の意であろう。
 維摩経が収録されている大正蔵経の経集部には、六カ所に「青蓮華芙蓉」の句が検出された。「蓮華」と「芙蓉」は一連の言葉のようである。金光明最勝王経慧沼疏の中に「蓮華者通じて芙蕖と名づけ亦芙蓉と名づく」とある。法相系の章疏にはしばしば芙蓉の語が見られるが、天台大師の三大部の中には、蓮華の譬えは数多く使用されているのに芙蓉の語は一度も使われていない。
 玄義序の中に、蓮華の三喩をもって本迹の六義という甚深の法門が説き明かされている。迹門においては法に約し、「為蓮故華(蓮の為に華がある)」とは「為実施権」、つまり法華経を説く為に、四十余年の権教が施設されたことに譬え、「華開蓮現(華が開いて蓮の実が現れる)」とは「開権顕実」、爾前権教の三乗を開会して法華一乗の真実の教えを顕すことに譬え、「華落蓮成(華が落ちて蓮の実が生長する)」とは「廃権立実」、すなわち法華という真実の教えが現われると、方便権教が廃されることに譬える。
 本門おいては仏に約し、「為蓮故華」は「従本垂迹(本仏より迹仏が応現していること)」に譬え、「華開蓮現」は「開迹顕本(迹仏を開会して久遠の本仏を顕わすこと)」に譬え、「華落蓮成」は「廃迹立本(久遠の本仏が顕われると、迹仏が廃されること)」に譬えたように、蓮華の譬喩を借りて甚深の法門が説かれていく。
 玄義七には当体蓮華の法門について、「蓮華は譬えに非ず当体に名を得と。類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」(大正蔵33・771c。№18359)とあり、「蓮華」は譬えではなく諸法の当体がそのまま因円果満なるところをいい、例せば劫初に万物に名が無かったとき、聖人が理を観じて名を付けたと示されている。
 また、
「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す」(大正蔵33・771c。№18360)
とあり、「蓮華」とは草花に譬えを借りたのではなく、法華の法門は微妙清浄にして因円果満なるところを「蓮華」というと述べられている。おそらく「芙蓉」では法華の法門は顕わせないので使われなかったのであろう。玄義七の引用文の二つは、録外所収の『当体義抄』(R6=写本・刊本の伝承で真偽の検討を要する御書)の中にただ一度使われている。
富士山 蓮華
 ちなみに「芙蓉の顔(かんばせ)」といえば、華に喩えて美しい顔立ちをいったものである。また「芙蓉峰」とは日本第一の名山・富士山のことである。頂上には深さ二百二十メートル程の火口、それが八つの峰より出来ている。剣が峰が最も高く、遙か上空から見れば、蓮の花が咲いている如くである。それゆえに古来「芙蓉の峰」といわれている。
 また蓮の花には八朶という別称がある。八朶とは八つに分かれた花弁をいい、蓮の花の美しく咲き誇る形状より名付けられている。富士山を「八朶の芙蓉」ともいう。頂上の火口に蓮の花が見事に咲いた様子を想像すれば、その呼び方も納得がいく。
 『産湯相承事』に、
「日蓮は富士山自然の名号なり。富士は郡名なり、実名をば大日蓮華山と云ふなり、我 中道を修行する故に此の如し。国をば日本と云ひ、神をば日神と申し、仏の童名をば日 種太子と申し、予が童名をば善日、仮名は是生、実名は即ち日蓮なり」
とあって、宗祖実名の謂われが相伝されている。日本第一の富士山=火口が八つに分れた芙蓉の峰=大日蓮華山であり、それと日蓮の実名とを宛がった富士門流独自の伝承である。
 末法濁悪の世に法華弘通のため一人邁進された宗祖の姿を、汚泥に咲く一輪の蓮華に譬えたものといえよう。ただし「大日蓮華山」の語句も御書システムの全データ中、ただ一度ここに検出されるのみである。                                    (古川) 
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 今回は京都本圀寺蔵の真蹟『立正安国論』を紹介しよう。前回少し触れたように、本圀寺本は、文応元年の呈上本を建治頃に増補したもので所謂「建治の広本」と言われている。真蹟の中山本(呈上本と内容的にほぼ同じ)と比べて、広本は引用文の増加や真言破折の文が追加されるなど、2000字余りも分量的に多くなっている。
 行学院日朝師の『安国論私抄』によれば、
「安国論広本・略本事。或人ノ云ク広本ハ草案ノ本也。当時ノ略本ハ公界ニ出玉ヘル御本也」
等と紹介されている。つまり「広本」に引用文が多いのは草案本ゆえであって、その冗長な部分を除いて、要領を得たのが呈上本=略本と認識されている。これでは先に広本が作られ、後に呈上本が成立した順序になるが、真言破折の一事をとっても事実と相応しない。それゆえ日朝師も、
「又建治ノ年号ニテ再治ノ安国論トテ之有リ」
と後段に示して、「或人ノ云ク」を退けている。
 呈上本を建治年間に再治(原本を見直し手を入れること)したとする説は、古くは日興上人の『富士一跡門徒存知事』をはじめ、中山日祐師の『立正安国論私見聞』に、「建治再治ノ安国論トテ有レ之」とあり、また同師の『本尊聖教録』にも、「安国論一帖並に再治本一帖」と紹介がある。さらには、本成日実『当家宗旨名目』や本是院日叶『百五十箇条』にも「建治再治ノ安国論」とする記述がある。これらの記述は、ごく普通に考えて本圀寺に現存する広本『安国論』を指すものであろう。
 ところが『日蓮宗事典』のように、その本圀寺本について真蹟か否か、疑問を投げかける説もある。
「広本の真蹟は初めの数紙は御真筆であるが、その後は弟子の筆跡であると鑑定されている」
という如くだが、これだけの記述で広本の大半を真蹟に非ずと認めるわけにはいかない。現行の遺文集や講義本も殆んどが本圀寺本の全体を真蹟として扱い、『日蓮聖人真蹟集成』にも収録されている。掲載の図版は冒頭および末尾部分であるが、筆致は少しも変わるところがない。
真蹟『立正安国論』広本(京都本圀寺蔵)の冒頭と末尾
初行に「沙門日蓮勘」とみえる。冒頭より末尾まで、少しも乱れず書き継がれている。
【図版は無断転載禁止です】

 写真版を拝する限りだが、24紙のすべて、同筆と見ざるを得ないものである。
 それが「鑑定」の結果、途中から異筆と判断されるのであれば、少なくとも何紙・何行目からと示し、文字対照その他の異筆たる根拠を挙げなければならない。さらに本圀寺本全体を後世の模写と判断する場合でも、しかるべき理由を提示する必要があろう。
 あるいは異筆と鑑定した背景に、写真からでは分からない判断材料があるのかも知れないが、そうであれば尚更その根拠を示し、学問的な責任を果たすべきであろう。
 なかには本圀寺本が明治初期の小川泰堂編『高祖遺文録』に、初めて収録されたことを危ぶむ声もあるらしい。なぜそれまで本圀寺本は世に出なかったのか、つまり伝来に関する疑問なのであろう。
 しかし前述した日朝撰『安国論私抄』に、
「日叙私云、御自筆ノ安国論中山ニ一巻、本國寺ニ一巻、当山ニ一巻也………此ノ御本ノ中ニ広略之有ル歟」
との注記があり、久遠寺15世日叙(1523~78)師は広本の本圀寺所蔵を示し、当時すでにそれを「御自筆ノ安国論」と認めていた。
 私も真蹟たることを信じるが、さらに今後における本圀寺本の精査に期待したい。  (池田)
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 今回は日乾写本『立正安国論』(京都本満寺蔵)について考えてみたい。筆者の寂照日乾は、慶長・元和頃に活躍した身延久遠寺の学匠。
 今までの御書コラムに触れられてきた日興本や日源本等の『安国論』写本に比べて、日乾本はかなり時代が下るが、身延久遠寺に所蔵した宗祖のご真蹟を直接書写したものであり、文献的な価値は非常に高い。久遠寺蔵『安国論』(以下身延本と称す)のご真蹟は、明治八年の大火で焼失してしまったので尚さらである。
 さて日乾の『身延山久遠寺御霊宝記録』には次のような記述がみえる。
「一、立正安国論。最初御送状一紙、御文云雖未入見参〇故最明寺入道殿進覧之。已上十行半。御正文二十紙。合題号四百一行。奥云文応元年太歳庚申勘之」
 これによれば、身延本『安国論』は紙数が二〇枚、題号の「立正安国論」を含め全四〇一行にて書かれていた。その奥には、『安国論』が述作された年次を示す「文応元年」云云の識語がある。また『安国論』とは別に『送状』の一紙があり、その首尾を「雖未入」から「進覧之」までの一〇行半と示している。当時のご真蹟を彷彿とさせる、まことに簡にして要を得た記録である。
          *              *              *
 ところで近年、この身延本こそ北条時頼に呈上された「正本」であり、諸写本の元となった「原本」であろう、と推測する説がある。
 呈上された『安国論』は北条時頼から再び宗祖の元へ戻され、文永六年の消息に、「立正安国論の正本、土木殿に候」と記されているように、一時期は富木常忍が預かっていた。それがいつしか身延久遠寺に伝来したのであるという説である。
 しかしこれには幾つかの認めがたい問題がある。
 日乾本を通覧すれば分かることだが、まず呈上本にしては行取りや字数など全体の調和がまったく取れていない。日乾はご真蹟の行数について、題号を含め四〇一行と明記し、自身もまたその行数に合わせて筆写している。つまり日乾本の行取りや字数はご真蹟を模したものである。次下に掲載した図版によってそれを確かめてみよう。
 冒頭一紙においては題号・本文ともにゆったりと書き始められ、一行は一四字詰めとなっている。しかし、それが末尾では行の間隔も極端に縮まり、字も小さく一行に二〇字も詰められている。念のために言えば、冒頭と末尾の図版における縮小比は同じである。
日乾本『立正安国論』(京都本満寺蔵)の冒頭(上)と末尾部分(下)。字詰め・行取りにか
なり異なりを見せている。また日乾本の筆致は、見たとおり限りなく真蹟の模写に近い。
【図版は無断転載禁止です】
 これによって宗祖は途中から限られた紙数を意識され、行間を詰めたり、字数を増やされたことが了解されよう。それが極端なだけに呈上本としては少なからず不審である。
 また「立正安国論」の題号の下に「日蓮撰」等の署名が無いことも呈上本としては考えづらい。
 また図版部分ではないが、本文において「護持正法正法者」と誤って繰り返された傍らに御本ノママ」と注記があるのは、ご真蹟の重複表記を日乾が指摘したものである。これら随所にみえる異本との校訂箇所を考え合わせても、身延本はやはり呈上本として相応しない。
 さらに『送状』が身延本とセットになっていることを思えば、
「故最明寺入道殿に之れを進覧せしむ」
との記述に随って、北条時頼の示寂(弘長三年十一月)後に、身延本は成立したと見るのが妥当ではないだろうか。『送状』は現行の遺文集では『立正安国論副状』と称され、系年は文永五年と推定されている。同年の『宿屋入道許御状』『宿屋入道再御状』等に内容や文言が一致するので無理のない見解である。
 種々勘案して、身延本は宗祖が文永五年頃に書写され、手控えとして所持された『立正安国論』と見るべきではなかろうか。                                 (池田)
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 既刊遺文集における『浄土九品事』『一代五時図』の表記について問題を指摘したい。
 初めに『浄土九品事』について。
『浄土九品事』法然法系図中の善恵門下
【図版は無断転載禁止です】
 写真図版のように本書の法然法系図は宇都宮頼綱を「故打宮入道」、宗観を「修観」と記している。「打宮」は宇都宮の同音表記である。
 宇都宮頼綱(1172~1259。現栃木県宇都宮市一帯の領主)は源氏に従軍して一騎当千の武将と賞賛されたが、後に入道して法然の俗弟子となり、同じ法然の俗弟子・熊谷直実(1141~1207。現埼玉県熊谷市一帯の領主)と並び称された人である。
 宗祖が「故打宮入道=宇都宮頼綱」を「善恵(善恵房証空=法然の弟子で西山派の祖)」に傍記したのは、後述するように法然滅後、頼綱が善恵を師としたからである。また善恵の弟子「修観」に「極楽寺殿御師」と傍記したのは、これも後述するが、「極楽寺殿=北条重時」が宗観を師と仰ぎ鎌倉極楽寺の住持としたことを宗祖がよく知っていた証拠である。
 しかしこの「打宮入道」「修観」の真蹟箇所は掲げた写真図版を見ても分かるように大変込み入っていて、遺文集は当初二人を別人として表記できていなかった憾みがある。
 『浄土九品事』を初めて収録した霊艮閣版日蓮聖人御遺文(明治37年)続集が二人をつなげて「故打宮入道修観」としてしまった誤表記は、昭和新修日蓮聖人遺文全集(昭和9年)、大石寺版日蓮大聖人御書全集(昭和27年)、昭和定本日蓮聖人遺文(昭和29年)でも改訂されなかった。
 同様に、本化聖典大辞林や日蓮聖人遺文辞典(歴史篇)の「善恵房」「善恵」の項でも「打宮入道修観」「打宮=宇都宮入道修観」と表記され別人として扱われていない。
 これを別人と分かるように改訂したのは後に刊行された日蓮大聖人御真蹟対照録、昭和新定日蓮大聖人御書、平成新編日蓮大聖人御書等である。
 ただし本化聖典大辞林が、1727年に諸系譜を集大成して成立した『浄土伝灯総系譜』の「宗観」に「名越一族、住相州鎌倉極楽寺」と注記されているのに着目して、『浄土九品事』の「修観」は宗観かと指摘したのは功績として評価されるべきであろう。
 また『浄土九品事』には言及しないが、宗観と北条重時、善恵と宇都宮頼綱についての先駆的研究として知られているのが、東京大学桃裕行名誉教授の「極楽寺多宝塔供養願文と極楽寺版瑜伽戒本」である。(『金沢文庫研究』六十二号所収)
 桃氏は宗観と北条重時(1198~1261)の関係を、「宗観」に「名越一族、鎌倉極楽寺根本」と注記する『浄土惣系図』(円通寺本)や上記の『浄土伝灯総系譜』等によって次のように考えた。重時は六波羅探題北方の任期中(1230~1247)に、善恵の弟子で兄朝時の一族でもある宗観と親交があり、その縁で宗観をともなって鎌倉に下向し極楽寺根本とした。
 この桃論考と『浄土九品事』を引用する東京大学高橋慎一朗准教授(史料編纂所)の「鎌倉における浄土宗西山派と北条氏」は、京都六波羅が西山派と北条氏の結び付きの場となったと指摘し、宗観は重時のおじである宇都宮頼綱を介して善恵の弟子となったと推している(『中世の都市と武士』所収)。高橋論考は桃論考と『浄土九品事』が、浄土宗と北条氏の研究に欠かせない論考・史料であることを示していよう。
北条氏系図
 高橋氏が言う、宇都宮頼綱と北条重時の関係は掲げた北条氏系図でお分かり頂けよう。源頼朝の妻政子の姉妹を妻とした宇都宮頼綱は重時のおじで、系図には示さなかったが、頼綱の子は北条朝時の娘を、孫は重時の娘を妻としている。
 この北条氏と宇都宮氏の婚姻関係はすでに桃論考が詳述している。
 さらに桃論考は、1386年に実導仁空が作成した善恵の伝記『西山上人縁起』にみえる善恵と宇都宮頼綱の次の逸話を紹介している。すなわち、宇都宮頼綱が師である法然に法然滅後誰を師とすべきかを問うたところ善恵(1177~1247)を推されたので、法然滅(1212)後長年にわたって善恵に師事し、善恵の教えを書き記した積学抄を撰したという。
 西山派の実導仁空が記したこの逸話は信憑性が高いと評されるが、宇都宮頼綱が善恵を師としたのは、初めに掲げた『浄土九品事』の善恵門下の写真図版によって明らかである。
 このように『浄土九品事』の善恵門下に記された「打宮入道」「極楽寺殿御師」等は『浄土九品事』の史料価値の高さと、宗祖の情報の正確さを示している。それを広く世に知らしめるためにも、遺文集の「故打宮入道修観」は別人として法然法系図の正しい位置に置かれるべきである。
 付け加えれば、山形大学松尾剛次教授は極楽寺に伝わる五鈷鈴の「建長七年九月日僧清賢、大工橘宗近 極楽律寺」の銘によって1255年(建長7)には極楽寺は律宗寺院となっていて、1263年に重時三回忌の導師を勤めた宗観はすでに良観房忍性に帰依した律僧として執行したのではないかと推測している(『中世都市鎌倉を歩く』)。また愛知学院大学福島金治教授は「鎌倉北条氏と浄土宗」で極楽寺・称名寺が西山義から諸行本願義へ転換したことや、律宗との法義的関わりについて触れている。(『金沢北条氏と称名寺』所収)
 ところで、宇都宮氏について保田妙本寺に所蔵される日與書写『立正安国論見聞』に次の記述がある。
「私云、法然墓所事。従山門賀茂河ニ流ス時、于都宮先祖取之、置西山ニ云云。」
 これは延暦寺の命で犬神人が法然の墓所を破却したという『立正安国論』第六問答の注記であり、賀茂河に流された法然の遺骨を「于都宮=宇都宮」の先祖がひそかに拾い取って、善恵の京都西山に安置したという内容である。「于都宮先祖」は宇都宮頼綱かその一族とみてよかろう。
 奥に「天文六年十一月四日 日與(在判)」の識語があるこの『立正安国論見聞』は、全文が活字化されて『日蓮仏教研究』(常円寺日蓮仏教研究所刊)二号に掲載予定とのことである。
 もう一つ『浄土九品事』の表記について言えば、『浄土九品事』は観無量寿経の浄土九品を図説するが、その「上品上生」を説明する観無量寿経の「三種の心を発して即便ち往生す」の引線位置に問題がある。ある遺文集はこの経文を同じ「上品上生」を説明した同経の「復三種の衆生有り当に往生を得べし」の「三種」に引線するが、昭和新修日蓮聖人遺文全集や平成新編日蓮大聖人御書のように、じかに「上品上生」に引線するのが、観無量寿経(大正蔵12巻344頁C)やそれを引用する往生要集(岩波日本思想大系6-源信257頁)を要約した宗祖の意に添う表記である。
『浄土九品事』が上品上生を説明した文
【図版は無断転載禁止です】
 次に『一代五時図』について。
 本書は法然の選択集第十二章の要旨を「六百三十七部二千八百八十三巻、捨閉閣抛」と簡潔に記している。
『一代五時図』
【図版は無断転載禁止です】
 この「六百三十七部二千八百八十三巻」と「捨閉閣抛」を直接関わりのない別文として表記する遺文集があるが誤表記である。というのもこの「六百三十七部二千八百八十三巻」は選択集第十二章の、
「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。」
からの引用で、「六百三十七部二千八百八十三巻」は浄土三部経を除いた聖道門の顕密諸大乗経すべてを指している。すなわち、聖道門の諸経を閉じて読誦せずに浄土念仏のみを信じよという選択集の意を宗祖は「六百三十七部二千八百八十三巻(の聖道門諸経を)捨閉閣抛(せよと法然は述べている)」と簡潔に記したのである。それは次の『立正安国論』第四問答の記述によっても理解されよう。
「(法然は)曇鸞・道綽・善導の謬釈を引きて聖道浄土・難行易行の旨を建て、法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部・二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ。この四字を以て多く一切を迷はし、剰へ三国の聖僧・十方の仏弟を以て皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。」
 『一代五時図』以下の件については『興風』19号の拙稿「宗祖の初期における『選択本願念仏集』批判」を参照されたい。                                 (菅原)
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 一昨年本コラムで、「古写本により救い出された真蹟御書断片」と題し、福井県感応寺に所蔵される1行断簡が、『法華経題目抄』の断片であることを紹介した。今回はその続編である。
 今年二月、中尾堯氏が日蓮宗新聞に連載されている『ご真蹟に触れる』(2月20日号)に、大阪府東大阪市の宝樹寺に所蔵される2行の真蹟断簡が紹介された。
□□□□鷲の山と申ところにて/八年か間とき給し法花経を智者大師ハ」
 新聞の小さな写真なので多少見づらいものの、それを拝見し、特に1行目の「鷲の山」という文字を見て、これはもしかしたらとピンと来た。前回紹介した感応寺所蔵『法華経題目抄』の1行断片の「鷲の山」と瓜二つ、字詰めや字体はもちろん、全体的雰囲気がよく似ている。寸法も感応寺の方が縦28.4㎝、宝樹寺のは28.2㎝とほぼ同じである。さっそく頼りの御書システムにご登場願い、断簡中の単語を絞り込んでみることに。「鷲の山」は前回絞り込んで、『身延山御書』の最末に,
「立ちわたる 身のうき雲も 晴れぬべし たえぬ御法の鷲の山風」
という歌の中に、1件あるのみであることが確認されている。そこで「法華経」と「智者大師」を含む文を絞り込んでみる。すると11件がヒットし、順に繰っていくと……、あった。やはりというべきか『法華経題目抄』に、
「摩竭提国王舎城の艮、霊鷲山と申す所にて、八箇年の間説き給ひし法華経を智者大師まのあたり聞こしめしけるに」
という、類似した文がある。さっそく例のごとく「門下写本」を見てみると、日目所持本では,
「摩竭提国王舎城のわしの山と申所にて八年之間説給し法花経を智者大師ハまのあたり聞しめしけるに」【写真②】
とある。感応寺の1行断片の時と同じく、『昭和定本日蓮聖人遺文』は従来の写本(『刊本録内御書』等。最古写本と思われる『平賀本』『日朝本』は未見)を踏襲して、「鷲の山」は「霊鷲山」と書き改められており、「八年」も「八箇年」となっていて、中尾氏が「これに相当する文はなかった」とされたのは、無理からぬことというべきであろう。日目所持本なかりせば、これも単なる2行断簡として長く伝えられるところであった。
①大阪府宝樹寺蔵『法華経題目抄』断片 ②宮城県妙教寺蔵、日目所持本の同箇所
【図版は無断転載禁止です】
 さっそく以上のことを宝樹寺和田龍昌氏にご報告し、調査および写真撮影をお願いすると、快く了解して下さった。実見すれば1行目上部の削損した部分が判読できるかも知れない。
 3月2日、池田令道氏とともに宝樹寺を訪れ実見させていただくと、削損状態は意外に激しく、限られた時間内では判読できず、帰って写真にてじっくり検討することにした。
③本断片「丑寅」の部分 ④「丑」(『曾谷入道殿許御書』・『真蹟集成』1-40-5) ⑤「寅」(『智妙房御返事』・『真蹟集成』2-290-8) ⑥「寅」赤が重なっている部分
【図版は無断転載禁止です】
 アップで撮った写真で、字形が比較的残る下の部分は、「丑寅」であることがすぐに判明した【写真③】。「寅」の字に仮名文字のような線が重なっており、若干わかりにくいが【写真⑥】の赤の重なった部分を除けば、明らかに「寅」である【写真⑤】。日目所持本で「丑寅」がカットされているのは、これをミセケチと判断したためであろう。
⑦削損部分「王舎城の」 ⑧「王」(『法華題目抄』・『真蹟集成』4-84-4)
⑨「舎城」(『薬王品得意抄』・『真蹟集成』4-79-13)
【図版は無断転載禁止です】
 さてその上部であるが、これはなかなか厳しい。文字の左端部分が墨痕として残っており、「王舎城の」と書かれているはずなのだが、どうも私にはしっくりこない。写真をあっち向けこっち向けしながら日がな眺めていると、池田氏から電話があり、「王」はたとえば【写真⑧】のような「王」の字の形がほぼ完全に見え、「舎城」も【写真⑨】の左側部分が出ていると見てよいのではないか。さらに「の」は薄いもののよく見れば、完全に字形が出ている、との指摘があった。「なるほど」と思いながらも、私の頭の中では、いまだ完全にピントがあっていないのだが、それは紙がよじれているなどのことから生ずる違和感なのかもしれない。さらに他の多くの類例を参照しながら、ピント合わせに努力していきたいと思う。
 いずれにせよ、こうしてまた『法華経題目抄』の真蹟が、2行ではあるが確認された。今度もまた日目所持本が、決定的役割を果たした。二度あることは三度あるという。まだまだどこかの蔵の中に、我われの発見を心待ちにする断片が、存在するような気がしてならない。
 最後に中尾堯氏の、ますます旺盛な調査とその成果に深く敬意を表するとともに、その学恩に深謝する次第である。                                      (山上)
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 史上に名を留める高僧や為政者の筆とされるものには、いわゆる「贋作」が多い。日蓮聖人もまた、例外ではない。たとえば毎年、東京で開催される古典籍の入札会には、必ずといってよいほど、二三の「伝日蓮筆」が出品されるし、私たちが、これまで行ってきた調査においても、数多くの「伝日蓮筆」と出会った。
 これら「伝日蓮筆」は、一見して真蹟とは認められないものが多いけれども、中には、まことに巧妙で見分けの困難な、研究者泣かせの筆もある。その内訳も、単にご真蹟を模写しておこうというものもあれば、明らかな作為を感じるものなどさまざまで、「伝日蓮筆」研究という一分野があっても良さそうに思う。
 実は最近、私はこの「伝日蓮筆」に興味を持っていて、手元にある「伝日蓮筆」の分類を進めている。そして、その作業を通じて、これまで知られていなかった、富木常忍や白蓮日興、帥公日高の筆を見いだすなど、いくつかの成果を得ることができた。
 かつて御真蹟研究の大家:山中喜八氏は、これらを「他筆」「非聖筆」として『日蓮大聖人御真蹟』には収録しなかった。当然のことである。しかし「御真蹟」として伝えられた「非聖筆」の中に、富木常忍や日興、日高ら、聖人に直参した弟子・檀越の筆跡があることは、単なる偶然とは思えないし、中には「準真蹟」ともいうべき性格を持ったものもあるのではないかと思う。
 先日も真蹟に混在する「他筆」の中から、白蓮日興の筆のあることを見つけ、そのことを痛感した。
【図1】 『摩訶止観等要文』(中山法華経寺蔵)
【図版は無断転載禁止です】
 【図1】を見ていただきたい。これは下総中山法華経寺に所蔵される『摩訶止観等要文』(『日蓮聖人真蹟集成』5-186頁)である。2紙21行(含:見消)に「他筆」の含まれていることがわかるだろう。すなわち「転字輪漫荼羅行品第八」以下5行がそれで、すでに山中喜八氏によって「“転字輪”以下5行他筆」(『日蓮大聖人御真蹟対照録』下350頁)と指摘されている。
 他筆部分には「大日経」など、聖人筆を模倣したと見なされるものもあるが、子細に見ると「転字」の「字」をはじめ「第」「主」など、日興筆の特徴がよく出ている。特に「本」は極めて特徴的で、これらを凝視比較して、日興筆であることを確信した。日興は「本」の字を書くときに左のハライを極端に長く書くことが多く【図2】、その特徴がまことによく出ている。
【図2】 『摩訶止観等要文』 『一代五時鶏図』写本 『南条兵衛七郎殿御書』写本
【図版は無断転載禁止です】
 このように、他筆であっても、御真蹟と混在していれば「準真蹟」として扱われるだろうけれども、これが各地に散在する断簡のように、他筆部分が切り取られ独立した存在となった時、「準真蹟」から「伝日蓮筆」として降格されるのみならず、本来のもつ意義すら失われてしまうだろう。
 冒頭記したように、これまで興風談所の行ってきた調査においても、「伝日蓮筆」とされた文書と多く出会ったが、追跡調査、研究によって、その中の、実に7点の文書が「伝日蓮」ではなく「日興筆」であることがわかった。7点の中には、今回紹介した『摩訶止観等要文』のように、「準真蹟」的存在があるかも知れない。今後も「伝日蓮筆」を注視していきたい。      (坂井) 
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 今回は北山本門寺蔵の真蹟『貞観政要』を紹介したい。
 本書は唐の太宗皇帝が貞観年間(627~650)に、賢臣の魏徴(ぎちょう)等と交した様々な問答を10巻40篇に編纂したものである。撰者は呉競(ごきょう)。
 国を治めるリーダーの心構えや具体的な方策などが説示され、現代まで多くの識者に読み継がれてきた名著である。古写本に南家(なんけ)本・菅家(かんけ)本・写字台(しゃじだい)本など、刊本には徳川家康が開板させた伏見版(古活字で有名)がある。
 宗祖の真蹟(以下、北山本と略称)は、写字台本の系統とされている。
 北山本は、第1巻の君道第一・政体第二を録するのみだが、他に断片として、①静岡宗徳寺蔵・2行(第1巻「上表」部分)、②兜木氏蔵・2行(第1巻)、③山梨本遠寺蔵・断片4行(第2巻)、④京都本圀寺蔵・3行(第4巻)、⑤京都頂妙寺蔵・6行(第4巻)、⑥新潟本成寺蔵・1紙(第5巻)、⑦京都瑞龍寺蔵・4紙(第10巻)、⑧京都本法寺蔵・7行(第10巻)等が現存しており、宗祖の書写・抄録は、『貞観政要』全巻に及んだ可能性がある。なお写字台本の系統は、第1巻が欠本なので、宗祖の真蹟はその点でも稀少価値が高い。また訓点や振り仮名が多く付されており、国語学的な史料としても有益である。
北山本門寺蔵。真蹟『貞観政要』第一巻。政体第二の冒頭部分。
相剥によって処々文字がうすく滲んでいる。
【図版は無断転載禁止です】
 それでは図版を熟拝していただきたい。冒頭の「貞観初ニ太宗」云云は、各章に共通する書き出しで、臣下との問答がいつ行われたかを示している。文字は雄渾にして伸びやか、筆致は流れるようである。全般的にうすく滲んで見えるのは、料紙の表裏が相剥(あいはぎ)されているからである。
 つまり北山本は、現在では上下2巻に仕立てられ、紙数は全48紙を数えるが、元は24枚の表裏に書かれていた。おそらく宗祖は、『貞観政要』を書写するにあたり、料紙の右端を綴じて横長の帳面を用意されたのであろう。『観心本尊抄』を書かれた時の要領と同じである。
 帳面に仕立てたのは、表裏に文字を書いて料紙を節約するためと、後々まで参照に便利で、しかも散逸を防げるからであろう。
 因みに、⑦瑞龍寺蔵の断片4紙も、北山本と同じく二紙の表裏を相剥したものであり、第10巻の書写にも帳面が用いられたことを知るのである。本成寺蔵の1紙は、第5巻の要文を抄録したもので相剥されていないが、紙背にはそれらしき文字があって、両面書きの帳面の使用が裏づけられている。
 その他の断片はみな相剥されており、筆致も北山本に相似するので、宗祖は『貞観政要』を同じ方式で、一時期にまとめて書写されたのであろう。その時期の特定は難しいが、立正安国会『御真蹟対照録』では、文字鑑定によって文永7年と推定している。
 ところで宗祖は、『佐渡御書』の端書に、
「外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給はり候べし」
と示され、『貞観政要』等が無くては、消息を書くにも難渋すると仰せられている。佐渡流罪の翌年3月のことである。文永7年の書写を相応とすれば、宗祖は自筆の写本を送り届けるよう依頼されたことになろう。
 しかし一方において、他人所持の『貞観政要』を送ってもらい、流罪中にそれを書写された可能性も無くはない。「かまへてかまへて給はり候べし」という、ごく丁寧な言い回しが、何かしら私には自筆の所持本を送り届けよ、という言葉に聞こえないのである。(池田)
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 未来を予見した書を未来記という。
 宗祖は『立正安国論』(以下『安国論』)を未来記として自負した。今回は『安国論御勘由来』等からそれを拝してみたい。
 文永5年閏正月上旬、蒙古国書が到来して他国侵逼の予見が的中する兆しを見せた。4月の『安国論御勘由来』は次のように自負している。
  1. 正嘉元年の大地震、2年の大風、3年の大飢饉大疫病の対策のため、内外典者(僧や陰陽師ら)に祈祷させたが効果がなかった。
  2. この天災は浄土宗禅宗の興隆、延暦寺帰依の浅薄によって善神天上、悪鬼乱入して起きたもので、他国侵逼の先相であると『立正安国論』に予見した。
  3. しかし内外典者はこの天災及び文応元年の彗星出現が他国侵逼の先相とは分からなかった。
  4. 蒙古国書によって『立正安国論』の正義が証明され予見は符合した。
  5. 釈尊、聖徳太子、天台大師らの未来記が符合した如く、蒙古は必ず襲来するだろう。
  6. 蒙古調伏の法を知っているのは延暦寺を除けば宗祖一人である。これを用いなければきっと後悔するだろう。
 蒙古国書到来は人々の危機意識を高め、宗祖草庵に多くの天台・真言僧を訪ねさせた。そんな中、宗祖や弟子は『安国論』をたびたび書写したが、文永6年12月に矢木胤家へ授与された『安国論』もその一つである。
 その奥書である『安国論奥書』(中山本)では文永5、6年到来の蒙古国書をあげて、「既に勘文これに叶ふ。これに准じてこれを思うに、未来もまた然るべきか。この書は徴ある文なり」と未来記たる『安国論』を自負している。
 文永7、8年頃に執筆された『安国論』奥書(日法本)にも、「この書あたかも符契の如し。諸人もって耳目を驚かす。これをもってこれを案ずるに、禅宗と念仏宗等、謗法の儀、疑い無きものか」とある。
 二書とも『安国論』の奥書なので、文章構成はよく似ている。そこで、中山本の「未来もまた然るべきか」の意味を日法本の「禅宗と念仏宗等、謗法の儀、疑い無きものか」に照らして推測すると、〈近未来も遠未来も禅宗念仏宗等の悪法興隆すれば他国侵逼を招く〉と『安国論』の普遍性を自負したものと理解して良さそうである。(日法本については昨年10月の池田コラム「未来記としての『安国論』」を往見されたい)
 ところで、中山本は「未来もまた然るべきか。この書は徴ある文なり。これ偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の至す所の感応か」と文章を結んでいる。この結文を文字通りに受け取れば、他国侵逼の予見は宗祖の力でなく、法華経の真実性がもたらした感応ということになろう。実際、当文や中世未来記を鑑みて、経典に説かれる他国侵逼等は誰でも予見できたのであり、宗祖はそれを当時の具体的な状況にあてはめたに過ぎないという見解が出されている。
 しかし当文は謙遜であって、宗祖自身が未萌を知る聖人と自負していることから考えても、宗祖の信行と経典の真実性が函蓋相応して『安国論』が的中したことは否定できないだろう。
 さらに疑問が呈されるかもしれない。宗祖以前に、善神捨国による四方の賊の蜂起が予見されたこともあるし、弥陀念仏興隆による他国侵逼等の唐例を挙げて朝廷に専修念仏禁圧を迫った延暦寺の前例があるから、悪法興隆→善神捨国→自界叛逆・他国侵逼の予見は宗祖だけの専売特許でないと。
 しかし前例があったとしても、先掲した『安国論御勘由来』の如く、〈2.当時の天災を他国侵逼の先相と予見した勘文〉がなく、〈3.内外典者はこの天災及び文応元年の彗星出現が他国侵逼の先相とは分からなかった〉のなら、まさに当時の具体的な状況にあてはめて予見したことに意義があり、独自性があるのではないか。
 まして、未来記の作成者は権者=仏・菩薩の化身と考えられていた。当時、聖徳太子は南岳大師の再誕、観音の垂迹と見られていたし、宗祖は『止観弘決』を権者たる妙楽大師の未来記としている。この土壌が、我こそ仏に出現を予見された〈仏の如き聖人〉という宗祖の自負を生んだのである。
中国の南岳大師が日本の聖徳太子として再誕したことを記す『念仏破関連御書』(番号4-163) 聖徳太子を南岳大師の後身、救世観音の垂迹と記す『和漢王代記』(番号3-21)
【図版は無断転載禁止です】
 最後にもう一つ。文永の役直後の『顕立正意抄』には、「釈尊は法華経で二乗の未来成仏を予見したが、それは釈尊が具体的に的中させた他の事実があったから信用できるのであり、それがなければいくら多宝・分身諸仏の証明があろうとも二乗作仏は信用されなかった。同じように、日蓮がたとえ、富楼那の如き弁舌を振るって説法しても、目連のような通力を得て不思議を現しても、予見が当たらなければ誰が信じるだろうか。『安国論』の予見は悉く符合した。心ある者は日蓮を信ずるべきである」(取意)とある。
 他の遺文にあまり見られない、多宝・分身の証明よりも釈尊の具体的な予見的中の事実を重く見るこの記述は、かえって宗祖の心情をストレートに伝えていよう。(菅原)
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 今回は『本尊問答抄』の
「誠に依法不依人の金言を背かざるの外は、争でか仏によらずして弘法等の人によるべきや。所詮其の心如何。」(『定本』1578頁・システム本文26466)
の一文の解釈について述べたい。
 この文は、本抄冒頭からの
「諸仏能生の法華経の題目(法)を本尊として、釈尊等諸仏を本尊とせず」
との表明の後、真言破折がなされる部分にある。
 すなわち真言破折についての第五問答にて、答者が弘法・慈覚・智証は、『法華経』の爾前経に勝れることを示す「最在其上」「法華最第一」等のご文を、故意に読み違えて「最在其中」「最在其下」「法華最第三」等と降していると批判したのに対し、問者は三大師の徳行の数々を掲げ
「(三大師は)何れも現の為当の為、月の如く日の如く、代々の明主・時々の臣民信仰余り有り、帰依怠り無し。故に愚痴の一切、偏に信ずるばかりなり」
として、自分たち仏教の知識に暗い者は、教理の是非や勝劣によって判断することができないから、人師の徳行により判断するよりほかなく、よって上下万民からの信任厚き三大師を信ずるばかりであると述べ、それに続けてこの問いの結論として
「誠に依法不依人の金言を背かざるの外は、争でか仏によらずして弘法等の人によるべきや。所詮其の心如何。」
と問うているのである。
 しかるにこの一文の解釈が難解で、古来さまざまに解釈されてきたが今ひとつすっきりしたものがない。
 まず『御書鈔』(上巻602頁)は
「依法不依人ノ金言ヲ背スルニ非ス。真ニ金言ヲ用ル段ハ余儀無ヒ(シ)。サレ共カゝル徳行ノ人ヲ捨テ法ニ依ルト云心ヲ得タヒ(シ)ト云問ノ意也。」(()内は私注)
と述べる。要するに問者は、依法不依人の金言に背くというのではないが、徳行の人を捨てて法によるという理由を知りたいと質問しているというのである。
 次に『録内啓蒙』(上910頁)は
「一義ニハ……仏説ニ背ク者ヨリ外ニハ仏ニ依ラズシテ人ニ依ルト云道理ハアルマシト裏ヲ以テ顕ス意ナリ。又一義ニハ金言ヲ背カサル上ニハ争カ仏ニハ依ラスシテ人ニ依ルヘキヤト順路ニ信伏ヲ顕ハス義ナルヘシ」
と述べて、一つには「仏説に背く者以外は、仏に依らず人に依るという道理はない」と解釈する説と、二つに「金言に背かない上は、なんで仏に依らずして人に依ろうか」と解釈する説とを並べるが、その当否についてのコメントはない。要するに日講もこの解釈には苦慮しているものと見える。
 さて、これらの先行解釈を受けて、『日蓮聖人御遺文講義』(第5巻410頁)では
「「法を拠所として、人を拠所とするな」と云ふ仏の御遺誡に背くなら格別、背かない限りは、どうして弘法等の人師にたよらないでいられようか」
と通釈し、『日蓮聖人遺文全集講義』(第22巻159頁)では
「されば涅槃経の「法に依て人に依るな」といはれた仏の御言葉に背かぬ以上、どうして仏に依りながら弘法等の人師に依らないで居られやうか」
と通釈し、『日蓮聖人全集』(第2巻450頁)では
「涅槃経の『法をよりどころとすべきであって、人をよりどころとしてはならない』という釈尊のいましめに背くなら別であるが、背かない限りは、どうして仏にたよらず弘法大師らの人師にたよることができようか。」
と通釈している。
 『御書鈔』の説は、今ひとつ本文に忠実な通釈でないので置いておくとして、『録内啓蒙』の二番目の説と『日蓮聖人全集』が共通し、『日蓮聖人御遺文講義』『日蓮聖人遺文全集講義』がほぼ同意であることがわかる。
 ところでこれらの解釈ははたして妥当なのだろうか。まず上記すべての解釈において、「誠に依法不依人の金言を背かざるの外は」のご文を、表現の差はあるものの、意としては、「依法不依人の金言に背かない限りは」と解釈していることに注目したい。
 もしこのように解釈するのであれば、それに続く文は、その前段の、「無知な私たちはただ信ずるばかりである」という言葉を考慮すれば、『日蓮聖人御遺文講義』『日蓮聖人遺文全集講義』のように、「どうして弘法等の人師にたよらないでいられようか」とならなければならないだろう。つまり「無知な私たちはただ信ずるばかりである。」だから「依法不依人の金言に背かない限りは」「どうして弘法等の人師にたよらないでいられようか」と、問者の心情が語られていることになるのである。しかし御書の当該部分は「争でか仏によらずして弘法等の人によるべきや。」とあって、この文から「弘法等の人師にたよる」という解釈を引き出すことは到底できず、これは不当な解釈といわざるをえない。
 一方『録内啓蒙』の二番目の説と『日蓮聖人全集』は前段を同じように解釈しながら、後段を「どうして仏にたよらず弘法等の人師にたよることができようか。」と解釈している。この後段の解釈はまさにそのままの意訳であるから妥当であるものの、それでは前段の「我われは無智故信ずるばかりであるから、仏の金言に背かない限り」という文意とは明らかに齟齬が生じてしまう。
 さて、これらのやや無理と思われる解釈は、そもそも「依法不依人の金言を背かざるの外は」を「依法不依人の金言に背かない限り」と解釈したところに原因があるものと思われる。つまり『日蓮聖人御遺文講義』『日蓮聖人遺文全集講義』はそう解釈した上で、文章を整えようとして後段を無理解釈してしまい、『録内啓蒙』『日蓮聖人全集』は後段を本文どおり解釈したことによって、前段との齟齬が生じ、文章全体がおかしくなってしまったのである。
 ではどう解釈すべきか。まず注意すべきは本文中にある「背かざる」という否定形の語を、その次下の「外は」=「以外は」で、二重に否定していると思われることである。すなわち「背かざる」を「以外」で更に否定することによって、意としては「背かない以外」=「背く」=「背くならば」となるのであり、したがって全体としては「誠に依法不依人の金言に背くのであれば、何で仏によらずして弘法等の人によることがあろうか。」と解釈しなければならないのである。
 こうした例は他にも『守護国家論』に
「設ひ百千万の義を立つると雖も「四十余年」等の文を載せて虚妄と称せざるより外は用ゐるべからず。仏の遺言に不依不了義経と云ふが故なり。」(『定本』134頁・システム本文11610)
という文章があり、この「称せざるより外は」という文も、「称せざる」を「外は」で二重に否定し、「称しない以外」=「称す」=「称するならば」と解釈することによって初めて文意が成り立っている。すなわち「たとえ百千万の義を立てたとしても、四十余年未顕真実の文を虚妄と称するのであれば、それは用いてはならない。」といわれているのである。ちなみにこの文についても『日蓮聖人遺文全集講義』(第3巻305頁)では
「縦ひ百千万の義を立つるとも四十余年等の文を載せて虚妄と称せぬ限りは用ゆるな、其の故は仏の遺言に不了義経に依るなと云ふが故である。」
と通釈し、また『日蓮聖人全集』(第1巻113頁)では
「たとえ百千万の意義を言い立てても『四十余年の経はまだ真実を説き顕していない』などの経文が虚妄であるという経文以外は、その経を用いることはできない。それは仏の遺言に『不了義経に依るな』と誡められているからである。」
と通釈して、双方二重否定されていることに気付いておらず、『本尊問答抄』の場合と同じようにおかしな解釈になっている。
 以上を要するに、『本尊問答抄』の当該ご文は、先に真言破折の第四問答にて、答者である宗祖が「釈尊最後の御遺言云、依法不依人等云々。」と教示されたのを受けて、第六問答において問者が、三大師の徳行を掲げた上で
「自分たちは無智故に人師の徳行を信ずるばかりであったが、もしそれが依法不依人の御金言に背くというのであれば、何で仏の遺言に背いてまで、弘法等の人師に依ることがあろうか。」
と述べたものと結論したい。
 なお、冒頭掲げたように、この問者の問いの結語は、『定本』等現行本では「所詮其心如何」となっている。しかるに「其心如何」と記されるのは日朝本あたりからと思われ、古写本である日興本・日源本・富久成寺本では「其正如何」となっている。
日興写本 日源写本 富久成寺本
               【図版は無断転載禁止です】
 どちらでも意味は通ずるものの、ここは古写本の「其正如何」を採用すべきと思う。それが御書編集の基本的態度であろうし、意としても「其の正しきは如何」との文言の方が、問者の、これまでの自身の三大師を慕う気持ちと、今聞いた依法不依人という仏の峻厳な御金言との狭間で揺れ動く我が気持ちに、この際その正しい見解をできるだけ詳しく聞くことによって、踏ん切りを付けたいと願う切なる気持ちが、より表れているように思われるのである。(山上)
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 今回は最近公表された真蹟の断簡四行を紹介したい。
 まずは次下の掲載図版をじっくり御覧いただきたい。
東京獅子吼会蔵・真蹟断簡四行(『日蓮仏教研究』第2号より転載)。初行の半分切れかかった部分が「日秀日弁」。二行目に「浄行一分也」とみえる。
 【図版は無断転載禁止です】
 この断簡は『日蓮宗新聞』に次の解読文とともに紹介された。
「雉のことし、させる/僧にハあらねとん、一分也、/其上、日々夜々に法花経を転/読し、時々剋々に天台六十巻を」
という文字並びだが、筆致は早書きで躍動感に溢れており、一見して宗祖の御筆と判断される。かなりの難読で二箇所に不明部分があり、それがためか意味も取りづらく、何れの御書の断片なのか、この時点では見当もつかない。
 難読箇所の読みについて、昨年暮れに日蓮仏教研究所の都守基一氏を訪ねて、いろいろ検討を加えたことがある。あれこれ思案するうちに、都守氏が二行目の不明部分について「浄行一分也」の読みを示された。御書システムで「浄行」の字体をいくつか調べると、なるほど納得である。
 それにしても「浄行一分也」とは、何とも興味深い真蹟ではないか。宗祖は『撰時抄』にて、「浄行」=「上行」の表記を用いられている。あるいは通音ではなく、何らかの意味があるのかも知れないが、「上行」「浄行」ともに「地涌千界の上首」であることに変わりはない。
 はたして宗祖が御自身を「浄行一分」と示されたのか、はたまた誰それを「浄行一分」と称えられたのか。いずれにせよ、地涌の菩薩たることを直接的に明言した真蹟は、数が少ないので貴重である。
 最初の不明部分が読めれば、さらに状況は明らかとなろう。どうにかして読みたいものである。しかし、ねじり鉢巻きをすれば、難読文字が読める、というものでもない。その日は胸の支えをおろせないまま帰路に着くことになった。その後も一日二日と繰り返し考えたが、名案は一向に浮かばない。そんな折、都守氏から連絡が入った。
「あれは日秀、日弁でした」
 こう言われて図版をまじまじ見入ると、確かに半分切れかかった部分に「日秀日弁」の文字がピタリと納まるのである。脱帽とはこのことだが、よくぞ読んでくれたもの――まさしく「日秀日弁」は、この断片の真価を決定づけるキーワードであった。
            *                 *                 *
 下野公日秀師、越後公日弁師といえば、日興上人の弟子にして滝泉寺の供僧であり、すぐにも熱原法難が頭に浮かぶ。むろん『滝泉寺申状』との関連も出てこよう。
 弘安二年九月二十一日、日秀師・日弁師とその信徒たちは、院主代行智の策謀によって、苅田狼藉の罪を着せられ、裁判に訴えられた。信徒二〇名はいきなり逮捕で鎌倉に連行された。知らせをうけた宗祖は、行智等の策謀を打ち破り、身の潔白を明らかにする「陳状」の書き方を日興上人へ指示された。それが一九紙に及ぶ長篇の九月二十六日付『伯耆殿并諸人御中御書』である。その指示によって『滝泉寺申状』は書き進められた。
和歌山了法寺蔵『伯耆殿并諸人御中御書』。初行の「一九」は消息の紙数を示したもの。『同御書』の真蹟の多くは散逸して伝わらない。
 【図版は無断転載禁止です】
 おそらく今回の真蹟四行は、内容といい、筆致といい、『伯耆殿并諸人御中御書』の一部であるに相違ない。
 日秀師や日弁師は、行智に阿弥陀経を強要されても「日々夜々に法花経を転読し」ていたのである。それは『滝泉寺申状』にも、
「今日秀等、彼等の小経(阿弥陀経)を抛ちて専ら法華経を読誦し」
と示されている。執拗に繰り返される迫害に耐え、「法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱へ奉る」彼らの行為を宗祖は「浄行一分也」と称えられたのである。(池田)
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 前回のコラムにて、熱原法難に関わる『伯耆殿并諸人御中御書』(以下『同御書』と略称する)の断簡四行を紹介した。
 思えば『同御書』は、初めは和歌山了法寺蔵の末尾一九紙のみが現存し、その他は散逸したものと考えられていた。ところが了法寺の聖教調査の折に、『同御書』の端裏(一八紙との継目)に日興上人の花押を発見したことから、状況はかなり変わってきた。
 まず、400を超える宗祖の真蹟断簡から『同御書』の七紙目が確認された。次下に示した掲載図版である。最終行の下部に「廿一枚」の文字と日興上人の花押がみえる。本来は裏継目に書かれていたものを表装の際に貼り直したのであろう。
京都頂妙寺蔵・真蹟『伯耆殿并諸人御中御書』(第7紙)。
『頂妙寺文書・京都一六本山会合用書類 一』より転載。
 【図版は無断転載禁止です】
この筆蹟と花押とが第十九紙のそれとほぼ一致した。内容的にも、第七紙には、
「阿弥陀経等の例時をよまずと申すは、此れ又心へられず。阿弥陀経等は星のごとし。法華経は月のごとし、日のごとし。勝れたる経をよみ候を、劣れる経の者が制止こそ心えられ候はねとかけ。」
等とあり、これが『滝泉寺申状』における、
「阿弥陀経を以て例時の勤めと為すべきの由の事。」
と呼応し、深い関連が確認された。つまり行智等が念仏を強要したのに対して、宗祖は、勝れる経(法華経)を読んでいるのに、なぜ劣れる経(阿弥陀経)がそれを制止できようか、と『滝泉寺申状』に書くよう命じられたのだ。
 次に『同御書』の断簡として確認されたのが、東京国土安穏寺蔵の真蹟三行である。
東京国土安穏寺蔵・真蹟『同御書』(第3紙)。
『興風』17号より転載。
 【図版は無断転載禁止です】
文書の右上を見れば、その断簡が第三紙の冒頭であることが了解されよう。図版では見づらいが、初行の一番下のところに墨痕が見える。裏継目に書かれた日興上人の筆蹟が浮き出たものである。本文には、
「刃傷し百姓ををいいだしたる現証か、重科のがれがたければ、百姓□□□□て」
等と記されていて、熱原法難の状況を十分に想起させる。すなわち、『滝泉寺申状』の、
「法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ……」
との一文や、『伯耆殿御返事』(弘安二年十月十二日付)の、
「悉く証人・起請文を用ゐるべからず。但現証の殺害刃傷のみ」
との内容に、直接的な関わりがあろう。宗祖は行智等の訴えに対し、あくまでも「刃傷」や「殺害」を受けたのはこちら側であり、その現証で争うべきだ、決して向うのペースで起請文を書いたり、証人を認めてはならない、と指示されている。
 第三紙の断簡は短文ながら、行智等に対し熱原の百姓たちを刃傷・追出した「重科」は逃れがたい、と鋭く追及したものである。
 さて次に『同御書』の断簡として登場したのが、前回紹介した、東京獅子吼会(ししくかい)所蔵の真蹟四行である。前回の掲載図版を参照していただきたい。
 初行に「五」の丁付があり、第五紙と確認されている。裏継目の日興上人の花押については未調査だが、本文内容と真蹟の筆致が『同御書』の断簡たることを十分に裏づけよう。むろん日興上人の花押の有無は大きな関心事である。
 それにしても、平成十三年、了法寺にて第十九紙を拝して以降、『同御書』は七紙、三紙、五紙と確認され、今や熱原法難を語る上で重要な一級史料となった。御書研究は斯様に日ごと年ごと進化する。
 まだまだ真実を抱えて、ひとりひっそりと、関連づけを待っている真蹟の断簡が相当あるに違いない。(池田)
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 先月末、故、高木豊氏の論文集『日蓮攷』が山喜房仏書林から刊行された。小松邦彰氏の編集後記によれば、本書の構成は、生前、高木氏の示した構想に沿ったもので、「第一部 青春の日蓮」「第二部 日蓮の思索と活動」「第三部 日蓮伝の構想」からなる。生前、高木氏は第三部に「日蓮遺文の中の自伝」「日朝撰『元祖化導記』―日蓮遺文の自伝的部分の集成」「日澄撰『日蓮聖人註画讃』―日蓮伝の〈詩と真実〉」の三編を収録する構想をもっていたらしいが、未発表のまま逝去された。なお高木氏の日蓮教団史関係の論文については、別途『中世日蓮教団史攷』として編集・刊行されるという。
 ところで本書「第一部」に収録される「二人の日蓮改稿」(初出1982年)は、昭和10年、金沢文庫から公開された『理性院血脈』にみえる「日蓮」について考察したものである。当初より『理性院血脈』にみえる「日蓮」は、日蓮聖人の東密相承を示す史料として注目され(鹽田義遜「御親寫本圓多羅義集に就て」〔『授決円多羅義集唐決景本解説』所収、1936年〕。山川智應『日蓮聖人』1943年等)、高木氏自身も、その説を踏襲していた(『日蓮―その行動と思想』1970年)。
 ところが高木氏の『日蓮』上梓と同年、戸頃重基氏が「折伏に見ゆる否定の論理の本質」(『日蓮―日本思想大系⑭』所収)を発表し、この「日蓮」は、法華日蓮ではなく、卍元師蛮編『本朝高僧伝』所収「和州金剛王院沙門重如伝」にみえる重如日蓮である可能性を示唆した。しかも『本朝高僧伝』によれば、この重如日蓮は、法華日蓮と同じ貞応元年(1222)の誕生という。奇しくも同時代、同年に生まれた「二人の日蓮」が存在したことになる。
 戸頃氏の没後、高木氏はその追跡調査を行い、『本朝高僧伝』所収の「重如伝」は、『東大寺円照上人行状』所収の「重如日蓮伝」からの取材であろうこと、また『行状』には、重如日蓮が三流(金剛王院・三宝院・理性院)を習得したことが記されていることから、やはり『理性院血脈』にみえる「日蓮」は、戸頃氏のいうように法華日蓮ではなく、重如日蓮とすべきであろうと結論した。
        「日蓮」の名が見える『理性院血脈』
           (金沢文庫同好会編集発行『授決円多羅義集景本解説』〈1936年〉より転載)
【図版は無断転載禁止です】       
 こうして「理性院血脈」に見える「日蓮」は、重如日蓮(『行状』によれば日蓮房重如)に決したかにみえる。その後、この問題に触れた論考は、都守基一氏の「日蓮聖人書入『秘蔵宝鑰』古写本の影印と解題」(『大崎学報』159号、2003年)くらいであろうか。都守氏は高木説を有力視しつつ「しかし、この日蓮は房号であるなど、検討の余地がないでもない。聖人の大日如来からの相承については、建長六年『不動・愛染感見記』に、自ら「自大日如来至日蓮二十三代嫡々相承」(一六頁)と記されており、二代の差異はあるものの「理性院血脈」と同じ相承である可能性は否定できまい」として、なお高木説は決定的ではないとされる。
 実は私も、このことに関心をもっていて、関連史料の発掘を行ったところ、『高野山文書』続宝簡集二八、又続宝簡集百三十に「日蓮房重如」とおぼしき人物を見いだすことができた。すなわち延応二年(1240)四月日付『僧浄阿勧進名簿断簡』(『大日本古文書』高野山文書八、407P)に「日蓮房」の名が見え、建長元年(1249)五月十五日付の『金剛峰寺千僧供養請定断簡』(『大日本古文書』高野山文書二、565P)に「日蓮房(承)」が見える。同請定は、そこに列挙された僧侶を「本聖人」「中聖人」「未聖人」に分けており、「日蓮房」は「本聖人」とされている。活躍した時期は「法華日蓮」「日蓮房重如」と重なる。この「日蓮房」が第三の「日蓮」であることも考えられるが、彼が金剛峯寺の僧であることから、日蓮房重如の可能性が高いのではないだろうか。熟考を重ねたい。
 また永和四年(1379)の紙背文書を有する『諸流真言血脈口伝上』(東京大学史料編纂所架蔵写真)に「理性院血脈次第」が収まっていることがわかり、さっそく披見したが、残念ながら、そこに「日蓮」の名は見られなかった。
 高野山文書等を博捜していけば、まだまだ埋もれた「日蓮」関係史料が出てきそうである。今後も地道に発掘調査を続けていきたい。(坂井)
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