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2004年

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 静岡県沼津市岡宮(おかのみや)の光長寺(こうちょうじ)は、日蓮聖人を開祖と仰ぎ、中老僧の日法および日春の両師を同時二祖として、建治二年(1276)に草堂が建立された由緒寺院である。
 同寺は文永年中まで天台宗に属したが、日蓮聖人より甲駿地方の伝道を命ぜられ、この地に赴いた日法師の教説を聴聞し、深く感じ入った寺主の空存(くうぞん)師が、天台宗の教えを捨てて法華宗に帰依したという。空存師は日法師の勧めで聖人の門に入って、名を日春と賜り、以後両師は異体同心して岡宮の地を本拠と定めて布教に専念した。そして、建治二年に精舎を建立して、光長寺の基礎を築いたとされる。
 同寺には数多くの重宝が厳護され、特に現存する日蓮聖人御筆本尊では最も大きく、二十八枚の紙を継いだ上に、首題および十界の相貌が大書された弘安元年(1278)十一月の曼荼羅本尊を所蔵することで、一般によく知られている。この他、日春・日法の両師御筆の記録や御書写本なども多く所蔵され、その一部の紙背には南条時光氏や日興師、日弁師の消息等があるとされる。これらの文書についての研究は、この数年、同寺研究者によって急速に進められているが、日興門流や中山門流等の上代史を解明する重要史料とも考えられるため、その公開が切に望まれている。
 過日、その研究の一部である原井慈鳳師の「日法聖人文書の研究(二)」(「桂林学叢」16号所収)を拝読していたところ、「日法聖人真蹟断簡五行一紙」と題された文書の写真が目に入ってきた。縦25、7a×横11、2aの縦長の文書で、現在は一幅の掛け軸に仕立てられている。元はもっと長いものだったようだが、その中の「主日法(花押)」を中心とした一部が切り取られたもので、左隅の紙背には「正月二日」の文字が見えるところから、消息を反古(ほご)にしたその裏に書かれたものと考えられる。
 さて、その内容であるが、右端の一行は下部が少々剥落(はくらく)しているものの、明らかに「四条中務(なかつかさ)三郎左衛門尉殿」と読め、その左下に日法師の署名・花押があるので、最初は日法師が四条金吾氏に宛てた消息の末尾かな、と思った。けれども、署名の上に「主」の字があり、日法師の著作「本迹相違要文」の末尾にもこれと同じように「主日法(花押)」とあることを知り、ああ、これは持ち主が日法師であるという意味だと納得した。
 しかし、何と言っても、その左に日法師の筆で書かれている九つほどの漢字が、一体何のために書かれているのか分からない。それぞれの漢字に付されている細注は、その漢字の音註・訓註・反切(はんせつ)などの読み方を示したもので、当時の古辞書から書き写したものであろうが、一体何を基準としてこの九文字が選ばれたのだろうか。
 ここでポイントになるのは、やはり一行目の「四条中務三郎左衛門尉殿」である。これはどう見ても、消息の宛名だよなあ、と考えていた時に、待てよ、何だか、以前にもこれによく似たものを見たような気がする。具体的に何だかは分からないが、消息を書写した後に、その中にある漢字をいくつかピックアップして、それに音訓の読みをほどこしたものがあったよなあ、と思いついた時に、急に胸がドキドキしだした。そして、これはもう「御書システム」だと、急いでパソコンのスイッチを入れた。
 九文字のうち、どれがいいだろう。なるべく頻度(ひんど)の低いものということで、「隙」(日法師の書いた字は隙の異体字)をまず絞り込みにかけてみる。すると、十五件のデータが検出され、そのうち四条金吾氏宛ての御書は、文永十年「呵責謗法滅罪抄」(昭和定本番号137)と建治三年七月「四条金吾殿御返事」(同257)と弘安三年十月「四条金吾殿御返事」(同384)の三書となった。次に「誡」の字でこの三書のデータを絞り込んでみると、三番目の弘安三年の「四条金吾殿御返事」だけがヒットした。後は、もうワクワクしながら、同御書のデータの中に他の字が検出されるかどうか、作業を繰り返した。
「日法聖人真蹟断簡五行一紙」 同書の解読文
 その結果、最初の二字の「姿」と「作」は無かったが、次の「自」からは「自殿岡」「御訪ひ」「言を以て」「北山の嶺」「隙なき身」「誡責」「功徳聚」というように、順番も同じような形で次々に見つけることができた。すると、最初の二文字が気になるが、「姿」の字は、あるいは「自恣の僧」の「恣」の音通文字として、本文に「姿」の字が書かれていたのかも知れない。
 以上の事実から推測できることはただ一つ、この右端の「四条中務三郎左衛門尉殿」の更に右には、日法師の筆で「自殿岡米送給候」に始まる「四条金吾殿御返事」、通称「殿岡書」が書写されていたのではないか、ということである。本書はこれまで、大石寺第四代・日道師の「御伝土代」に一部分が引用されるものの、「本満寺録外」等によって収録されるものとして、「御書システム」でのクラスも「6」に止まっていた。けれども、この日法写本が認められるならば、宛名一行というごく少量ながらも、高弟写本の一部が現存する御書として、その信頼度はかなりアップすることとなる。
 過日、光長寺の内虫干(うちむしぼし)に参加させていただいた際、この旨をご報告すると、大変に喜んでくださり、それではこのコラムにということで、上掲の鮮明な写真を提供していただくことができた。この場を借りて深謝申し上げたい。これも一つの仏縁というものであろうが、やはり「御書システム」の強力な検索能力があってこその慶事であったと言えよう。 (大黒)
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 竹内理三氏(1907〜97)の編纂した『鎌倉遺文』(全51巻)には、354通の御書(真偽未決・偽書を含む)が収録されている。『鎌倉遺文』は、『平安遺文』に引き続き、竹内氏が22年の歳月をかけて編纂した膨大な鎌倉時代の史料集である。鎌倉時代の文書を編年順に収めた史料集としては、東京大学史料編纂所が刊行中の『大日本史料』第四編(本編完結)・第五編がある。現在、第五編は建長2年(1249)正月まで刊行されているが、その収集・収録史料の広範さ、厳密な校訂を経ての刊行ペースを考えると、おそらく『大日本史料』によって鎌倉時代の史料を通覧できるのは、この先、百年以上はまたなければなるまい。そうしたこともあって『鎌倉遺文』は、今後もながく鎌倉時代研究の基礎史料として活用されていくだろう。
竹内理三氏編纂の『鎌倉遺文』
 ところで竹内氏は、『鎌倉遺文』1巻の編纂を終えるたびに、その序文に収録した年代の文書についてコメントを載せている。各巻の序文は、その時代の特徴を簡潔にまとめられたもので、第1巻から第42巻までの序文をまとめれば、「鎌倉時代略史」が出来上がるといっても過言ではない。
 たとえば、聖人の御書は、11巻(建長6年)〜19巻(弘安5年)に集中しているが、11巻(建長6〜正元2年)の序文には「政治的には、京都も鎌倉も、まだ安定はつゞいたが、宗教界では、いよいよ怒濤波瀾の時期に入っていた。中国からは、禅僧の来朝相つぎ、国内では、親鸞・日蓮の宣教活動が活発である。とくに本巻には、親鸞の書状が集中的に収められている」といい、12巻(文応元年〜文永2年)の序文には「京都では、寛元4年(1246)以来の後嵯峨上皇の院政がつづき、関東では、宗尊親王と、北条長時の執権、同政村の連署が、幕政をとりし切った。しかし前執権で出家した北条時頼は、弘長3年11月まで健在であり、日蓮の『立正安国論』が、時頼に進呈されたことから見れば、依然として幕府の陰の権力者たるの地位を占めていたのである…(中略)…本巻では、親鸞に代わって日蓮の書状が多くあらわれる」と記している。
 禅僧の来朝、鎌倉仏教の台頭、院政の継続、そして『安国論』の進呈先から、幕府の実権が、現職の執権・連署ではなく、得宗の時頼にあるとの指摘は、この時期の政治・文化の特徴を的確に示していよう。
 日蓮聖人の動向についても竹内氏は見逃していない。14巻(文永6〜9年)の序には「早くから国難到来を予言していた日蓮は、その予言を評価されるどころか、却って龍口法難、佐渡流罪の浮目に遭う」と記し、赦免についても「文永十一年、佐渡に流されていた日蓮が赦免されたこと(11615号)などは、蒙古の情勢と無関係ではあるまい」(15巻=文永9〜12年、序)と指摘している。
 その他、「本巻では、前巻にひきづづき、甲斐身延山中に籠居した日蓮の書状が多く、山中における日蓮自身の生活と、彼を助ける信徒との関係が、一層印象的によみとれる」(16巻序)、「鎌倉の地を離脱して甲斐の山中に籠った日蓮の、書状による布教は、まことに目ざましいものがある。とくにこの書状に、女人往生を熱烈にくり返し説いていることは、注目される(12672号・12906号・13019号・13037号以下)」(17巻序)という。
 竹内氏が注視したのは、御書だけではない。「本巻には、前巻同様、日蓮の書状が多い。さらに日蓮自筆の本尊曼荼羅も、山中喜八氏の御好意により、同氏編『御本尊集』の恵贈をうけ、多数収めることができた。本尊曼荼羅には、授与者の名が記されており、日蓮教線の拡大がうかがわれる貴重な史料である」(18巻序)と位置づけ、『御本尊集』をたよりに、その相貌・授与書を翻刻・収録している。
御書の収録は、19巻(弘安3〜5年)をもって終るが、竹内氏は「数巻にわたって、多くの書状で、その強烈な人格をしのばせていた日蓮が、本巻の最後をかざって、弘安5年(1282)10月、池上本門寺にその生涯を閉じたことも、特筆しておかねばならぬ(14722〜25号)。あれほど異国襲来を予言した日蓮が、弘安の役後に、門弟・檀那に対して、蒙古襲来を言語に及ぶべからず、若し違背せば、門弟を離るべしと誡めているのは(14345号)、甚だ印象的である」と結んでいる。
 おそらく、近現代の歴史家で、竹内氏ほど、御書をはじめとする聖人の書物を精読した人はいないだろう。現在、中世国文学・歴史学研究者に多用されている刊本御書は、竹内氏によって編纂された『鎌倉遺文』所収本であり、御書が日蓮研究者のみならず、ひろく一般に活用されるようになったのも、竹内氏の学業によるところが大きい。
 1993年、「鎌倉遺文研究会」が発足し、御書についても様々な視点から研究がされるようになった。関周一氏の論考「海事史料としての日蓮遺文」(鎌倉遺文研究会編『鎌倉遺文研究V―鎌倉期社会と史料論』所収。2002年、東京堂出版)は、そうした成果の一つである。
現在、御書システムでは「御書資料フォーム」から、『鎌倉遺文』所収の御書について、既刊の御書と文書番号を対照できるよう便宜をはかっているが、いずれは他の刊本御書と同様、ページ・行数にいたるまで、収録位置を確認できるよう入力作業を進め、国文学・歴史学など、多方面における御書研究に寄与することができればと考えている。(坂井)
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 昨年五月に御書システムの一応の完成版が公開され、続いて七月にそのホームページが開設されたので、窓口になっている興風談所には一般の方々から問い合わせや申し込みがやって来る。と同時に、最近になって少しずつではあるが、御書システムを参考・活用した著作や論文を見かけるようになった。
 立正大学の日蓮教学研究所が編纂した大部の『日蓮聖人遺文辞典〈教義篇〉』にも、電子メディアにおける参考文献として御書システムが挙げられている。また九州産業大学の辛島美絵氏『仮名文書の国語学的研究』にも御書システムが活用されている。今回は多少手前ミソになるやも知れないが、辛島氏の御著を紹介してみたい。
辛嶋美絵著『仮名文書の国語学的研究』
 辛島氏の研究は、中世の仮名文書全般にわたっているので、必ずしも宗祖の御書のみを調査対象とするものではないが、「鎌倉時代では、同一人の手になる大量の仮名文書が残った例は日蓮遺文をおいて他にない」と記されているように、著者の研究における日蓮遺文の比重は質量ともに大きなものがある。
 次にその研究方法は、実証的で手堅く精緻である。
 従来の研究は、ともすれば既刊の活字資料を無批判に引用して来たきらいがある。その結果、誤読や誤植、あるいは転写の誤りを含んだ用語がそのまま国語学的な用例となっているケースも多い。宗祖の御書の場合、真蹟が有るか否か、写本が上代か否か、真偽問題の如何など、複雑な要素が絡み合っている。その点の仕訳が曖昧になると調査結果も自ずと不安定になる。御書であっても戦国期の写本は、戦国期の国語資料としかならない。日興上人の写本は鎌倉後期の国語資料である。また偽書であれ、その成立が室町期であれば室町期の国語資料として有意となろう。
 辛島氏は調査テキストとして『鎌倉遺文 古文書編』をベースとしつつも、可能な限り原本の写真等にあたって表記を確認し、用例の根拠を「写真」「影写」「表記未確認」等と明記された。むろん御書に関しても、『日蓮聖人真蹟集成』や『日興上人筆 日蓮大聖人御書』等に表記を確認されている。『日興上人全集』の写真版を典拠とする用例も見られる。また旧来の活字資料に誤りがある場合「その旨を記して修正」されている。これらの地道な作業が不注意なミスを限りなく少なくし、その成果を堅牢ならしめていることは言うまでもない。
大石寺蔵:日興上人筆『御筆集』
 また本書には、鎌倉時代の他の文献資料には稀である宗祖の語法や語彙が数多く指摘されている。次に一部を掲げただけでも十分に興味深い用語が並んでいる。
 「おそたかし」「なおし」「偽り愚かなり」「もす」「あきなう」「ひら情けに」「もうもうし」「こご
 む」「なげかわし」「わなめく」「わざわざと」「なめる」「ほそながし」「あやおし」「くばる」
 「はだうすなり」「かつう」「たぼらかす」「かおぼる」「ふれまう」「睨む」「にくそうげなり」
 辛島氏はこれらの語法や語彙について、鎌倉時代の東国における口頭語との密接な関連を指摘している。傾聴に値しよう。舌足らずになったが、キャッチボールに譬えるならば、私たちの胸元めがけていい球は投げられた。これを取り損ねてはならないし、次には自分の意志を持った球を投げ返さなくてはならない。(池田)
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 建治3年(1277)6月23日、四条頼基は自身の日蓮信仰について江馬氏から『仰書』をもって尋問された。6月末、それに対する陳弁を頼基に代わって執筆したのが『頼基陳状』である。頼基は父の代より名越流北条氏の江馬光時と子息に仕えた被官で、本書は宮騒動(1246)と二月騒動(1272)で没落した名門江馬氏の状況や、江馬氏と四条氏の主従関係を示す格好な文献である。
 『頼基陳状』の真蹟は残存しない。静岡県重須本門寺所蔵の写本二本は、これまで聖人の本弟子・白蓮阿闍梨日興師(1246-1333)の筆とされてきたが、検証の結果、一本は日興筆、もう一本は日澄師(1262-1310)の筆と判明した(『興風』15号菅原論文)。日興本の奥書の「正和五年閏十月二十日駿河国富士上方重須談所ニシテ以再治本書写了 白蓮七十一才」は、真蹟『頼基陳状』に未再治本と再治本の存在したことと、本写本が1316年に再治本を写したことを教えている。
日興筆「頼基陳状」写本冒頭 日澄筆「頼基陳状」写本冒頭
日興写本奥書 日澄写本奥書
 では、日澄本は未再治本と再治本のどちらを写したのだろうか。日澄本の書写年次は建治3年の翌年「弘安元年四月五日」と時期的に早い。また、日澄本と日興本の本文に多くの相違が見られることから、日澄本は再治本ではない別本を写したと判断され、その相違を分析すると日興本は日澄本よりも整束していることが判る。これらの理由によって、日澄本は未再治本を写したと推定される。
 次に、再治本の執筆時期について検討する。既存の解説が両真蹟の執筆時期について詳述しないのは、確定根拠が見当たらないためである。それゆえ、当コラムの検討が両写本の本文と状況証拠による推論に留まるのも止むを得ないが、あえて一石を投ずることとしたい。
 再治本の執筆時期は次の2説が考えられる。未再治・再治両本とも建治3年6月末とする説と、6月末の未再治本執筆の後、少し隔てて再治本が執筆されたとする説である。前者の場合、江馬氏へ提出すべく7月初めに頼基へ送られたのは再治本となり、後者の場合、未再治本となる。また、後者の場合、当初、未再治本の呼び名はなく、未再治本はれっきとした完成本であった(その場合、未再治本と記すのは適切でないが、当コラムでは未再治本で統一する)。すなわち、この検討は江馬氏へ提出すべく7月初めに頼基へ送られたのは未再治本か再治本かの検討でもあり、未再治本が草稿本か否かに関わるのである。なお、日澄本奥の「是本者未再治本□不可為本云云」は日澄筆ではなく、筆蹟・墨質から後日の異筆と判断され、今回検討する建治3年から弘安元年頃はまだ加筆されていないと推察されるので、研究素材から外した。以下、当時の状況を整理する。
 両写本の「去六月廿三日御下文」「同廿五日謹拝見仕候了」〈24190〉は6月23日付の江馬氏『仰書』が25日に頼基のもとへ届いたこと、日興本の日付「建治三年六月二十五日 四條中務尉頼基請文」〈24333〉は江馬氏へ提出すべき『頼基陳状』の日付を聖人が25日に設定したことを示す。ただし、『四条金吾殿御返事』〈24336・24337・24363〉の「去月二十五日の御文、同じき月の二十七日の酉の時に来たりて候。」「仰せ下さるる状と、又起請かくまじきよしの御せいじやうとを見候へば」と、本書日付の「建治三年〈丁丑〉七月」が示す史実はこうである。
  1. 6月25日、23日付の江馬氏『仰書』が四条頼基のもとに届く。
  2. 25日、頼基は事の顛末ならびに法華信仰を捨てざる旨の誓状を認め、『仰書』と共に身延山の聖人へ送る。
  3. 27日午後6時頃、それが聖人に届く。
  4. 6月末、聖人は『頼基陳状』を執筆する。
  5. 7月初め、聖人は『頼基陳状』と『四条金吾殿御返事』を頼基へ送る。
 再治本の建治3年6月末執筆説を立てる理由は二つ挙げられる。第一に、再治本を写した日興本の「建治三年六月二十五日 四條中務尉頼基請文」は正確な聖人執筆日ではないが、6月末の再治本執筆を物語る。第二に、日興本は日澄本より本文の整束が見られ、日興本の写した再治本こそ江馬氏への提出本に相応しい。
 対して、再治本の建治3年7月以降執筆説(『四条金吾殿御返事』と共に頼基へ送られたのは未再治本とする説)を立てる理由は三つ挙げられる。第一に、当時の聖人に両本執筆の時間的余裕はなかった。これは、『四条金吾殿御返事』に「だいがくの三郎殿か、たきの太郎殿か、とき殿かに、いとまに随ひてかかせて、あげさせ給ふべし」〈24355〉と、頼基へ送った『頼基陳状』を大学三郎・滝太郎・富木常忍のいづれかに浄書させるよう指示して、提出すべき本書の早めの準備完了を進めていた切迫状況を考慮しての推測である。第二に、江馬光時の生存記述が両写本で相違するのは、両真蹟の執筆時期が異なるためである。すなわち、未再治本を写した日澄本に「君」とある光時が、再治本を写した日興本には「故君」とある。当記述が光時の生没を正確に示しているとすれば、未再治本執筆時に存命の光時が、再治本執筆時には没していたことになる(川添昭二氏は「故君」が光時の父朝時である可能性も示すが、光時に間違いない。高木豊氏は日澄本「君」と日興本「故君」の相違を両写本の書写年次に求め、「故」は1316年に写した日興師の加筆と仮説する。川添『日蓮とその時代』345頁・高木『日蓮とその門弟』250頁)。第三に、日澄師が未再治本を写したのは、本書が江馬氏へ提出すべく7月初めに四条氏へ送られた価値をもつ故と推測される。日澄師の書写は、頼基と親しい父富木常忍の仲介か。
 どちらの説が史実かは断定できないが、今のところ私は、建治3年7月以降説を有力視して、再治本の執筆は7月以降そう隔たらない頃と推測している。(菅原)

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 富士大石寺に、同寺四世日道の筆をつなぎ合わせた、次のような未刊の記録がある(写真1参照)。まずはそれを翻刻し、書き下して掲げる(○番号は筆者注、罫線は継目)。
――――――――――――――――――――――――――――――
@御筆 西山殿御書                 日道□
――――――――――――――――――――――――――――――
A御筆
 天台大師に隨皇帝帰伏す、天台滅後に道忍の二師を用う過失の事、
 諸宗元祖の帰伏の言をもって、彼宗末学の謗言を責むべき事、
                             日道(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――
B 加賀卿阿闍梨日行にこれを授与す
 御筆 建武二、十二、十五            日道(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――
C御筆 建武二、十二、十五           日道(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――

写真1
 それぞれの冒頭に見える「御筆」とは「日蓮聖人の書かれたもの」との意である。富士門流では、門祖日興の代から、しばしば聖人の書き物を「御筆」と称してきた。その用例は『弟子分本尊目録』に見える「御筆御本尊」や、『御筆集』(御書を集成したもの)というタイトル、『富士一跡門徒存知事』の「御筆の本尊をもって形木に彫み」など枚挙にいとまがない。
 ゆえに、この日道の記録に見える「御筆」も聖人の書物を指すものであり、そのことに関する記事と見るべきである。
 では、その四点の記録について、日道はどのような記録を残しているのだろうか。個別に検討を加えてみよう。まず@は「西山殿御書」と見えるから、西山殿へあてた御書、おそらく現在大石寺に伝わる「宝軽法重事」を指すのではなかろうか。BCは日道が建武二年(1335)十二月十五日、弟子の日行(大石寺五世)へ御書を相伝したことについての証文と思われる。但し御書名は不明。最後にAについて。そこに御書名は記されていないが、箇条書にて、
A:天台大師に隨皇帝帰伏す、天台滅後に道忍の二師を用う過失の事、
B:諸宗元祖の帰伏の言をもって、彼宗末学の謗言を責むべき事、
とある。たぶんこれは、日行へ相伝した御書の内容についての記事と思われる。そこで、この記事内容に該当する御書が現存していないか探してみた。すると、やはりというか、大石寺に現蔵されている断簡にそれらしい記事が見られた。まずAに該当すると思われる「断簡二八二号」である。原漢文体であるが、書き下して引用する。
(前欠)金剛頂経□、二経に替はると雖も一経は只法華経なり、是れ則ち王臣礼節乱れ無し、覚一人、異朝・本朝の吉例に違背し、将又教大師の三部を軽蔑するなり、又法公、東寺に日・頂の二経を安置し、国家鎮護す、其の後、天台・真言の学者の云く、顕教は三部、蜜教は二三部と云云、法華三部を軽蔑すること土の如く沙の如し、秘教二三部を崇重すること金の如く珠の如し、之れに依りて仏法滅尽し、王法も減少するか、已上陳隋二代の両帝天台に帰伏するなり、夫れ両帝は本南北の諸師に帰依す、而(後欠)
この断簡について『大石寺蔵日蓮大聖人御真筆聚:解読文』(1967年)は、「興師裏判」と注記している。確かにその写真を見てみると、右上・左下のそれぞれに、日興による継目裏花押らしき墨影がみられ、これが日興筆と認められれば、当御書の対告者は日興、もしくは、その関係者だったと見なしうる。
 また当断簡は、一紙のみ現存しているが、もとは三紙以上の御書だったと推断されよう。当断簡は陳隋二代の両帝が、南北の諸師から智へ帰伏したという記事で途切れてしまっているけれども、日道の記録をもとに敷衍すると「天台滅後に道忍の二師を用う過失の」あったことなどが記されていたと推されるのである。
さらにBの「諸宗元祖の帰伏の言をもって、彼宗末学の謗言を責むべき事」についても、同じく大石寺蔵の「断簡二八〇号」に、
今云く、孔子の言を以て□儒道二宗を責め口を閉して開かす、内典諸宗又復是の如し、  其の宗元祖帰伏の言を以て彼の宗末学の謗言を閉止するなり、 (原漢文)
とみられ、Bの記録は当該御書について、日道が認めたものだったと思われる。また大石寺三世日目は、日郷あての消息に「諸宗帰伏の双紙」(おそらく最澄撰『依憑集』のことだろう)を欲していたことを記しており、あるいは当御書の内容を具さに検討するために「諸宗帰伏の双紙」を求めたのではないか、とも想像できよう。

写真2
 もうひとつ日道の御書に関する記事(写真2)を紹介したい。
御筆 弘安四、十一月二十
      上野殿           日道(花押)
 これは小金井蓮行寺に所蔵される断簡に貼り合わされたもので、先の記録と同様、記事内容から、上野殿(南条時光)へあてられた御書についての記事であり、その御書の系年(執筆年次)は「弘安四年」、日付は「十一月二十日」であったと考えられる。おそらく「弘安四」は、他の上野賜書の例からして、日興の到来筆に依ったのではなかろうか。
 残念ながら、十一月二十日付の上野殿あて御書は、現存しないので、内容を確認することはできないけれども、この日道の記録によって、少なくとも同年月日付の、上野殿あての御書が存在していたことを知るのである。
 これら日道の記録は当初、それぞれ当該御書に添付されていたと考えられるが、原形が損なわれ、このように断片化されてしまったことは、誠に残念でならない。
 堀日亨師は「師(日道)の筆跡の小史料となるもの本末諸寺の什書の奥書等に多々存在する」(『富士日興上人詳伝』)と語っており、日道の記録を発掘していけば、これまでとは、また違った角度からの、御書の研究を進めることができそうだ。                     (坂井)
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 御書システムの断簡についての解題作業をしていたときの話である。一つの妙な断簡に行き当たった。番号4−335「大麦一斗。胡瓜二十五給はり了んぬ。仏に」という短い断簡である(これをA文書とする)。断簡は当然ながら情報が少ないので、解題を付す場合真蹟の形態や状況が重要な情報源となる。そこで『日蓮聖人真蹟集成』を見ると(写真@)、これはどう見ても上下に貼り合わせたもので、しかも上部の左側の不自然な切り方と、下部の右側のそれとがピッタリ合うから、本来上部が右に、下部が左にあったもの(写真A)を切って上下に貼り合わせたらしい。どうやら本断簡は本来折り紙書状であったようだ。折り紙書状とは通常の一枚の料紙を、上下半分に横長に折って書かれた書状で、宗祖の場合この形式は極めて少ない。作為者は恐らく縦の長さが通常の宗祖の書状の半分位しかないので、それらしくしようとこのような小細工をしたのであろう。
写真@ 写真A
 「なんでこんなことを」などとつぶやきながら解題をほどこしている内に、なぜか「大麦」という文字に引っかかった。普段ならそんなことは思いだにしなかったであろうが、断簡の解題作業を続けているときだったので、大麦に関する記述のある書状を、少し前に解説したような気がしたのである。しかし、つい最近のことのような気もするし、ずっと以前のことのようでもあり、どうも判然としない。だがこんな時こそわが「御書システム」が大活躍をする。さっそく御書本文を「大麦」で絞り込むと2件がヒットした。1件はくだんの断簡、そしてもう1件が番号4−277「阿耆多王御書(あぎたおうごしょ)」である(これをB文書とする)。『日蓮聖人真蹟集成』5巻156頁とあるから、そこを披いてびっくりした。なんと折り紙書状ではないか(写真B)。しかも文章的にもA文書の末尾「仏に」と、B文書冒頭「まいらせて候」が無理なく繋がる。B文書本文も、釈尊九横の大難の一つ「阿耆多王の馬麦(めみゃく)」の故事をもって、供養者が大麦を供養した功徳を讃えたもので、A文書の「大麦一斗」の記述と付合する。
写真B
 寸法を見てみると、A文書はタテが「31.8」とある。ということは上下をもとの状態にすれば、実質タテ15.9pということになる。一方B文書は「16.0」とある。0.1pの誤差は、A文書を上下に貼り付けた際に生じたものと考えれば、両者は寸法もピッタリということになる。原寸大に拡大コピーして両者を合わせてみると、文書の上下中央部分に恐らく折り目と思われるヨコ線があることまで共通している。これはまぎれもない、同一書状の前後であると確信した。
 すなわち本状は折り紙であるから、本来その折り目を元に戻せば、上下に書かれた形になっているはずのものを、宗祖の他の折り紙書状もそうであるように、折り目に沿って切り離し、文章が繋がるように左右に繋げようとしたもののようである。そしてその過程のいずれかの段階で、冒頭部分がさらに何らかの理由で切り離されたのであろう。ちなみにB文書の途中数行が、文章的に見て欠落していると思われ、それは裏に書かれた部分の冒頭部分と思われる。こちらの方はその行方が今に不明である。
 さてこうして本状の全貌が明らかになったといいたいところだが、気になることがないわけではない。それは系年の問題である。B文書は花押がボロン字であるから弘安元年中頃以降であり、かつ署名の「蓮」の字の終筆が跳ね上がっておらず、しかも5月23日の日付があるので、弘安3年以前であることがわかり(弘安4年3月21日状番号4−266「稲河入道殿御返事断片」に跳ね上がる特徴が見られる)、本システムでは『日蓮大聖人御真蹟目録』(立正安国会編)にしたがい弘安二年状としている。一方A文書は、『日蓮大聖人御真蹟対照録』が建治元年に系けているのである。本システムでも、両者の関連性を示した上で「要検討」としながらも、一応『対照録』の説にしたがって建治元年としている。文字による年代特定の力がない当方とすれば、一応『対照録』にしたがったのであるが、このコラムを書きながら、両者にこれだけの共通項がある以上、A文書はB文書の系年「弘安2年5月23日」とすべきであると考えている。
 また、本状は折り紙書状であり、かつ文末に「かしこまり申よし申上させ給へく候」とあって披露状であることがわかる。こうした形態は覚性房宛書状四通と共通している。その一つである番号1−216「筍御書」の解題では、その披露されるべき対告者を、折り紙書状という簡略な形態・内容と、かなり尊重した書きぶりから、ごく近くに住む波木井実長宛であろうと推測している。加えて同じく折り紙書状である御所宛書状三通の対告者「御所」も、実長であろうと推測している。とすれば、これら一連の書状と共通する点の多い本状は、波木井実長宛である可能性がきわめて高いということになるであろう。
 ところで、両者が同一文書であるとすれば、それが別れていることは大変不幸なことである。すぐに一つとなることはむつかしいとしても、せめて両所蔵者がそうした情況を認識し合うことは必要であろう。B文書については、過日所蔵する川崎市匡真寺の文書を調査させていただいた折、その所在を確認している。そんなわけで住職とは面識があるから、いつでも連絡を取ることができる。A文書は『真蹟集成』には岡山市在住の宮崎玄養氏の所蔵となっている。こちらの方は個人蔵であるようで、その所在すらわからない。そこで岡山出身で立正大学に奉職される氏にお尋ねした所、今はもう物故されているが、宮崎氏は岡山市船頭町の妙勝寺の住職をされていたとのこと。さっそく問い合わせてみると、妙勝寺は昭和20年に空襲により全焼し、重宝の総てを焼失し、それ故現在当該文書はないとのご返事であった。
 あぁなんたることか。長い間別れ別れになっていた書状が、やっと一つになれると思ったのに。残念至極。しかし気持ちを切りかえて、せめて写真によってその姿を確認できることを、ありがたく思うことにしよう。よくぞ焼失前に写真に留めてくれたものだ。立正安国会の功績に、改めて敬意を表したいと思う。                                   (山上)
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 「御書システム」Ver11より宗祖自筆の曼荼羅本尊の資料を編年体で編入した。宗祖の御真筆本尊は、近年において『日蓮聖人真蹟集成第十巻・本尊集』(以下『本尊集』と略称)において123幅が収載され、未収録分4幅を合わせて計127幅という数が一応の定説となっている。実際には、その後の発見や研究等により数幅がそこに加算される。
 ところで、日興師の『弟子分本尊目録』によれば61幅の宗祖本尊が日興師を介して弟子に与えらたことが窺えるが、現在ではその内の15幅が伝えられている。その割合を単純計算すれば約25%が伝えられているという計算になるので、宗祖は約600幅の本尊を図顕されたことが推測できる。ただ日興門流は『弟子分本尊目録』が記されていることからも分かるように本尊の相伝が割に厳格であったから、門下全体を考慮するならばその数は更に増えるであろう。
日興筆『弟子分本尊目録』
 今後、失われた多くの本尊をあらゆる方法を駆使して一幅でも多く復活させる努力が肝要であろう。そこで当システムでは、そうした観点に立って一応171のデータを現時点においてまとめた。その内訳を大きく分けると次のようになる。

@『本尊集』および写真等において真筆と判断できるもの…135幅
A書籍等によって現存していると判断できるもの…7幅
B目録・模写・臨写によって曽存と判断できるもの…29幅

 @については、『本尊集』に収録されているものが殆どを占めるが、中には新出の本尊として平成七年十二月二十日付の『日蓮宗新聞』で公表された中山法華経寺蔵の本尊(「御書システム」本尊69)、平成十年に寺尾英智氏が日蓮宗教学研究発表大会において発表された池上本門寺蔵の本尊(「御書システム」本尊60)なども含まれる。さらに最近、新潟本成寺で宗祖本尊が発見され平成十六年六月三日付の『中外日報』で紹介されたが、今後データの一つとして組み入れたい。
 Aは、『富士宗学要集』第8巻に収録されている、静岡大石寺などに所蔵される相貌が公開されていない本尊である。「御書システム」120の北山本門寺蔵の本尊について、後日コピーを入手し相貌を拝したところ異筆であることが判った。したがって正確には「7幅」→「6幅」の誤りということになる。ここに訂正を申し上げ、近日中にデータの修正も行いたいと思う。
 Bは、「目録」については、中山法華経寺に伝わる目録から確認できる曽存本尊で、「臨写」・「模写」については身延久遠寺33世の遠沾院日亨(1645〜1721)および京都頂妙寺20世の真如院日等(1664〜1730)によるものである。当時、日亨は身延久遠寺所蔵の宗祖本尊を中心に34幅(『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』身延山久遠寺発行)を書写し、日等は中山法華経寺の輪番の際に中山蔵の本尊を6幅(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』寺尾英智著)書写している。しかし、久遠寺の火災や中山での盗難事件により今では此等の宗祖真筆の本尊を拝することはできない。したがって、日亨や日等による臨写もしくは模写が今では非常に貴重な資料となっている。
 以上のように、現存および曽存と判断できる本尊を当データに収めたが、もう一つ視野に入れておかなければならない点がある。今から5、6年前に茨城県の御前山村の妙蓮寺(日弁開基)付近のお宅を訪ねたところ、2幅のお形木本尊を拝見させてもらった。すぐに宗祖筆と判断できたものの、お形木のもととなった真筆の所在は不明であった。写真を撮らせていただき、後で詳細を調べたところ、その内の一幅は「建治三年二月日」とあり、「(右)常州久慈郡久昌教寺所蔵日蓮大菩薩真跡/(左)故権中納言源義公神位[印]御印」との加筆が確認できた。さらには、このお形木本尊のもととなった真筆本尊は今では伝えられていないことも分かった。まさに先ほどの臨写・模写のケースと同様、お形木本尊によって真筆本尊の存在を知ることができた一つの例である。
御形木本尊 宗祖真筆本尊(京都本圀寺蔵)
 2枚の写真を掲げたが、一つはお形木本尊の部分写真、そしてもう一方は同じ系年をもつ京都本圀寺蔵の本尊(『本尊集』第41番、「御書システム」本尊63)である。とくに「経」の字を見比べると特徴がよく似ている。他の署名・花押などの部分についても同様で、まさにお形木のもととなった真筆本尊が存在していたに違いないと判断できる。お形木というと軽視されがちだが、真筆が存在していなくとも相貌が宗祖の筆に間違いないと判断できるものは、たとえお形木であっても宗祖本尊として数え、大事に伝えていくことも大切なことではないだろうか。 (渡辺)
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 元来、宗祖の御書真筆が伝えられていれば、その原型の形態を損なうことはほとんど無い。しかし、真筆の存在しない写本御書の場合は、書写の年代が宗祖に近いほど正確に伝えられ、写本は転写を繰り返す度に(人を介する機会が増えるほど)、原型から遠ざかる可能性は高くなる。高弟写本が重宝される所以でもある。
 しかし、まれに確かな高弟写本であっても、その写本の発見が、あまりに時代的に離れてしまうと、写本そのものに対する理解不足が生じ、御書の原型を損なって伝える可能性もある。そんな一例として、今回は誤って別の御書につなげられてしまった追伸文のことを紹介したい。
追伸文と上書き部分
 その誤って追伸文がつなげられている御書とは、弘安2年10月17日の書状「聖人等御返事」(真蹟無し、日興写本北山本門寺蔵)で、『縮刷遺文』以来、既刊御書集のいずれもが、
  • 「この事のぶるならば、此の方にはとがなりと、みな人申すべし。又大進房が落馬あらわるべし。あらはれば、人々ことにおづべし。天の御計らいなり。各々もおづる事なかれ。つよりもてゆかば、定めて子細いできぬとおぼふるなり。今度の使ひにはあわぢ(淡路)房をすべし。」
の部分を、この御書の追伸文としているのである。
 この写本を所蔵する北山本門寺は、他にも多数の日興筆御書写本を蔵し、その多くは書写当時の形態である冊子本の形で現在まで保存されている。しかし、この「聖人等御返事」を含む写本は少し変わっていて、もともとは粘葉装(でっちょうそう。胡蝶装とも)の冊子であったものを、後世軸装に改めて一幅にしたものである。写本の中に記された丁数からすると、全体では少なくとも8紙以上あったと思われるが、現存するのは2紙分だけである。装を改めたのは、はがれやすい粘葉装であったことから、散逸を免れた部分を軸装にしたということであろうか。
 まずは、下の写真をじっくりと見ていただきたい。
軸装された写本
  この一幅には、縦4列に日興上人が宗祖より賜った書状3通(「伯耆殿御書〈前欠〉」「伯耆殿御返事」「聖人等御返事」。ともに真蹟なし)の自筆写本が収められている。縦4列の用紙は、元は2紙であったものをあい剥ぎして4紙としたものである。
 粘葉装というのは、比較的厚い料紙を一枚ずつ二つ折りにし、各紙の折り目近くの外側面に糊をつけて重ね合せ、接着させていくという製本の方法で、一枚の表裏両方に文字が書かれるから、もし軸装などに改める場合、表裏ともを見るにはあい剥ぎする必要がある。写本掛物を例にとると、写真の第@紙第A紙、また第B紙第C紙は、あい剥ぎした一枚の表裏ということで、仮りに元の一枚の表裏に1〜4の頁数を付すと、片面は2・3頁と続くが、もう片面は頁が1・4頁の組み合わせになることを、あらかじめ念頭に置いて欲しい。
 掛物での実際の配置は写真の通りで、これを見ると、軸装する際に、第@紙左第A紙右第B紙左と続く「伯耆殿御返事」を、上から順に読みやすいように工夫を凝らしたことが推される。しかし、このことこそが、後世において御書のつながりを見誤らせる一因となったのではないかと考えるのである。
 つまり、あい剥ぎした文書であることからすると、本来御書が書写された順は、「伯耆殿御書」(第A紙左)⇒問題の「追伸文」(第@紙右)⇒「伯耆殿御返事」(第@紙左第A紙右第B紙左)⇒「聖人等御返事」(第C紙右同左)⇒「他筆一行」(第B紙右)となるはずであるから、第@紙右の「この事のぶるならば……」の部分は、既刊御書集のように「聖人等御返事」の追伸文とすべきではなく、「伯耆殿御書」にこそつなげるべきと考えるのである。
 既刊御書集の編集子が、第@紙右の部分を「聖人等御返事」の追伸文とした理由は知るよしもないが、粘葉装の用紙をあい剥ぎして軸装としたことを考えれば、「伯耆殿御書」の追伸文とすべきであることは動かないと考える。加えて、以下の点についても指摘しておきたい。

◆「聖人等御返事」の追伸文とした場合の不都合点
 「聖人等御返事」の追伸文とした場合、次のような不都合点を上げることができる。
  1. 漢文と和文の混淆……「聖人等御返事」の追伸文とした場合、本文は漢文で、追伸文部分が和文になってしまう点。
  2. 示し書きの有無……日興上人の御書写本類を見ると、書状や追書・端書などを写する場合、この掛物にも見られる「……御状云」「又追書云」のように、ほとんど示し書きをしてから書写している。その点、「聖人等御返事」の追伸文とした場合は、その示し書きが無く不自然である点。
  3. 単数と複数……「聖人等御返事」の本文末の宛名は「聖人等御返事」とあり、「等」と複数形を採っているのに対し、第@紙右の追伸文に続く、御状上書きの宛名は「伯耆房」と単数形になっている点。
 これらの点を考慮すると、「聖人等御返事」の追伸文とするのは不都合であり首肯しがたい。

◆「伯耆殿御書」へ接続した場合
 上の不都合点を念頭に置いて、再度掛物全体を見ると、「聖人等御返事」の追伸文とすることによって生じていた不都合な点が、「伯耆殿御書」に続く追伸文と考えると、それぞれ、
  • 〈A、漢文と和文の混淆〉については、本文と追伸文がともに和文の構成になる。
  • 〈B、示し書きの有無〉についても、第A紙左の中には「又追書云」との日興上人の示し書きがあるから、日興上人写本の原則に沿っている。
  • 〈C、単数と複数〉についても、「伯耆殿御書」では、「ハや(わ)きどのへ」と単数である。
等となり、形としても自然である。
 また、文章のつながりについても特に問題は無く、内容的なつながりを見た場合も、追伸文部分と「伯耆殿御書」の内容に、ともに何らかの法論なり対論を予想できるという共通点があり、まことに首尾一貫するのである。

 以上の点から、現在「聖人等御返事」の追伸文とされている「この事のぶるならば……」以下の追伸文及び上書き部分について、弘安2年9月20日の「伯耆殿御書」の追書にこそ続けるべきであると指摘しておきたい。                             (大谷)
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 現在、興風談所では『興風叢書』刊行のため宗門に関わる古典籍を随時解読している。過日はその一環として、保田妙本寺蔵の三河日要談『大田抄見聞』(大田抄は『曽谷入道殿許御書』)の写本を解読した。平成十三年三月の典籍調査の際に撮影させて戴いたカラーの写真資料である。当該写本は十六丁の仮綴された冊子本であり、後半部分が欠けているために奥書が無く筆者不明とされている。虫食い等もあるため解読はかなり難渋した。こんな時、対校本が一本でもあればと思うのが常である。
 日郷門流で日要談の法門書となれば、何か異本でも伝わっていそうなものである。そこで妙本寺関係の典籍資料アルバムを端から繰っていると『大田抄聞書』と付箋のある一書を見出した。その写真版はすでにセピアがかっており、相当前の撮影であることを思わせる。表紙や前半部分を欠いた十五丁ほどの冊子本である。文末の「大田抄聞書畢」の一文によって題が付けられたのだろう。奥書として「宝暦三年二月上旬奉書写者也。大遠日縁敬白」の記述があり、日縁筆の写本であることが解る。
 『大田抄見聞』と『大田抄聞書』――タイトルは一字違いだが、はたして内容はどうであろうか。異本であれば、どちらを読むにも解読に役立つことは間違いない。全くの別本であったとしても、同じ『曽谷入道殿許御書』の註釈のようだから、使用される語句は似通っているはずである。難読部分を参照するに越したことはないだろう。
 しかし読み進めると、どちらも『曽谷入道殿許御書』の解説でありながら少しも重なり合うところがない。そればかりか、カラー写真とセピア色の違いから最初は全く違う筆致だと思っていたのが、次第に両方の書体が妙に一致することに気づいたのである。
 もしやと思い、『見聞』や『聞書』が『曽谷入道殿許御書』のどの部分に解釈を加えたものか、おおよその引用文を御書システムを使って調べてみた。先ず『見聞』の方は、
  • 「夫以〇要法矣」(システム19793)
    「三五下種ノ者也。」(システム19810)
    「彼不軽菩薩出現シテ於末法ニ令撃毒鼓。」(システム19818)
    「殊ニ真言宗ノ学者懐於迷惑。」(システム19820)
    「南岳天台等出現於漢土粗弘宣法ケ(華)ノ実義ヲ。」(システム19845、写真@4行目)
 次に『聞書』の方は、
  • 「吾師傳教大師三國未弘ノ円頓大戒旦建立於叡山。」(システム19853、写真A10行目)
    「衆見ノ二濁充満於國中。」(システム19854)
    「勝母ノ閭。」(システム19857)
    「此一大事ノ秘法ヲ持テ本處ニ隠居矣」(システム19889)
    「第五ノ五百才。」(システム19964)
    「若見聞此書有宿習發得其心。」(システム20007)
以上が挙げられる。これらは『曽谷入道殿許御書』の三五下種、不軽菩薩の末法下種、本化の四菩薩の隠居、五箇の五百歳等の構成そのままである。この引用文の流れから判断すると、『見聞』は冒頭から三千塵点・五百塵点の下種、不軽菩薩が毒鼓の縁によって末法の衆生へ下種、南岳天台が漢土に法華実義を弘宣するところまで、つまり『曽谷入道殿許御書』の前半部分である。次に『聞書』は、伝教大師が三国未弘の円頓大戒を叡山に建立、本化の四菩薩が一大秘法を持って本処に隠居、文末の「若し此の書を見聞する」ところまで、すなわち同御書の後半部分に当たっている。『見聞』が前半、『聞書』が後半となり、どうやら『曽谷入道殿許御書』の解説書として前後が繋がった一連の資料となったのである。
写真A 『聞書』。前欠 写真@ 『見聞』。後欠
 因みに、『見聞』と『聞書』の字体を見比べてみると、
  • 「南岳天台」写真@4行目と写真A1行目
    「法ケ経」写真@6行目と写真A4・6行目
    「傳教」写真@7行目と写真A1・2・10・11行目
    「弘通」写真@8・11行目と写真A2・3行目
    「高祖」写真@9行目と写真A3行目
    「円定円恵」写真@10行目と写真A2行目
    「円頓戒旦」写真@10行目と写真A2・10行目
    「ヨリモ」写真@11行目と写真A1行目
等は殆んど同一の字体である。その接続部分と見られるところは、
  • 「サレハ法ノル(流)布ハ迦葉阿難ヨリモ馬鳴龍樹ハ/勝レ、々々々々(馬鳴龍樹)ヨリモ南岳天台ハ勝レ」写真@最終行〜写真A1行目
と解読できる。全く違和感のない一つの文章である。
 『見聞』の内題には「大田抄聞書」とあり、その下によく見れば大遠日縁の印影が見える。本来は日縁写本の一巻の『大田抄聞書』であった書物が、いつの時代にか前後に分かれてしまい、前半部分に後世の人が「大田抄見聞」の外題を付けて処理してしまったことが了解されよう。それにしても前後分断の後、さらにバラバラにならず良かったと思う。これで大遠日縁筆、日要談『大田抄聞書』は一書として蘇ったのである。
 考古資料に限らず、古文書や古典籍の復元もまた楽しいものである。中途半端にしか使えなかった資料がこれからは有効に用いられるようになる。今まで片隅に置かれていたものが、急に光彩を放ち出すから不思議なものである。
 最後に付け加えれば、『曽谷入道殿許御書』は宗祖の思想・教学を知る上での重要書であり、室町期の解説書である本書はその解明のためにも貴重な役割を果たすであろう。 (古川)
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 御書システムを使って、大聖人が「八舌の鑰(はちぜつのかぎ)」の口伝に触れられているか調べてみた。「舌」・「八」・「鑰」をアンド検索で絞り込むと、結果は二件。『立正観抄』の「八舌の鑰」と、そして『一代聖教大意』の中に「舌八つある鑰」の箇所である。
 「八舌の鑰」の口伝の内容は、『一代聖教大意』によると大略以下のようになる。
 伝教大師最澄が比叡山に登り、根本中堂を建立するため地引きをした時、地中より「八舌の鑰」が出てきた。それを持って入唐し、道邃和尚に遇い、天台の法門を伝えるべく十五の経蔵を開けようとしたが、一つの経蔵を開けるべき鑰がなかった。天台大師自ら出世して開けるものと言い伝えられてきた経蔵だった。その時、最澄が日本より随身してきた「八舌の鑰」を以て開けると、不思議にも開けることができた。道邃は、最澄を「天台大師の後身」として敬い、十五の経蔵のものを残らず伝えたということである。
 この口伝の発端は、道邃が、はるか東国より仏教を日本に伝えるため渡唐してきた最澄を讃えて書したとされる、『道邃和尚付法文』(伝教大師全集第5巻附録115頁)の中にあるようで、それによると、
  • 古徳の言い伝えでは、天台大師が臨終の際、弟子たちに「自分の入滅後200年に東国に生まれ仏法を興隆するであろう」と遺言し、感応があってその霊瑞を示さんとして一法鑰を空へ投げると、遙か彼方へ消えてしまって行方がわからなくなってしまったという。その言い伝えの徴を私(道邃)は確信した。それは最澄三蔵に遇うことでわかった。まさに如来の使いである。
となっている。
 ここに出てくる一法鑰が「八舌の鑰」になり、さらには、『顕戒論』の「遂付天台道邃和上、和上慈悲一心三観伝於一言、菩薩円戒授於至信」の文と相俟って、石塔安置の「一言の妙旨」を説く『潅頂玄旨血脈』、戒家の戒法建立の依拠になっている『頓超秘密綱要』(『全肝』とも『心秘要決』とも云う)などが造られていくのだろう。
『道邃和尚付法文』
 ところで、『一代聖教大意』と『立正観抄』の「八舌の鑰」の口伝は内容に違いがある。鑰の入手の経緯について、『一代聖教大意』には詳しく触れられているが、『立正観抄』では触れられていない。また、鑰をもって開けたのは、経蔵と石塔との違いがあるし、開けたその中には、『一代聖教大意』の場合は一念三千の文より光を放っていたといい、一方『立正観抄』は天台大師自筆の「潅頂玄旨の血脈」があったと言っている。ともに「八舌の鑰」口伝をもって、伝教大師が天台大師の後身であることと、両者の法義的神髄が一念三千即妙法蓮華経であることを主張する点において共通するが、口伝の内容自体には違いがあるのである。これは同じ口伝を表現を変えて使用したのか、それとも、もともと所伝内容の違う口伝を使用したものか、研究の余地があろう。
 両書ともに大聖人ご自身の真筆は現存せず、古写本として、『立正観抄』は正中2年(1325)身延山久遠寺第三世日進筆、『一代聖教大意』は永仁3年(1295)大石寺三世日目筆の写本が存在する。但し同じく古写本ではあるが、『立正観抄』の場合は大聖人滅後43年、しかも日進の奥書によれば「或人が写したもの」をさらに写本したものであり、『一代聖教大意』は大聖人滅後13年に、大聖人の直筆によって大石寺で写本したとの奥書がある。だが今は、それぞれの写本の年号の頃には、それぞれの内容の「八舌の鑰」の口伝が存在していたということを確認するにとどめておきたい。
 今後両書の書誌的考察や、「八舌の鑰」口伝そのものの種類及びその来歴の研究が進めば、相乗効果によって双方ともの新たな見解が生まれるかもしれない。
 そこでその一助ともなることを願って、「八舌の鑰」の入手に関する、記家といわれる流派の興味深い文書を紹介し、若干の私見を述べて見たい。前述の『頓超秘密綱要』(鎌倉 宝戒寺蔵)の巻末の裏にある正和元年(1312)の光宗(『渓嵐拾葉集』の編者)筆部分である。そこには「記録云」として、最澄が初めて比叡山に登ったときに二人の化人に遇い、そのうちのひとりの化人(帝釈)から「八舌の鑰」を受けたと書かれている(続天台宗全書 円戒1 330頁)。これは『一代聖教大意』の「地引説」とはまったく異なるものである。記家には「地引説」が伝わらなかったのか、それとも知りながらも「化人説」にする必然性があったのか。ちなみに『神皇正統記』も「化人説」ではなく「地引説」を取っている。
 「八舌の鑰」の入手の経緯については、「地引説」の方がより古いというのが自身の見解である。それは、管見の限り、「地引説」を取る『一代聖教大意』の写年が最も古い確かな年号であるということと、『神皇正統記』や『山門秘伝見聞』などでも「地引説」を取り、「化人説」よりも広く流布しているようであること。また『山門建立秘決』には、化人という形で諸法善神が登場するが、この場合、「中堂建立のため地引きをした時に、人力では及ばず、諸法善神が与力して平地になり、その際地中より銀の八舌の鑰が出てきた」と書かれており、化人から直接「八舌の鑰」を受け取ったということになっていない。変則的であるが、ベースは「地引説」であるということが言えると思うからである。
 いずれにせよ、1200年の末から1300の初頭にかけて、「八舌の鑰」の口伝の内容がいろんな展開をしているということは確かなようである。それは、「八舌の鑰」の口伝に関して定説が確立されていなかったということの証でもあろう。
延暦寺に重宝として蔵されている「八舌の鑰」
 余談だが、延暦寺に重宝として蔵されている「八舌の鑰」(鉄製)の箱の蓋裏には、尊雲座主の署名があるそうである。尊雲座主は後醍醐天皇の皇子の護良親王のことで、後に還俗して征夷大将軍に任ぜられ、建武2年(1335)鎌倉で亡くなっている。          (成田)
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 先日車を運転しながらあるラジオ番組で、本来の意味とは違って流布している言葉をいくつかあげて説明しているのを聞いて、自分なりにそのようなことには多少の気配りをしているつもりだったのだが、知らないで誤用しているものが随分あることを思い知らされた。たとえば「確信犯」といえば、よく「あいつは確信犯だよ」などといわれるように、間違っていることを分かっていながらする行為をいうものと思っていたのだが、これはドイツの学者が提唱した、間違ったことを、宗教やイデオロギーなどの洗脳によって、正しいと確信してする行為を意味する言葉なのだそうだ。他にも比較的おなじみとなった「情けは人のためならず」の誤用など、これでもかこれでもかというくらい、いろいろあげられていた。
 しかし、誤用されていても日常にたいした影響を与えないのであれば、それほどむきになって糾さなければならぬということもないのだろうが、御書において、文法的誤りや読み間違いなどによって、本来の意味が損なわれて解釈されているとすれば、これはまぁいいかではすまされない。気がついた者がその都度直していくということが是非とも必要である。そこで以下、二・三気づいたことをあげておきたい。
 まず第一に文法に関する誤訳について、『松野殿御返事』の「受けがたき人身を得て、適(たまたま)出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして、徒らに遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。」の文を取り上げる。たとえばこれを『日蓮聖人御遺文講義』では「受けがたいこの人身を受けその上出家して仏法を学びながら、謗法の者を責めないで、徒らに遊戯雑談ばかりして明かし暮らすものは、法師の皮を着た畜生である。」(14巻441頁)と訳し、『日蓮聖人遺文全集講義』でも「この受けがたき人身を得しその上に出家せる身でありながら、仏法を学で謗法の者を責めず、徒に遊戯雑談に明し暮すなら、是れ法師の皮を着た畜生である。」(19巻66頁)と解釈している。
 しかし「仏法を学し謗法の者を責めずして」という文章は、いわゆる対偶否定法になっているのであって、「責める」の否定形である「ず」は、「責め」のみならずその上の「学し」にもかかっているのである。だからこれは「仏法を学さず、謗法の者を責めずして」と訳さなければならない。つまり日蓮大聖人は、「受け難き人身を得てしかも出家の身となりながら、仏法を学すこともせず、謗法の者を責めることもしないで、遊びほうけている者あらばそれは法師の皮を着た畜生である」といわれているのである。
 この御文が「学問をしても謗法を責めない者は」と誤訳されてきたことによって、ともすれば学問が軽視されがちであったことは否めぬ事実であろう。しかし大聖人が学問を重視されことは今更論ずるまでもなく、さらに『日進聖人仰之趣』に見られる、老僧連が菜を摘み水を汲み薪を拾いながら法門談義をしている姿に思いを致せば、仏法を真剣に学ぶことをしない風潮こそ大いに憂うべきであり、この御文はまさにそのことを誡められているのである。
 次に用語の読みの問題。『富木入道殿御返事』(稟権出界抄)の「但此法門御論談は余は不承候。」【写真@】の文である。これを『昭和定本日蓮聖人遺文』『昭和新定日蓮大聖人御書』『日蓮大聖人御書全集』等、管見の限り『日蓮大聖人御真蹟対照録』以外はすべて、「但しこの法門の御論談は余は承らず候」と読んでいる。
 この文章は、富木殿が了性房及び思念と問答をし、了性房が『文句記』の「稟権出界名為虚出」の文の存在を知らなかったことにより、了性房をやり込めたとの富木常忍よりの報告を受けた大聖人が、その感想を述べた部分である。上述したようにこれを殆んど「但しこの法門の御論談は余は承らず候」と読んでおり、その結果『日蓮聖人御遺文講義』(17巻390頁)では「日蓮はこの度の問答を聞かなかったからどんな様子だったか知らぬが‥‥‥」と訳し、『日蓮聖人遺文全集講義』(20巻252頁)は「但し此第三法門の御論談が貴殿と了性との間にありしか否かは日蓮はまだ承らぬ。」と訳し、『日蓮聖人全集』(2巻470頁)は「この度の法門についての問答を私は聞かなかったので、どのような様子であったかわからない。」と訳しているのである。しかし今富木常忍の報告を受けて、その返状を認めているのに、「承っていない」とか「聞いていない」というのはどう考えても変である。
 これはそもそも「不承」を「承らず」と読んでしまったことに間違いがあったのである。ここは『対照録』が示すように、「但シ此ノ法門ノ御論談は余は不承ニ候。」(下巻552頁)と読まなければならない。つまり大聖人はこの問答に対し、「不承」すなわち「不承知である」「感心しない」との感想を示されているのである。なぜせっかく勝った問答を不承であるといわれたのか。次下に「彼は広学多聞の者也。はゝかりはゝかり、みたみたと候しかは、此方のまけなんとも申つけられなは、いかんかし候へき。」とあるように、運良く相手が「稟権出界」の文を知らなかったからよかったが、相手は相当な学僧でもあり、軽率に問答をして万が一負けたりしたらどうするか、といわれているのである。この時日蓮門下は熱原法難という難問を抱えていたのであり(『富木入道殿御返事』は『定本』『新定』ともに弘安元年に系けるが、熱原法難に関する記述があるから弘安二年十月一日状である)、その大切な時であればこその忠告であろうと思われる。
【写真@】『富木入道殿御返事』 【写真A】『寺泊御書』
 次に同じく読みの問題であるが、『寺泊御書』の「或人難日蓮云、不知機立麁義値難。或人云、如勧持品者深位菩薩義也。違安楽行品。或人云、我存此義不言云云。或人云、唯教門計也。理具我存之。」【写真A】の文をあげよう。ここには大聖人の主張に対する批判が列挙されているのであるが、その最後の「理具我存之」は、これも管見の限りすべての遺文集が「理ハ具ニ我レ之ヲ存ス」と読んでいる。しかし「私は理を知っている」というのでは批判としてはあまりにも漠然としている。ここは「理具ハ我レ之ヲ存ス」と読むべきであり、批判者は「あなたは教門計りを述べて観門たる成仏論を述べられないが、自分は観門たる理具の法門(天台理具の法門や理具成道のことであろう)を知っているぞ」と批判しているのである。
 日本語というのは実に難しい。テニオハの付け様、返り点の打ち方一つで意味が全く変わってしまう。そして気をつけて見れば、現行御書や注釈書の中には、以上のような文法的誤りや返り点の打ち方の誤り等は、結構あるのである。御書の精度を高めるためにも、また大聖人の真意をできるだけ正確に読み取るためにも、ことに研究者は既成の遺文集や注釈書に全体重をかけるのではなく、原典主義をもって諸御書に対していく姿勢が必要である。     (山上)
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 日蓮大聖人の御書は、主に真蹟・写本・刊本というかたちで現在に伝わっている。
 真蹟とは大聖人のご直筆のことであり、それが七百数十年の歳月を乗り越えて今に伝えられている。真蹟の本物は各寺に厳護されているために、一般の人が簡単に見ることはできないが、真蹟の写真を集めて本にしたものが販売されているので、それにより本物のおおよそをうかがい知ることはできる。
 写本とは、大聖人より後の人が書写した御書をいう。これは、早くは大聖人ご在世中にお弟子が書写されたものがすでにある一方、室町から江戸時代にかけての写本で伝わる御書もあり、その年代の幅はかなり広い。
 刊本とは、活字を用いて印刷された御書のこと。これも江戸時代初期の木活字本や整版本にはじまり、近世の銅活字本までを含む。この刊本の出現により、一般の人が大聖人の御書を簡単かつ大量に拝読できるようになったといえる。
 この真蹟・写本・刊本の三種でほとんどの御書は伝来しているが、少ないながらこの他にもいくつかのケースがある。
 たとえば、近時新たに紹介された治部房宛の「竜門(りゅうもん)御書」は、本文は日興上人が代筆し、それに大聖人が署名と花押(かおう)を加えられた御書である。代筆ということでは、この他にも六老僧の日朗師が大聖人に代わって筆を執った「伯耆公御房御消息」などもあるので、これらを高弟代筆本と呼ぶことができよう。
 今回は、さらに二つのケースを以下に紹介してみたい。一つは模写本であり、もう一つは一般書収録本とでもいうべきものである。
舂麦(つきむぎ)御書(京都 満願寺蔵)
 上段の写真をご覧いただきたい。これは京都の満願寺に所蔵される「舂麦(つきむぎ)御書」一紙の写真で、千葉市の立正安国会より提供していただいたものである。
 一見して感じるのは、「ああ、大聖人さまらしいお筆だ」ということ。一字一字の書きぶりもそうであるが、特に「舂麦一表芋一籠(ひとこ)笋(たかんな)二丸給了」という書き出しの文字の大きさなどは、大聖人晩年の特徴がよく出ている。また、「一籠」の上の「一」の字が極端に右下がりに書かれているが、これも他のご真蹟に見られる大聖人の書き癖の一つである。
 けれども、もう一度よく見てみると、何だか少しおかしい。たとえば、右端下部の「女房の御」の「の」の字は余りにも形が崩れているし、他のかな文字も少しずつ筆運びが不安定で、全体的に落ち着かない感じがするのである。
 それもそのはず。これは大聖人の真蹟の模写である。模写とは本物そっくりに似せて写すことで、今のコピーと同じもの。この「舂麦御書」の場合は、おそらく真蹟をすぐ脇に置いて模写したものであろう。
 写真の左端一行の「五月廿八日勧」の「廿八」は、「廿日」と書いた上に字を重ねて訂正したもので、その様子が分かるように模写されている。このように、この模写本は非常に丁寧に作られたもので、その分だけ大聖人らしさがよく活写されている。
 もう一つのケースは、数多くある御書全集以外の、いわゆる一般書に収録して伝えられてきた御書である。今のところ一例しかないが、松尾芭蕉の門人である森川許六(きょろく)の「風俗文選」の中に、大聖人の文章として、次のように記録されている。
「新麦一斗、たかんな三本、油のやうな酒五升。南無妙法蓮華経と回向いたし候」
 たったこれだけの文章であるが、こちらもやはり一読しただけで「大聖人らしいご文だなあ」と感じ入ってしまう。文章として非常に単純ではあるが、このように供物を並べ上げて、テンポよく「トントントン」と作られる手際のよさというものは、まさしく大聖人ならではといえる。
 また、譬喩をうまく使われるのも大聖人の得意技の一つであるが、ここに見える「油のやうな酒」と読んで、とろけるような古酒を連想するのは、酒好きの私だけではないだろう。
 総じて、御書にはいまだ数多くのいろんな問題があるが、それらを最終的に解決していくのは、本当の意味での「大聖人らしさ」にあると思う。                       (大黒)
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